一日◯秒私にください
ふわりふわり。
もうあの耐え難い痛みはない。
大好きな人に抱きついた時の胸の鼓動。
とくとくとくとく…
とても忙しくなく甘やかに高鳴る。
今の鼓動は…ただただ穏やかで、ゆっくりで。
とく…とく………………とく
意識の奥が七色にふわっと微かに煌めく。
少し鼓動が規則的になる。
七色の……綺麗な羽の……なんだっけ。
とくとく………とく……………とく
もうゆっくり眠りたい。
痛みも辛さも何もない。
――――あ、でも幸せもあった…最後の、最期の…
首元に温かいものが触れる。
さらさらと心地良い何かが私の中に入ろうとする。
だけど奥底までは届かない。
すると口元がひんやりしたものが触れたと思ったら、そこから温かく、穏やかな、清々しいのに、甘やかで、乞うような、優しい、何か。
口元が温かい。口の中は少し熱いくらいで、奥に少しずつ、少しずつ流れて浸透していく。
温かくて、優しくて、涼やかで、とても良い匂い。
大好きな匂い。
――――ああ、テ、オルド様の胸の中に飛び込んだ時の匂いとそっくり。
―――幸せな、幸せになる心地良い、匂い。
愛しい、匂い。
**********
さらさらと体全体が清涼に綺麗にされていく感覚に、ユフィーラは意識の底でほうっとする。
まるで今までの凝ったものが浄化されるようだ。
―――口唇が温かい。そして、甘い。喉に少し冷たい液体が通り過ぎて、思わずこくんと喉を鳴らす。またひんやりした液体が喉を潤す。
(冷たくて甘い、もっと欲しい…)
その願いに応えるように、甘いものが喉に流れてくるのを都度飲み干す。
**********
口にふわっと温かいものがあたる。そこから温かくて優しくて清涼なものが吹き込まれてくる。それがとても心地よくて、何だかとても切なくて胸がぎゅっとなる。
背中を優しく優しくとんとんと叩かれる。
それはほんのり温かくて。顔にあたる少し硬い抱き枕のようなものも温かい。ユフィーラが冷えているのかそれはとても体も心も暖かくしてくれる。
(……前は冷たかったような…)
最期まで幸せだったけど、終える前のご褒美時間みたいなものなのかしら。
(悪くない――――ううん、間違いなく幸せな人生だった)
ユフィーラはその暖かさと温さに酔いしれて頭をすりすりと抱き枕に寄せながら深い眠りに入った。
**********
ぱちっと急に覚醒して目を開ける。目の前には黒いシャツ。シャツにかかる藍色の髪。胸元近くまで釦を緩めたシャツから出る細身に見えて実は筋肉がちゃんとついている胸元と腕。男性特有の喉仏。その物体にユフィーラはまた全力でくっついている。
その人肌はとても温かい。
だがしかし。
(…あれ?私森にいたはず…よね?―――ここ、は…夢?……え………風邪を引いた日に逆行…?そんな馬鹿な――)
ユフィーラはぎぎぎと首を上に動かした。ひゅっと喉が鳴る。
そこにはいつも無表情なのに、幼さの残る無防備な寝顔で、でも目元の薄い隈が少し窶れた感じに見えるテオルドの顔。しかも前よりもしっかりと彼の腕がユフィーラの背中に回っていて、閉じ込められている。
(あわわわ…)
近すぎて声が出ない、というか出せない。これが現実なのか死後の世界なのかとか、この状況に頭が回らないのだ。
(はわわわ…)
首だけ動かして周りを見ると全体が薄いグレーで統一された物が殆ど置いていない殺風景な部屋。間違いなくテオルドの部屋だ。どうなっているのだ。
首を傾げながら顔を戻すと、テオルドの瞼が僅かに震え目がゆっくりと開く。
(!まずい!)
ユフィーラは咄嗟に目を瞑って、狸寝入りを決め込んだ…これも前にあったような。
静寂。
(息…寝ている時の寝息ってどうやって吸うんだっけ…って寝てるんだからわかるわけ無いでしょっ)
一人突っ込みを頭の中で繰り広げながら、静かな時間が流れる。
(また寝てしまったかしら。もう少ししたら薄目を―――)
そんなことを考えていると首が不自然に上がり、頬が伸びる。
「―――おい」
「ふぃっ…だ、だんなしゃま…」
上から掠れた、少し甘い声が落ちてきて、ユフィーラはびくっと体を強張らせて目を開けた。そこには漆黒の綺麗な瞳がユフィーラを見下ろしている。
どうやら夢でもあちらの世界でもなく現実らしい。
「ふぉ、ふぉれはいっひゃい…」
じっと見てくるテオルドにこの状態がどういうことなのか聞こうとすると、ほっと息を吐かれて頬を放したと思ったら、ぎゅうっと体を抱き締められた。
「―――――良かった…」
テオルドの胸元に引き寄せられ、そこから直接響くように安堵の声が落ちる。ユフィーラは今の現状に目を瞬いて首を傾げる。
(…なんで抱き締められているのだろう。旦那様はどうしてこんなに安心したような声を出すのだろう。私は何で―――)
まだ生きていて、大好きなこの人の傍にいるのだろう
どうしてこんなに大切にするようにぎゅっとしてくれるのだろう。
ぽーっとして何が何だかわからない。それなのに、とても満たされる心地良い抱擁に体の力が抜ける。
「森に行った。お前を迎えに」
テオルドの低い声が胸元を通ってユフィーラの耳に響く。
「…」
「木の根元に座って眠っていたお前の周りに七色の蝶が群がっていた。あいつらが居なかったら―――間に合わなかったかもしれない」
七色…意識の奥の中でもとてもきらきらと煌めいて見えた…あの幻想的で美しい蝶が私を助けてくれた?
「そのおかげで解呪が間に合った」
「!」
まさか…―――――まさか!
ユフィーラは体を強張らせた。
テオルドの…命を削った?
全身に恐怖が押し寄せてどっと血の気が引く。
ユフィーラが震えたのに気づいたテオルドは更にきつく抱き締めた。
「恨んで良いから」
「…え」
「勝手に命を削ったことを一生許さなくて良いから、生きてくれ。俺の傍で」
「―――え?」
思わず顔を上げる。
優しく懇願するような切実な瞳とぶつかる。
ユフィーラの頬をテオルドは両手で包むように触れ、こつんと形の良い額がユフィーラの額に合わせられた。
「何もできなくて、何も伝えられなくて、すまなかった。今まで動いたことのなかった感情の制御すら俺はまともにできなかった。あの森で動かないお前を見た時に、自分の愚かさと阿呆さに打ちのめされた」
テオルドがこんなに沢山話すのも、テオルド自身の話も初めてだった。
「おま…ユフィーラが俺の場所から、この世界からも居なくなると理解した瞬間に頭の中が狂乱しておかしくなりそうだった。もう一度…今度は契約なんかじゃなく、ずっと、一生、俺の隣にいてくれ。…頼む」
そう言って額を合わせながらテオルドが、願うように目を強く瞑る。
「…頼むから。―――俺はユフィーラが可愛くて愛しくて仕方がない」
あまりにユフィーラに都合の良い幸せな言葉に瞬きもできずに目を見開いてテオルドを見る。解呪のことは勿論命を削って欲しくはなかった。それでもユフィーラを望んでくれて、恨まれてもと突き通したそのテオルドの想いが嬉しくて幸せで心が歓喜に打ち震える。
手を伸ばして、少し窶れた目元の下に触れる。テオルドの目が開く。
ユフィーラの大好きな漆黒の美しい瞳。
ユフィーラの大好きな人。
(これからもこうやって近くで見ていても良いの…?)
目がぶわっと滲んで涙の膜が張る。頬が濡れる。テオルドが目元を拭ってくれるが、涙は止まらない。
「…わ、わた、私は、これからも、旦、那様と、呼んでも、い、いのですか?」
喉が震え嗚咽が止まらず、声が途切れ途切れになるが、それでも必死に言葉を紡ぐ。
「テオ」
「え…」
テオルドが目元に触れていたユフィーラの手を取り指先に口付けながら言う。
「テオ。元々の名前。お前だけが呼ぶ名前」
「…私…だけ。…テオ、様…?」
「うん。ユフィーラ…―――フィー」
ユフィーラの全身が粟立つ。
「フィー。俺だけが呼べるお前の名前。――――――フィー、誓え」
テオルドの真摯な瞳がユフィーラを貫く。
「もう二度と離れるな。傍にいろ。俺の隣にずっとだ。ユフィーラ・リューセン。誓え」
初めて呼ばれた、テオルドの妻としての名称。
もうこれは夢なのではないだろうか。もしかしたらそのうち覚めてしまうのではないだろうか。
「――早くしろ」
この命令調でぶっきらぼうなこの口調がユフィーラは大好きだ。
「テオ、様。大好きでしゅ…っ!…ず、ずっと傍に、居たい、でしゅっ!」
……………
ここぞの場面での一度ならずも、二度の噛みは流石に無いのではないだろうか。
己の呂律の回らなさに恥ずかし過ぎて、ぽぽぽどころではない。
ぼぼぼっとユフィーラは顔を真っ赤にして、更に目が潤む。
「!!!」
テオルドの顔が緩む。
少し眉を下げて漆黒の瞳を細めて口角が上がって。
淡く微笑んだ。
それはまるで愛しくて仕方がないというように。
初めて見るテオルドの笑みにユフィーラは瞠目して固まってしまう。
その顔がゆっくりと近づき、ユフィーラの顔も引き寄せて二人の距離が無くなった。
口唇と口唇がふわっと触れ合う。
全身から力が抜けて痺れるよう。全身が、頭の中が、嬉しい嬉しいと大歓喜する。
ちゅ、ちゅっ…と啄まれ、時折り長く、何度も重なる。
(……ハグよりも、もっと鼓動がおかしくなる…なのに心に幸せが満ちていく。愛しい気持ちがどんどん膨れ上がる)
ユフィーラは恍惚の表情になる。
「うん。…俺も……好き」
命を助けてもらっておいてなんだが。
もうユフィーラは死んでしまうのではないかと思った。
幸せ過ぎて。
その後、きゅっと気絶してしまったユフィーラは白眼を剥いていたとかいないとか。
**********
あの森の日からユフィーラは五日間昏睡状態だったらしく、その間テオルドは仕事にも行かずにずっとユフィーラの傍から離れなかったらしい。
ユフィーラが青くなっていると、今まで散々働き通しで殆ど休みなんてなかったから良いと言い切られたので、まあ彼も休めるのなら良いのかなと簡単に丸め込まれた。
浄化魔術から、魔力での栄養投与、そして水分補給と称しての果実水の口移し。あの時が初めての口付けではなかったと知ったユフィーラはわなわなと震えた。
しかもテオルドは解呪から数えたら回数は三桁超えるんじゃないかと、しれっと言われたのでユフィーラは悶え狂った。夢現に感じていたものが口付けだったと知り、ちゃんと記憶に残っていないのが悔しくてテオルドに八つ当たりしたところ、
「ははっ勝手に口付けしたことじゃなくて、そこに怒るのか」
と言って笑った。
笑ったのだ。笑顔で。
そしてユフィーラを意地悪く口角を上げて見たテオルド。
「なら、今後はちゃんと記憶しろ」
そう言って、数多の口付けをされ、その後の記憶は定かではない。
ユフィーラが目覚めて、暫くはテオルドの部屋で様子見ということになり、屋敷の皆が部屋に訪れてくれた。
アビーは胸にユフィーラの頭を埋めさせて抱き締めた。良かった、もう今後は甘えてくれ、お願いだと大泣きだ。柔らかい胸に窒息しそうになったが、それ以上に彼女の温かい言葉が嬉しくて、……ふわふわの胸も気持ちよくて堪能させてもらった。
パミラはこの前開発した柔軟剤でふんわり仕上げてくれた夜着や布を部屋に持ってきてくれた。ユフィーラが布を顔にあてすすすぅと香りを吸ってふにゃっと笑っていると、軽く抱き締めてくれて「一人で頑張ったね。これからは周りも頼れ」と言ってくれて、その布は涙を拭くことになった。
ガダンは、消化の良いパン粥とカットフルーツを作ってきてくれた。ユフィーラの頭を軽く撫でながら「たまには甘えろ」と言ってくれたので、目を潤ませておかわりを所望した。
ダンは馬たちがユフィーラに会いたくて、そわそわしているから、早く元気になって行って安心させてやってくれとハウザーのように頭をぐりぐり撫でてくれた。後日レノン始め厩舎の馬八頭に囲まれてもみくちゃに歓迎された。きっと髪の数本は毟られたに違いない。
ブラインはユフィーラの薬草の手法からハーブティーを精製したらしく、直接淹れてくれた。「早く薬草育てて。…俺も手伝うから」と相変わらず目を明後日の方向に逸らしながら嬉しいことを言ってくれた。ハーブティーはブラインの言葉のように優しい香りで美味しかった。
ランドルンは書庫から数冊のお薦めの物語の本を持ってきてくれた。「今度からは皆で一緒に悩みましょう」と言われ感動し、「爆笑顔は見せませんよ」と言われ心底がっかりした。
ジェスからは深く頭を下げられ今までのことを謝罪された。ユフィーラとしては多少の偏見はあったとしてもテオルドを思っての行動だと思っていたので、へにゃっと笑って「今後も私が調子に乗らないように見張っていてくださいね」と言うと、ジェスがぱっと目元を染め、それを見たテオルドが「節操なしめ」と何故かユフィーラの両頬を摘んで顔が大変なことになったのが屈辱的だった。
**********
ようやく体が本調子に戻ってきた頃、ハウザーが屋敷に来てくれた。何故かリカルドと共に。テオルドがハウザーに連絡をしてくれたのだという。
ハウザーはなんとリカルドの甥とのことだった。二年以上近くに居たのにユフィーラは知らなかった。年は近いのに叔父と甥なんですねぇというと、「そこが気になるんだな。相変わらずぶれないな」とぐりぐりと頭を撫でてくれた。
にこにこしていると後方から冷気が漂ったので振り向こうとすると、ハウザーが「ほら、ハグしに来い」というので、家族のようだと勝手に思っているユフィーラは躊躇なく飛び込んだ。更に後方から冷気と併せて殺気も混じったので何だろうと首を傾げていると、ハウザーが「俺は後見人で父親みたいなもんだからな」と後方に向かって言うと、僅かに殺気は治まった。だが「ユフィーラ、我慢できなくなったらいつでも帰ってこい」と言われ、また後方から殺気が強まった。
リカルドは「ハウザーが普通のまともな人間に見える…」と何やら物騒なことをぼやいていたが、ユフィーラに対して、「知らなかったとはいえ、あんなこと言ってすまなかった」と謝られた。解呪のことなのだろうが、あの言葉を聞けたから、その後ぐだぐだせずに前を進めたのだ。それを伝えると、やるせない表情をされたが、何よりテオルドが人を愛せるようになって良かったと涙目で祝福してくれた。
もう一年間だけではない。
もう期間限定でもない。
契約でも偽装でもない本物の婚姻。
ずっと一緒に居て良いのだ。
テオ様と特別に呼んで良いのだ。
大好きと言葉で伝えても良いのだ。
沢山ぎゅっとしても良いのだ。
ユフィーラの一世一代の大勝負は大勝利を収めた。
「あわわわ…」
ユフィーラは震えている。
「なあ、大丈夫なの?」
ガダンは呆れ顔だ。
「問題ない」
「いや、どう見ても震えているだろうがよ」
テオルドはいつも通りだ。
ハウザーが来た日の夕食のことだ。
何故か不機嫌になっているテオルドに首を傾げながらも、声をかけ食堂に向かおうとすると、急に体がふわっと浮上した。テオルドが持ち上げたのだ。
まるで子どものように片腕に乗せた状態でテオルドが階下に降りるのを、ユフィーラは唖然としながら硬直する。今まで一日5秒しか触れたことがなかったし、テオルドのたまにくすっと微笑む顔や口付けで、ユフィーラは日々もういっぱいいっぱい。まだ全然慣れないのだ。
食堂にそのまま入ると、中に居た皆が一様に驚いた顔で凝視してくるので、ユフィーラは更にいたたまれない。
あれから皆がユフィーラと敬称なく呼んでくれるようになった。
「ユフィーラの顔がかちこちに固まってる…ねえ…テオルド様は一体…?」
アビーが驚きながらぼやいている。
テオルドは素知らぬ振りで、食堂の自分の席に座る。
何故かユフィーラを膝に乗せて。
「はわわ…」
「そこで食べるの?」
ブラインが当然の質問を真っ向から聞いてくれる。
「あ…いえ、私はいつもの場――」
「フィーは今夜はここ」
「!…あわわ…」
突然の羞恥夕食宣言に慌てふためきユフィーラは更に震え始める。
「ここまで変わるもんなの?驚き超えて怖いわぁ」
「元より女性に心を寄せたことはなさそうですしね。これが素の気質かと」
「…怖いわぁ」
パミラとランドルンがテオルドについて語り合っている。
そうじゃない。どうかこの状態を助けてはくれまいか。
「ユフィーラ、主の膝の上だと食べ辛くないか?」
ダンさんそれ!!もっと主張してください!
「俺が食べさせるから問題ない」
「…はわわ」
一刀両断されて、ユフィーラは戦慄く。
なんか遠くではジェスがハンカチで目元を多いながら「我が主…本当に良かった…」と泣いているようなので、確実に役に立ってはくれなさそうだ。
「大丈夫だ」
そう言ってテオルドが頭に口付ける。全然大丈夫ではないどころか、ぼんっと赤くなるユフィーラの顔をテオルドが今までにない、蕩けるように漆黒の瞳を細めて見つめてくる。
ユフィーラを見るその綺麗な漆黒の瞳が。
あまりに幸せそうで。
ユフィーラは幸せ過ぎると心が嬉しすぎて苦しくなることもあるんだなぁと、頭のどこかでぷしゅぅという感覚と共に目を閉じた。
どこかから「おーい、食事…どうすんだよ」と呆れた声が聞こえたと思ったら、蟀谷にちゅっとリップ音が聴こえて、ユフィーラはそのまま幸福過ぎる意識の中に溶け込んでいった。
これにて完結となります。
拙い文章を最後まで読んでくださって
ありがとうございました。
余談ですがユフィーラはその後、
ガダン特製の夕食の匂いに
復活している筈です、多分。
不定期で屋敷のメンバーやハウザーの
別視点、後日談を投稿するかもです。