テオルド 2
ユフィーラが来る週明けになった。
会議の後、休憩中に婚姻届けを取りに役所に行こうとしたらリカルドに引き留められる。
契約結婚の相手が今日から来ることを伝えると、「は?迎えないの!?お前ここでなにやってんの!?」と言われ、何故かリカルドもついてきてしまうことになった。
屋敷に到着すると、アビーからジェスが職務放棄したと伝えられた。
確かにこの婚姻の話をした時に最後まで反対していたのがジェスだ。
しかしユフィーラはジェスの慇懃無礼な態度や辛口対応、更に名を呼ぶなと言われたことに対してもそのままで構わないと微笑んでいた。
そして婚姻届に署名する際に離縁届の有無を尋ねられるとは思わず、リカルドも唖然としていた。婚姻届をもらう際に離縁届ももらっておいたので、その場で渡しユフィーラは躊躇することなく両方に署名してテオルドに渡してきた。この契約結婚をとても楽しみにしているように見えるのに、行動がちぐはぐなところが心に残った。
うんざりする女達の付き纏いは無くなると思っていたのに、婚姻直後は『あの何に対しても無表情無感動無関心のテオルド様が婚姻!?』と国中に駆け巡ったらしく、序盤は、その事実が信じられないと、いつもより多くの女達が駆け込んできたり囲まれたりと辟易した。これでは婚姻した意味がないと臍を噛んでいたが、時が経つにつれ、一人二人と段々減っていった。
ある時は以前しつこく言い寄ってきていた女が「わたくし、二人を応援してますから!」とか「あの方の保湿剤は素晴らしい!彼女の顧客になりますの!」とか「あの人の切り返しに悪意がないばかりか、一度たりとも勝てませんでしたわ!完敗ですわ!」とか聞いた時は一体何をどう言って女達を退かせたのか不思議に思ったものだった。まあ楽になるならと本人には聞かなかったが。
ある日、珍しく会議や緊急の魔術研究などもなく、リカルドから「契約だからって仕事ばかりしてないでたまには早く帰れ!私が帰してないみたいに思われても困るんだ!」と追い出され、渋々戻った。
屋敷に帰ると、応接室ではハインド伯爵の娘アリアナが立ち上がり、対するユフィーラは座ったままの姿を目撃した。そのユフィーラの濡れた頭と顔、アリアナがこちらを見て真っ青になっていることから、アリアナがユフィーラに紅茶をかけたということが容易に想像できて、すっと何かの感情が冷える。
ジェスに説明を求むと、彼は動揺し言葉を返してこない。紅茶がかかったことなどなかったようにいつも通り挨拶をする通常仕様のユフィーラに毒気を抜かれる。その後の彼女の言動も不可思議なものばかりだった。
(こいつは怒ることをしないのか?)
何故反論しない?何故言い返さない?テオルドに言い寄る女達に対応できるだけの気概はあるのに、相手を言い負かすことはしないのか?しかもユフィーラは自分が無作法なのが良くなかったとまで言った。
今まで周りに居なかった類のユフィーラの行動にテオルドはとりあえず着替えろと命令してアビーと共に退出させた。何だかあの姿でなんでもないようにいたユフィーラに何とも言えない苦い感情が混ざる。
「……テオルド様のお屋敷でこのような恥ずべき行動をしたことを心より謝罪致します。申し訳ございませんでした」
アリアナが深く頭を下げ謝罪する。
「あれが言っていたように、貴女に対し無作法な態度をしたというのは事実か?」
その言葉にアリアナは唇を噛み締めて再度頭を下げる。
「いえ…私に対してそのような言動は、しておりません。あの方は…テオルド様とここに住まわれている使用人の方々を大事にされ周りを見ております。それを私の浅慮で高慢な考えと行動が、あの事態を招いたのだと思っております」
「―――あれが貴女とまた会いたいというなら、俺はそれに関して何も言うことはない。だが、今後はこのようなことは控えていただきたい」
「承知致しました。申し訳ございませんでした」
アリアナ嬢はもう一度謝罪をしてジェスの誘導のもと帰っていった。
今度は戻ってきたジェス問う。
「彼女の悪事はもう暴けたのか?」
「…まだです」
「お前が彼女をどう思うかを無理矢理変えろというつもりはない。だが、家令として今日の対応は適切なものだったか?」
「…」
それだけ言ってテオルドは執務室に向かった。
その後のユフィーラはやっぱりいつも通りで、ガダンのシュークリームを美味しい美味しいと絶賛しながら頬張っている姿を見ると、さっきの出来事がなかったかのようだ。だが、アビーの目が赤かったのが気になり、その理由は後に知ることになる。
夕食後に執務室で書類整理をしていると、珍しくアビーが訪れた。ユフィーラの話をするから、ことある事に敵対するジェスは出ろと言い放ち、言い返そうとするジェスを出ていかせた。
そして聞いたのは脱衣所で見たユフィーラの背中と腕の無数の傷の跡と、逃げてきた男爵時代の非情の数々。アリアナが調べたという情報も含めて聞いたが、あまりに齟齬があり過ぎた。
アビーがユフィーラから聞いたのは、生まれてすぐ母親が儚くなり、自分は死産扱いされた為、国籍はなく父親はすぐに後妻とその子供を迎えずっと下女として16歳まで生きてきたという。そして奴隷代わりに売られそうになったところ逃げてきたということだった。
「それでもユフィーラさんは何一つ恨み辛みを言わないの。それにここで楽しく暮らしていたから傷のことは忘れていたって…。数月も居れば人となりは多少なりともわかるわ。他の皆からも彼女を厭う言葉は聞いていない。ジェス以外はね」
テオルドは今日まで自分が仕事や面倒臭さを理由に、ユフィーラの身の上をハウザーが後見人としていることで、それ以上のことを調べなかった。彼女が我儘や文句など何も言わないのをいいことに、そのまま適当に放置していた。
過去の理不尽な暴力も暴言も抵抗せず受け入れていたユフィーラ。元孤児のテオルドからすれば考えられないことで、常に目には目を歯には歯をで反撃してきた。しかし、テオルドには動ける能力と抗う強さ、同じ様な境遇の孤児同士の情報はあった。ユフィーラが同じだったとどうして言える?
死産扱いで国籍なし。16歳までずっと下女働きだったなら、どんな風に男爵家に扱われていたかなんて一目瞭然だろう。幼い頃から何か言っても泣いてもそれが暴力や罵られる言葉で返ってきたとしたら?
男爵家という狭い世界の中しか知らず、無知だからこそそれが当たり前だと刷り込まれていたとしたら?
ユフィーラがいつも感情的にならず冷静に対応する理由。
人に厭われてもそれを受け入れる理由。
相手にされていなくても流せる理由。
そうなった経緯がわかったような気がしてなんともやるせない気持ちになった自分の感情の変化に驚く。人がどうなっても、自分に関係ないなら特にどうとも思わなかったからだ。契約結婚とはいえ、書類上では夫婦だ。頭の片隅で気にかけていたのかもしれない。
いつもにこにこしていて元気なユフィーラ。
それが辛い過去を経ての処世術ならば。
胸がぐっと掴まれるような切ない痛みを感じる、この感情はなんだ。
連日の魔術研究に明け暮れて疲労と睡眠不足が続く中、書庫でついうたた寝をしてしまい、目を覚ますと机の端にユフィーラが何故か座って寝ているという珍妙な構図に寝惚けた頭で考える。しかも彼女は机に頭を寄りかからせて……―――いや、これは寝たふりだ。瞼がぴくぴくしているし、口元も僅かに動いている。
(―――――俺の寝顔を観察か)
なんだか癪に障ったので、ユフィーラの頬をむにっと摘んだ。柔らかい頬はよく伸びて、テオルドがもう見るなと言ったのに対し、それはできないと目を全力で逸らしながら必死に固定された口で話しているユフィーラについ噴き出しそうになる前に、ランドルンが腹を抱えて笑っていた。珍しいこともある。
手を放してやると、両手で頬を押さえて目を潤ませながら少し睨む姿に、胸の奥底がじわっと温かくなると同時にまた摘んでみたいような悪戯心も湧き上がる。ランドルンが手を差し伸べ立ち上がらせようとするのを、咄嗟に後ろから両脇を持ち上げて立たせた時の胸の奥底がちりっと焦げたような気持ちも今までにないものだらけだった。
そんな不可思議な感情を持て余している頃、厩舎でユフィーラがレノン含め四頭の馬と楽しく戯れる姿を目撃する。声を上げて笑いながら馬にじゃれついている彼女の姿に何故か心が和む。
レノンは気高いが気難しく、テオルドとダン以外に懐かない。そのレノンが初日からユフィーラには甘えていたのだと聞かされた時はかなり驚いた。
馬は人の本質を見透かす。相性の有無を己の感覚で判断する。その後レノンはユフィーラがテオルドにハグしたことがお気に召さなかったらしく、乗り心地が荒くて少し困った状態だった。
ユフィーラは部屋の出窓に乗り上げて外を見るのが好きらしいと聞いた。小さい身体を屈めてのんびりと景色をみているのだそうだ。そう聞かされてから、時折りその姿をみかけることがあった。テオルドに気づいた時は出窓に張り付きながら目をきらきらさせて手を振り、急いでそこから降りて玄関まで迎えにくることもあった。
夜遅くに帰宅した時のことだ。ユフィーラの部屋に目を向けると、出窓の場所に膝を抱えて外を眺めるクリーム色の夜着を着たユフィーラの姿があった。こちらに気づくかと思ったが、一向に気づかず、どうやら景色を眺めていないように見えた。いつもの朗らかで穏やかでもなく、虚ろといっていいような何も無い能面のような表情にテオルドは背筋が寒くなった。どこかを見ているようでどこも見ていないユフィーラの表情が何故かとても心に奥に残った。
ある日の夜中に薬草を植えている場所で必死に防壁魔術をかけているユフィーラを手助けした翌朝、食堂へ続く廊下で会い、昨夜の大雨でのお礼を言われた。その顔は瞳が少し潤み、頬が赤い。その後食堂行くと使用人の奴等が何か話し合っている。どうやら具合が悪いのに無理をしているらしい。夜中の出来事を誰にも言ってないらしかったので、話した。
「あの子甘えないんだよ。甘えられない、が正しいかな」
「あんな過酷な環境にいた彼女にはその方法すらわからないのよ」
「いつもにこにこしているのに、どこか一線を引いて接している理由もそれですかね」
「たまに諦観した目をしてる」
「馬たちもさ、それがわかっているのか、どうにかしてあげたいと思いながらも、結果あいつらが甘えているんだよな…」
「それでもさ。彼女が見せたくならそれは尊重してあげたいけどねぇ…ちょっと寂しいねぇ」
使用人の皆が話すのを耳にしながらテオルドは先程のユフィーラの態度の不自然さに気づく。
(体調が良くなかったからハグをしてこなかったのか…)
いつもきらきらした藍色の瞳で手を動かしながらハグをしたい仕草をするユフィーラの人となりを思い出しながら、仕事から帰ってきたら様子を見に行ってやるかと思ったテオルドは、誰かを気遣う考えを持ったこともない己に気づかないままだった。
帰宅後、ユフィーラの部屋を訪ねても返答がない。焦って扉を開けると、床に倒れていた。急いで抱き上げてベッドに運ぶとまた床に寝ようとする。熱いから冷ましているのだと。堂々巡りになりそうなので、アビーを呼び、テオルドの部屋に連れて行って魔術で冷やすことを伝えた。
はふはふ浅い息をしながらとても苦しそうだ。テオルドは冷却魔術を応用して手を冷たくしてユフィーラの額に触れる。ふにゃんと気持ちよさそうにするのだが、その手の位置を変えようと身体が動くので結局テオルド自身全体に魔術を施してユフィーラの身体を包み込むように抱き寄せた。
もぞもぞと動いてたまに寝言をぼやくので、それに答えながらとんとんと背中を優しく叩いてやる。テオルドの匂いが好きだと。本能なのかもと。更には名前を呼んでくれと言ったので、今まで呼んだことがないことに気づく自分に愕然としたが、呼んでみると眦にじわりと涙が出て、それを隠すようにユフィーラは胸元に顔を埋める。
この感覚はなんだ。こんな穏やかな感情知らない。何かが満たされる感情を知らない。
わからないだらけの、でも居心地の悪くない心の状態にテオルドは徐々に意識を委ねて目を瞑った。
そして翌朝、人間が四つん這いであれだけ高速で逃げる姿に初めて心の底から抑えきれない笑いが噴き上げて、堪らえるために息が苦しかったのも初めてだった。
仕事の帰り道にレノンが何故か屋敷近くの池の方に何度も方向転換するので、そのまま好きにさせてみると、そこにはユフィーラとアビーの馬が寄り道していた。
魔力薬を作ったとユフィーラの細くて小さな指くらいの瓶を渡される。これは既存の物よりかなり重宝しそうな代物である。仕事以外のうんざりする人間とのやり取りをつい溢してしまうが、ユフィーラは何をどうしたと掘り返さず、うんうんと聞いてくれるのがとても心地良い。
ユフィーラが夕陽を眺めながら呟いた。
「幸せですねぇ…」
「ああ」
無意識に反応して出た言葉だった。
幸せ
幸せってなんだ
今のこの状況か
ユフィーラと共にいる心地良い時間のことか
テオルドは飛び起きて咄嗟に手を口に当てた。まるで今の言葉をしまい込むように。ばくばくと心臓が脈打つ。無意識の言葉にか、それとも――――
「――――――旦那様?」
呼ばれた耳朶に伝わる柔らかな声に治まりかけた心臓の鼓動が再び早くなる。どうやら先程のテオルドの言葉はレノンと戯れていたユフィーラには聞こえなかったらしい。何故かそれを知られたくなくてテオルドは急いで屋敷に戻った。
その日からの自分がおかしい。ユフィーラに会うとそれは顕著だった。
顔を見るとほっとするのに鼓動が速なる。満面の笑みに目を逸らしてしまうのに、内心はもっと見たいと思ってしまう。ハグされた時に異様に緊張してしまう。元々大した対話もしていないのに今までどう話していたかわからなくなる。表情に出ない顔で本当に助かったと思うくらいに。
その変化が何なのか自身が頭の処理がうまくいかなくて、整えることもできず、形に、言葉にすることが強固に固めた壁で惑わされているようだ。そのうち治るだろう、今だけだと避けまくってしまい、帰るのが遅くなったり泊まりも多くなっていた
それでも彼女はいつも通りだ。何も言ってこない。でも少しだけ遠慮するような仕草に、今度は無償に腹立たしくなったりと今までにない感情の揺れに動揺していた。
ガダンからは程々にしろと言われた。
ダンからはレノンみたいに素直になれば良いのにと言われた。
アビーからはユフィーラが可哀想だと言われた。
パミラからは心底格好悪いと真正面から笑顔で言われた。
ブラインからは無言で責められた。
ランドルンからは己を省みる時期を見誤るなと言われた。
そしてジェスにすら、その状態で良いのですかと言われた。
ユフィーラが来てから様々な感情がいつのまにか種が撒かれ芽を出していた。勝手にあちこちから芽生えてくる。今まで人間をどうでも良いと無関心にしていたことの弊害がテオルドを苛んでいた。
ある日執務室で仕事をしていたら、レノンの嘶きが聞こえて飛び出した。厩舎に辿り着くと、ユフィーラが馬房裏に倒れていて、レノンがそれを守るかのように側にいた。何かとりかえしのつかないことになりそうな焦燥感が襲う。それなのに一言しか声をかけられずに、彼女は自ら立ち上がって笑顔で去ってしまった。
あの日の焦燥感がずっと残っていて、テオルドはようやくその不確かな不可思議なものと向き合う姿勢になった。それでも目がなかなか合わせられなかったが、それでも少しずつ会う機会を増やしていた。そんな時に限って遠征が続きユフィーラとはなかなか会えなかった。
最後の遠征に向かう朝、数日留守にするからという言葉を免罪符に五秒以上でと伝えてみる。真っ赤になりながら嬉しそうに微笑んで倍の10秒でとユフィーラは願った。もっと長くてもいいのに。そして少し緊張しながらも、ユフィーラの小さな体に手を回して初めて抱き締めた。
とくとく
温かい。
大切だ。
一年じゃ足りない。
もっと側に居て欲しい。
幸せだ。
ああ、もっと早く自らこうして抱き締めていれば、わかったのに。
避けず前を向きこうやって自ら触れてみればすぐに気づけたのに。
出発したあとに、ふと胸元をみると、黒い魔術服が二箇所不自然に濡れていた。それがユフィーラの涙だと理解して、またあの焦燥感が溢れ出す。テオルドは戻り次第ユフィーラに自分の気持ちを言葉が足りなくても拙くても伝えようと思った。
この時にすぐ動かなかったテオルドはこの後、いまだかつてない恐怖に陥ることになる。