最期のぎゅっ
テオルドが二度目の遠征に発った。予定では今日戻るらしいが、今回は前回よりも少し遠くに向かうらしい。
最近薬を飲み過ぎているのが原因か、食欲も落ち、少し痩せてしまった。使用人の皆にはダイエットだと言い切っている。
あれからジェスは突っかかってはこなくなったものの、何か問いかけたいような表情を向けるようになった。でももう何も話すことはないので、今まで通りに対応している。
そして今日はアリアナとトリュセンティア国の王都にあるアリアナ御用達の菓子店にきている。なんでもハインド家の至極のマカロンを生み出す料理長の弟子が営んでいる、王都では有名なのだそう。
ユフィーラは興奮を隠せず、いつもより多めにお金の入った、がまぐちを両手に握り締めながら、屋敷の皆のお土産も含め、沢山の焼き菓子を購入した。
最近ではアリアナはテオルドの話をあまりしなくなっていた。ユフィーラ個人としては知らないテオルド説をもっと聞きたいのだが、「そんなにあるわけないでしょ。もういいのよ」と言われてしまった。
テオルドの話題がなくなっても、アリアナはとても博識で、貴族の何たるかや、女性の今の流行りなど沢山の情報を教えてくれるので、ついつい長話をしてしまっている。友人と言うのは烏滸がましいが、この時間もユフィーラにとってとても得難いものだった。
アリアナならばきっとテオルドを尊重させてお互い寄り添えるだろうと思う。でもテオルドの想いがどうかはわからないので、ユフィーラからは何も言わない。
というのは建前で、せめてその日まではという言葉を免罪符にして言えなかった、言いたくなかった、が正しい。狡い人間だ。
でも居なくなった後は自由だ。
だから。
今だけは。
帰り際には料理長特製のマカロンを持たせてくれたので、目をきらきらさせながら、ユフィーラは保湿剤セットを渡して優劣ある物々交換だが、まあ良しとする。
屋敷に戻ると、食堂に皆が集まっていて、テオルドも戻っていた。
「ただいま戻りました。旦那様お戻りになっていたんですね、お帰りなさいませ!」
「ああ」
お茶を出していたアビーがユフィーラが持っている菓子店の袋を目に留めた。
「ユフィーラさん、随分な量を買ったのね。ダイエットしてるって言っていたけど食べ切れるの?」
「今日だけ解禁です!」
「ユフィーラさん細いよね?それ以上痩せてどうするの?」
「ダンさん。見えない場所に脂肪というものはつくんですよ。これ以上は黙秘します!」
「いやいや、それだけの菓子持ってダイエットはないだろ。それ以上小さくなってどうすんの」
「ガダン。女性に対して体型のことは特に思っていても口には出すのは失礼ですよ」
「ちょっと、ランドルン。こっち見て言うその視線は失礼じゃないわけ?喧嘩売ってる?しわくちゃなシーツがベッドに引かれるよ?」
「あんたどんだけ買ったの」
ブラインが首を傾げているので、ユフィーラはテーブルにお菓子の袋の数々を置いていく。
「皆さんへのお土産です!」
「土産なら遠征帰りのテオルドの旦那が買ってくるんじゃないの?」
「旅行じゃなくて敵国への遠征だぞ。そんな場所があるか」
「その小さな袋は何?」
「ブラインさん、これはいけません。これは神が作りしマカロン。譲れません」
「ユフィーラさんもお茶どうぞ」
アビーが淹れてくれた紅茶を一口飲みながら食堂を見渡す。テオルドと使用人といえども元々は同じ魔術師団だった八人は、仲間のようなものなのだろう。わいわいと和やかに話す皆をみてユフィーラはにこにこする。
(ああ、この空間に居られることに感謝だわ。異質な私が入っても受け入れてくれた皆にせめて少しでも役に立ちたい)
ここ最近になって、激痛の頻度が治まってきた。
ということは、だ。
後期に差し掛かるまであと僅かということだ。
(この風景を、この感情を、この幸せを、覚えておこう)
ベルガモットの香りを堪能しながらユフィーラはその様子を見続けていた。
**********
そして、数日後。その時はきた。
目を覚まし体を起こすと、体の怠さも心臓を圧迫するような違和感もない。先日までの激痛が嘘のように、とても凪いでいて穏やかだ。膜が張っていたものがさっと霧散したかのような清々しく爽快な朝だった。
それを感じながら、ユフィーラはどこをみるでもなく一点を見つめ、今の状況を受け入れるように目を閉じ両手で顔を覆い、深呼吸を繰り返す。
暫くしてから手を外す。そこには諦観の中にも前に邁進する決意の笑顔があった。
まず、ユフィーラはハウザーに手紙を書く。自分の叶えたい最期の一つを書き記した。もうユフィーラが飲む薬はどれも必要ない。治らなくても抑えることはできる薬なので、これもハウザーに託すことにする。
そして、魔力薬は何とか半分強まで効力を上げられるまでになった。ぎりぎりまで精製をした甲斐があった。頑張った。なんとかもう少し数を増やしたい。
それからは毎日悔いのないように楽しくめいいっぱいやりたいことをやった。
アビーとは全然化粧っ気のないユフィーラに濃すぎず彼女に合う控えめな化粧を施してくれたり、ハーフアップとひっつめ髪しかしたことのない髪を編み込んだりしてくれた。
パミラとブラインとは寝具類のカバーや、服に少し香り付けを施す為にブラインの植物の知識とユフィーラの保湿剤の製作方法を組み合わせて、布類の柔軟剤を作り出して、出来上がったその夜は三人で打ち上げをした。何故か後半は人数が増えた。
ダンとはそれぞれの愛馬の馬房に名札を作ろうと盛り上がり、ダン自ら木材を調達して準備してくれて、ユフィーラも手伝いながら自家製名札を完成させた。
意外に相性の良いガダンとランドルンはカードゲームが好きで、良くランドルンの好物とガダンが欲しい魔術書の情報を賭けて遊んでいた。ユフィーラもルールを教えてもらって一戦交えてもらい魔法薬を賭けたが、惨敗。初心者に対し容赦なく全力で潰してくる二人はとても大人気なかったが、弱ぇなと頭をわしわし撫でてくれるガダンと、負けがあってこそ這い上がる原動力になるんですよ、と肩をぽんぽんとしてくれるのだが、取り敢えず側にあった布をきーっと噛んだ。そして少しだけこそばゆかった。
ジェスとは相変わらず対話することは殆どないが、前のように蔑んだり嫌味を言われなくなった。その代わり気にかけるような視線を感じた。
確かにもう先がないユフィーラだが、この一年は男爵に居た時の16年間とは比べものにならないくらい濃密で大切で幸福な時間だった。
鏡台前に座ったユフィーラを優しい手で髪を梳いてくれて、鏡越しににっこりと美しい顔で笑いかけてくれるアビーはまるで、お姉さんのよう。
ブラインと柔軟剤を開発するにあたり、香りで揉めた時にびしっと二人を諌め二人が縮こまり、それをやれやれというおおらかな笑顔で笑うパミラは、お母さんのよう。
つい自分の情熱を向けることに関しては熱くなってしまう、でも眉を下げてしゅんと自分の非を認めて謝るブラインは、素直な弟のよう。
名札作りでユフィーラが怪我をしないように細かに説明しながら、にかっと爽やかな笑みをくれるダンは、頼り甲斐のあるお兄さんのよう。
ランドルンとさしで勝負している時に、ユフィーラがランドルンの話術に負けないように庇ってくれたり、意地悪しながらも手掛かりをくれるガダンは、からかいながらも甘やかすお父さんのよう。
厳しいながらもそれだけでなくちゃんとフォローしてくれるランドルンは、誠実なお兄さんのよう。
直接関わってこなくても、周りに人が居ない時限定で、ユフィーラの体調を気遣う言葉と、言った後急に突き放す言葉を重ねるジェスは、思春期の弟のよう。
ユフィーラが心の奥底に願っていただろう、家族。擬似でも体験できたこの時間はなんて尊いのだろう。
そして
避けられることは前よりは少なくなったけど、大好きな漆黒の瞳と目が合うことがほぼ無くなったテオルドは、美麗で無表情な素敵な顔で、少し目を伏せながら「早くしろ」と言ってくれるようになった。相変わらずぎゅっとした時に一瞬強張るけど、そのことには目を逸らして、ユフィーラはその温かみと匂いを堪能して心を満たす。もうちょっとだけだから許して、と身勝手に。
とくとくとくとく…
胸の高鳴りが忙しくなると同時に今までにないふわっとした甘い幸せがユフィーラを包む。
きっとこの鼓動の動きの答えを知ったからだろう。
1.2.3.4.5…
そしてせめてこれは守らねばと時間だけは死守して、後ろにさっと下がる。
そしてその瞬間だけ視線が合う。
それだけで満たされるのだ。
もう充分だ。
**********
扉のノックで目が覚める。
「ユフィーラさん?具合が悪いの?もうすぐお昼になるけど大丈夫?」
まだ寝惚けている頭をなんとか覚醒して体を起こす。
とても眠い。
それでもと頬を両手で叩いて、ベッドから降りる。扉を開けると心配そうな顔をしたアビーが居た。
「おは…おそようございます、ですね。体調は絶好調なのですが、何だか眠くてベッドから起きれませんでした。ふふっ冬眠ならぬ春眠でしょうか」
「なら良いんだけど…お昼は食べられそう?」
「はい!朝の食事を抜いてしまったので、お腹がぺらぺらになりそうです!」
「あはは!了解。じゃあお昼は多めにしてもらうようにガダンに言っておくわね」
「ありがとうございます」
そう言って手を振りながら去っていくアビーの姿をユフィーラは笑顔でずっと眺めていた。
ユフィーラは昨日届いていたハウザーからの手紙に返事を書いて、最終準備に入った。薬は思ったより多く精製できたので、頑張った甲斐があった。
昼食を食べに下に降りると、珍しくテオルドがラフな服装で食堂にいた。明日から最終段階の遠征に行く彼は最近の激務と多忙でリカルドからある程度準備はできているからと無理矢理休みを取らされたと、ダンと話していた。
少し多めの昼食をぺろりと平らげたユフィーラは部屋に入りふぅと溜息を吐いた。
「なんて絶妙なタイミング…頑張ったと少しだけ自分を褒めてあげたいわね」
身の振り方を模索してある程度考えてはいたが、こんなに上手いこと向かうとは、最期のご褒美だろうかとすら感じる。胸に手を当てて、ゆっくりと呼吸をしていく。
「よし。精一杯最期まで!」
そう自分に言い聞かせて、残りの準備に取り掛かった。
その日の夕食は久しぶりに屋敷の全員が集まった。
ランドルンとユフィーラのカード勝負の話に、アビーとダンが乗っかってきた。更にブラインとなんとジェスも加わって、ガダンとパミラは傍観しながら楽しげに様子を見ている。そして朝早いからと撤収しようとしたテオルドに対し、まだ寝る時間は早いと拉致られて、最終的に全員でカード勝負をすることになったのだ。
トーナメント方式で催され、心理戦と時には話術も駆使するカードゲームの行く末。強豪と言われるガダンとランドルンを押さえて王者に輝いたのは、なんと陽気で包み込むようなおおらかな性格のパミラだった。
何としてもテオルドを送り出したかった為、昨日は昼寝をたっぷりして夜のカードゲーム大会のあとすぐに休んだ。そして、まだ日が昇らない時間に目が覚め、休息を得ようとする体を叱咤させて、起き上がり、準備する。
まだ薄暗い中、厩舎に向かい、青鹿毛の素晴らしい毛並みを持つ馬の元へ行く。
レノンがすぐこちらに近づき、鼻を寄せて頭や手に顔を擦り付ける。
「ふふ。勇ましいのに可愛いところもあるレノンが大好きよ。私を受け入れてくれて本当にありがとう」
そう言いながら、擦り寄せる顔を満遍なく撫でて上げる。何もかも見透かすような優しい澄んだ目がユフィーラの心が熱くなる。
「本当に…ありがとう。旦那様のことは頼んだからね」
ユフィーラは暫くの間、レノンを撫で続けていた。
厩舎から一度部屋に戻り、魔力薬を持って下に降りると、テオルドがちょうどジェスからローブを受け取り、羽織るところだった。
「旦那様!おはようございます」
階段をとととっと軽快に降り、テオルドの前に立ち、手に持った小さな袋を差し出す。
「良かったらお持ちになってくださいな。なんとか半分強まで魔力が回復できるようになりました!」
目は合わせてくれないけど、それでもユフィーラはフードからはみ出るさらさらの藍色の艷やかな髪と、整いすぎている美麗な顔、そして漆黒の瞳を己の目に焼き付ける。
「――ああ」
そう言って受け取ってくれたので、弾けるような笑顔になる。
「道中お気をつけて!」
そう言うと、ふと目が合う。
(うわ…本当に、私はこの人が好きなのだわ)
心が歓喜してざわめいて温かくなって甘く絞れるような心地にユフィーラはうっとりする。
テオルドが首を僅かに傾げながら呟く。
「数日留守にするから、5秒以上にするか?」
「…!」
突然の申し出にユフィーラは硬直する。いつものわきわき動かす手ぷるぷる震えながらテオルドの漆黒の瞳を見返す。
「い、良いのですか?」
「ああ」
「はわわ…では…では、何時もの倍の十秒で!」
「―――早くしろ」
ぽぽぽと顔を赤くしながら、とてとてとテオルドの前まで歩く。すると、テオルドの手が僅かに動いて両手を「おいで」の仕草になった。
「っ…!」
ぽすん
いつものように腰に手を回してきゅっとすると、軽くユフィーラの背中に手が回る。
「っっ!」
鼓動の速さと甘さに慄きながらも前から後ろからの温かさと大好きな匂いに小柄なユフィーラはまるっと包まれた。
1.2.3.4.5…
あまりの幸福に目元がぶわっと潤み、黒の軍服に滲む。背中に添えられた長い腕の温もりに全身が歓喜する。
1.2.3.4……5…
(なんて…なんて私は幸せなのだろう。旦那様大好き。ありがとう…)
最後にぎゅっと力を込めて、瞬きを沢山しながらすすっと後ろに下がる。
「旦那様、いってらっしゃいませ!」
「ああ」
テオルドが身を翻して出て行き、レノンに跨って見えなくなるまで、ユフィーラはずっと見続けていた。そして、同じく送り出した使用人の皆に振り向き、握り拳を天に掲げる。
「元気いっぱいです!」