甘えるとは
その日は朝から雨が降り続いていた。夜遅くになると豪雨に切り替わり、窓ががたがたと揺れる音がする。寝る前に育てている薬草の場所を確認しようと、窓辺に移動した。以前ブラインに雨の時の対処法として防壁の魔術を教わったが、まだ覚えたてのユフィーラは魔術の出来が気になって心配になり雨が降り続く外を見る。
窓から見ても雨風によって視界が悪い。部屋の灯りを消して夜目が効くまで暫し待ってから外を見る。
「…あ!やっぱり解けてる!」
ユフィーラの魔術が未熟なせいで、薬草は風により、左右に荒く揺さぶられていた。
「もうすぐで収穫なのに…なんとかしないと!」
逡巡し、まず以前乗馬用に購入した上下に着替え、髪を束ねてから後ろで一本に結ぶ。クローゼットからパメラから譲ってもらったシーツを取り出して、部屋から出て音を出さないように移動し、シーツを玄関に置いて、外に出た。
思った以上に強い雨風に服はすぐにずぶ濡れになり、顔にも叩きつけるような水飛沫がかかる。なんとか腕で顔を覆い視界を確保しながら薬草の所まで行くと、もう既に幾つかの薬草は千切れて吹き飛ばされてしまっていた。せめて他は助けたいと、防壁の魔術をかける。
強風で体が傾き、体中に雨に打たれているからか、集中できずに弱い魔術しかかけられない。少し経つとすぐにまた薬草が揺さぶられ始める。
(集中して!こんなんじゃ幾らかけても、すぐに解けてしまう)
何度も何度もかけるが、なかなか上手くかからないことに徐々に焦り始める。落ち着けと己に言い聞かせながら、かけ続けていく。
どのくらいそうしていただろうか。
ふと、周りから雨と風が止んだ。ようやくまともなのが、かかったにしては範囲が広くはないだろうか。そう思って首を傾けていると腕がぐいっと上げられた。
「一人で何してる」
腕を上げられた方向に目を向けると、そこには雨に濡れていない完全な防壁魔術をかけたテオルドが立っていた。思ったより時間が経っていたらしく、ユフィーラはぶるっと体が震えた。
「た、立ちます、から、離してください。旦那様が、濡れてしまいます」
「いいから立て」
そう言って引き上げてくれてユフィーラは立ち上がる。服はびしょびしょで重たくなっていた。
「あの。薬草に魔術、を、かけていただき、ありがとう、ございます。なかなか、上手くかからなくて、助かり、ました」
日中暖かいとはいえ、夜の雨風に打たれて流石に体が冷えたらしく会話も覚束ない。
「何故誰か呼ばない」
「ま、真夜中でしたの、で…」
それでも結局テオルドに迷惑をかけてしまったと、へにょんと眉を下げると、腕を持ったままテオルドはユフィーラを引っ張って、玄関の中まで連れて行ってくれた。
「旦那、様。玄関、ここにシー、ツが。それで拭いてから、部屋に戻ります。本当に、ありがとうございました」
そう言うが、テオルドは腕を離さない。
もしかしてこれからお説教かなと、せめて着替えてからと思っていると、テオルドの手がようやく離れたかと思ったら、その手をユフィーラの前に翳した。魔術が織り込まれ、体中の水分が飛ばされていく。
テオルドの瞳が漆黒なのに煌めきで鮮やかに彩る様を見て、ユフィーラは瞠目する。
(ああ…本当にテオルド様の瞳は綺麗。心が満たされて、でもちょっと息苦しいような、ぽかぽかもする…ような)
テオルドが手を下ろし、「すぐ寝ろ」と言って、戻っていった。暫くその場に立ち惚けていたが、我に返りシーツを持って部屋に駆け込んだ。
翌朝、台風一過のあとのように外はからっと晴れた。
だが、外で長時間雨風に曝されたからか、体全体が重くだるい。熱感があり頭痛も併用していて喉も痛い。テオルドに乾かしてもらったが、明らかに昨夜のことが原因だろう。
(うーん、今日は部屋で休みながら薬でも精製しようかしら。皆に迷惑かけないように、朝食だけ食堂…で、昼食は部屋でとって…)
倦怠感は慣れたこととはいえ、平気な訳ではない。少し鈍い思考と悪寒のする体を動かして、朝食に降りる。扉を開ける前に深呼吸をして構える。
「皆さん、おはようございます!」
いつも通りに。
心配かけないように。
皆に迷惑かけないように。
アビーさん始め、旦那様とジェス以外全員が揃っている。
今朝も美味しい焼き立てのパンとホイップバターと自家製のジャム。肉汁たっぷりのウィンナーとスクランブルエッグに彩りのあるサラダ。
いつもの大好きな朝食が今日に限っては少し胃に重たく感じてしまうのが申し訳ない。でもしっかり食べないと不調は治らないだろう。
「ガダンさん。今日はちょっと集中して一日薬の精製をしたいので、昼食にサンドイッチを作ってもらうことはできますか?」
そんなお願いをしたユフィーラにガダンはカウンターに肘を付けながら片眉を上げる。
「ん?良いけど。具材は何にする?今日だとローストビーフとパンに合う魚のフィレも用意できる」
「今日はシンプルに卵とハムで!しゃきっとした玉ねぎも!」
「わかった」
「ありがとうございます!」
元気に。
いつも通りだと思って貰えるように。
ユフィーラは朝食をもぐもぐ食べながらも、少し胃がもたれてくるのを気づかないことにして、頬張る。でも万が一無理し過ぎて、吐くことはしたくないので、気持ち控えめの量に徹する。
外を見ると、昨日とは打って変わって晴天だ。でも今日はその眩しさが体に重く感じてしまう。いつもより少し時間をかけて完食し、食堂を辞する。
出る時に、ちょうどテオルドと付き従うジェスにばったりと会った。
「旦那様、ジェスさんおはようございます!旦那様、昨夜はご迷惑かけました。ありがとうございました。ではお先に失礼しますね」
本来なら、朝から会えたので定例の抱擁をしたかったのだが、旦那様に万が一でも移ったら大事なので、泣く泣く諦める。さくさく階段を上がり、誰にも見えない所まで歩いていってから、一息ついて壁に凭れた。
「…部屋で大人しくしてよう」
その後、精製を始めてみたのだが、熱のせいかどうしても魔力がぶれてしまう。無理して薬の出来が下がってしまっては本末転倒なので、一度手を止めた。
もうすぐ正午になるので、なんとか起きていると、ノックが鳴り「はあい」と元気良く声を上げて向かう。開けると、アビーではなくガダンだった。
「あら?ガダンさんが自ら持ってきてくれるなんて、ふふっ贅沢ですね。ありがとうございます!」
そう言ってサンドイッチのトレーを受け取ろうとすると、いつもの量の半分のサンドイッチと、温かいミルクティーに冷たい果実水、一口サイズに角切りされたフルーツが盛られていた。
瞬きを一つしてガダンを見ると、なんとも言えない、少し困ったように口角を僅かに上げている。
「知られたくないのか」
何のことを示しているのかはこのトレーの内容を見れば一目瞭然だった。
「…」
「もう少し甘えられたら良いのにな」
そっとトレーを渡しながらガダンが呟く。そして手先が器用な大きな手でさらっとユフィーラの頭を撫でてから去っていった。
トレーを机に置き、触れられた頭に手をおく。全く知らない人が手を上げたら一瞬顔が真顔になっていたかもしれないが、ガダンが手を上げても怖くなかったし、優しく撫でるのはハウザーのように何だかほっこりとした気持ちになった。それはきっと他の使用人皆も同じかもしれない。気を許している証拠だった。…ジェス以外は。
(甘える…私甘えられていないのかな。でも、何かしてもらったり、お願いしたりすることは違うのかな…わからないなぁ)
半年近く経った今、ユフィーラにとってテオルドと屋敷の皆はとても穏やかに過ごせる人達だ。居心地が良くてずっと一緒に暮らしたいくらいに。…ジェス以外は。
ずっと―――
一緒に―――
それを改めて認識した時にざっと血の気が引いた。
ずっとはないのだ。
あと長くても半年しか居られないのだ。
それ以上は
不可能なのだ
ユフィーラは浅い息を繰り返す。今を精一杯生きていることは確かだが、今がとても満たされているからこそ、先を考えることに恐怖が襲う。病を知った当初は芽生えなかった感情。
(駄目…それは駄目。今恐怖に支配されたらせっかくの楽しい時間が、歪んでいってしまう)
そうだ。元々底辺も底辺な生活をして、ハウザーに拾われてようやくスタート地点に立てた。病はあっても、だからこそここにいるきっかけになったのだから。
ユフィーラは熱を持つ瞼を閉じて深呼吸を繰り返しながら嬉しくない速なる鼓動を落ち着かせる。今日はもう休んで明日から元気に今まで通りに。自分に言い聞かせるように何度も何度も心に刻む。怖いことは、苦しいことはいつも通り心の奥底に沈めて蓋をしてしまえば良い。
ゆっくりと目を開けてガダンの心遣いのつまった昼食をちょびちょびと食べ始めた。
少し眠ってから夕方に喉の乾きに目を覚ます。息が浅く熱い。果実水と半分も食べられなかった食事からカットされたフルーツを口に入れて水分補給して通常の風邪薬を服用する。昼間より更に熱は上がったようで、ユフィーラはふらふらしながら、洗面台で顔を洗いに行く。鏡を見ると、瞳は潤み、頬は赤く、浅い呼吸をしている姿は明らかに体調が悪い状態だとわかってしまう。
なんとか夜着にだけ着替えたところで力尽きて床に座り込んでしまった。体を支えている手元の床はひんやりとしている。ついついその冷たさに横になって頬を付けてみる。
「あー…気持ち良いぃ…」
床に寝そべるのは男爵の時以来だ。でもここの床は艶々で綺麗。納屋のカビ臭い部屋とは違うのだ。
(ちょっとだけ、ここで休んじゃおう)
はふはふ熱い息を吐きながらユフィーラは意識を落とした。
ふわふわと体がまるで綿帽子になったように浮いている。
ぽすんとふかふかの生地の上に下ろされ、熱い息がふうふうと自分の口から漏れ出ているのを何となく理解する。
横に体を向けると、とても柔らかく寝心地は最高なのだが、如何せん冷たくない。今はこの火照りをどうにか緩和させたいと朦朧とする意識の中で、ユフィーラはごろごろと体を動かしていると、足が落ちひやりとした感触に辿り着き、そこに向かって体も移動させる。
ぽてんと冷たいけど固い場所に着地した。固いが冷たさには変えられないとそこに横になると、「おいっ…!」と声が聞こえる。体を持ち上げられて床から離されそうになるのが嫌で身悶える。
―――冷たいところが良い。少しだけ楽になるから
「だからといって床で寝るやつがいるか」
―――体全体が冷たければいい。床は慣れているから大丈夫
ユフィーラは逆の頬を冷やす為に向きを変える。
「…誰か呼べばいいだろう」
心地良い低音が響く。
―――居ないよ誰も。いつも納屋でずっと一人
気にかけてくれる人は誰一人居なかった。国籍のない私は生きている証さえなかった。
―――大丈夫、大丈夫。明日には元気になるからね
うつらうつらと夢現の中、誰かと誰かが話している声が聞こえたような気がする。そしてまたもや体が浮いて運ばれそうになるので、嫌だと藻掻く。
「冷えていれば良いんだろう」
―――うん。それなら良い
ユフィーラは静かになり、身を任せ意識がまた深く落ちていく。
とんとんと背中をひんやりした何かが継続的に叩く。なんだかあやされているみたいだ。横を向いて寝ているユフィーラの向かい側には少しひんやりした抱き枕のようなものがある。もそもそと手を動かし抱き枕に手を回す。足も絡めて暖ならぬ涼みを取る。鼻腔からはユフィーラの大好きな匂いが香る。
―――ああ、この匂い大好き
―――本当に好き
―――本能なのかもしれない
「そうか」
―――うん、そう。その声も、短い言葉も、5秒ハグしてくれることも
とんとんと背中を優しく叩かれてまた嬉しくなる。そして欲が湧く
―――名前
「ん?」
―――一度だけで良いから、名前…
とんとん背中を叩く音が止まり、悲しくなる。やっぱり呼ばなくて良いから背中を――
「ユフィーラ」
心に歓喜が湧く。心がざわめくのに嬉しい。とくとく高鳴るのに温かく優しい。苦しくなるのにそれが愛しい。目頭が熱ではない熱さで潤む。それを誤魔化すように少し硬めの抱き枕に顔をすりすりと何度も擦り寄せて匂いを堪能する。ふっと上から笑う声が聞こえるが気にもしない。いつもはこんなに長く出来ないからね。
これはとてつもなく幸せで良い夢。
体は熱く節々が痛いのに心はとても甘く心地良い。
せめて目が覚めるまではこの夢が続きますように。
ぱちっと急に覚醒して目を開ける。目の前には黒いシャツ。シャツにかかる藍色の髪。胸元近くまで釦を緩めたシャツから出る細身に見えて実は筋肉がちゃんとついている胸元と腕。男性特有の喉仏。その物体にユフィーラは全力でくっついている。
その事実にひゅっと喉が鳴る。ぎぎぎと音がなるように首を上に向けると、そこには普段冷徹で無機質で無表情な、でも眠るその顔は無防備で少し幼ささえ垣間見えるテオルドの顔。しかも物凄く位置が近い。しかも手がユフィーラの背中に回っている事実に更にパニックになる。
(あわわわ…)
声が出ない。というか出せない。今度はきっと両頬を摘まれてしまう。
昨日床で寝てしまった記憶まであるのだが、そこからは朦朧としていて、記憶に定かではない。ゆっくり首だけ動かすとユフィーラの部屋でもないということは選択肢は一つだ。
(はわわわ…)
全体が薄いグレーで統一された物が殆ど置いていない殺風景な部屋。
「…ん」
首を動かし過ぎたのか、テオルドの閉じられていた瞼がゆっくりと開く。
漆黒の美しい瞳とぶつかる。
「ひぇ…!」
がばっと起き上がり後方に後退るとふっと先がないことにぞっとするが、時すでに遅し。ベッドから転げ落ち、背中をしこたま打った。
「ぃったあぁぁぁぁ…!」
「―――おい」
その声に本能的に何故か逃げねばと、しゃかしゃかと高速ハイハイで部屋の隅へ逃げる。夜着であることなど今のユフィーラは記憶の彼方に投げ捨てている。
それを見て肘で体を起こしていたテオルドが瞠目している。そしてベッドに顔を埋めた。頭を抱えながら何故か肩が震えている。怒っているのだろうか。
「あわわわ…だ、旦那様。ゆ、夢現であまり記憶が朧げで…お休みのところ本当にすみません…!」
暫く肩を震わせていたテオルドはゆっくりと顔を上げて上半身だけ起こした。
「体調はどうだ?」
「…はい?」
「体の調子」
てっきり凍えるような視線と口調で詰め寄られるかもと予想していたユフィーラは目を瞬いた。
「あ、はい。だいぶ良くなりました」
「そうか」
会話が途切れ、その後に続く叱責の言葉がなかったので、はてとユフィーラは首を傾げる。
「ユフィーラ」
あれ?夢の中と同じ言葉が。まさか現実のようで、まだ夢の中?と逆に首を傾げるところにもう一度、同じ言葉が耳に響く。
「ユフィーラ、おいで」
テオルドから発せられたユフィーラの名前に、目を丸くする。そしてそれを理解した時、風邪とは別の体の火照りで顔がぽぽぽと赤くなる。
「まだ赤いな。おいで」
その低く少し起き抜けの掠れた声で呼ばれ、ユフィーラはふらふらと誘われるようにテオルドの元へ歩いていく。
ベッドの端に腰を下ろしたテオルドの元へ行くと、いつも高く見える顔が少し低い位置にあることに不思議な感覚だ。
テオルドの手が上がりそっと額に触れる。ひんやりと人にはない冷たさに驚く。
「!つ、めたいです」
「まあ昨日よりは下がったな。魔術でお前に触れる箇所だけ冷えるように調整していた」
「それは…とんだご迷惑をおかけしまして申し訳――」
謝ろうとすると胡乱げな表情で返されたので、直ぐ様言い直す。
「あ、りがとうございました」
「ん」
床で眠っていたことにより、結果何故かこうしてテオルドに迷惑をかけてしまったようだが、感謝を述べたほうが正解だったようだ。
元々小柄なユフィーラは余計縮こまって小さくなる。それを見ながらテオルドが呟く。
「この後、更に小さくなるんだろうな」
「…え」
その後、アビーに半泣きで調子が悪かったことを伝えなかったことを責められ、食堂に連行された。食堂では座った席の周囲を残り五人の使用人に囲まれたユフィーラは過去一番体を丸く縮めて小さくなった。
向かいではテオルドがしれっと珈琲を飲んでいた。