心の動きとその裏側
「そうだねぇ、そろそろシーツと枕カバーを新調したいかな」
「いいわね!客室はともかく、個人で色は決められる?」
「旦那様に一応確認してはおくけど大丈夫だと思う。アビーは何色が良いの?」
「髪と同じ色!」
「赤茶なんてあったかな…薄茶色はあるだろうけど」
「パミラさん、古いシーツは捨ててしまうのですか?」
「倉庫内の埃を被りたくないものに掛けたり、馬のお手入れ用の布とか、色々用途はあるね。あまりに古いのや汚れが目立つのは雑巾にして再利用ね。何?ユフィーラさん欲しいの?」
「はい!薬草を洗った後干しておくのに」
屋敷内の食堂では女性三人がガダン特製の一口ガレットをお供に雑談に華を咲かせている。屋敷中の雑用を一手に引き受けるパミラは、灰色のひっつめ髪に焦げ茶色の瞳で柔らかな笑顔で少しふくよかな女性らしい体型だ。誰にでもさばさばした口調がユフィーラにとっては話しやすく、いつもてきぱき効率よく動く姿は見ていてとても気持ち良い。
「それじゃ後日持っていく。あ、それとこの前貰ったハンドクリーム。あれ良いね。凄く使いやすい」
「本当ですか?良かったです。匂いとか大丈夫でした?匂い無しも作れますよ」
ここに来てからご挨拶代わりに使用人の皆には保湿剤の詰め合わせを渡しており、思ったより好評価をもらって、定期的に作っているのだ。ジェスにはいらんと言われたが。
「匂い有りが良いね。柑橘系のやつ。それと顔のクリームは今までと同じで匂い無しのが一番だった」
「私もあの化粧水はかなり重宝するわ!もうすぐで無くなりそうだから、注文しておいて良いかしら?」
「はい、毎度!儲かって財布が潤います!」
「良いね。その商人な考えが」
お世話になっているので、お金は要らないと始めは言っていたのだが、通常では売りに出しているものなので、皆それは良くないと諭され、同居価格で提供するようになった。
「さて、これで注文分は完了っと」
その後部屋で先ほど注文を受けたものと、ハウザーや女将達への分も纏めて精製してしまう。結構な量を作ったので疲労感が溜まっているが、薬作りをもう少しだけ進めておきたい。
「デスパの濃度をどこまで高められるかしらねぇ」
今のところ二段階まで強さを調整出来ている。凝縮を重ねてあと二段階上までなんとか精製しておきたかった。
専用の器を並べて魔術を使って精製を始める。二刻ほど休み無しに精製しているからか、少し息が上がってきた。
(あと、この分だけだから…)
そう思いながら目にぐっと力を入れた時、ぐらっと視界が歪み一瞬意識が朦朧とした。
(あ、魔力の加減が…!)
手元の魔力操作が僅かに狂って予定より多い魔力が放出されてしまい、目の前が真っ暗になる。揺れる頭を抑える為に両手で抱えた。
その時、バタンと扉が開く。
「何をした!」
咎めるような声質に、答えようとしたが、頭の中がかき混ぜられたように回り、気持ち悪さに応えることができない。ぐっと手に力を込め、頭を支える姿に声の主は、今度は困惑した声に変わる。
「…どうした?」
ようやく気持ち悪さが少しだけ凪いでいき、息を整える。
「―――ジェス、さん、ですか?どうしましたか」
頭を抑えたまま、何とか応える。
「急激な魔力の織が顕現したから、様子を見にきた。悪さをしてたら問題だからな」
相変わらずな返答だが、いつものように流す対応が今は難しい。魔力減の時の体調不良用に精製しておいたものをワンピースのポケットから手探りで小さな袋を取り出してひと粒を口に放る。
「何を飲んだ?」
目敏く疑いの目を向けるジェスに、ユフィーラはちょっと今は放っておいて欲しいと思いながらも、いつもより低い口調で「精製、し過ぎた時用、の栄養剤みたいな、ものですよ」と言って、その袋を後ろに向けてそっと投げた。
「疑わしいなら、検分でもして、ください」
効きが出るまでにまだ時間はかかる。ユフィーラは目の前の薬を腕で奥に押しのけて、腕を交差して突っ伏した。
袋を拾った音が聞こえ、先程よりも近くでジェスの声が落ちてくる。
「そうさせてもらう。早くボロを出せば良いものを」
その言葉を聞いて何をもってボロなのかと思う。
(地位?お金?困らせる行動?多分何をしてもジェスさんは穿った見方しかしてくれないでしょうね)
ユフィーラとしては、どうせなら共に暮らす人達とお互い気持ちよく過ごせればとは思っているし、そうなるように努力はしているつもりだ。でもユフィーラが成すこと全てが彼にとっては逆に移るのならば、それはどうしようもないし、ユフィーラも一年という期間をジェスに注ごうとは思わないからだ。それならテオルドとの時間に充てたい。
それにそれがテオルドの為の行動ならば、ユフィーラは対抗する気もないのだ。そのままのユフィーラを認めてもらえないならば、その先は平行線だろう。
「他の奴等を手懐けて上手く隠しても、腐った性根は変わらない。―――――早く居なくなればいいのに」
その言葉に心がすとんと落ちる。その後にあるのはいつもの諦観だ。前の時と一緒。諦めれば良い。慣れたものだ。嫌われるのは日常茶飯事だったから。
「そんな言葉は、慣れたものです―――――遠くない、うちに、叶いますよ」
「何?」
もう言葉を返すつもりはない。沢山だ。もう放って置いて欲しい。なんとか立ち上がり、ふらふらしながらゆっくりと歩いてベッドに向かう。途中、おい、と聴こえたが、応えずにベッドにどさっと倒れ込んで意識を飛ばした。
**********
その日は午後にアリアナが訪れることになっている。
ユフィーラは紅茶と一緒に出すお茶菓子をガダンと思案中だ。
「…フロランタンは外せません」
「じゃあパイは止めて良いんだな?」
「くっ…!煮込まれたチェリーとパイとの至極の組み合わせが…」
「でもパイはどうしてもパイ生地が散らばるからな」
「ですねぇ…あのサクサク感あっての至福の逸品ですから」
「ならアフタヌーンサイズのフロランタンとベリームースで決まりだな」
「うぅ…無念」
ユフィーラは座っていた食堂のカウンターに突っ伏す。
ガダンが作るパイも絶品だ。ユフィーラは特にチェリーパイが大好物で是非アリアナに食べて欲しかったのだが、食べる難易度は高めだ。でも食べたかった。ユフィーラががっくりとしている姿に、ガダンはカウンターに肘を付き、少し考えたあとにやっと笑う。
「それなら、小さいリーフパイ作ってやろうか?それにチェリーのコンフィチュール添えれば近くなるだろ」
それを聞いたユフィーラはぱあっと澱んでいた目が輝き、握り拳を上げる。今日は両手だ。
「まあ!幸甚の極み!」
「あははは!こっちも作り甲斐あるってもんだ」
深紅の短めの髪と朱色の瞳のガダンは粗雑な見た目に見えるらしいが、手先がとても器用で繊細な魔術を得意とする。料理の味付けにも拘っているので今まで食べさせてもらった食事は常に幸せないっぱいな時間である。右目尻近くにある古傷が彼の男性の色気をより増長させている。
ガダンが準備を始めるというのでお礼を言って食堂から出る。廊下を歩くユフィーラの足取りはかなり軽い。アリアナが訪問するのは午後過ぎたお茶の時間あたりだ。
ユフィーラは厩舎に足を向け、丁度馬房の掃除を始めようとしていたダンに、匂い無しの保湿剤をいそいそと渡して馬房の裏側の掃除を奪い取る。
馬房の掃除はレノン始め、馬達と交流できる大切な時間になっていた。馬達はどの仔も本当に可愛くて円で澄んだ目を見ていると癒やされる。撫でている時に睫毛を少し伏せる仕草がとても好きだ。ブラッシングしている時の気持ちよさそうに鼻をぶるるっと鳴らす音を聞くと嬉しくなる。
馬房に並んでいる皆に挨拶してから、食べ残しの餌を撤去して飲み水を新しくする。馬房の裏側の床を掃き整えていると、後ろから、専用馬房から出てきたレノンが鼻で押してきた。
「レノン、もうちょっとで終わるから待ってて―――こら。まだよ」
優しく諌めるが、レノンは聞く耳を持たずに早く撫でろと纏わりついてくる。それが可愛くて仕方がないユフィーラは暫く葛藤していたが、程なくしていつものように折れてしまうのだ。
「レノンはいつも気高く己を律しているから、少しくらい甘えても良いわよね。ふふ、擽ったい」
レノンの好きな首元を両手で撫でてやると、今度はルーシアが寄ってくる。
「あら、ルーシア。干して陽のたっぷり当たった干し草は良い匂いがしたでしょう?居心地はどう?」
そう言いながら眉間から頭にかけて撫でる。すると更にガダンとランドルンの愛馬まで参戦してきた。
「フィナン、今日あなたの主に美味しいものをお願いしたのよ。きっと主の手は甘い匂いがするはずよ。マクレーンは今日もとても美しいわね。毛並みが輝いているわ」
そんなこんなで次々に撫でてあげるのだが、ユフィーラの手は当然二本しかない為、四頭は物足りない。体のあちこちを押されたり甘噛みされながら揉まれていくが、その触れ合いがユフィーラには幸福の真骨頂である。
「フィナン、スカートは引っ張っても持ち上げては駄目よ、何も美味しいものは出てこないわ。あ、ちょっとルーシア。耳元に鼻息を吹きかけないで…!レノンも、マクレーン――ふふ、あはは!擽ったいってば」
四馬四様で戯れてくるのでどこから諭せば良いのかわからなくなったユフィーラは可笑しくなり、つんつんされてついに座り込んでしまう。すると更に四頭の鼻息が顔の周りに集い余計に笑ってしまった。
厩舎の奥の方から「お前達良い加減にしろよー」とダンの声が聴こえるが、彼等はどこ吹く風だ。それから体中突かれかみかみされながら、戯れていると、ふと人の気配がした。
「―――レノン」
いつもより低めの呆れの入った声音に振り向く。柱に凭れながらテオルドがこちらを見ていた。
「旦那様!今日はいつもより遅めなのですね。レノン、大好きな主様が来たわよ」
そう言うのだが、レノンはユフィーラの頭をふんふん言いながら嗅いでいる。
「レノン」
もう一度、テオルドが少し強い口調で言うとレノンはようやくユフィーラから離れて、テオルドの元へ動いた。ユフィーラも立ち上がり干し草の付いた服を払って、三頭をそれぞれ撫でて、馬房から出る。
「これから出勤ですか?」
「ああ。今日は遅くなる」
「はい。お気をつけていってらっしゃいませ!」
そう言って漆黒の瞳を見つめる。テオルドはユフィーラの無言のきらきらとした眼差しに呆れたような溜息を吐くと同時にふっと鼻で笑う。
(え!?何、今笑ったの?)
初めてみる少しだけ緩んだ瞳に、ユフィーラはぽぽぽっと頬を赤らめ、胸はいつも以上に忙しなくなる。
「もう行くが、いいのか?」
定型の無表情に戻っていたテオルドの言葉にはっとなり、足を進めてとすんと胸元に入る。
先程の緩んだ瞳に感動して少し手が震えてしまったが、それでもしっかりとぎゅっとして匂いをこれでもかと吸い込んでから、さっと離れてお見送りをする。
「いってらっしゃいませ!」
「さっきも聞いた」
そう言いながらレノンを連れ出すのだが、レノンがカツッカツと蹄を鳴らしているのを、「何故お前が怒るんだ…」とぼやきながら外へ出ていった。
「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。」
アリアナが完璧なカーテシーを見せる。見事なカーテシーだなぁと感心しながら、ユフィーラも挨拶を返し、応接室に誘う。
アビーがお茶とアフタヌーンティスタンドを運んでくる。そこには小さめのフロランタンにベリームース、リーフパイの隣にはチェリーコンフィチュールが添えられ、一口サイズのサンドイッチも乗っていた。
(ガダンさん完璧な配分!)
ユフィーラは小さく握り拳をして、紅茶を待つ。準備が終わって、アビーは一礼して去っていった。
「アリアナ様、今日は少し暑かったのではないですか?喉を潤してくださいな」
「ええ」
「それと、料理人の腕によりをかけた品々もご一緒に!」
「え?」
「淑女としては無しかもしませんが、これらを満喫するために私今日は昼食を少なめにしたのですよ」
ふふ、と微笑みながら、ユフィーラはきらきらした瞳でガダン特製のお茶菓子を見つめる。アリアナは目を丸くして呆れたような表情をしたが、気勢を削がれたように、肩の強張りが緩む。
今後ユフィーラが貴族の世界に足を突っ込むことはないだろうし、それ以前に目の前の美味しいお茶菓子を我慢することは冒涜である。作法がどうとか蔑まれようが、至福の時間には勝てないと、ユフィーラも紅茶で喉を潤わせてから、パミラ厳選の素敵なお皿に菓子を載せていく。
「本当は絶品のチェリーパイをお出ししたかったのですが、私ではきっとアリアナ様のように上手くパイ生地を捌けないだろうなと。なので料理人がコンフィチュールを載せて食べる小さなリーフパイを作ってくれました」
話しながら手早くお茶菓子を移動させているユフィーラに面食らいながら、アリアナもおずおずと、でも綺麗な所作でお茶菓子を取った。
「わあ…アリアナ様は流石ですねぇ。音を出さずに流れるようにできるなんて。私だったら手が震えてスタンドを倒してしまいそうです」
「貴族なら普通のことよ」
「それを普通にするまでに並々ならぬ努力と忍耐があってこそですよ」
幼少の頃から淑女になる為にきっと山のような教育を受けているはずだ。こちらを固まって見ているアリアナに気付かずにチェリーコンフィチュールを盛ったパイを食べる。
(ん~…美味しい!)
それはもう蕩ける笑顔全開だ。さくさく口の中で弾けるパイ生地と甘酸っぱいチェリーの組み合わせは本当に至福の一時である。口元を少し上品に押さえているのだが、端からにまにましている口が見えているので、あまり意味がない。
するとテーブルを挟んだ向こうからもさくっと音がした。
「―――ぉいしい…」
ゆっくり咀嚼して口の中身がなくなってから思わずと言ったその一言にユフィーラは歓喜する。
「ふふ、良かったです。本当にここの料理長の腕は素晴らしいのです」
目線は敢えて合わさずにユフィーラは他のお茶菓子も攻めていく。アリアナに倣ってなるべく音を出さないように努め、良い経験にもなると嬉しくなった。
「はふ…このフロランタンは本当に…料理長が尊い…」
独り言を発しながら味わって食べていると、アリアナがぽそっと呟く。
「…うちの料理長のマカロンも秀逸だわ」
「!」
目を逸らしながらアリアナがぼやくのをユフィーラは見逃さない。しかも美味しいものを作る相手のことならば尚更だ。
「ま、マカロン…色とりどりな色相の…」
「ええ。ペストリーも得意だけど、マカロンはどこの菓子店よりも美味しいわ」
「アリアナ様が言うくらいなら相当の腕前では…」
「元々センスがあったのよ。それを父が外国に数年修行に出させていたわ」
「料理長もですが、アリアナ様のお父様の先見の明も素晴らしいのですねぇ」
「…ふん」
父のことを尊敬しているのならば、褒められれば嬉しくない筈はない。ついつい話してしまったことに、少し照れくさくなったアリアナはそっぽを向いた。
「アリアナ様もお父様の血を受け継がれて色々なものが見えているのでしょうね」
「…そうかもしれないわね」
「旦那様のことも入団当初から気にされていたのですよね?」
「ええ」
「アリアナ様から見た旦那様の素敵な勇姿は私よりもどれだけご覧になってきたのでしょうねぇ」
「天と地の差があるわね」
「一つ挙げるとするなら何でしょう?」
ユフィーラが尋ねるとアリアナは少し思案する表情になる。
「そうね。テオルド様は、孤児ということ、後見人が大物であることで、くだらない嫉妬や侮りに揉まれながらも、虎の威を借りることなくそれらを跳ね返すくらい努力されていたわ」
過去を遡るように思い出しながら語ってくれるアリアナにユフィーラは一言も逃すことのないように耳を傾ける。
「昔の旦那様も素敵だったと思いますが、当然今よりも幼さはあったのですよね?」
「そうね」
「そこをもう少し詳しく!」
「嫌よ」
天敵への情報共有が否と思ったのか途端に遮断されてしまったが、ここで諦めるユフィーラではない。
「そうですか残念です…この前訪れたご令嬢の方が色々存じ上げていたような―――」
「わたくしよりもテオルド様を知っている令嬢が存在する訳ないでしょう…!」
そこからは煽られたアリアナの独壇場だった。
入団当初のテオルドは今よりも髪が長く、乱雑に結っていただとか。
目つきは今よりも鋭く、触れれば怪我をしそうな程荒んでいた時期があり。
周りからの中傷・誹謗は華麗に無視。羨望も無視。熱い視線にも無視。全部無視。
まともに話すのは団長だけで他はどんな偉い人でも歯牙にもかけない。
なのに、愛馬レノンだけには空気が柔らかくなるという、これまた身悶え要素有り。
つまらない嫉妬から、不利な勝負をかけられ、それでも圧倒的な魔力で勝利したが、今度は一方的にやられたと訴えられても、噂を聞きつけ団長が出張るまで、何も言い訳もせず、好きに言わせていたり。
折が合わない騎士団の一部との揉め事にもいつも適当にいなしている。
魔術師は騎士と比べて軟弱に見えるが、実は研究や遠征で体力勝負なところがあり、細身でもしっかりと筋肉がついていたりとか。
アリアナのそれはそれは熱い語りにユフィーラも耳に細心の注意を払い、目はきらきらからぎらぎらに変化しているその姿に、アビーが空気を読んで途中気配を消しながらお茶を入れ替えてくれた。
ようやく一段落したところで、はっと二人は正気に戻る。
「アリアナ様、少し冷めてしまいましたが、喉を潤してくださいな」
「っええ」
少しばつが悪そうにしながら綺麗な所作で紅茶を飲むアリアナは「そろそろお暇するわ」と辞する言葉に、ユフィーラは微笑みながらアリアナを見る。
「アリアナ様。旦那様の色々なお話をありがとうございます。アリアナ様が自らを律して抑えながらもどれだけ真っ直ぐに旦那様を見ていたのか、理解できました」
「…わかればいいのよ」
テオルドの話をしているアリアナは時折、彼への理不尽で横暴な出来事に憤慨し、彼への想いを綴るのをショコラ色の巻き髪を無意識に弄りながら少し顔を赤め、気の強そうな青い瞳を輝かせながら語ってくれた。
それでも。
今は譲れない。
ユフィーラは目を合わせていた視線をテオルドを思い出すように、少し遠くを見据える。
「私は旦那様に出会って、まだたった数月です。アリアナ様の足元にも及びません。でも…それでも、綺麗で鮮やかなのに少しだけ憂いを帯びた瞳をみた瞬間、今まで只の一度も動かなかった心の鼓動が動いたのです。それは私にとって青天の霹靂に匹敵する出来事でした」
「…鮮やかな瞳?」
「ええ」
「綺麗だと思うけど、漆黒よ?」
「はい。それでもとても綺麗な漆黒だったのですよ」
あの森での魔術を展開した時の彼の眼差しと瞳の色は忘れられない。未だに記憶に鮮明だ。いつもの漆黒の瞳もとても好きだ。
「だから今のこの場所は譲れません。この想いが何に導かれ成就するのかさえもわかりません。それでも…最期までしがみつきたいのです」
そしてアリアナの青い瞳に視線を戻す。
「ですが、じゃあ諦めてくださいね、なんて私には言えないのですよ。アリアナ様が去りなさいと言って私が断ったように、私が言ったとしても、了承なんてできませんでしょう?」
「そうよ。できるわけがないわ」
「はい。それで良いのだと思います。アリアナ様も私も、旦那様も何をどう感じ思うかは自由なのですから」
アリアナは訝しげに返す。
「それでもし、テオルド様が私に心を傾けたら貴女は構わないってこと?」
「構いますよ、それはもう!でも、旦那様の気持ち自身は旦那様にしか決められませんし、それは旦那様だけのもの。それを歪めてまで縋る気概は私には難しいですね」
「―――――貴女本当に忌み嫌われていたの?」
「そうでしょうねぇ。少なくとも味方は誰も。耳を傾けてくれる人は誰一人居ませんでした」
「貴女…」
何を言ってもそれは所詮言葉だけで、何の証拠もない。それを探す術も方法もユフィーラには何も無い何もできない人間だったのだ。信じてくれなんていったところで、何も持たない者に誰がどう信じてくれるというのか。弱者だったユフィーラは機会が訪れるまで、身を潜めるしかなかった。
「そんな私を奇特な方が運良く拾ってくださいました。縁って不思議なものですね。アリアナ様とも、旦那様に出会えたことで、こうやってお会いすることができました。これも縁ですね」
「―――っ」
「貴族という柵の中で、それを受け入れながらも、尚自分というものを保ち、前に進むアリアナ様はとても輝いていて、その生き方が美しい」
「!」
「今日は貴重な時間を私に割いてくださりありがとうございました」
私は深くお辞儀をする。
暫く沈黙が続き、「帰るわ」と立ち上がったので、ユフィーラはベルを鳴らし、ジェスを待つ。
「あ、マカロンのことですが。実はまだ食べたことがないのです。料理長曰く、あの食感がどうしても苦手だそうで。でも女性の使用人は皆美味しいと賛否両論なので、今度買って食べてみたいと思います。ふふ、アリアナ様の料理長には敵いませんが」
そう言っているうちに扉がノックされ、ジェスが現れる。「アリアナ様がお帰りです」と伝える。アリアナがジェスに誘導され、扉の前まで来た時に立ち止まった。
「―――持ってくるわ」
「?」
「今度―――料理長にいって作らせてくるから」
「え…」
「また来るわ」
「!はい、お待ちしてますね!」
「…ふん」
アリアナはつんとすまして去っていった。
そろそろ日付が変わる頃になるが、ユフィーラは恒例の出窓に乗り上げて、外を見ていた。テオルドはまだ戻っていないようだ。所々に外灯がぼんやり見えるのを何となしに見ている。
(アリアナ様の想いはとても深い)
勿論今までユフィーラに会いにきた令嬢達も本気でテオルドに好意を寄せていた者は沢山いたのかもしれないが、アリアナは別格だった。自分の気持ちを抑え、それでもいつか寄り添える時がくれば、と。ユフィーラが今回の契約結婚を打診してなければ遠くないうちにテオルドはアリアナに惹かれ、お互いに寄り添い、本物の、幸せな婚姻ができたのかもしれない。
そう思うと、いつも胸が高鳴りぎゅっとなるものではない、苦しく鋭利で引き絞られるような痛みに思わず胸元を抑える。
(でも、だからといって、二人を思って引き下がることができないの。この心の動きが何なのか、育ててみたい)
もう残りが少ないからといって、自分のことだけの願いを遂行するのは、なんて我儘な傲慢なことだろうか。理解はしているが、退くことは無理だ。
(想うことが、醜い本性も晒す?これが腐った性根なのかしら)
自分を卑下してみるが、それでもじゃあ止めておこうという結論には辿り着かない。
(もし旦那様がアリアナ様に惹かれるのならば、その時は潔く去ろう。でも、…どうせなら私が居なくなった後が良いなぁ。私結構性格が悪いんだわきっと)
それでも身勝手なユフィーラは先を突き進むしかない。今更引き返すなんて嫌だ。
(うじうじするのは今夜だけ。明日からまた楽しく生きるから)
遠くをみるようで、どこも見ていない眼差しのまま、ユフィーラは眠くなるまで、その場に座り続けていた。
誤字報告ありがとうございます。