ユフィーラの回想。そして… 2
それから一月近くの間、ユフィーラは生まれて初めて人間であると実感する沢山の経験をした。
毎日清潔で良い匂いのする寝具や寝台。ユフィーラにとっては広過ぎる部屋。
朝から晩までユフィーラを厭わない皆からの一方的に受ける攻撃的ではない『言葉』のやり取り。
当たり前のような三食の『暖かい』食事と午前と午後のお茶の時間。
クローゼットに入っていた沢山の衣類。
ユフィーラ発信の言葉を心待ちにしてくれる皆。
優しい瞳をした馬達との触れ合い。
ユフィーラに会いにわざわざ訪れてくれる人々。
沢山対話をした。
沢山選択肢を選ぶことができた。
沢山美味しいものを食べた。
沢山の初めての経験を積んだ。
沢山頭を撫でられた。
少しだけ思ったことを言えるようになった。
少しだけ自分を主張できるようになった。
少しだけ触れ合うことに体が強張らなくなった。
毎日が新鮮で新しいことが盛り沢山。
心がいっぱいで時折苦しくなくこともあったが、嫌な感じではない。
それでもそれ以上にもっと色々話したい、知りたい、経験したい思いがユフィーラの内に溢れていった。
それに併せて、今のユフィーラを見てくれることで自分自身を、生きていても良いのだと認められているようで、少しずつ前のユフィーラのことを聞いてみたくて尋ねたりもしてみた。皆がその話をしても『今の』ユフィーラを最善に考えてくれているのが節々に分かる。
だからこそ。
己の心に初めての余白が出来て、考えることができるようになったからこそ、今度は今までに無い感情が生まれた状態に困惑もしていた。
ユフィーラは屋敷の中で、唯一苦手な場所があった。
ユフィーラの部屋の中にある窓の無い部屋。
そこは薬の精製をする場所で、入った瞬間ユフィーラは心臓がぐぐっと苦しくなった。
何故ならそこは『前のユフィーラ』の集大成のような領域であったからだ。
精製専用の机には薬の精製に使うであろう様々な道具。
その机の向かい側には大きなガラスの箱に飾られていたユフィーラが着たであろう、物語にしか見たことのないような大きなリボンの付いた真っ白なドレス。
ドレスと共に頭に被るのだろう半透明の純白の被り物に髪飾りや色褪せない花の束。
素敵な紙袋に巻き貝の置物。
勇ましいのに何故かケースの被り物と同じものが頭に乗っていて可愛げのある動物二匹。
それらを見た瞬間。
『前のユフィーラ』の存在が『今のユフィーラ』に重く伸し掛かる。
思わず目を逸らしてしまうほどに。
その日からユフィーラはその扉を開けることは無かった。
喜怒哀楽のうち、経験の無かった喜びと楽しみが毎日のように起こり、今まで何色でも無かったユフィーラの生活に日々彩りが加わった。
人から大切にされるということを身を以て知るには十分過ぎるほど大事にしてもらい、自ら何かをしてみたくなる、何かをしてあげたくなるほどの心の余裕が生まれていった。
それと同時に心の底から滲み出るもう一つの感情。
『今のユフィーラ』を大事にしてくれるテオルド始め皆は、当然『前のユフィーラ』も大事であることは事実で。
『ユフィーラ』が大切なのだと皆が言う。
ユフィーラは充実した日々を過ごす度に、今までにない感情が湧き出してくるようになった。何か苦いものを飲み込んだような、奥底から溢れ出る気持ち悪い感じが時折顕現し、その嫌なものが何なのかわからなかった。
それは書庫で数冊の物語を読んで、ようやくその感情がわかった。
『前のユフィーラ』に嫉妬している。
『前のユフィーラ』が羨ましい。
『前のユフィーラ』の行いが『今のユフィーラ』への対応に繋がっている。
それが妬ましくて悔しくて苦しい、とても嫌な感情だ。
自分が汚れていくような悍ましくなる気持ち悪い感情だ。
前のユフィーラに戻らなければ、ずっと今のままの『ユフィーラ』で皆と居られる。
前のユフィーラに戻らなくても、ずっと皆今の『ユフィーラ』と共に居てくれるのではないか。
心の底からそう思ってしまった時。
ユフィーラは自分がとても汚らわしい人間になったような気がした。
心が黒ずんで淀んでしまったような錯覚に陥った。
男爵家に居た時にもそういう思いが無かった訳ではない。
しかしそこには誰一人味方が居なかったユフィーラにとって、その感情を育てることは余計に惨めになるではないかと全てに目を瞑り、蓋をして綺麗に隠していたのだ。
それが今。
『幸せ』だという気持ちが芽生えた。
それに伴い沸き起こる汚い感情にユフィーラは戦慄した。
誰にも言えず、言ったら嫌われるに違いないと思っていた。
それでもユフィーラはこの生活空間を誰にも…『前のユフィーラ』にも渡したくないと思ってしまっていた。
そんな自分に嫌気や怖気が奔る。
でも譲りたく無い気持ちも消えない。
ユフィーラはどうしたら良いのかわからなくなってしまった。
そんな状態で数日悶々とした日々に光を射してくれたのは。
満たされたからこそ負の感情が芽生えてしまったのを助けてくれたのは。
やっぱり新しい感情を育ませてくれたテオルド始めユフィーラを慕ってくれていた皆であった。
ダンからは馬との関わりを一から携わる術を教えてくれた。
ランドルンからは本を通して様々な事を学ばせてくれた。
アビーからは女性としての服装の楽しみや化粧を教えてくれた。
ブラインからは植物を通して自然の素晴らしさを学ばせてくれた。
パミラからは屋敷全体の雑務を手伝い迅速にこなすユフィーラがどれほど大変で素晴らしい仕事であることなのかを教えてくれた。
ガダンからは食べることの暖かさ、お腹だけではない心身の満足感を身を以て分からせてくれた。
ジェスからは屋敷それぞれの役目の在り方と物を作る楽しさを学ばせてくれた。
ネミルからは同じ境遇だったからこその、心の拠り所を教えてくれた。
ハウザーからはユフィーラがどの状態であってもそのままを受け入れる懐の深さを身を以て伝えてくれた。
ギルからは与えられているだけのユフィーラを、自分で行動できるような際どい質問や思考する時間を学ばせてくれた。
イーゾからは人との関わりの中での応用編のような考えを幾つも教えてくれた。
リリアンからは診てくれる度に新しい話や巷の情報など教えてくれた。
そして。
テオルドは初日から一日も欠かさずに、朝昼晩と必ず顔を出してくれて、短時間でも会話をしたり共に屋敷を巡ったり、共に行動してくれたり、常にユフィーラに寄り添ってくれた。
誰もが『今のユフィーラ』に精一杯に心を寄せて接してくれたのだ。
その想いを日々実感する度に、始めは前のユフィーラの影響からの今のユフィーラへの扱いなのだと思ってしまうことから、徐々に自分事だけを第一に考えている自身に気づいた。
今までに無い醜い感情に悩まされたが、何時からか皆に対して何かを返していきたい、自分でも出来る行動によって、皆にもこの嬉しい気持ちと同じくらいになって欲しいと望み始めた時。
初めて前のユフィーラと心から正面を向きたいと思ったのだ。
前のユフィーラも。
今のユフィーラも。
思うことはきっと同じなのだと思った。
テオルドと使用人の皆。
ハウザー達やリリアン。
皆に幸せになってもらいたい。
憂いを失くしてもらいたい。
皆がそれで心から喜んでもらいたい。
そうしたら。
ユフィーラはもっともっと嬉しくなるだろう。
もっともっとそうなって欲しいと前向きになるだろう。
そう心から願うようになった。
前のユフィーラもいつもそう感じていたのかもしれない。
前のユフィーラも。
今のユフィーラも。
ユフィーラ自身だ。
一心同体なのだ。
一緒なのだ。
そう思えるようになると、今までにない凝りのように溜まっていたどろどろした憂いがさらりと流れるような、心が透くような考えに切り替わり、とても爽快な気分になった。
前のユフィーラを今のユフィーラが受け入れられた時。
何故か心の奥底が今までにない温かいふわりと優しい感情が湧き出るような感覚に包まれた。
きっと前のユフィーラはハウザーに出逢った頃から少しずつ心を育んで、テオルドや屋敷の皆と関わって更に心を豊かな感情でいっぱいにしていったのだろう。
今のユフィーラは始めから皆が揃っていて、その心遣いの塊が早くに心に響いたからこその今の思考に辿り着けたのかもしれない。
そんな自分を褒めてあげたいとユフィーラは初めて己を自己肯定してあげようという気持ちになった。
(…頑張った。…うん。私は今まで頑張った。そして今皆のおかげで私は最速で人としての心を育んで養えたのだわ)
寝台で眠れるようになったユフィーラは寝台に寝転がり天井を見ながら声に出した。
「テオルド様の、皆のおかげで今の私も心を養えて豊かになったの。今度は私が動く番だわ」
改めて言葉に出してみると、体中から前向きになれる力が漲るような感覚になっていく。
「そう。私もこれからは自分がされる側だけなのでなく、する側に努めていくべき。皆が嬉しくて幸せな気持ちになれば私もきっと…絶対に同じ気持ちに、それ以上になれる筈」
言い切ったユフィーラは心から溢れる満足感に一つ頷いて、目を閉じた。
(前の…いえ、ユフィーラ。貴女と私は一心同体。皆を幸せにしたい気持ちは同じ。ならば私が今度はうじうじせずに前を向いて進んでいくわ。そして今日から毎晩貴女が戻れるように願うから、貴女も思い出して戻れるように努めてね)
そう心の中で結論を出すと、とても清々しく感じ、妬ましくて勝手に閉じていた心の扉がゆっくりと開け放たれるような気持ちになった。
ユフィーラは僅かに口元を緩ませた。
それから数日後にテオルドと共に薬の精製場所に入った時も、心に淀みが出ることはもう無かった。
この日の夜。ユフィーラはなかなか寝付けなかった。
春風がそよぐ暖かい季節になり、春の植物が芽を出し始めた今日。
なんとテオルドを主導として使用人の皆とハウザー達、リリアンの総出でユフィーラが生誕したお祝いをしてくれたのだ。
この世に生を受けたそのものを、男爵始め男爵家の全員から疎ましがられて生きてきたユフィーラにとって自分の誕生日など覚えてもいなかったし、知りたくもなかった。知っていても何も良いことなどあるわけがないと思っていた。
それを根底から覆すような出来事に、テオルドから「生まれてくれてありがとう。俺と共に居てくれてありがとう」という言葉、そして皆から一斉に贈られた言葉に、ユフィーラは無意識に…今まで抑え続けていた心の蓋が、苦しかった辛かったことを全部押し込めていた蓋が歓喜を機にぱかっと開いたのがわかった。
瞬間に目から溢れ出る涙を止めることが出来なかった。
嗚咽で詰まり途切れさせながらも、この喜びを伝えたいという思いでなんとか言葉にしていく。
初めての祝い事の乾杯音頭やビュッフェ、大人数で賑やかに食事をする風景に何時も以上に美味しく感じ、贈り物を貰ったのも生まれて初めてだった。
この一月、ありとあらゆる初めてが沢山詰まった日々に、ユフィーラは心が満たされる。
満たされるということは心身と思考にも余裕ができるのだと知ったのも初めてだった。
前向きに思っていた心境を更に邁進していきたい気持ちに拍車がかかる。生きてきた中で初めて一人の人間として必要とされ、己の存在が認められることのなんて嬉しいことか。
沢山与えられたことで満たされたユフィーラは今度は自分が与える側になりたいという気持ちが芽生えたのだ。
誕生の祝いが終わった直後、急遽王宮から呼び出されたと不満顔のテオルドに部屋まで送ってもらったユフィーラは寝台の上に今日皆から贈られた贈り物を広げていた。
一つ一つ手に取り、その時の相手の言葉を噛み締めながら戻してまた他の贈り物を取って眺めるユフィーラの表情はとても穏やかだった。
(これ以上のものを…と言ったら烏滸がましいけど、少しずつでも返していきたい)
何度も手にとって眺めていた贈り物を、寝台横の机に並べる。それらを再度見渡して心がほわりと嬉しくなる気持ちに満足してユフィーラは奥行きのある出窓に登った。
膝を抱えて座り外を見ることがユフィーラの日課になっていた。厩舎や庭の植物が見えて門から誰かが戻る景色が見えるこの場所がユフィーラはとても好きだ。
(ここに居ると何故か落ち着くのよね。皆が仕事をしていたり出掛けたり帰ってきたりするのを見ると安心する感じ)
今は真っ暗で門の外灯しか見えないが、日中の景色を思い出しながらユフィーラは思いに耽る。
(明日はもう一回皆にお礼を言った方が良いのかしら。逆に気遣い過ぎだって言われてしまう?―――アビーさんだったらきっとお互い様なんだから良いのよって言われそう)
アビーの言葉の言い回しすら予想できてユフィーラは無意識に頬が緩む。
(パミラさんだったら…、そう思っているんだったらユフィーラのままで居てねって言うんだろうな)
パミラがやれやれ困った子ねという表情で頭を優しく撫でてくれるのだろう。
(ガダンさんなら、毎日頬を膨らませながら美味しそうに食べる姿で十ぶ…――――――)
そこまで考えてユフィーラは思考が止まり固まり、ゆっくりと瞬きをした。
「―――――ブラインさん、なら」
声に出してみる。
『別に大したことじゃないし』
そう言って顔を背けて見えた耳は赤くなっているのだろう。
「―――ランドルンさんなら」
貴女がしてきたことが返ってきているだけですよ、と眼鏡を中指で押し上げる仕草をするのだろう。
「――先、生…なら」
お前はぶれないなと背丈が伸びないようにぐりぐり撫でてくれるのだろう。
(…これは、私の記憶では、無いわ)
ユフィーラは再度ゆっくりと瞬きをして身動ぐ。
その時しゃりんと首元から音がしたので視線を向けると、そこには先程テオルドから贈られた首飾りが目に入った。ユフィーラはそれをそっと持ち上げる。
魔石という特殊な石に紺色と漆黒の色が綺麗に混ざっているのがとても美しい。
(楕円…ではなくて、雫型の可愛らしい形。――――――この形も好きだけど、もっと細長いものや丸みを帯びた雫の形も好き。……テオ、……ルド様がわざわざ、私の為に作ってくれた)
目の前に掲げた雫型の石を見ながら、ユフィーラは心の中から次々に溢れる気持ちに身を任せる。
「…み、み飾りと…ブレス、レット……まだ、どこかにあるわよね…?――――大切な想い出が沢山…この、首飾りと同じ…―――――」
ユフィーラは思わず胸を押さえる。喉が無意識に震える。
「どう、か…―――――今の、私の記憶を、と…共に―――。踏ん張った、今までのご褒美に…」
両手を胸に当て、仄かに灯る外の外灯を見ながらユフィーラは今までこんなに強く願ったことがないほど懇願する。
すると何か優しい膜のような、まるでユフィーラを守る為に覆っていたものがしゅわりしゅわりと消えていく。脳内がざっと爽やかな空気に入れ替えられたような感覚になる。
トリュスの森で絶望した時の心境が失くなった訳ではないけれど、それを知りながらも誰もが心を寄せてユフィーラと関わってくれた。
この一月の間。
ユフィーラは何も分からず心もカチカチのまま過ごさせてもらった。温かくて暖かい皆のおかげで誰もが望む『ユフィーラ』になった。
「…ああ。―――――私は、本当に幸せ者だわ」
全てが――――――全ての記憶が融合した状態で、全ての記憶を取り戻したユフィーラの視界はもう歪んで温かいもので溢れて殆ど見えない。
震えていた喉に嗚咽が混じり、それを止める術すらもなく、そのままに身を任せて感情を全部曝け出す。
大好きな出窓で膝を抱えながらひたすら涙を流していると、ふと外に人影がぼんやりと見え、それが凄い勢いで消えていった。
そして程なくしてユフィーラの部屋の扉が荒々しく叩かれ、バタンと扉が開く。
「ユフィーラ!」
艶のある低音。
ユフィーラを呼ぶ大好きな声。
ユフィーラの唯一。
ゆっくりと顔を窓から扉に向けて首を動かす。
そこには外出から戻ったままの姿のテオルドが少し焦ったような表情でいた。先程の人影はテオルドだったのだろう。
「…外からユフィーラが泣いているのが見えた。何かあったのか?」
耳朶に響くユフィーラの大好きな声に心が震える。
記憶を失くしていたユフィーラに気遣って呼び方まで変えてくれていた。
ユフィーラの大事な大切な唯一。
少し震える口唇でユフィーラはずっと言いたかった名を告げる。
「テオ様」
その言葉にテオルドの綺麗な漆黒の瞳がこれでもかと見開いた。
ユフィーラは体もテオルドに向け、両手を前に差し出した。
「テオ様」
もう一度名を呼ぶ。テオルドはまるでその言葉に吸い寄せられるかのようにふらりとユフィーラの元へ歩み寄ってきた。
その綺麗な様々な色が散りばめられたような漆黒の瞳に涙を浮かばせながら。
それが溢れて一雫ぽたり。
それを皮切りにテオルドの頬には次々に涙が流れ落ちる。
「……フィー?」
「はい。テオ様」
傍まできたテオルドの頬に触れる。
瞬間、体中から歓喜と今までテオルドに課させてしまった苦しみ、そして何よりもユフィーラを最優先で動いてくれていた彼に心が潰れそうになる。
拭っても拭ってもテオルドの涙は止まらない。
テオルドがゆっくりと手を伸ばしてユフィーラの頬に恐る恐ると言った感じに触れた。
「テオ様と…皆さんが何より私を第一に考えて行動してくれたこと…本当にありがとうございます」
「っ…記憶が」
「はい。共に在ります」
テオルドの表情がくしゃりと歪む。
ユフィーラはテオルドの目元を拭いながら頬を愛しそうに撫でた。
「忘却してしまった私に真摯に接してくれて、沢山の初めてや人との関わりも。人生捨てたものではないと実感させてくれたことも。…まだ幼い記憶の私が怯えないようにテオ様が常に一歩引いてくれたことも…全部…全て覚えています」
滂沱の涙を流し続けるテオルドの漆黒の瞳がさざめくように色合いが次々に変わっていく。
「本当に…本当に嬉しくて、…こんなに幸せな時間を貰った昔の私は、心の底から救われました。――――――それと…」
ユフィーラは心の奥底でずっと蟠っていた、どう言葉で伝えれば良いのか未だにしっかり形にはならないが、それでもありのままで伝えようと決める。
「襲撃された時…それしか方法が無いと動いてしまいました。それでもテオ様と皆にとても心配をかけてしまって、ごめんなさい。……そして、子…をっ…っ私とテオ様の、子を守れなくて、っ…ご、めんな、さ―――――…っ!!」
最後の方は声が震えて嗚咽が漏れ、もう涙も止めることがユフィーラも出来なくなった時、テオルドがユフィーラをぐいっと引き寄せた。
小柄なユフィーラが潰れてしまうのではないかと思うくらい、何が何でも逃がすものかと普段のテオルドならまずやらない程の強さで抱きしめられた。
「っ…フィー…フィー…―――俺の…唯一…っ」
まるで壊れた人形のように何度も何度もユフィーラの名前を呼び続けるテオルドにユフィーラの視界も嗚咽も押さえることができなくなった。
ユフィーラにとっても唯一のテオルドの抱擁の温かさと幸福感に心身が一斉に反応して押し寄せられ、全身が待ち望んでいたかのように鳥肌が立つ。
顔中に口付けが落ちてくる。
何時もならばぽぽっと赤くなり恥ずかしくなってしまうところだが、今はただただ、その温かさが幸せで堪らず享受する。
「…フィー。責めるなと言っても無理なのは分かっている」
テオルドがユフィーラの両頬を包み、視線を合わせる。
「あの時…フィーは俺達の子を弔いにトリュスの森へ行った。俺が迎えに行った時、眠っているユフィーラは手をお腹に当てていた。まるで抱き締めるかのように」
助からないと理解してしまったあの時の絶望と自分の慟哭が蘇って、涙が溢れるユフィーラの目元にテオルドが口付ける。
「きっと…間違いなく、子はトリュスの森の加護を受けて、あの木の窪みから天へ導かれた。トリュスの森に認められた俺とフィーの…愛しい自慢の子で、それはこの先ずっと変わらない」
そう。
あの後見た夢は。
木の窪みから、天使のように陽の光に照らされて旅立った可愛い幼子は、間違いなく我が子だったに違いないとユフィーラは確信が持てる。
藍色の髪に七色に輝く可愛い幼子を思い出すと嗚咽が止まらなくなり、息が苦しくなる。それをテオルドが口付けを深くしながら落ち着かせてユフィーラの息をゆっくりと整えてくれた。
ようやく少し落ち着きを取り戻したユフィーラにテオルドが気遣わしげな眼差しで話しかける。
「今から皆に伝える?」
ユフィーラはゆっくりと額を寄せながら首を振った。
「いえ。もう遅い時間ですし、明日の朝食の時に。…今は。…テオ様と…テオ様だけと居たいのです」
そう言いながらユフィーラはようやく止まったテオルドの涙を拭いながら顔中を触れ撫でていく。
「…テオ様。トリュスの森で子を弔った後、夢で…見た、話を聞いて欲しいです。…それと、私が、…あの襲撃の時…魔力が覚醒して…何をどう思ったのかも」
覚醒時の状態からテオルドはユフィーラ自身に記憶が残っていると思わなかったのか緩やかに目を見開いた。
「記憶が、…あるのか?」
「はい。全体が膜を張ったような感じではありましたが、感覚だけは異常に冴え渡っているくらいでした。余計なもの…と言うのは語弊がありますが、あの時の私は人の情…と言うものが削ぎ落とされていたと思います。彼にしたことの後悔は微塵も無いのです。―――――テオ様はこんな醜い部分もある私は…嫌ですか?」
ユフィーラ自身あの時の記憶は霞がかっている部分があるが、記憶にはしっかり残っている。そしてゲイルに対しての許し難い思いをテオルドに隠すことはしたくなかったのだ。
それでも、もしテオルドが疎んだらという気持ちが湧き上がり自然に目を落とすと顔を両手で包まれて上げられて、再度口付けをしてきてくれた。
「あの時のフィーの行動で俺達が皆助けられたんだ。フィーを厭うことなんてあるわけがない。―――俺達を助けてくれてありがとう」
テオルドが触れるくらいの口付けを繰り返しながら囁いてくれる言葉にユフィーラの沈んでいた心がふわっと浮上する。と同時にユフィーラの体もふわりと浮いた。テオルドが軽々と抱き上げ、二人の部屋の間にある寝室へ向かっていく。
「テオ様?」
「寝室でゆっくり聞かせて」
「でもテオ様は今帰ってきたばかりで…」
王宮に呼ばれて疲れているだろうし、湯に入りたいのではと思っているとテオルドがユフィーラを抱えていない手でさっと自分に浄化魔術をかけた。
「フィーが傍にいるだけで俺は満たされている。今望むものはフィーだけだ」
蟀谷に口付けを落としながらテオルドは軽快な足取りで寝室へ向かっていった。
不定期更新です。