ユフィーラの回想。そして… 1
ふわりふわりといつも体の軋みで意識が浮上し始めるのに今日に限っては無い。
覚醒しきらない意識の中で、何だか久々にゆっくりと眠ったような気がする。
ここ最近は日が変わるまで働かなくては仕事が終わらなかったので、幾ら若くてもなかなか疲れが取れず疲労が蓄積されていた。
(こんなにも睡眠が摂れたのは何時ぶりだろう。――――――まさか、寝坊しているなんてことはないと思いたい……でも、もしそうだったなら――――――)
「っ!」
ユフィーラはがばっと飛び起きた。その反動で何故か自分の体がふわりと上下に動く。
「…え」
起きたユフィーラが居た場所はいつも黴の臭いが充満している納屋の所々腐った床ではない。それよりも何故か仄かに良い香りすらしているのだ。
「…え?」
何となく何時もと違うと、寝惚けた頭が覚醒してくる。そして今自分が居る場所がいつもの納屋ではないことをようやく認識した。そして今度は一体ここはどこだろうと頭の中が疑問符でいっぱいになる。
見渡すと自分の部屋というか寝床であった納屋よりも格段に綺麗なちゃんとした『部屋』であり、広さも納屋の十倍以上ありそうな生活感のある部屋であった。
大きな窓と人ひとり登れそうな出窓。
真っ白なレースのカーテンから煌めく少し陽が落ちる前の陽射し。
そして自分がいつの間にか寝ていた大きな寝台。
寝台のサイドにはシンプルだが素材が良さそうな机と椅子、そして豪華ではないが品の良いドレッサーがあった。
壁にはクローゼットと思われる場所が数か所と、どこかに繋がる扉が三つ。
ローテーブルの周りに座り心地が良さそうなソファ。
(何…ここは、何処なの…?――――っ…まさか、男爵に売られた…?)
考えられる一番の要因を想像したユフィーラは、自分が今居る場所…寝台であるということを理解した途端、転げ落ちるように下りて本能的に廊下に出るであろう扉から死角になる寝台の隅に四つん這いで移動して身を潜めた。
(昨日は確かに疲労が酷くて、納屋に戻った瞬間に倒れるように寝てしまった。そこから誰かにここへ連れてこられた?…そんなことある訳がないわ。どんなに疲れていても男爵家の者達に触れられて起きない訳がないもの)
いびられない、心身の暴力を振るわれない日が皆無のユフィーラにとって、彼らが触れた瞬間に飛び起きる自信があるくらいだ。そう反応してしまうくらい日常茶飯事のことなのだから。
ユフィーラは膝を抱えるように両手を交差させて体を最小限に縮こませながら、ゆっくり深呼吸して今後の身の振り方を考える。
(もし、連れてこられたなら売られた可能性が高い。もしかして薬を盛られた?…無いわ。昨日は水しか飲んでな―――――っ!)
目を閉じ思考を張り巡らせていたその時、廊下に出るだろう扉の向こうから二つの足音が近づいてくるのがわかり、ユフィーラは体を強張らせた。
まだ現状を理解しきれていない状況で、どこか隠れられる場所を探そうと辺りを見回した直後、扉がノックされた。
扉から死角の位置で身を潜めていたユフィーラはどうにかみつかりませんようにと、息も最小限に潜めた。
そこからあったことを、ユフィーラはまるで何か膜のようなものが常に全体に張り巡らせているような現実ではない感覚であった。
訪れた二人。
大きな声でユフィーラを見つけたのは、男爵家から出たことがなかったユフィーラですら、これ以上いないのではないかという程の藍色のさらりとした髪と漆黒の瞳の絶世の美貌を持った男性。
何故かユフィーラを見つけた瞬間、「フィー」と呼ぶ。ユフィーラの名の中に確かにあるが、それが自分のことなのかわからない。
俊敏な動きで近づいてきたので、いつものように反射的に頭を抱えて蹲ると、その男性はこれでもかと目を見開いた。
するともう一人の、男性のような服装だが何故かとても似合っていて、女性にしては背の高い人物がユフィーラと目線を合わせて穏やかな声で話しかけてきた。
リリアンと名乗った女性は医者なのだと言う。いくつか質問をされ答える度に漆黒の瞳の男性の表情が強張っていくのを見て、ユフィーラは何故か心臓がぎゅっと苦しくなった。
リリアンから外してくれと言われた男性は地に足がついていないような足取りで出て行ったことに、また心臓がきゅっとなる。
そこからリリアンに聞かされた話は、まさに青天の霹靂とでも言うようなユフィーラにとって全く身に覚えのない、まるで化かされたような出来事の連続だった。
今のユフィーラは十五歳のはずなのに十九歳であること。数年前に男爵家から逃げ出し、とある男性医師と出会い保護者代わりのようになっていてくれたのだという。
数年間彼の近くで過ごし、生活全般や薬師のことを色々と学び、今居る国、トリュセンティア国の平民になり薬師の国家資格を得て薬師として生活していたらしい。
ある日、薬草を良く採取しに行く森で先程の男性と出会い様々なことを経て婚姻したとのことだった。
今居る場所はユフィーラの部屋で、扉一つ開けると夫婦共同の寝台があり、更に扉を開けると、婚姻した男性の部屋に繋がっているとのことだった。
更にここには二人の他に元魔術師の使用人は八名おり、皆で仲良く暮らしているのだという。
ユフィーラが恐らく今の状態になった原因は、数時間前にこの屋敷を身勝手な理由で攻撃してきた者がいて、皆が重症を負いユフィーラが魔力を解放して助けたのだという。
皆の惨憺たる姿、屋敷を襲撃されたこと、そして今までにない魔力を使用したことで、心身に衝撃を受けて記憶が混乱している状態である可能性があるのではという、リリアンの見解だった。
リリアンから説明を受けている間、ユフィーラは彼女が言う言葉、表情もだが、あながち嘘ではないのだと確信した。それは自分の両手が手荒れでがさがさでないこと、今自分が着ている服は恐らく夜着と呼ばれる就寝時専用の服なのだろう。
顔の左右から垂れてくる髪の毛は脂ぎった薄汚い茶色ではなく、ふわりとした薄茶色でしかも良い香りが漂ってくる。
リリアンがいうことは恐らく事実なのだろう。
まるで何かの本に出てくる物語を聞いているようで、とてもではないが自分事と思えなかった。ユフィーラの記憶では昨夜倒れ伏すように眠りについたことだけだ。
起きた瞬間からのあまりの差の出来事に心が追いつかないのは今までの自分の境遇を踏まえた上で当然ではないだろうか。
ゆっくり時間をかけていこうと言われ、ユフィーラは取り敢えず頷いた。
それしか方法がなかったからだ。
そして自分が今後やるべきことは一つしかないことも理解していた。
ここでの暮らしは当然今ここに居る意識のユフィーラには何一つわからないし記憶も全く無い。
それならば目の前に居るリリアン含め、皆が待ち望んでいる『記憶を失う前のユフィーラ』に早く戻れるように努めなくてはならない。
『今のユフィーラ』はお呼びではないのだから。
それをちゃんと伝わるように何とか言葉を作って言わなければならない。上手く行けば失望はあっても暴言や暴力などは多少緩和されるかもしれないからだ。
知らない、分からないを繰り返したところで、相手にとっては苛立ちを増すだけだろうし、今後何が何でも思い出すことを努力していくこと、それでも難しい場合は出て行くことまで伝えれば最悪な状況にはならないかもしれない。
リリアンから先程の夫だと言われた男性だけを呼ぶかと聞かれたので、どうせならば関わりのある人も来れることが可能ならば呼んで欲しいと伝えた。
人数が多ければ多いほどユフィーラの考えに妥協してもらえるかもしれないからだ。
リリアンが連絡魔術となるものをいとも簡単に展開する様をユフィーラは目を見張ったが、すぐに何人もの足音がして、ユフィーラはゆっくりと深呼吸をする。
開いた扉から入ってきた人数が思った以上に多いことに些か驚いた。何故か誰もが整った容貌をしていて、こんな中で逆に暮らし辛くはなかったのかと、ユフィーラは思わずにはいられなかった。
リリアンが一人ずつ紹介していくのに会釈を繰り返し、早鳴る鼓動を落ち着かせながら、怒鳴られたりがっかりさせたり嫌悪感を少しでも出されないような言葉を心の中で作っていく。
ユフィーラ自身、元々対話などしたことなど殆ど無かったが、謝罪の言葉だけは何をどう言えば、一番被害が少なくて返ってくる暴言暴力が軽くなるかを熟知していた。自身の話をする間は途切れ途切れになってしまったが、今後の話を謝罪と共に話す際にはスムーズに言えてしっかり頭も深く下げた。
これで何とか収めてくれますようにと祈りながら。
それなのに。
誰にも何も言われないので頭を下げ続けていると、声をかけられた。頭を上げると夫だと聞かされた漆黒の瞳の男性始め周りの人達は、皆怒りも喜びも嫌悪も失望も無かった。
それよりも何故か痛ましそうな苦しそうな表情をしているのだ。嘲ったり嗤ったり怒鳴ったり、手が出る人も一人も居ないことに、ユフィーラは心の中で首を傾げた。
男性がテオルドと名乗りユフィーラの夫だと言ってきた。当然ユフィーラとしては『前のユフィーラ』の旦那様なのだとちゃんと答えると、漆黒の瞳がゆらりと揺れた。
悲しそうに。
『前のユフィーラ』でないことがとても辛いのだろう。
テオルドのその表情を見ていると、何故だかユフィーラもとても悲しくなってくるのだ。だから何とか元気をだしてもらおうと早く戻れるようにと言葉を重ねようとした時、テオルドが本音を話したいと言い出した。その時のテオルドの漆黒の瞳なのに様々な色合いが混ざる様をユフィーラはとても美しいと感じた。
その内容は前のユフィーラと今のユフィーラ。即ちユフィーラという人間そのものが必要なのだということだった。
この場にいる『ユフィーラ』も望んでいると言うことだ。
ユフィーラは生まれてから今まで己の存在を常に否定され、時には居ないものとされ、生きてきた。
それなのに今のユフィーラを尊重してくれるテオルド、頷き合う周りの人達に信じられない思いと同時に僅かに信じたいという思いが沸き起こる。
でもそんな訳ないと今までの経験から沸き起こる思いが枯れていく。でももしかしたらと沸き起こる。
そんな気持ちが左右しているのを見透かされたのか、今のユフィーラとしての関わりを今後自らの目で見て欲しい、そして誰もが前のユフィーラの話はしないというのだ。
ユフィーラ自身が知りたくなったら都度聞いてくれとまで言われた。
こんな風に一人の人間として慮られることを経験したことなかったユフィーラは、今まで動かなかった…動かないように戒めていた心がことりと微かに動くのを感じた。そして同時にまた裏切られた時の不安も同時に滲み始める。
それでも、目の前にいる綺麗な漆黒の瞳のテオルドと、周りにいる人達の何の悪感情のない雰囲気に、ユフィーラは少しだけ前に踏み出してみたいと思った。
それでも何時でも逃げれるように、そんな甘いことはないのだと傷つけられる前に、心の蓋を閉じれるようにした上で頷いた。
テオルドから握手を求められて微かに指が彼の掌に触れた時、今までに感じたことのない全身がざわりと鳥肌が立った。
それは嫌悪ではなく、今までに味わったことのない心臓がぐっとなり、何か叫びたくなるような何とも経験のない感覚にユフィーラは内心焦った。だが触れた掌から指を離そうとする気持ちは微塵も起こらなかった。
その後リリアンと雑務担当である使用人のパミラから屋敷と全体の話を聞き、彼女達は部屋から出て行った。
少し経つとメイドのアビーと料理人のガダンが来て、食事だとトレーを持ってきてくれた。
底が深めの皿に湯気の立った淡い黄色と白が主体のお粥という食べ物と、カットされた果物数種類、そして飲み物だった。
温かい食べ物を食べたことがなかったユフィーラはガダンから少し息を吹きかけて冷ますということを教えてもらい、スプーンで掬ってふうふうと辿々しく息を吹きかけて恐る恐る口に入れたみた瞬間だった。
ふわりと口の中に入ってきたお粥という素材の甘みと濃厚な出汁と言われるこくのある旨味との調和、そして何より温かい食べ物が舌と脳に感動という感情を呼び起こし、無意識に目が潤む。
生まれて初めて心から『美味しい』という言葉を呟いた。一口サイズの瑞々しい果物と甘みのある透明の飲み物は果実水と言われるもので、りんごの味なのだと言われた。
初めて尽くしの食事を終え、今まで触れたこともないほどの柔らかい寝台に横になってみたが、何とも落ち着かずユフィーラは先程隠れていた寝台の側に降りて膝を抱えると落ち着きが戻ってきた。
そして色々思い馳せるように起きた後の出来事を思い出す。
自分の人生において予想だにしなかったことの連続に未だに心が追いつかず頭が良く回らない放心状態のようだが、誰も居ない部屋に一人いることでようやく少しずつ自分事として思考を巡らされるようになってきた。
(信じて良いのだろうか…テオ、ルド、様を。使用人や私を庇護してくれた人を)
一点を見つめながらユフィーラは考える。
(テオルド様の、あの綺麗な瞳。目で分かるくらい様々な感情が見えたような気がする。表情はあまり動かないのに)
始めはショックを受けたような表情だったが、その後の彼の表情は殆ど動いていなかった。しかし目が色々な色が混ざるのだ。悲しそうな時も、少し嬉しそうな時もそれぞれに色味が異なるようにユフィーラには見えたのだ。
そしてあの瞳の美しさと彼の真摯な言葉にユフィーラは信じてみたいと思ったことは事実だった。
ああやっぱりと裏切られることは怖いが、何時でも背ける準備をしながらも、少しだけ。
少しだけ前を向いてみたい。
テオルドのことだけでなく、周囲にいた人達からの悪感情が一切無いことも、ユフィーラにとって背を押される決め手にはなった。
それでも。
(そうは言っても前のユフィーラに戻って欲しいのは当然だわ。何時でもそっちを優先できるように、驕らないように常に気は張っておこう)
ある程度自分の思考が落ち着きを取り戻していくと、お腹の満腹感と色々な人に突如出会って話したことで、神経的な疲労感が襲う。
ユフィーラはうとうとしながら、自分が使っていたであろう寝台に上半身だけを乗せてふわりと何か花の香りがする掛布に顔を寄せると、すっと意識が薄れていった。
不定期更新です。




