傷跡と微睡み
「何なのあの女は!」
憤慨して廊下を踏み締めながら歩いているアビーに、まあまあと宥めながら共に部屋に向かう。
「ユフィーラさんはもっと怒って良いのよ!あいつにあんな言われ方する筋合いはない!」
自分のことのように怒ってくれるアビーにユフィーラへにゃっと嬉しくなって笑ってしまう。
「アビーさんが背後から怒ってくれたおかげで、私は感情的にならずに対処できました。アリアナ様は貴族ですからね。旦那様自身はともかく、私が何かしでかしたら困るのは旦那様かもしれませんでしたから。ありがとうございます」
そうお礼を言うと、アビーさんは何とか怒りを収めてくれたようだ。「人が良過ぎ…」と呟いているが、そんなではない。悪意にばかり囲まれていたから、感覚を疎く麻痺するように、冷静に落ち着いて動けるようになっただけ。
頭と顔に紅茶を被り服にも滴ってしまったので、シャワーを浴びることにする。すぐに入ってください!とアビーに風呂場に追いやられ、布を取りにいってもらった。ワンピースを脱いでいると、洗面所の扉の向こうからアビーの声とノックが響く。
「どうぞー」
下着姿だが、アビーは女性なので問題ないだろう。
「ユフィーラさん、紅茶がかかった部分は火傷していま…――――っ!」
布を持ってきてくれたアビーの言葉が不自然に途切れる。
振り返ると、目を見開いて愕然としているのだ。
「アビーさん?」
「……ユフィーラさん…その背中―――――」
ユフィーラは背中にもかかったのかなと鏡に向けて、ふとアビーが言いたいことを理解した。アビーは屋敷のメイドで、ユフィーラに侍るような侍女ではないので、ユフィーラの裸は勿論、下着姿も見たことがなかったのだ。
背中には過去男爵時代の幼い頃から躾と称した虐待を受けた傷が無数に広がっている。下着姿なので腕の傷もしっかり見えてしまっていた。
「まあ…ごめんなさい、こんな醜い跡を見せてしまって。気持ち悪かったでしょう?」
「それ、は、どこで…」
契約結婚だったから、勿論白い結婚で一年経てば居なくなるのだから、わざわざ教えて憐れまれるのは避けたかった。だが見られてしまったなら逆に隠そうと嘘を吐くことはしたくなかったので正直に話すことにする。
「前に男爵家で付けられたものなんです。この国に来て魔術を覚えて直前のは消えたんですが、昔のものは残念ながら。でも跡だけで痛みはないので問題ないですよ」
安心させるようにそう答えたが、アビーは首を横に振っている。
「…そうだとしても、これは…」
「アビーさんに不快な思いをさせてしまって―――」
「不快なのはユフィーラさんの背中でなくて、これを付けた奴等よ!」
アビーの大きな声にユフィーラは目をぱちぱちとする。
「でもアリアナ様は私が忌み嫌われてい―――」
「そんなわけないでしょう!まだ貴女とは数月しか共にしていないけど、そんな人柄でないことくらいわかるわよ!女の子なのに、こんな傷をつけられて…不遇を強いられたの!?何故!?」
悔し涙を滲ませながら叫ぶアビーにユフィーラは目を丸くする。そして眉をへにゃっと下げて苦笑しながら、ありのままを伝えることにした。
「幼い頃は何も知らなくて。男爵の娘であることはある程度大きくなってから誰かから聞きました。私国籍なかったんです。生まれた後、母が亡くなった直後に私は死産扱いされて、その後すぐに後妻さんとその娘を迎えたそうで。それからはずっと下女でしたね。味方は誰もいなくて、それからは躾ってことで、まあ色々と。でも、弄ぶ奴隷として売られそうになったので逃げてきたんです。この国に辿り着いて恩人の先生に出会えたことは本当に幸運でした」
アビーの美しい瞳からぽろぽろと涙が流れる。美人は泣いても美人だと思いながらユフィーラはアビーが持っている布でそっと目元を拭う。
「正直言うと、ここに来てから、本当に毎日が楽しくて、アビーさん達が優しくて、食事も美味しくて、幸せですっかり背中や腕のことなんか忘れていたんですよ」
ふふと思わず嬉しくて微笑むと、アビーの顔がくしゃりと歪んで、がばっとユフィーラに抱きついた。
「っ……こ、これ、から、は!ずっとここで、その、幸せを享受していくんですからね!」
もし男爵時代にこんな風に思ってくれる相手が居たならば、ユフィーラはもう少し年相応に生きられたのだろうか。心の叫びに、痛みに見て見ぬふりをして、心の鎧を重ねて分厚くして。誰がどんな言葉を吐いても、泣きもせず楽しいことなんてないのに口元を上げてみせなくても良かったのだろうか。
でも、その時代を経たからこそ、今ここに辿り着けたのだと思うと、自分の人生も満更でもないと思うのだ。ジェスのことを差し引いても、今は本当に毎日が充実している。
耳元で聴こえる嗚咽に、何だか胸が熱くなる。そっとアビーの背中に手を回す。
ずっとここで
それが叶わないことに胸がちくっと痛んだが、それはお得意の心の底に沈めて蓋をして、「楽しみですね」というに留まった。
シャワーを浴びてさっぱりした後、アビーからもうアリアナ様は帰られたと聞いた。お手紙を今度送ってお茶会誘ってみようと目論見ながら、食堂へ誘われたので行ってみると、諸々聞いて慰めてくれようとしたのか、ガダンがおやつに絶品シュークリームを作ってくれていた。
濃厚なカスタードクリームと軽いホイップクリームの二層の絶妙な組み合わせの対比とガダンの心遣いにユフィーラは握り拳をぐっと天に掲げる。
「何をしてる」
何故か今日はそのまま家に居るらしいテオルドが、食堂の主席に座っている。珍しいこともあるものだと思いながら、「神のシュークリームです!」と事実を述べ、三個目に手を伸ばす。
テオルドの方をみると、シュークリームが置かれた皿の隣にある珈琲を飲みながら書類を読んでいる。じっと見ていたユフィーラの視線に気づいたのかこちらに目を向けた。
「なんだ」
「食事ではないですが、初めて食堂でご一緒しましたね。嬉しいです!」
にこにこしながら三個目のシュークリームに齧り付く。
それを主に物申したい雰囲気の使用人数名と、なんとも言えない表情の主をみることなく、ユフィーラは至福の時間を満喫した。
**********
とある昼過ぎ。
ユフィーラは薬の精製に役立つ魔術と、病に関する書物を探しに書庫へ訪れた。
「ランドルンさんこんにちは。ちょっと調べたいことがありまして」
本を整理していたランドルンが顔を上げて少し下がった銀縁の眼鏡を中指で元の位置に戻しながらこちらを見た。
「いらっしゃい、ユフィーラさん。本日はどのような本をお探しですか?」
透き通るような長いシルバーブロンドを横に軽く結んでいるランドルンは、魔術師の代名詞のような儚げで麗しい容姿だ。でも内面には激しいものが澱んでいると語るのはガダン説である。
「薬を効率良く抽出する方法で、魔術をかけ合わせてできないものかと。魔術そのものは、まだ私には全然なので。あと、病に関する本を見て作れそうな薬を探したいです」
「勤勉ですね。生活魔術の類は一番奥の右から三番目の棚に。病に関する書物は奥から三番目の手前の一番目と二番目の棚です。」
「棚まで指定できるなんて凄いですねぇ。半日がかりで探さずに済んで有り難い限りです」
ふふ、と口に手を当てながら、軽くお辞儀しながら移動する。
書庫にはその場でゆっくり読めるように机と椅子が用意されている。ユフィーラは目当ての数冊の書物を手に取り、端の席に座った。
(病の本。何冊か読んだ中には天使と悪魔の天秤の病名は見つけられなかった。少しは何か些細なことでもわかればいいのだけど)
今日選んだ書物はあまり例のない病名のあるものだ。ユフィーラの症状はまだ初期段階のものだが、いつ中期に差し掛かるかがわからない。少しでも兆候があるのなら、それを元に生活リズムを変えていかなければならないからだ。
まだこれといって、実感が沸かないからこそ、段階が進んだ時には多少なりとも恐怖に怖気づくだろう。それを自分の薬で何とかやり過ごせたら良い。ぺらぺらと一定のリズムで捲っていく。
(――――っ、あった!)
書物の中盤を超えたあたりで、不治の病の部類に入り、その先頭に『天使と悪魔の天秤』の名称を見つけた。原因は不明、遥か昔の呪いが起源ではないかとも記してあるので、ハウザーの言っていたことと、このあたりは同様だ。
(中期の症状…体全体を刺すような痛み…血が一気に抜かれるような喪失感…心臓の鼓動が乱れる…等…)
今まで外からの痛みと心の痛みは経験しているが、内側からくる壮絶な痛みを想像できない。倦怠感が更に酷くなったものなのか、それに果たして耐えられるのか。薬は飲んでから半刻弱で効いてくる。その間どれだけ耐えられるのか。
これから到来するだろう症状を予想してぶるっと身震いする。
(それでも耐えるの。何としてでも。頑張って心身をもたせる薬も作るのよ)
他には特に気に留める文面がなく、その書物を閉じて魔術の書物を読み始めた。
暫く集中していたらしく、それが途切れて瞬きを繰り返す。ふと気づくと端に座っているユフィーラと対極の位置に誰かが座っていた。ゆっくりと顔を上げるとそこにいたのは書類と書物を並べて見比べているテオルドだった。ユフィーラが顔を上げたのに気づいた彼がこちらを見る。
「まあ…旦那様が来ていたとは気づきませんで」
窓からの光の加減からかテオルドの漆黒の瞳がそれと混ざり様々な色合いに変化してくような移ろいにユフィーラは魅入られ目を細める。
「随分集中していた」
そう言って視線を書類に戻す。
「書物を読み始めると周りの音が遮断されたかのようになってしまうんです。食事前だったら、間違いなく食べ損なってしまいそうです」
言いながら首を左右に倒しながら解す。
「匂いで気付くだろう」
「ふふ、それは間違いなさそうです」
ユフィーラはガダンの作る食事が大好きだ。週に何度かユフィーラの好物が出される情報が入ると、厨房にお邪魔して作っているところを見学させてもらうことがあるくらいだ。
「旦那様は調べ物ですか?」
「ああ。書類の内容事項と照らし合わせるものがある」
そう言って書物を捲りはじめたので、ユフィーラもまた、書物に集中し始めた。
それからどれくらい経ったのか。見たい箇所をあらかた読み終えたユフィーラは満足気に書物を閉じた。そういえばと視線を向けると、なんとテオルドが机に肘を付いて頬を手の甲で支えた状態でうたた寝していた。
(いつも瞳ばかり目に留めていたけれど…旦那様はとても端正なお顔されているのだわ)
勿論初めて出会った時も異常に整った容姿をしているのは分かっていたが、印象的な瞳の方に意識がいってしまっていた。
さらりと髪が頬に流れる。艶のある藍色の髪は茜色になった外の光に照らされて幻想的だ。いつもじっと見てしまう瞳は閉じられていて、睫毛は長い。口角が上がる所をみたことがない薄い唇はほんの僅かだけ開いていてとても無防備に見えた。
とくんとくんと湧き上がる温かく、そして少し息苦しい甘い鼓動で胸が満たされる。
(普段見られない旦那様の姿が見られて嬉しい。期限までにもう少し色々なお顔を見れたならもっと幸せでしょうね)
思わずユフィーラは微笑んでしまう。暫くそのまま見ていたのだが、どうせなら色々な角度から見てみたい欲がでてきて、音をたてないようにゆっくりと席を立つ。
そろりそろりと忍び足でテオルドの正面にゆっくりと眺めてまたにっこりと微笑んだ。正面からも満足して今度は席のすぐ近くで下から眺めてみたくて、移動してしゃがんで見ていたが、段々と足がぷるぷるしてきたので、床に腰を下ろしてしまう。いつもの冷たい表情が少し幼く見えるのを発見して目をきらきらさせながら瞬きも惜しまず見ていた。
「おや…」
後ろから囁くような声が聞こえたので、咄嗟に口に人差し指を当てて振り向くと、ランドルンが珍しそうな表情でテオルドを見ている。
「お疲れなのですねぇ」
「そうですね。書類仕事もそうですが、魔術研究なども携わっていますから、時間は幾らあっても足りないと思いますよ」
「あらまあ。それでは家に帰るのも億劫になってしまいますねぇ」
副団長は思っていた以上に多忙のようだ。
「私としては婚姻されたのですから、もう少し帰っていただきたいですね」
「ですが、それで睡眠不足になったり体調を崩してしまうなら、もういっそのことお休みの日だけこちらに戻るという方が体には良いのかもしれませんね」
「え?」
でもそれだと、5秒の至福の時間が減ってしまうな、なんてことを思いながらテオルドを見ていると、ぱちっと彼の目が開かれた。
(!まずい!)
ユフィーラは咄嗟にその場で目を瞑り、狸寝入りを決め込んだ。
しんとした静寂が漂う。前方のテオルド、後方のランドルンから一切声も聞こえないし物音もしない。
(え。今どうなってる…?もう旦那様は出ていか―――)
目を開けようかどうか悩んでいると不自然に首が動き頬が伸びた。
「何故そこにいる」
寝起きだからか少し掠れた低い声が落ちてくる。むにっと更に頬が摘まれて慌てて目を開けた。先程の無防備な表情など綺麗さっぱり消し去った恐ろしく冷淡な表情が目に飛び込んでくる。
「だ、だんなしゃま。ふぉれにはふきゃいわけぎゃ…」
「ほう。言ってみろ」
微かに眉を上げて言葉を返されるが、まだ頬は返してもらえないようだ。
果たして正直に言うべきか悩んだが、適当に答えて頬がもっと伸ばされると困るユフィーラは心のまま言うことに決死の覚悟を決める。
「ね…ぎゃおを、きょれでもきゃと、たんのう、してまひた」
「ぶっ」
目を完全にテオルドから逸らして、おろおろしながら白状すると後ろから噴き出す声が響いた。
「ランドルン…」
「ふっ…はは…!」
あの冷静沈着なランドルンの笑っている顔をユフィーラも見てみたいと思い顔を動かすが、むににっと頬を使って戻される。
「もう見るな」
「むりでしゅ…!みぇったにみれないんでしゅから!」
「あははは!」
最早後方からは爆笑だ。ユフィーラは何とかして笑っているランドルンを見たいのに、今度は頬だけでなくその手で顎まで添えられて全く動けない。
「ふっ…くくっ、テオルド、手を放してやれ。頬が痛くなるぞ」
いつもは様付けと敬語なのに、砕けた口調になっているランドルンがそう言うと、テオルドは溜息を吐いた後に頬を放してくれた。ユフィーラは両手で頬を隠してずりりと後ろに下がる。
「何故下がる。その手はなんだ」
「私の頬は美味しいご飯を詰め込む為に伸びるんです…!摘むためではありません…!」
「ぷっ」
また噴き出す声に、ぐりんと勢いよく首を回したのだが、ランドルンはいつもの美麗な表情に戻っていたので残念な気持ちになる。ランドルンは片眉を上げて微笑む。
「ユフィーラさん、立ち上がれますか?」
そう言って手を伸ばしてくれる。流石にずっと床に座っているのはよろしくないと、頬から手を放そうとすると、ガタンと後方から椅子が鳴り、ふわっと体が浮いた。
「ぅわっ」
両脇を持ちあげられて立たされたのだと気付き、振り返って少し憮然とした表情のテオルドが立っていた。
「なんだ」
「あの…今ので今日の分は終わりでしょうか?」
「は?」
微かにテオルドの胸元に背中が当たっていたので、ユフィーラはテオルドの寝顔を見た分も併せて、5秒ハグに相当するのかと思ってしまった。
「いつもの…ハグ、です」
ユフィーラはへにょんと眉を下げる。確かに寝顔は尊いものであったが、あのぎゅっとして心がきゅっとほわっとする匂いを堪能できないのはちょっと悲しかった。
テオルドもユフィーラが言っていることが理解できたらしく瞬きをひとつする。
「―――ここでやるのか?」
「…!」
「早くしろ」
そう言って両手を下ろすのを見てユフィーラはお預けにならずに済んでふるふると感動で震える。
「っはい!」
元気良く返事をしてぽすんと飛び込む。
手を腰の後ろで重ねて、きゅっと力を込めてゆっくり深呼吸する。
(ああ…何だろう。何でこんなに胸が高鳴るんだろう)
抱擁するごとに胸の鼓動と温かくて歓喜して安心もする匂いが加算されていくこの不思議な心地を5秒だけ享受して、ぱっと離れる。
「では、お仕事いってらっしゃいませ!」
「もう出掛けないが」
「お帰りなさいませ!」
「二番煎じだな」
今日は何だかお得な日になったと、ユフィーラは終始ご機嫌であった。