別離
お腹を擦りながら歩く。
まだもう少しだけ、あと少しだけ頑張ってと。
縋るように。
ユフィーラが向かっているのはトリュスの森の中心だった。
もうお腹は痛くはない。
痛くはないが…終わりが来るのがわかる。
一つの命が潰えるのが。
『…前回からどのくらいきていないのかな?』
『えーっと…三月近いかもしれないです。今回はちょっと長いですね。体調不良と関係しているのでしょうか』
元々不規則だった月のもの。
前に女性陣で妊娠について話したことがあったが、人によって妊娠状態は様々であると聞いていた。
ユフィーラのここ最近の体調不良。
味の好みの変化。
食欲の低下。
少しの気怠さ。
そしていつもより遅かった月のもの。
妊娠していたのだ。
テオルドとの子を。
最愛の人との新しい命を。
そして気付いた時には。
手遅れだ。
もしも。
事前に妊娠がわかっていたら、ユフィーラは自分を守っていただろうか。
ユフィーラのお腹の中にいる子供を最優先にしていただろうか。
あの場での警告する本能に気付かぬふりをして。
そして皆が知っていたら、きっと誰もが自分を犠牲にしてでもユフィーラを守ってくれただろう。
もしも。
ゲイルが現れた時に屋敷に身を潜めていれば。
ゲイルにお腹を攻撃され魔力を吸い取られた直ぐ後に対処していれば。
助かったかも知れない。
でも。
(……できない……きっと私は同じ選択をしていた。…テオ様との育んだ結晶なのに……身勝手で駄目な人間、……母親だわ)
たらればと並べて自分を正当化したところで何だというのだ。
ユフィーラはあの時
『未来』でなく
『今』を選んだのだ。
(妊娠に気づくのが遅れたとはいえ、その代償が……私とテオ様の子の命…あなたを知る前に……終わってしまう。…テオ様にどんな顔をして伝えればいいの…?)
擦る下腹部は先程よりも光を失って、不規則に微かに灯っている。
それでも、ぽわり、ぽわりと。
違うよ、違うよ、と言っているようで。
(…何で…そんなわけない。自分が居なくなってしまうのにそんな風に…きっと私の願望なのだわ。逃避したいだけの…私の自分勝手な願望)
よろりとふらつきながらも歩き続け、程なくして中心部に到達したユフィーラはあの木の窪みに一直線に向かう。
木の窪みの周辺には何故か沢山の七色の蝶達が集まって飛び交っている。
それをユフィーラは不思議にも思わずそこへ向かう。
さくさくと草を踏みしめる音と、風のそよぐ静かな音だけが耳に届く。
中心部の大樹の窪みにだけ微かに陽の光が当たっている。
ユフィーラが窪みに近づくと、まるで待っていたかのように蝶達がその場から離れ、その周りでふわりふわりと飛び続けている。
窪みの場所にすっぽりと収まり、ユフィーラは一息吐いて下腹部に―――我が子に話しかけた。
「…あなたが、守ってくれた?負の感情に飲み込まれそうになった私の心を……二度も、救ってくれた…?」
その言葉にもう消えかかっている灯火が本当に微かにふわっと強くなる。
「…あなたはとても優しい子…、ありがとう。助けてくれて。…それなのに、私は、…あなたよりも皆を……ううん、自分の欲望を優先させたの。…母親失格ね、ごめんなさい」
その言葉にお腹の灯火は先程よりも強く、―――――最期の力を振り絞るかのように輝いた。
そんなことないよ!と。
ユフィーラは息を呑む。これも身勝手な願望か。
それでも。
「――――――あなたは、……とても親思いの良い子…なの、ね」
そう返した言葉に、今度はぽわわっと―――ユフィーラの願望なのか嬉しそうに温かそうに灯る。
そして徐々にその光が失われていく。
お別れだ。
すると、周りで飛んでいた七色の蝶達がユフィーラに近づき、お腹周りに次々に止まっていく。
それはまるで一緒に弔ってくれるかのように。
「…一緒に看取ってくれるの?」
ユフィーラの言葉に七色の蝶達の羽がきらきらと輝いていく。
「…ありがとう。私は最低な母親だったわ。…気付いたのも、ほんの、少し、前なの。―――最愛がもう一人生ま、れ…て、共に生きていく、筈、だったのに…」
視界がぼやける。
七色の蝶達が重なって見え、それがまるで七色の柔らかい布が我が子を守ってくれいるかのような錯覚に見えて美しいとさえ感じる。
それでもユフィーラの表情は全く動かない。
涙は一向に止まらないのに、喉は震えず嗚咽も出ない。
崩壊しているのはユフィーラの涙腺だけ。
それと心もだろうか。
「私の…最愛の我が子、はね……暴走する私を、止める、為に…自分の命を…力に変えて……正気に戻るように守ってくれたのよ…こ、こんな母親なのに、なんて優しい子、なのかしら…」
ゲイルから受けたお腹への暴力と、魔力を吸収されたことも要因の一つではあるのかもしれないが、それでも己の願望を優先して赤ちゃんを守りきれず死なせてしまう自分への悔恨と、最愛の人との子供を亡くす絶望にユフィーラは心が押し潰される―――――テオルドになんて言えば言いのだろう。
「…お願い。未熟な私の為でなく、…可愛い、愛しい我が子の為に、…この子がもう苦しまずに、天に還れるように……お願い―――――お、願い…」
頬に流れる熱いものは止まらない。
もう目がぼやけて七色しか見えない。
それでもユフィーラはお腹を優しく擦りながら懇願する。
そして薄れゆく意識の中で七色が神々しく光り輝いたように感じた瞬間、ユフィーラの瞼は閉じられた。
鬱蒼とした森の中、大きな大きな木の窪みの部分だけに陽が射している。
それは人によって居心地の良し悪しが分かれる異質な森。
そこの森の中心部から少し離れたところにユフィーラは一人佇んでいた。
何故かそこから動くことができない。
でも木の窪みの部分に行きたい自分が居る。
でもどうしても動くことができない。
その時だ。
木の窪みの部分に一人の幼子がよじ登る。
肩までの藍色の髪は、窪みに当たる陽の光でまるで七色のように輝いている。
そしてぱっちりとした紺色の瞳のとてもとても可愛い子。
その子がユフィーラを見て満面の笑みで手を振っている。
返したいのに体が動かない。
その子どもが上を見て両手を広げた。
すると周囲から数え切れないほどの七色の蝶達が集まり始めた。
七色の蝶達は木の窪みから森の一番上まで陽の当たる場所にふわりふわりと飛び交いながら移動していく。
次に子どもの背中に顕現したのは七色の羽。
まるで天使のようだ。
その美しい羽がふさりと動いて羽ばたく。
駄目。
嫌だ。
嫌だ。
行かないで!
その子を連れて行かないで!
何故か二度と会えないような気がしてユフィーラは叫ぶ。
それでも七色の羽の生えた子どもは段々と陽の光の上へ昇っていく。
駄目!お願い!連れて行かないで!
ユフィーラはまるで壊れた人形のように、その言葉を繰り返す。
もし次に子が授かったとしても、きっとその子ではない。
もうその子には二度と会えない。
嫌だ!お願い!!!
願いも虚しく、その子は七色の蝶達と共に昇っていく。
その様子を動かない体で、ユフィーラは見届けるしかなかった。
泣き叫ぶしかなかった。
慟哭するしかなかった。
嫌だ
お願い
行かないで
と。
心が壊れる。
心がおかしくなる。
心が引き裂かれる。
七色の輝きが増して眩くなった瞬間。
『大丈夫だよ』
そんな声が耳に届いた気がした。
背後でユフィーラを呼ぶ声が。
振り返ると両手を広げてくれている――――――
『誰か』が居た。
不定期更新です。