長い不遇からの不治の病
ぽふん。
背中に手を回し、息を全部吐く。
5秒かけてゆっくりと肺に空気と大好きな匂いを取り込む
1.2.3.4.5………
今だけは。
この5秒だけは彼はユフィーラのもの。
毎日たった5秒だけど、何より尊いこの時間がユフィーラは幸せでいっぱいになる。
時間の限りめいいっぱい彼だけから香る匂いを吸い込んで堪能する。
ユフィーラの一世一代の思い切った行動で得たこの時間。
どうか。この幸福をずっと覚えていられますように。
一年間だけだから
何も望まなかった、望めなかった、私の人生。最初で最後の我儘を。
どうか
**********
「あらまあ」
そう言いながら頬に片手を添えて首を傾ける。
ハーフアップにしてあるミルクティー色のふんわりとした髪がさらりと流れ、紺色の瞳がぱちぱちと瞬く。
「あらまあってお前な…」
そう言い返しながら呆れた表情で返すのは、医師のハウザーだ。
医師と言うには似つかわしくない、と言ったら失礼なのだが、長身でしっかり筋肉のついた体躯は、そこら辺の騎士より逞しい。
胸元まで伸びた、緩くうねるくすんだブロンドを無造作に後ろに紐で結び、寝癖なのか何箇所かはねている。少し長い前髪をがしがしと掻き上げてから、髭を撫で回している。考え事をする時の彼の癖だ。深緑の瞳がユフィーラを見据える。
「どういうことかわかっているのか?」
「そうですねぇ。ちょっと困ったことになったなぁと」
「その口調のどこに困った要素がある」
にべもなく返されるが、気質なのだから仕方がない。
「驚愕してもしなくても、泣き叫んでも叫ばなくても、どうしようもないことなら、素直に受け止めた方が心に優しいかなと」
そんな返答にハウザーは「お前な…」と苦虫を噛み潰すように顔を歪めた。
「聞いた症状、血液と魔力の検査から、ほぼ間違いはないだろう。『天使と悪魔の天秤』だ」
「そうですか」
天使と悪魔の天秤。
何かの観劇の題名のようだが、これはれっきとした病名で不治の病と一つと言われている。
ユフィーラもどこかでその病名を聞いたことはあったが、まさか自分がそれに罹るとは思ってもみなかった。というか、誰しもがそう思うことだろう。
特段変わらない通常通りであるユフィーラは、ままならないものだなとぼんやりと思う。
自分の人生がようやくこれから幸せに向かって、とまではいかなくても、平穏になってきたなと思った矢先のこの事態である。
「この病の内容は知っているか?」
「私が知っているのは、不治の病ということと、死ぬ数日前には完治したかのように安らかな状態になるということだけですね」
眉間に皺を増やしたハイザーが苦々しく説明していく。
「天使と悪魔の天秤は、その昔、とある人外者が居た頃、人間を呪ったことから感染して広まったと言われている曰くつきの病と言われている。初期症状の多くは長期に亘って続く倦怠感と微熱、目眩だな。それが中期になると体全体が蝕まれるような痛みを伴う。まるで発作のような激痛だと」
「感染…からきているのでしたら、今私がここに居るのはとても不味いのでは…」
ユフィーラはさっと青褪める。
ここ最近ずっと体調不良が続き、一月経っても治らないのはちょっと変だなと、ここに薬を卸しに来た時にぼやいたのを、ハウザーが目敏く拾って病が発覚したのだった。
もし感染する病なのであれば直ぐ様ここから出なければ、不味いのではないか。
「いや、始まりこそ感染というか、呪いの霧散のようなものだったらしい。俺も詳しくはわからないが、人から人へ移るものではないことは証明されている。だが、罹患する条件、または場所などもわからないことだらけなんだ」
ハウザーからの説明で、とりあえずは感染しないことに安堵した。
ユフィーラがこのトリュセンティア国に無一文状態で訪れた時、たまたま王都の端から入れる広大なトリュスの森で、薬草探しをしていたハウザーに出会った。
ユフィーラの近況を知った、というか半ば吐露させられた後、診療所の上にある空き部屋の一つを破格の家賃で貸してもらえ、しかも独学で学んだ薬師の技術を知ってからは、出世払いということで、トリュセンティア国の薬師の国家試験まで受けさせてくれたのだ。無事合格してからは、診療所に治療薬をいくつか卸させてもらえるようになり、生計を立てられるまでになった。
「そうなんですね、感染しないと分かってほっとしました。これ以上ご迷惑はかけられませんから」
胸に手を当てて一息ついたユフィーラだが、ハウザーの表情は苦いままだ。
「迷惑なんざかけられたことないな。話の続きだが、お前が知るように安楽の状態になって、日々眠くなる時間が増えていく。最期は数日間眠ったまま、息を引き取るのだとか。その期間は一年から一年半。お前の症状は聞く限り初期だろう。未だに研究は継続されているが、良い兆しは見えていない」
説明するハウザーにユフィーラは頷きで返す。
「治療薬の研究の方は、罹患した者の中には被験者として協力する者もいたが、今のところ誰一人戻ってこなかった。」
「研究の方、ということは他にもあるのでしょうか」
「魔術だな。元々が人外者の魔力から放出した呪いと言われているから、魔術では完治に近い状況で回復すると聞いている。ただ―――――」
ハウザーは診査室の座り心地の良い椅子の背もたれに体重を掛けながら天井を仰ぐ。
「治療…この場合解呪というのか。それができる魔術師がこの国には二人しか居なくてな。それに魔術師にも多大な犠牲が出る。寿命を削られる。数年分、と言われている」
「まあ…」
それはまるで、自分の命を削って相手を助けるということ。大事な人や愛する家族ならばともかく、患者一人一人に治療していたら、あっという間に魔術師本人の命の灯火が尽きてしまうだろう。
「その話が出るということは、治療…でなく解呪をされた方は過去にいらっしゃったのですよね?」
「ああ。過去に二人だな。名前は言えんが高位の者だな」
なるほど。高位、もし王族ならば国の一大事となる可能性がある。
「魔力が多い者、特に魔術師は老化を始め寿命が永いのだが、魔術師団に入っていれば、この国に必要な人物だからな。数年削られる解呪を何度も繰り返すわけにはいかん。だからこそ薬で治すことができればと研究を続けているわけだ」
まさに命懸けで治すということなのだ。それではいくらなんでも割に合わないだろう。
「まあ昨今ではお前以外にここ数年で二人だ。研究自体は続いているが、進歩はなかなか見えない」
ユフィーラは元々トリュセンティア国の民ではない。事情があってこの国に辿り着き、運良くハウザーに出会えたおかげで、ハウザーの伝で国民の登録もでき平民として暮らしている。
高位ではないから受けられない以前に、相手の命を削り自分が助かるというのはどうしても良心が邪魔をして無理だ。かといって被験者になるつもりもなかった。
「私は先生に拾ってもらって二年と少し、でしょうか。おかげさまで今では人として普通の暮らしができて日々満足しています。―――ですが、被験者には…なりたくありません」
利用され、好き勝手されるのは、もうごめんだ。
搾取され続けるのは、もうこりごりなのだ。
「現状では残念ながら成功例がないし、俺も勧めることは憚られる。お前の傷を抉るような行為はするつもりはない」
ハウザーが肩を竦めながら話す。
ハウザーには、診療所の上に住まわせてもらうのと、国籍を取得する時点でユフィーラの事情はほとんど話してある。それを知っているからこそ、僅かに治る可能性があるかもしれない被験者とはいえ、あれこれ利用されるのを推薦する気にはならないのだろう。
「先生、中期の症状で激痛が襲う状態に、少しでも緩和する術はないのですか?」
「ああ、一応ある。鎮痛効果の最上級の薬草、デスパを使った物だな。とはいっても所詮その場凌ぎだ。効いて数時間だろうし、使い続ければ当然効きが悪くなってくる」
「デスパですか…先生と会った森より更に奥、中心部付近で時たま採集できますね。でもあそこは魔素が濃くなっていますし、どんな生き物がいるかわからないので、入るには認識阻害魔術を使用しないと危ないですね」
ユフィーラが彷徨い、ハウザーと出会ったトリュスの森は、王都から少し離れたところにある広大な森で、浅い場所は問題ないが、中心部に近くなると木々が覆い茂り、森に光が入らなくなり視界が悪くなる。その領域には希少な薬草もあるが、一年前に起こったユフィーラの母国、イグラス国との争いでイグラス国側が突破しようと、森の中心部まで焼き払い、無惨な残骸に成り果てた。
だが、それから半年も経たないうちに中心部を中心に何故か凄い勢いで木々や植物が成長したのだが、物々しい空気を纏い、魔素も濃くなり、体に害を及ぼす可能性が出てきた為、一般人には危険区域となっている。
それらは森の意思なのか、元々その場所に魔素が潜在していたのか定かではない。
「お前は痛み止めで中期をやり過ごすつもりか?なったことのない俺が言うのもなんだが、言葉に表せないくらい苦しいと聞いている。」
眉を寄せたハウザーに、ユフィーラはへらっと微笑む。
「想像はできませんが、多分耐えられると思いますよ。その辺の耐性は強いはずですから」
その返答になんともいえない表情で彼は続けた。
「今後…どうしていくつもりだ?」
「そうですねぇ…残り時間がある程度決まっているのなら、今の生活を続けつつ、叶えてみたいことを探して、精一杯人生楽しみますかね!」
病に怯えるのではなく、ならば残りを楽しむべきと言ってのけるユフィーラにハウザーはいかつい顔の眉を下げてしまう。
「―――お前はぶれないな」
「ここにくる前の私はぶれぶれでしたからね。限られた時間とはいえ、自由に好きに過ごせるなら、それはなんて幸せなことでしょう」
そうニコニコ答えるユフィーラに、ハウザーは苦笑した。
「わかった。お前の好きにやれ。うちに卸している薬についてはどうする?」
「それは勿論、今後も是非卸させていただけると!それに今後デスパの薬草が必要不可欠になってくるのですが、沢山採れれば色々な鎮痛薬に多様できて、診療所にも卸せますね」
余命宣告されたとはいえ、その間に蓄えが無くなって、ひもじい思いをしたくはないし、ハウザーへの恩返しもこれからだ。今の生活を保ちつつ、やってみたいことを試していきたいのだ。
「わかった。お前の薬は効能も質も良いからな。これからも期待している」
「先生の口からそんなお言葉が聞ける日がくるなんて…!寿命が縮まってしまいそうです…!」
「…これ以上縮まってたまるか」
そんなやり取りをしながら、今後の話を少し詰めていった。
「ああ、でもまだ猶予があって良かったです。先生にお借りしている出世払いも、もう少しで完済できますから!」
「そんなもんいらん。好きなことに使え。」
「ありがとうございます。好きに使わせてもらえるなら尚更しっかり返済してから、存分に小金貯めて何をしようか幸せな悩みに浸れますからね」
「―――本当にぶれないな」
「ぶれなくなった自分は前より好きですね!」
ハウザーはやれやれと肩を竦めた。まだ二年程の付き合いだが、ユフィーラの人となりを理解してくれているのだと思うとほんわかと心が温かくなる。
(私の気持ちを慮る人なんて居なかったから)
そう思うと今はなんて幸せなのだろう。
「森の奥へ入り過ぎて怪我するんじゃないぞ」
「はい。最近ではだいぶ認識阻害も上達しましたが、傲らずに注意します。それにそこまで中央部には入っていませんから。」
「そういや…昔の傷はお前が作った薬で少しは消えたか?」
「あー…飛び出した直前の傷は消えましたけど、昔の古傷は残念ながら。でも痛みはないから問題ないですよ」
「――違う意味で問題にしろ」
ユフィーラの体には背中を中心に腕にも数多の傷が沢山あった。それは痣だったり火傷だったり鞭だったり。腕の傷跡を目敏く見つけたハウザーに詰め寄られ、事情を話した時に見せられる範囲で半ば強制的に診られたのだ。
「あ、先生。勿論医師としての守秘義務はありますし、信用はしていますが、一応誓約魔術もお願いしますね。」
そんなユフィーラの言葉に苦笑しながらも対応してくれるハウザーは本当に誠実だ。
ハウザーは表面だけの薄っぺらい優しさではなく、厳しい言葉の中にも温かさが垣間見える人物だ。ユフィーラの良くも悪くも過酷な環境で培ってきた経験が、人を見る目に長けている術を齎していた。
ハウザーとは病に関する口外、伝達禁止の誓約魔術を結び、数日は森でデスパの薬草を採取する主旨を伝えてから診療所を出て、その建物の上にある自室に帰る。
冷蔵庫から冷えた紅茶を取り出しコップに注いで、一気に飲み干す。その際に少し口から溢れてしまったのは手が震えていたからだ。
余命宣告されるほどの不治の病、天使と悪魔の天秤。
実感が湧かないこともあったが、ハウザーの前で無様な姿を見せたくはなかったし、無意識に気張っていたようだ。
怖くないわけではない。まだ物事を把握するだけの実感がないだけで。
だからといって塞ぎ込んで好転するわけでもないから、悲観に暮れるよりは、前に進んだ方が良い。
勿論限られた命になったということに思うことがないわけではないが、うじうじ悩んでる間にも着々と時間は過ぎていっているのだ。
良い方向に考えるならば、残り時間が有限だからこそ、行動するのに精力的に動くことができると思った方が生産的で、満足いくものになるだろう。
誤字報告ありがとうございます。