第六話 見知らぬ世界
キラキラと美しく白く輝く壮大な城。
その後ろの広大な敷地にある居住区。四方を数キロに渡ってずっと延々と続く白い壁。端から端まで歩くのに、一日では到底足りなかった。
まるで一つの街のように、百棟以上もの屋敷と無数の蔵がずらり立ち並ぶ。巨大な池がいくつもあり、三メートルほどの巨大化した鯉が池の主として君臨しているという噂まであった。
磨かれたように光をキラリと反射する小石の敷かれた地面には、雑草一つ生えていない。何気なく置かれた石灯籠にも、今しがた洗ったようなヒタヒタとした水の跡。
平屋建ての壮大な屋敷も手入れが行き届き、建設から何年も建っているというのにまばゆいくらいに美しく、くもの巣ひとつ見当たらない。
その内の一棟の敷居を跨ぎ、十メートルはあろうかという広い石畳の玄関に足を踏み入れる。すぐに目に飛び込んでくるデンとした虎の描かれた金の屏風、巨大な花瓶に生けられた豪華な花々。国宝級の壷が毅然とした態度で客人を迎える。玄関を包むひのきの匂いがフワリと鼻腔をくすぐった。
広く長い廊下の左側に見える日本庭園。美しい曲線美がザワザワと波打つ海の水面を表現し、岩の周りを取り囲む。右に騒然と立ち並ぶふすまは一枚一枚丁寧に仕上げられ、今にも甘い桃の香りが漂ってきそうであった。
角を曲がったふすまを開れば、百畳ほどの部屋。職人技ともいえる繊細な欄間とギラギラと金色に輝く天井が部屋を彩る。イグサの香りがたちこめていた。
パッと開けっ放しの障子から、遠くのほうに見える建物は露天風呂。数多くある風呂のうちの一つがそこにあった。
さんさんと降り注ぐ暖かな太陽の光。二つ折りの座布団が一枚、その明かりに包まれる。見ればその横にあるせんべいの入った木の皿と、ボロボロと散らばるせんべいのくず。お茶の湯気がたおやかに揺れる。
だが今ここに、部屋の主の姿はなかった。
「へーここが城下街ってトコかー」
侠輔が興味深そうにぐるりと辺りを見回す。
平城京を彷彿とさせるような碁盤目状に広がる街並み。中央に走る大きな道の両脇には、ずっと先まで大店が軒を連ねていた。
「いかがですかぁあッ」と店の前で呼び込みを行う、はつらつとした子供の声。あまりに一生懸命なため、額に汗がキラキラ光る。
左を見れば店の前でござの上にズラリ広げられた陶器を、興味深そうにしげしげと眺める品の良さそうな商人。右を見ればお茶の試飲を配る店子にぞろぞろ群がっている、喉の渇いたらしい中年の女性たち。若い男同士のくだらない小競り合いをとがめる役人が、その眉間に深いシワを刻み込む。
「あ」という声の方を見やれば、どうやら鼻緒の切れたらしい若い街娘が、すっと隣を歩く男に支えられていた。
クルリクルリと鮮やかに回る赤い風車が欲しいと駄々をこねる子供の手を、手に風呂敷をもった女性がグイグイと無理やり引っ張る。その後ろで体の丸くなった老人が、団子屋の椅子に疲れたようにドカリと腰を下ろし、注文を聞きにきた店子に少々慌てた様子でヒラヒラと手を振っていた。
「にしてもまさか、城下への自由な出入りが許可されるとはな。今までどんだけ頼んでもダメの一点張りだったってのに」
意外や意外、と頭の後ろでクッと手を組みながら歩く侠輔。
ザッザッザッとせわしなく脇を通り過ぎてゆく、野菜のたくさん積まれた大八車を物珍しそうに見送る。
「本当ですね。今朝将軍補佐の今井さんから上様よりの言伝を聞いたとき、思わず耳を疑っちゃいました」
「身分がバレないようにだけ気を付けりゃ、後は好きにできるもんな! いやーもうワクワクするぜ!」
侠輔は安っぽい着物の袖を、楽しそうにヒラヒラと揺らす。
「なぜオレまで……」
書室で読みたい本があったのに、と言いながらもしっかり付いてくる憐。
憐はよく書室にこもって勉強をしていた。三百ある内のお気に入りの書室は百七号館。そこは日本の文化と歴史の所蔵館でもある。
だが、かといって決して出不精なわけではない。その証拠に、城下へ下る許可が出たと知ったとき、ほんのり嬉しそうな顔をしていた。それに誰にも気づかれていないと思っているのは本人ばかり。
「それではこれから何します?」
「から揚げ食おうぜ、から揚げ!」
侠輔は至極楽しそうに言い放つ。
だがそんな侠輔に即座に反論する憐。
「あほか。なぜわざわざ城下まで来てそんな物を食う必要がある。だいたいさっき昼餉を食したばかりだろうが」
「城下の食生活、特にから揚げの味を知ることも必要だろが!」
「うるさい、どういう理論でそうなる。食いたければ一人で勝手に食え」
「け、上等じゃねーか。大体な、お前書室に引きこもってたんじゃねーのか?一々ついて来んじゃねーよ」
「誰が貴様なんぞに付いて行くか。気晴らしに来ただけだ、自惚れるな気色の悪い」
「気色悪ぃとは何だコラ!」
「しまった。つい本音が」
「わっざとらしい! 本音だぁ? だったらオレも言わせてもらうけどな、テメーのその愛想の欠片もねぇスカしたような面、何とかなんねーのか、あ?」
「お前のアホ面よりかはマシだろう」
「アホ面……!? テメー調子乗ってると本当に……」
とここで何かに気づいたようにハタと動きを止める。いつもなら止めに入ってくるはずの声がない、とぐるりと後ろを振り向く。
少し離れたところにざわざわと二十人程の人だかり、それも皆若い女性のようだった。そしてその輪の中心にいたのが……。
「こ……孝太ぁ?」
「お侍様、私運命を感じましたの」
「本当ですか」
「いいえ、お侍様。私の方が」
「とても嬉しいです」
「お侍様、私家がこの近所で……」
「僕もなんですよ。偶然ですね」
「抜け駆けはよして。お侍様、私と一緒に」
「ステキな申し出ありがとうございます」
「いえ、お侍様私とぜひ一度……」
「ええ、僕でよろしければ」
お侍様、お侍様と迫る女性たち。そんな彼女たちの目を、しっかりと見つめながら丁寧に答える孝太郎。その悩殺スマイルに、女たちは完全に我を失ったかのようにポワンと惚けていた。
「な……なーんじゃあれは……」
あまりの異様な光景に侠輔も逆に孝太郎から目が離せない。この城下に来たその短時間に、たくさの女たちを引き付ける孝太郎。しかもその人数は今もどんどん増えているようだった。
侠輔は“ありえない”と思いながらも、まああいつはにこにこと愛想いいしな、そうだよ、そうそう、と自分を無理に説得しながらぐっと前を向き直る。
すると――
「お侍様、あの、私と一緒に」
「そんな。お侍様、私いいお店知っていますのよ」
「お侍様、私の方が」
「この方のことは気になさらないで、お侍様。私は」
「お侍様、今度お暇なときにいかがですか」
(こっちもかーー!!!)
そして集まった女性たちにニコリともせず、話しかけられてもフンとほとんど無視する憐。だがそんな冷たいところがまた素敵、と勝手に周りがキャーキャーと盛り上がっていた。どうやら愛想の問題ではないらしいことが身につまされる。
自分の周りを急いササッと見回してみる侠輔………………。ピューッとむなしく風が吹き抜けるだけだった――――
「ったくお前らは!!女ごときでヘラヘラと!」
やっと開放された二人に怒りをぶちまける侠輔。嫉妬によるものだと推測された。
「すみません。無碍にするのもいかがなものかと思いまして……」
「別にヘラヘラしていないだろう。言いがかりだ」
「うるさいうるさいうるさーい!」
二人の言葉に余計イライラがつのる侠輔。
「うるさいのはお前だアホ輔」
「何ぃ!?」
「まあまあ」と孝太郎が二人をなだめていると、足元から何やら「買っとくれよ」声がする。
「買っとくれよ!」
三人がもう一度聞こえたその声のほうを見やると、六、七歳くらいの少年。肩から木の箱を提げ、中には串団子を包んだ笹がいくつもあった。
侠輔は、
「ちょうど小腹空いてたんだ。一包みくれ」
と笹の包みを一つ受け取り、さっそく一本をポイッと口に放り込んだ。
「ん、なかなかウメーな」
その言葉に少年は得意げな顔を見せながら、クッと手を差し伸べてくる。
「三百二十円両なり」
その言葉にキョトンとする侠輔。
「え、何が?」
「何がってお勘定だよ! オイラまだお金もらってない!」
そういってプッと膨れる少年に「金? ああ、そうか……」と口に団子をくわえたまま袂をごそごそとあさる。
「そういや、今井に買い物するときは必要だから、とかってと渡されたものあったな」
ぶつぶつ言いながら紺色の財布の中身を確認すると、一万円両札だけが一枚ペラッと入っている。
それを見て侠輔が顔を軽く引きつらせ、声を押し殺してこう言った。
「おい……三百二十円両”札”がねーぞ!」
あたりに微妙な空気が漂う。
彼らがお金に触れるのは、今日が初めてだった。欲しいといえばどこからか誰かが持ってきてくれる。どうすればいいのかなど、知る由もなかった。
「どうするんだ。オレは知らんからな」
腕を組んでそっぽを向く憐。
「テメーだけ逃げる気か、この恩知らず!」
「お前から受けた恩義などない。むしろこちらが返してもらいたいくらいだ」
「何で受けてもいない恩を返さなきゃなんねーんだよ、この詐欺師」
「詐欺師だと? フン、‘愚鈍’な奴め」
「誰が‘うどん’だ! このソバ野郎!!」
「意味が分かるかー! 何だよソバ野郎って!!」
「テメーが先に‘うどん’っつったんだろが!!」
「うるさい! お前と話しているとこっちまでアホになる!」
「あんだと!? この、そうめん男!」
「おい、オレを不思議な世界へ引きずり込むのは止めろ!!」
「あ?オメー何さっきから訳の分かんねーコト……」
「言ってる場合ですか」
孝太郎の制止に三人がおそるおそる少年の方を見やると、彼はずっと手を差し出したまま冷たい目で三人を見ていた。
「金がないなら団子を返せばいいだろう」
と小声の憐。
「無茶ですよ、もうすでに口に入れちゃってます。手遅れです」
「ったく馬鹿が」
絶えかねた少年が口を開く。
「あの、もしかしてお金ないの? だったらこっちにも考えがあるんだけど」
子供だてらに容赦なく注ぐ疑惑の視線。このままでは役人でも呼ばれかねない。そうなると、どこの誰だか言わなくてはならなくなるだろう。一生の恥だ。今井にも怒られる。
侠輔はヤケになって財布からバッと一万円両札を取り出し、グッと少年の目の前に突き出す。
「しゃーねーだろ、コレしかねーんだから!」
ドキドキしながら審判の時を待つ三人。
ところが予想に反し、差し出された一万円両札を見た途端少年はパッと急に笑顔を取り戻した。
「なんだ、小銭がねーって事だったのか! おいら早とちりしちゃった。待ってて、今すぐ釣り持ってくるから」
そう言って少年はタタタっと本店の方へと駆けていく。その様子をぽけーっと見守る三人。
「おい、何であいつ釣り道具なんて取りに帰ったんだ?」
侠輔が不思議そうに問いかける。
「釣って返せということだろう」
と憐の言葉に侠輔は、
「川に団子が泳いでるわけねぇだろ?」
「だったら魚と物々交換、ということでしょうか」
「まいったな。オレ釣りなんてしたことねーよ」
そう言って頭をポリポリと掻く侠輔。そうこうしているうちに少年が三人の元へ戻ってくると「はいこれ。まいどあり!」
侠輔に九千六百八十円をチャラリと手渡すと、いそいそと次なる客捕獲に向かっていった。
手のひらの金をジッといぶかしげに眺める侠輔。
「どういうことだ? 何で竹ざおでも釣り針でもなく金? しかも増えてんじゃねーか」
枚数は増えても金額は減っている。
そこで憐が何かに気づく。
「いや、待て。お前が渡した一万からこの団子の三百二十を引いてみろ」
侠輔が、んーっと上を見ながら計算を始める。
「え? 一万引く三百二十は……零八……零八……九七?」
それを聞いてジト目になる憐。
「人にはできることと、できないことがあることを忘れていた」
「うるせーよ。オレだってじっくり考えりゃなあ……!」
「確かに九千六百八十円になりますね。つまりこういうことですか。“釣り”とは、相手の言う額よりもこちらの支払い金額が上回ってしまっている場合、支払われた者が支払った者にその差額分だけ戻す」
「ゴメン、もっかい言って……」
その後憐と孝太郎に散々説明され、やっと理解した様子の侠輔。
「ほぉー。こんな複雑怪奇な仕組みで生活してるとは、民も大変だな」
「いや、複雑怪奇と認識するお前の方がある意味すごいだろ」
「どういう意味だコラ」
「まあまあお二人さん、言い争ってないでそろそろ帰りましょう」
孝太郎の言葉に、二人はしばし睨みあうとそっぽを向いた。
一言:
平城遷都千三百年。頭にツノが生えた彼を見たときの衝撃は忘れません。
閲読ありがとうございました。