第三十八話 生じた亀裂
「今回の特令は“天川名水を取って来い”ですか」
三人はいつもの最下級武士の格好で山を登る。それぞれ竹でできた水筒を携えていた。
「それにしても、この辺りは確か……」
そう言って孝太郎は辺りを見渡す。
大きな木々が立ち並ぶ周囲。落ち葉でふかふかとした土は踏むたびにその匂いが鼻腔に広がった。
しっとりとした冷たい空気が肺に充満し、小鳥たちのさえずりが鼓膜を揺らす。木々の間から差し込む 柔らかな光が、心地よく肌をくすぐっていた。
「侠?」
二股道に差し掛かったとき、並んで歩いていた侠輔が突然孝太郎と憐の二人から離れて別の道へと向かう。孝太郎は驚いたようにその背に言葉をかけた。
「どうしたんですか? このような山では単独での行動は――」
「いやー。何か、すんげぇー空気悪いみてぇだからよ」
その軽い口調からにじみ出る怒り。
「侠……」
「別に“一緒に行け”なんて言われてねぇんだ。いいだろ」
そう言って振り向くことなく歩き出した。
「ちょっと待ってください、どこで組織のものが狙ってるかも……!」
「アイツと一緒に行ってやってくれ」
憐の言葉に「え?」と返す。
「アイツはバカだからな。遭難でもされたら迷惑だ」
付いてやってくれ、と腕を組んで左の道を歩き出す。
「憐」
孝太郎の呼びかけに足を止めた。
「憐、なぜあのようなことを?」
孝太郎の中に甦る、お戸紀を手にかけた憐の姿。
「茶番だなんて言って……何か理由があるんですよね。何かあるなら言ってしまったほうが、侠だって」
心配そうな表情を浮かべる孝太郎を、憐はフンと鼻で笑った。
「なぜお前たちに一々行動の説明をする必要がある。くだらんことを言っていないで、早く行け」
見失うぞ、と言い残して立ち去る。
後に残された孝太郎は、二つの異なる道を悲しげに見やる。
別々の道を歩いてゆく二人の背に、ふと視線を落として一人つぶやいた。
「“なぜ説明をする必要があるか”? 心配だからじゃないですか、憐。あなたが一人で何を抱え込んでいるのかと。なぜ孤独であろうとするのかと。僕らは敵同士なんかじゃないじゃないですか……」
そう言って分岐点で両の手を握りしめ、苦しそうに目を閉じた。
二人の姿が見えなくなった憐は、木を見上げてしばし立ち止まる。顔を冷たい風が撫でた。
「いい機会なんだよ、これは。オレとアイツとの間に、埋まらぬ溝を作るための。オレたちは近づきすぎた……」
悲しげな独白のあと、憐はしっかりと前を見つめ、長い道をスッと歩き出した。
「あんだ、山登り以外は楽勝だったな」
侠輔は水の入った竹筒をチャプチャプ振りながら、笑顔で孝太郎に話しかける。
だが孝太郎はどこか別の方向を心配そうに眺めていた。侠輔は何かを察したように水筒を持った手をスッと下ろす。
「……心配してんのか?」
その言葉に孝太郎は侠輔を見やった。
「野郎だって大の大人だぜ」
「侠、ちょっと寄り道しませんか?」
「寄り道……」
侠輔にとってそれは予想外の言葉ではなかった。
「確か、この辺りでしたね」
腰の高さほどもある草を掻き分け、道なき道を進む二人。
「そうだな。ガキん頃に突然連れられて来た――」
侠輔たちは大きな木の根元にパックリと開いた、人一人がやっと通れる程の穴を見下ろす。
「――月鹿の保管場所ってのは」
「月鹿は“引継ぎの儀”の時以外は、安全面を考慮して城ではない別の所に秘蔵されていますから。そしてそれを知る者も限られている――はずなんですけどね」
二人は背後から感じる気配にザッと一斉に振り向く。
木の上に腕を組んで佇む男の姿。包帯の白が風にパタパタとたなびいていた。
「お前……」
男はスタッと軽やかに木から飛び降りると、二人の元へと近づく。
両者の間を風が吹きぬけ、草がズアアッと波のように波紋を呼んだ。
「次期将軍候補、黒金カ」
「そう言うお前は華国の大悪党か? はるばるこんなトコまで逃げてくるなんて、随分と臆病なんだな」
侠輔の挑発的な言葉にも、リュウは指一つ動かさない。
「何をしに来たかなんていうのは、愚問ですか?」
孝太郎は静かに左親指で鍔をスッと押し上げる。
「オレは今お前タちに喧嘩を吹っかケるツもりはない」
「“お前は”な」
侠輔はダッと土を蹴り、一瞬で間合いをつめてザッと剣を振った。
「!?」
だが侠輔が斬ったのは草のみ。ハラハラとちぎれた草が舞う。
リュウは再び腕を組んで木の上に佇んでいた。
速い……。侠輔はそう感じてリュウをキッと強く睨みつける。
「そう急クな」
「華国を潰すのがお前の目的か? 月鹿にまで手出そうとするなんてよ」
「潰ス? これハ善なる修正ダ。オレが正しい理想の国へト作り変えてやル。そのタめに月鹿が必要ダ」
「大勢の犠牲者出して、それがテメーの言う正しい理想の国だってのか?」
「お前のヨうな平和ボケ人間に何が分カる」
冷たい視線がギロリと侠輔に向けられた。
「平和ボケかどうか知らねぇがよ。アレは使用者を選ぶんだぜ?」
お前が持ったところで無駄だ、と侠輔は双眸をスッと細める。
「――ですが月鹿の正体が分かれば、その問題はクリアできるんじゃないですかねぇ?」
ザッと別の声の方を見上げれば、木の上で不敵な笑みを浮かべた細メガネの男の姿。
「月鹿の正体? ンナもん調べたって無駄だ。やめとけ、バチあたんぞ」
侠輔の言葉に、己槻は小ばかにしたように鼻で笑う。
「オレは目的ヲ果たすたメなら何デもやる。その前ニ立ちふさがルというなら、オレは容赦しナい……ッ」
存在自体がまるで鋭い刃のように、狂気と危うさを兼ねたその男は、風と共に音もなく消えた。
「ま、そういうことです。精々頑張って守ってくださいね。その方が面白い……」
クスクスという不気味な笑い声を残し、己槻も後を追うように姿を消す。
「けッ……。逃げ足の速ぇ野郎どもだぜ」
侠輔はそう言いながら刀をキンと仕舞った。
「行きましょう」
孝太郎の真剣なまなざしに、侠輔は無言で頷く。
木に開いた穴をそっと潜り抜ける二人。
そこには余裕で大人が入れるほどの、高さと広さのある空洞。
孝太郎は屈んで土ぼこりのかぶった地面を手でサッと払う。そこにあったひんやり冷たい金属の床と、描かれた神鹿の絵。
二人でその上に静かに手を乗せた。
途端にパアッと溢れるまばゆい青白の光。一瞬にして二人を包み込んだかと思うと、ヒユッという音と共に姿を消した。
「ふう、久しぶりだぜ。ここ」
メラメラと揺らめく炎の光に照らされた地下へと続く石の階段。壁を伝ってタッタッと慎重に降りると、厚い金属の扉に手を掛けた。
グオォンという重厚な音と共に目の前に現れた石壁の部屋。
足を踏み入れた途端、侠輔の釘気に反応するように地面から壁、そして天井へと紅い光が広がってゆく。
孝太郎も足を踏み入れると一旦緑の光が広がった後、部屋は淡い赤と緑と白のタイル模様に変化した。
その光に包まれるように、中央に置かれた大きな石箱。
二人が覗き込んだその先には、大きな一振りの剣があった。鞘から出された状態で置かれたその剣は、日本刀ではなく儀礼用の古い飾り大刀。柄頭に付けられた金属の輪の内部に、牡鹿が描かれていた。
「よぉ。久しぶりだな、月鹿」
侠輔はまるで古い友人を相手にするかのように話しかける。伸ばしかけた手を、孝太郎に制された。
「ダメですよ。忘れたんですか?」
孝太郎が指差す、剣の周りを囲むように置かれた四つの丸い透明の玉。
「ああ、持ち主以外が触ろうとするとヤバかったんだったな」
侠輔たちにくっ付いて来たのか、一匹の小バエが剣の方へ近づいたかと思うとビリッと電気のような光が流れて跡形もなくなる。
「こうなっちまうもんな」と侠輔はおとなしく手を引くと、石箱に両手を置いて身を乗り出すように月鹿を見下ろした。
「オレたちですら手を触れられないようなもん、どうやって盗るつもりなんだ? 第一ここへ入るのだって、あの鹿の絵の描かれた入り口が、剣に選ばれし者か判別すんだぜ?」
「方法は分かりませんが、盗られないだろうという油断は禁物です」
「……お前が奴らなら、どうする?」
侠輔の真剣な眼差しに、孝太郎はやや伏せ目がちに「さあ。考えたことありませんから」と口元にだけ笑みを浮かべる。
「それに、月鹿の正体がどうのこうのって……。本当にンナもん分かんのかよ」
侠輔は無理だろうと言わんばかりに眉をひそめる。
「あの組織は四神石のことも知っているようですし、あながちはったりとも思えません」
「この剣さえありゃ、万事上手くいくってわけにもいかねぇのか……」
侠輔は小さくため息をついた。
憐は川の縁から手を伸ばし、サラサラと流れる透明な清水に竹筒をポチャンと浸けて水を汲む。太陽光を反射してキラキラと輝いていた。
竹筒に入った水をグビグビと一気に喉へ流し込む。口端からこぼれるのも気にせず、全てを飲み干した。
口元をグッと拭って息を吐く。水面に映る己の顔は、とても疲弊しているように見えた。
それを見てよぎる、過ぎ去りし日の――。
――こちらへ来い……さすれば…………――
手を差し伸べる男の姿。
――承知……致しました――
表情の読めない一人の侍。
――私は……大丈夫です――
優しく微笑む美しい女性。
――…………そのように……致すことにしました――
冷たく言い放つその口もと。
――本当に済まなかった……憐――
悲しそうに揺れる紅い髪。
「やめろぉぉおおおおおッッ!!」
憐はそんな回想を止めるように、水面をバシャッと強く拳で叩きつける。
「クソッ!! クソッ!! くそ……ッ」
何度も水中の石に殴りつけるうちに滲み出す、緋色の液体。
憐は着物が濡れるのも忘れ、四つんばいになって頭を垂れていた。
「おやおや、ご乱心ですか? れ・ん・サ・マ」
ハッとして顔を上げると、いつの間にか目の前にニヤついた表情で佇んでいた細眼鏡の男。
驚く憐の背後では、リュウが剣を振り上げていた。
「とにかく、今後ともあの組織の情報を……」
孝太郎の言葉の途中で、突然部屋の壁の色が切り替わって一面青く光り出す。
「え? これは一体――」
その時二人の脳裏にあることが浮かんだ。
「憐……!?」
顔を見合わせて同じことを言った侠輔と孝太郎は、急いでその場を後にした。
古い文机に置かれた戸紀の髪の毛と皮膚組織、血液を前に千之は胡坐をかく。
その手には数値の書かれた紙が複数枚あり、ペラペラとめくって眉をひそめていた。
「けどこれお戸紀さんは死んじまったってのに、何で消えねぇんだ……? 実験段階のものだからか? それか――」
吐き出した煙が古い長屋の天井へと上がってゆく。その時千之の紙をめくる手が止まった。
「まさか……!」
千之は急いで黒のウエストポーチに手を伸ばすと、飛び出すように長屋を出る。
「喜んでくださいよ憐様。我々の偉大なる研究に貢献できることを……」
己槻はそう言って顔をゆがめてハハハハハと、楽しそうに笑った。
一言:
あれ、考えたら登場人物が男だらけではないか。
閲読ありがとうございました。