第二十七話 伍長の受難
目の前に映る光景を、僕はまるで他人ごとのように見ていた。国家機密を掛けたこの戦いに、まさか格闘の一切出来ない自分が出ることになるなんて……。いや、軍人ですから? ある程度は訓練積んでますよ。それに戦にだって参加したこともあるし。
でも僕は戦いに向いていないらしく、女性武官のリーファ大尉にも歯が立たなくて……。
いや、待てよ? 一回戦目は軍曹が勝ってくれたから、二回戦目は勝たなくってもいいんだ。
そんな風に思うと幾分心が軽くなった。そうだ、僕が負けても次に戦う人が勝ってくれれば問題ないんだ。
まるでぶ厚い雲の隙間から、一筋の光がパアッと天に昇る架け橋のように僕の前に舞い降りる。積年の負荷が翼を得たかのように、キラキラと晴れやかな気持ちで僕は前を見据えた。
黒髪に整った顔を持つ、僕の対戦相手。“侍”と呼ぶに相応しい威厳と品格。キンと研ぎ澄まされた刃のような殺気。全てがプラスの相乗効果でもって、僕に更なる恐怖……いやいや、大丈夫。気を強く持て! お前が負けてもきっと次……
「ご~ちょお~、お前オレが腕ケガしてまで勝ったんだから、負けたら承知しないからな~!」
何? 耳鳴りかしら。
「ねぇ、聞こえてんの? 一ヶ月肉無し料理だからねー!」
どうやら耳鳴りでも空耳でもないらしい。腕に包帯を巻いた武暁日軍曹が、僕に向かって叫ぶ。っていうか毎度毎度あんた方が肉の取り合いするから、ここ配属になってから野菜しか食べてないんですけど! 青椒肉絲の肉がなくて、ただのピーマン炒めになってんですけど! 水餃子の本体が無くなって、ただの千切れた皮になってんですけど!
くっ……何か段々腹立ってきたーー!!
オレは目の前の伍長という階級を持つ男を、静かに見据えていた。先ほどから動揺しているようにも見えるが、さっきの孝太郎の対戦相手といい、奴らは見た目で判断すべきではない。どんな手を使ってでも勝ちに来ると想定していた方が無難だろうな。あまり流血沙汰にはしたくはないが、かくなる上は……。
そんな風に思いを巡らせていると、先ほどの軍曹が手当てを終えて戻ってきた。オレの対戦相手である伍長に声援を送る。
さすが軍人。敢えて脅しをかけ、叱咤激励をするか。
相手もさらに気合が入ったようだな。こっちは既に一敗を期している、オレがここで負けるわけには。よし……!
相手の黒髪さんは腰の刀に手をやると、一気に間合いを詰める。思い切って臨戦態勢をとった僕は、あることに気づいた。
「武器がない」
致命的――!
だが神は僕を見捨てなかった。
「伍長! コレを使うなり!」
長髪の神(馬飛宏大尉)が僕に投げてよこしたもの。
「こ、これは……」
闇夜のように深く、漆のように美しい光沢を放つ黒い鞘。それをさらに美しく飾りつける金色の竹林。柄に巻きつけられた深紅の巻き紐。ずっしりと重いその剣は、持つ者を萎縮させるかのような存在感を露にする。下手に使えば、きっと使用者はその命を絶たれるであろう。禍々しいまでの空気を纏っていた。
「オレの取って置きにける。お前ならそれを使いこなせるはずなり」
いつもはふざけたように聞こえるその話し方も、今ではまるで聖人君子の言葉のように聞こえた。
これならきっと勝てるぞ。僕は唾液を一気に喉へ流し込むと、刀の逆鱗に触れぬよう、慎重にかつ迅速に鞘から抜き取った。
黒髪男前さんの一振りを受け、ハラハラと花びらと共に舞い落ちる僕の髪。
ん? 舞い落ちる……
「僕の髪の毛がぁー!」
切り落とされた前髪が一房、力なく僕の足元へ降りかかる。
急いで剣先に取り付けられた花を見た。
いや、何で剣の先に花がついてんだッ!?
オレは伍長に斬りかかった瞬間、峰打ちにしようとした。
だが、相手が仲間から武器を得たのを見て、方針を転換し、刃を反すことなく斬りかかる。
伍長とやらは、オレの一振りを受け止め……、いや受け止めようとした。
これは一体何という名の武器なのか。
抜いた剣の先には花。オレが少々切り落としてしまったが、何とも奇抜なそれは、武器と言うにはあまりにも……いや、超大国華国の軍人が所持しているもの。無碍に無用の産物と決め付けるわけにもいかん。あの花から毒的な何かが飛び出るのかもしれんしな。
だとしたらマズイ。一刻も早く決着をつけなくては……!
僕は剣の先で揺れるクソ……いや、美しい花を見た。癒されるどころか、ふつふつと悪なる感情が泉のようにあふれ出す。
危うく前髪どころか命まで離れ落ちるところだった。
僕はこの元凶を招いたクソ……いや、長髪変人大尉を横目で見上げた。楽しそうなその笑顔。神は神でも黒い方の神だったらしい。何とか地獄扉の段差に引っかかって助かったようなものの。
だが本人は僕がそんなことを思っているとも知らず、僕に向かって「よくやった」とばかりに親指を立ててみせる。
何のサインだよッ!?
ああ、本物の神様。僕は明日どうなろうと構いません。ですからせめて、あの親指をへし折るだけの握力をください。
そんな考えを巡らせていると、対戦相手の黒髪男前さんの目つきが変わる。
僕は今度こそ、地獄扉の敷居を跨ぐであろうことを予感した。
対戦の行われている軍事施設の裏手にある、少々古びた二階建ての大きな軍人住居用建物。
卍模様の美しい枠が取り付けられた窓から、明るい日差しが差し込む。
光はこげ茶色の細かい装飾が施されたチェストを照らし、飾られた時計や角型のランプ、そして赤い漆器の宝石箱を輝かせていた。
傍の四角い作業机の上に、しおりの挟まったまま置かれた漢字表記の本。その横の白い陶器の茶碗に入れられた花茶は、すっかりと温度を失って冷め切っていた。
鳥のさえずり以外物音のしないこの部屋で、一人の女性が寝具に腰掛ける。
駐日華国軍の女性文官、王香玉は、今にもその清らかな瞳から滴をこぼしそうな表情で下を向いていた。
両手に護られるように握られた砂時計。横に倒されて砂の流れの停まった時計は、時間の概念を忘れて大人しく佇む。
シャンユーはゆったりとした動作で立ち上がると、砂時計を静かにチェストの上に置いた。再びサラサラと零れ落ち始める砂。
チェスト右端の引き出しから、おずおずと写真立てを取り出す。
自身と華商部隊長ダーロンの間に映るもう一人の人物は、窓からの光に反射して白く輝いていた。
悲しそうにその光の先を見ていたシャンユーは、突然弾かれたように乱暴な手つきで写真立てを引き出しに戻した。
チェストに背を向け、そのまま崩れ落ちるように座り込む。
膝を抱える彼女の頭上で、砂時計はすでに時を刻み終えていた。
「いやだぁぁああ!! まだ星になりたくなぃいー」
必死の形相で逃げる伍長に、憐は容赦なく刀を振り続ける。
未だに手品用の花の付いた剣を握りしめ、力の限り走り回る。
「だったら降参しやがれぇー」
侠輔は口元に右手を添え、伍長に声を掛ける。
「え? 降参……?」
伍長はその手があったか、とばかりに安心したような表情をみせる。
わずかに口を開きかけたその時、
「ご~ちょ~お! お前降参なんかしたら、星になるどころかブラックホールにぶち込むからね~!」
年下上官から恐ろしい判決を突きつけられ、急いで口を閉じる。
「おいチビ、何すんだよ。もうちょっとでアイツ降参するトコだったのによ!」
「そんな姑息な手段で勝とうとするなんて、日本人って国土と一緒で肝っ玉もちっこいよねー」
「あんだと、クソガキ。チビに何が分かんだよ」
「何だよさっきからチビチビって! オレだってまだ十六だもん。これからでっかくなるもんね!」
「十六!? マジかよ、もっとガキかと思ったぜ。何せオレが十六ん時は今と同じくらいあったんじゃないかなぁ?」
「何それ自慢!? 二年後覚えてろよ、絶対抜かしてやるから!」
「あははー、二年かけてシークレットブーツでも作ってろ」
「そんなのいらないもん!」
「現実見ようよ。楽観的なのはいいけどさ~」
そんな侠輔に、シャオリーは怒ったように手すりへ向かうと、
「ねえ、伍長もそう思うよねー!?」
と声を掛ける。
「知るかぁぁああーー!! こんな状況で話振んなぁあーー!! お前の身長なんかどぉぉだっていいんだよ!」
最早自我を完全に失った伍長は逃げ回りながら毒づく。
「ちっ」
中々攻撃を当てられない憐は、少々イライラしながら伍長の後を追う。
振れども振れどもかすりもしない刀。触れそうになるたびに、なぜかギリギリのところでかわされる。
余程の手練かと思いきや、ギャーギャー叫びながら逃げ回る伍長の姿を見る限り、憐の攻撃の先を読んで避けているようには見えなかった。
「どういうことだ……? 仕方ない」
煌めく憐の刀。
「あれ? 憐の刀、何か光ってね?」
侠輔は少々焦り気味に問いかける。
「融心石を使うつもりかもしれませんね。憐の場合どうしても勝たなければならないとあらば、何としてでも勝とうとするでしょうから」
真面目ですもんね、と穏やかに返す孝太郎に、侠輔は本格的に慌て出す。
「絶対マズイって! 柱でも折れたら……!」
侠輔が止めるべきかと思案していると、どこからか小さなつぶやき声が聞こえてくる。
「……だよ、……ってさ」
シャオリーが完全に据わった目で逃げ回る男を見つめ、何かぼそぼそと話していた。
「おい、チビ? 何言ってんの、さっきから」
侠輔の問いにも答えることなく、腰の後ろから鉄扇を静かに抜くと、
「どういうことだよ! “お前の身長なんかどぉぉだっていい”ってさあああー!!」
ドッと大砲のごとく猛烈な速さで投げ込まれた鉄扇は、見事伍長の後頭部をドガッと直撃する。
まるで低速度再生のようにばたりと地に倒れこんだ伍長。
手に持った手品用の花の付いた剣は、一旦宙を舞うと持ち主を弔うかのように、パサリとその背中に舞い降りた。
「あ~スッキリした」
喜ぶシャオリーに、憐も侠輔も驚きに硬直する。
「まさかのオウンゴール」
ぐるぐるメガネのレイが、ポツリと吐き出した言葉。
施設全体の空気に染み渡った。
「じゃあ次の人を決めるじゃんけんを……」
レイが口火を切ろうとすると、侠輔が割り込むように口を挟む。
「オレに指名させてくれよ。……あん時の決着つけようぜ、大佐さん」
不敵な笑みを向ける侠輔に、視線だけを返すダーロン。
代わってレイが歩み出る。
「照野殿、“決着”とは何のことか分かりませんが、一応忠告しておきます。あなたの仰るものは、こちらにとって一番有利なカードです」
「へー、だったら出さない手はねぇんじゃねぇの?」
レイはさらに侠輔に近寄ると、小声で語りかけた。
「そしてあなたにとって最も危険なカード。一度火のついたあの人は、誰にも止められません。身の安全の保証はできかねます」
小声のレイに反発するように、「安全の保証? んなもんいらねぇよ。何なら首の取り合いでもするか?」とダーロンに向かって声を発する。
ダーロンはそれに答えるように、黙って闘技場へと降りた。
「いったたたた……。ひどいですよ、曹長。味方の僕に鉄扇投げつけるなんて」
しばらくすると気を失っていた伍長が起き上がる。倒れた弾みに床で鼻を強打して出たらしい鼻血を、ハンカチで押さえた。
一方のシャオリーは伍長の話に全く耳を貸すこともなく、楽しそうに下を覗く。
「いよいよ大佐の出番か~。あんたたちも、それなりの覚悟しておいたほうがいいよ」
「“それなりの覚悟”? ですが彼も侍なんですよ」
孝太郎の反論に、分厚いメガネのレイが答える。
「今から十年ほど前。華国国境付近の情勢が大変不安定で、多くの軍人が戦地へ赴き、また殉職しました。そんな中、本部に戦況を左右するような重要な情報を届けるはずだった部隊、その経路がなぜか敵に漏れてしまいましてね。目立たないよう少人数で動いていたその隊は、実に二百人以上もの敵に襲撃されました。当然部隊は壊滅、最早これまでかと思われたとき、生き残った男が一人。当時はまだ新人だったにも関わらず、その男は驚くべきことに圧倒的多数だった敵を次々と地に沈め、たった一人で敵を殲滅。その上、肋骨と大腿骨を折る重傷の体で山を越え、無事本部へと情報を届けたのです」
「二百人もの敵を、一人で片付けただと……?」
憐は目を細め、レイを見据える。
「ええ。それがあそこにいる、陳大隆大佐」
「それにそれだけじゃないよ、あのヒトの“伝説”は。だから絶対に勝てない。あいつじゃあね」
頬杖をつき、大人びた笑いを向けるシャオリー。
静かで熱い空気が闘技場内に充満していった。
一言:
電車の発車待ちをしていたら、ハトが乗ってきてお尻から白いものを出して下車した。おい。
閲読、心より感謝いたします。