第十五話 看板娘の恋
太陽光の届かない、ホコリ臭くうす暗い地下室。薄暗いオレンジの電灯に照らされて、戸棚にずらり立ち並ぶ化学薬品が不気味に輝く。たくさんの瓶に詰められた小動物たちが、液体に浮かんでだらりと己のはらわたを見せ付けていた。
「そういえば“チェンシーの改善すべき点”……って何なんですか、先生?」
細メガネの青年が白衣の男に尋ねる。部屋の真ん中の長机には、底の丸い容器や、メモリの入った円筒形のガラス器、顕微鏡に天秤、それに液体の入ったたくさんの小瓶が雑然と並べられていた。男はその中から明るい黄緑色の液体が入った瓶一つを手に取り、左手を白衣のポケットに突っ込んでそれを眺めていた。
「分からなかったのか? 己槻」
己槻はその言葉に微笑する。
「そうですね~、しいていえば筋肉の過度の膨張はいただけません。速さが殺されてしまいます。それに命令に忠実なのは結構ですが、全く自主性がないというのもね。後々のことを考えれば不便かと……」
その己槻の意見を聞いて、白衣の男は天井を見上げる。
「細かく命令を出すのではなく、ある一定の範囲内を指定し、その中で自由に行動させながらも、我々に有利に働くようにさせる。それは可能だと思うか……?」
その問いかけに己槻が答える前に、コンコンとドアを二度ノックする音が響く。
突然ですが皆さん初めまして。僕は市川食堂の長男、岳人です。市川食堂とは城下街の一角にある小さな食堂なのですが、実は最近三つ上の十七になる姉、結衣が、ここの常連さんに恋をしてしまったらしいのです。
初めは“あんな人はタイプじゃない”とか言っていたくせに、女の人というものは全くもって良く分かりません。
「で? どんな人なの?」
そう言って先ほどから姉ちゃんの幼馴染、美子姉ちゃんが客のいなくなった店内で姉を質問攻めにしています。その目の輝きっぷりといったら……。
他人の色恋沙汰がどうしてそんなに面白いのか、僕ももう少し大人になったら分かるんでしょうか。
「どんな人……ってお侍さん……」
それってかなり曖昧な情報だと思うけど。僕はテーブルを拭きながら人知れず突っ込む。
「お侍? もしかして玉の輿なの!? 位は?」
「えっと……たしか下木黒」
「なんだ一番の下っ端か~。ちょっとアレだけど、でも侍は侍! もうお結衣ったらいいトコに目をつけて~」
きゃっきゃとはしゃぐ二人を横目に、僕は割り箸をごそごそ補充する。
「それで、それで? ちゃんとアピールしてるの?」
「え!? そ、そんなのムリだよ……」
そう言って姉ちゃんは、手に持っていた雑巾をぎゅっと握りしめる。確かに姉ちゃんが男にアピールなんて……。それなら僕は世界の王者になれる気がする。
「何言ってんのよ! そういうのはちゃんとしなきゃ! あんた可愛いんだし、自信持ちなって!」
したところであの兄貴が気づくとも思えないけど。ああ、“兄貴”っていうのはその常連さんのこと。いつの間にか親しくなってそう呼んでた。
兄貴はすごく社交的で明るくて優しいけど、変なトコ鈍い。子供の僕に言われるくらいだから、相当なんだと思う。
「だ……だめだって。そんなことできない……」
姉ちゃんは赤くなって、ふるふると首を振る。肩甲骨までの茶色い髪と、左に付けた髪飾りが揺れた。
「もう、恥ずかしがってる場合?」
「だって私この間ヒドイこと言っちゃったし……。もしかしたらもう来ないかも……」
そういえば姉ちゃん、冗談で親父に兄貴のお嫁になれば、って言われたとき“私はもっと知的そうな人がいい”とか言っちゃってたな。遠まわしにバ……あ、いいや。
そこまで言った相手をどうして好きになるのか、やっぱり僕には分からない。
「ヒドイこと言ったって……そうなの、岳人?」
紙布巾をチョキチョキ切っていた僕に話を振る。
「まあ普通は気を悪くするだろうね」
素直な意見を言ったのに、姉ちゃんはそれで半泣き状態になって、僕は美姉に怒られた。
「だから“普通は”だって。兄貴はそんなこと気にする人じゃないよ」
一応のフォローで結構立ち直ったらしい。単純かなと思うけど、でも嘘じゃない。
「何だ? 侠治郎さんの話してんのか?」
そう言ってのれんを手で押し上げて厨房から急に出てきた親父に、姉ちゃんも美姉も体をビクつかせる。僕には聞かれてもいいのに、親父はダメなんだ。
「そういやぁ、今日仕事場の同僚と来るって言ってたぞ?」
「え!? く、く、く、来る!?」
親父の言葉に焦る姉ちゃんとは対照的に、喜ぶ美姉。
きっと兄貴の顔が見たいんだ。
「ほらね、お結衣はヒドイこと言った~何て言ったけど、そんなこと気にする人じゃなかったのよ!」
それは僕が言った。
「もうそろそろ来るかも……」
と親父が言っていると、ガラッと店の扉が開く。
「ういーっす」
「いやーーーー!!」
そう言ってなぜか姉ちゃんは持っていた雑巾を放り投げ、それが運悪く兄貴の顔にクリーンヒットした。ズルっと兄貴の顔を滑り落ちてべチャリと床に着地する雑巾。僕も美姉も親父も、予想外の展開にしばらく動けず硬直していた。
「ごごごごご、ごめんなさい!」
「いや、まあ気にすんな……」
焦る姉ちゃんにそう言って慰める兄貴。そのとき後ろから兄貴の同僚らしき人たちが顔を見せる。
「あらら、大丈夫ですか、侠?」
「ボーっとしているからだ」
月色の髪の綺麗な男の人と、黒髪の背の高い凛々しい男の人。どっちもさぞかし女の人にモテるんだろうな、と男の僕でもしばらく見とれていた。
「ちょっとお結衣! めちゃくちゃレベル高いじゃなーい! どっち!? どっちなの!? 余ったほう私に頂戴!」
二人を見た美姉は鼻息荒く、興奮気味に姉ちゃんに話しかける。
「あの……」
「うんうん!」
「私が雑巾当てちゃった人……」
想定外の答えに拍子抜けしたのか、ハアと軽くため息をつくと、
「お結衣、あんた昔っから好みが変わってたけど、相変わらずなのねぇ」
と姉ちゃんの肩をポンポンと叩く。
言ってやらないでくれ。本人に自覚はないし、兄貴にも結構失礼だから。
「いや、すまないねぇ侠さん」
そう言いながら親父が清潔なお絞りを手渡す。兄貴は平気だと言って笑った。
「それにしても、三人とも随分色男だね~! 男のオレでも惚れちまいそうだ!」
親父の褒め言葉なのか何なのか良く分からない言葉に、兄貴は「だろ?」と言って得意げに笑う。
「あの人が、お結衣の好きな……」
美姉は店の真ん中に置かれた木製のついたて越しに、じっと兄貴を観察する。
そんな食い入るように見て、一体何が分かるんだろう。
「侠さんはいつものだろ? で、あとの色男さんは?」
月色の髪の人は、誰もが見とれるような綺麗な笑顔を浮かべながら、
「ここのから揚げ定食がおいしいと聞いたので、僕もそれをください」
この人今まで一体何人の女の人惚れさせて来たんだろう、と羨ましく思う。
「いやー、さすが孝た……じゃ、な、くて、孝一はよく分かってんな! ってことでから揚げ定食三つ~!」
「おい、侠す……侠治郎、オレが揚げ物にが……」
と黒髪の格好いい男の人が何か言いかけたけど、
「マジ旨いから大丈夫だって!」
と兄貴に押し切られていた。
その時何かを思い出したように、兄貴が姉ちゃんを呼ぶ。
「ああ、そうだ。お結衣」
呼ばれた姉ちゃんは顔をゆでダコみたいに赤くして、錆び付いたからくりみたいにぎこちなく歩み寄る。
「な、な、な、な、なんでござんしょう」
誰。
「お前大丈夫だったんか?」
と兄貴。……“大丈夫だったか”って何が?
「何かあったんですか」
月色の髪の綺麗な人が尋ねる。
「ああ。この間壁に立てかけてあった材木が、急に倒れ出してよ。たまたまその前歩いてたお結衣が、下敷きになりそうになってんの見つけて……。一応庇ったつもりだったんだけど、ちょっと掠ったみたいだったからな」
ああ、成るほどね。そういう男っぽいところにグッと来たんだ。女の人って護られるの好きだからな。
美姉もどうやら合点がいったみたい。腕を組んでフムフムと何度も頷いていた。
「あ、ははあ、大丈夫でござる。しかしながら侠さんは大丈夫でござったでいたしましたでしょうか」
何を言いたいのか分からない訳じゃない。でも“大丈夫でござる”って……。ごさ……まあいいや。
兄貴の同僚さん二人は、そんな姉ちゃんの様子に何かを感じ取ったらしい。肝心の本人は「オレは何ともねぇ」なんて微塵も気づいていないのに。美姉もその様子を見て、ため息をついた。
綺麗な男の人が、クスっと笑うと興味深そうに尋ねる。
「あれ、もしかしてお結衣さんって、侠の恋人なんですか?」
破壊満載の質問に、姉ちゃんは顔でお湯が沸かせるんじゃないかと思うくらい赤くなった。
「いいえっ! 全っ然違いますから!!」
と力いっぱい否定する。これって何か別の誤解を与えかねないような。と僕が思っていると、美姉がやれやれと言った風に姉ちゃんに近寄る。
「初めまして~! 私お結衣の幼馴染の美子って言います。お結衣を助けていただいて本当にありがとうございました」
そう兄貴に礼をする。
「折角の機会ですし~、もしよかったら一緒にお食事させていただいてもいいですか?」
結構大胆だな、美姉。
「ええ。構いませんよ」
「きゃー、嬉しいです! じゃあほら、お結衣も!」
驚きの提案に、姉ちゃんは無理無理と首がちぎれんばかりに横に振る。
「だ……ダメだよ……!」
「何言ってんのよ! 侠さんのこといろいろ聞くチャンスでしょが!」
「でも仕事もあるし……」
小声で言い合う二人。僕はそんな姉ちゃんに、「今はお客さん少ない時間帯だし、お昼食べといたら」なんてちょっぴり姉思いなコトを言ってみる。
美姉は兄貴の同僚さんと同じ長いすに腰をかけ、姉ちゃんは半強制的に兄貴の隣に座らされた。兄貴との微妙な距離感。
食事を口にしながら美姉が話を振る。
「そういえば皆さんは、どんなお仕事なさってるんですか?」
なぜか「えっと……」と口ごもる兄貴と黒髪の……、確かさっき名前を合原憐助さんって言ってたな。
「そうですね、書類関係をやったり色々雑務を。下っ端ですから」
と後光が差さんばかりのまぶしい笑顔で答える本田孝一さん。
「やだ、下っ端だなんてご謙遜を。皆さん立派なお侍様じゃないですか~」
さっきちょっと馬鹿にしてたくせに……。
「皆さん本当に素敵な方ですし、やっぱり恋人とかいらっしゃるんですよね?」
美姉の質問にゲホゲホと咳き込む姉ちゃん。
「よ、よっちゃん! し、しちゅれいだよ」
”失礼”ね。
「構いませんよ。僕は生憎そういった女性はいません」
まさか“恋人って立場の人はいないけど”って意味じゃないよね、なんて子供ながらに邪推する。だってあの容姿なのに……。
「え~、本当ですか? だったら私が立候補しちゃおうかな」
と冗談めかした美姉の言葉に、「本気にしてしまいますよ?」何て憎いセリフを返される。
「そ、そそんな私なんて……。れ、憐助さんは?」
美姉は頬を染めてごまかすようにそう尋ねた。
「いや」
その答えを聞いて、ああいう外見が良すぎる人たちって案外恋人できにくいのかも、と思った。
「全く世の中の女の目は節穴ですよね! 侠さんは?」
という美姉の問いに、姉ちゃんがビクっと肩を震わせる。
から揚げをほお張っていた兄貴が、急に振られたその問いに至極まじめに答える。
「え、オレ? いるけど」
「えええええぇぇぇえええ!!」
驚きのあまり、姉ちゃんが味噌汁をバシャリとひっくり返した。
「あっつぅーー!!」
そしてこれまた運の悪いことに、兄貴の足の上にこぼれる。
「ごごごごごごごめんなさい!!」
姉ちゃんは焦ってハンカチでこぼれたところを拭こうとしたんだけど……まあ、一言で言えば場所が悪かった。
「ちょちょちょちょ、お結衣ぃ――! どこを拭いてんだお前!」
兄貴が顔を真っ青にして姉ちゃんの手を制止する。まあ、そんなトコ女の人に拭かれたら……ね、それは焦るでしょう。そしてそれを見ている僕も複雑な気分。
「何ということだ……」
という合原憐助さんのつぶやきと、美姉のため息が聞こえる。
「わわわわかりました! じゃあ洗います! 洗いますから脱いでください!」
そう言って帯に手を掛け、兄貴の着物を脱がそうとする姉ちゃん。
「おーーい、やめろ! よせ! 分かった! お前の誠意は十分伝わったからー!」
という兄貴の叫びでとりあえず事態は収拾がついた。
「ったくどうしたんだよ、お結衣」
何かちょっと変だぞ、と兄貴が心配そうに尋ねる。
「お前が変な嘘をつくからだろう」
「オレがいつ嘘ついたんだよ」
「さっき恋人がいるって、侠……」
「ああ、あれ? 嘘じゃねぇけど?」
それを聞いて「そ、そんな……」と涙目になる姉ちゃん。
そんな姉ちゃんの様子に気を使ったのか、同僚さんがさらに質問を重ねる。
「本当ですか? 初耳ですけど」
「くだらん見栄を張るな」
「あ? 何言ってんだよ、お前らも知ってんだろ? ほらこう丸っこくて、茶色くて、頭にツノが生えてて~」
兄貴の恋人って化け物?
「もしかして……松之助のことですか?」
あったり~、と嬉しそうに言う兄貴。
「マツノスケ?」
「松之助は侠が飼っているペットです」
ぺ、ペット……。
「そう! ん~もうあいつだけがオレの事一番よく分かってくれてんだ、もう恋人だよ恋
人! オスだけどな!」
そんな兄貴が、僕は何だかちょっとだけ気の毒に思えた。
三人が帰った後、急激に落ち込む姉ちゃん。そんな姉ちゃんを「また巻き返せばいいのよ!」と励ます美姉。それに少し元気を取り戻したんだけど、僕が「でも兄貴のあそこ拭いちゃったのはまずかったね」と言ったら、姉ちゃんが顔を真っ赤にして叫び声をあげて、僕はまた美姉に怒られた。
店を出ると侠輔たちは神妙な面持ちになる。
「やっぱあの化け物ども、跡形も無く消えちまってたな」
「今忍たちにあの怪物と、侠が見たという三人について調べてもらってはいますが……」
そっとアゴに手をやる孝太郎。
「全く。何が起こっているというんだ、この大和で……」
侠輔は薄くなった腕のあざにそっと触れた。
「どうぞ~」
とノックに答える己槻。そう言われて入ってきた、髪のカールした男。よく見れば左頬に大きな刀傷が見える。
「ああ、風雅さん」
「順調ですか?」との風雅問いに「まあまあですね」と答える己槻。
「この間の実験では、それなりの成果を挙げられたそうですね」
「どうだか。チェンシーの研究にもまだまだ課題はあるし、四神石に関しても謎が多い。三つは上照侠輔たちに封印されているとして、あとの一つは誰が持っているのか。そもそも四神石とは一体何なのか、力の源の正体は……」
白衣の男の話を聞きながら、一つ瓶を手にとって眺める風雅。
「ですがあちらの方は、急速な進化を遂げているとか」
風雅は持っていた瓶をそっと机におくと、部屋を仕切っていたカーテンに近づく。
「これ……試してみましょうよ」
そう言ってカーテンをおもむろに開ける。
「奴ら……どんな顔をするでしょうね……」
楽しそうに笑う風雅の瞳に、ウゾウゾとうごめく黒い物体が映っていた。
一言:
書き換えても書き換えても、納得いかないのはなぜでしょうか……。
閲読ありがとうございました。