Op4 A gust of wind~ノストラダムスの二世~
六月も半ばを過ぎると暑さが本格的になってきやがる。誰もが一度はぶつかる煩悩だがこういう時「あー早く冬になんねぇーかなあー」って凄く思うのにいざ冬になると「夏来ねえかなー」って言っているオレがいる。もはや年を十四回も刻んでいるというのに何故バカみたいに同じこと繰り返してんのかね全くやれやれだなこりゃ。にしてもその暑さをこんなまだ期末テストすら終わっていない時期から味合わせるなんて地球温暖化ってやつも手厳しいねえ。擬人化とかしたら絶対に友達になれない気がするなこいつとは。
「旧暦の話で昔は456月を夏と言っていましたが、よもや太陽暦においてもその常識に則ろうとする日が迫ろうとは」
オレが発したただの戯れ言に律儀に答えてくるのは、天空に煌めくアレと同じくらいの眩しさの薄茶髪とスマイルを所有する委員長(♂)であった。こいつは時折、丁寧に折り畳まれた高級そうなガラもののハンカチで真水をもう一度ろ過したくらいに透き通った清らかな汗を拭いとる動作をしている。暑そうにしている割には学ランを首のホックまで止めて重装備しているのは何のポリシーか、衣替えなんて融通の利かな過ぎる校則守っていても何の得にもならんぞと思わず言いたくなる。なんせこっちまで暑くなるからな、お前を見ていると。かく言うオレは学ラン不着用はなんのその、加えて第二ボタンまで外してシャツ出しすんのは憲政の常道ならぬ男子中生の常道だね。
「フフ、肩書きゆえに生徒の見本としてのプレッシャーから自由に動けなくなるとはまさにこのことですね。ところで衣替えといえば我が校は明日からあの制度は廃止だそうですよ」
「あー…、どうせまた会長の一存なんだろ?」
オレはもはや日常茶飯事な突然事に呆れて何も言えなくなる。
「御名答です。先日「暑い暑い暑い」と憔悴しきって連呼しているあの方を目撃した翌日には分厚い書類が出来上がってました。いやはやいつもその行動力には敬服させられます」
「つか、いくら生徒会長つってもそうポンポン校則ってのは変えていいもんなのか?」
「ハハハ、日単位で綸旨の飛び交う後醍醐天皇の治世にならないことを切に願うばかりですよ。まあ、あの方に限ってそれは杞憂だと思いますがね」
にしても…
と委員長(♂)考察はさておいて、オレは思う。いや?決してゴダイゴテンノーとかリンジとか『何それ?食べれるの?記憶にございません状態』とかじゃないんだからねっ!…ゴホンっ、にしても……、衣替えと言えば女子の夏服!そして天に在ます我らが神が与えし『セイクリッド・スウェット』の恩恵による奇跡の御業たる“ブラスケ”を目の当たりに出来るイベントじゃないですかーい。さながらサナギの堅い殻を突き破って出てきた蝶々、仄かな香りを燻らせる制汗剤という鱗粉を撒きながら色とりどりのそれらが飛び回る景色は絶景!まさに男の世界自然遺産!!特に大人な魅惑の会長のブラスケアオムラサキは一見の価値が申し分なくある。そのプラチナチケットを獲得するためならオレは散財をも厭わない所存であるからして………
「そう言えば会長がついでにもう一つ法案を通したって言ってました」
「ん?なんだよ」
オレは一人楽しく妄想に浸っていたというのに、それを阻害するように声が掛けられて不機嫌そうに応答する。お前はさて置かれているんだから黙ってりゃいーんだよ。ふう、まあいいや。で?なんなの?
「確か…、『対遠藤真也女生徒保護法』だとか」
「へー……………って、なんじゃその果てしなく狙い撃ちな校則は!?」
聞き流すに聞き流せなかった。
「会長さんが「おそらく彼の少年は件の衣替え法案を悪用して堂々と卑猥な言動に走るだろうから予防策だ」と」
「チキショー!オレの考えはお見通しって訳かよー…って、それにしても言い方酷すぎじゃね?健全な男子生徒の一時の楽しみくらいもっとオブラートに包もうよ」
漁業をしようと思ったらそこが禁漁区で過度な自然保護団体に執拗な攻撃を加えられた気分に一気に陥る真也。さっきのオレの幸せカムバァーック!!と真也は心で吼えていた。
「新しい校則によると真也くんは明日からダブル眼帯登校だそうです」
「ダブル眼帯!? まずそれでオレが学校にたどり着けると思ってんのかお前ら?」
前代未聞過ぎるだろうが。
「ちなみに学校内でそれを取り外した場合300万円以下の罰金か懲役10年の禁固刑だそうです」
「重っ!? 戦前の治安維持法よりたち悪いぞこの校則!!」
「なにぶん中学生が作った法律なので至らないところも少々あるかと…」
委員長は自分の頭を撫でてわざとらしく舌をだしてへらへらしてみる。
「もはやそれで許されるレベルじゃねえよ!至らないとこ多々あるんだよ!!てかその態度腹立つから今すぐやめやがれ! ………つか、よくこんなの校長が許可したな」
そうである。いくら一存とはいえあまりにもふざけすぎたものは先生達からストップがかかるはずである。
「校長曰く「まっ…いんじゃね」だそうです」
「軽っ!昨今の日本の大臣並に発言が軽すぎんだろ!!」
「PTA会長曰く「何事も経験よね」だそうです」
「その何事にダブル眼帯が入るとはオレには到底思えんのだが!? つか、この二人はオレになんか個人的な恨みでもあるわけ!?」
真也は今明かされる身に覚えのない私怨にあの春香のようにあわてふためいた。
「はあ、あんたたち何をこの暑い中を男同士でむさ苦しく話してんのよ」
そんな男子中生のとりとめの無さ過ぎる会話に不相応にも一人の少女が割って入ってきた。彼女の言うことは無論だ。無駄にたとえるならカラッカラッの砂漠に咲く一輪の紅花だろうか?そんな紅一点という麻雀の古役にあった気のする今更なんの面白味もない表現を体現している彼女はその特徴的とも言えるツインテールを翻しながらつまらなそうに近付いてくる。
「別になんもねえよ、それよかあんまり近付いてくんな温度が上がる。夏の押しくら饅頭ほど旬を外しまくっている食べ物もないだろう?」
「まあ僕はいざとなったら『絶対防御』で耐熱対策すればいーんですけどね」
「あぁっ!?てめえ何だその奥の手は。許さねえからなそんなの」
「そうよ委員長(♂)!使うならせめて私達を入れなさい!」
委員長(♂)が告げた衝撃的な裏技に真也と梨緒はここぞとばかりにタッグを組んでブーイング合戦をする。委員長(♂)はしかし気にした様子はなく、むしろボソッと「防音も発動しときますかね」と言う。二人は構わず声を出し続けていたが、言っている内に余計に暑くなってきた上に体力も非常に消耗したため、必然的にゼーハー息切れしながら要求を断念せざるをえなかった。デモをやろうとしたら国家権力にものの数時間で鎮圧されてしまった感じだ。この計り知れない虚しさはきっと大塩平八郎が経験したものと同じなのではないだろうか?生田万のような後継者の到来をただ祈るばかりである。
「というかですね、最初の頃こそ丁寧な口調だったというのに、だんだん聚楽園さん僕にタメ口使い始めましたね」
委員長(♂)は静かになった二人を見て、ついでに抱いていた疑問の一つを少女にぶつけてみた。梨緒は息を整えるために数秒間の合間をあけてから委員長(♂)を見た。
「へっ?そりゃ私だって最初こそ『委員長』なんて御大層なあだ名とその一歩下がったような態度と丁寧な物言いから判断して、それ相応の対応をしていたつもりだったんだけど、少しずつアンタの性格理解してからはその必要性が感じられないなと見限っただけよ」
「あー、その反応オレを含むオレのクラスの男子ほぼ全員が経験したのにそっくりだわー」
梨緒の意見に全くもって賛同する真也。どこか遠くで真也の同胞も賛同しているに違いない。
「ハハハ 実は僕ギャップ萌えというのを志していまして」
「だとしたらオレの聞いた中で最悪の部類にランクインするギャップ萌えだな」
「だからそういうのよ、ダメだと思うのは」梨緒はそんな委員長(♂)に溜め息しながら「委員長(♂)は多分結婚とかしたらすぐに離婚するわね。それもすぐに再婚して再離婚を繰り返すタイプ」
「それ言えてんな」
女を泣かす悪い奴ってことである。しかも委員長(♂)なら平気な顔して容赦なく慰謝料とかふんだくりそうだ。そんな情景が簡単に思い浮かぶね。
「酷いですねー。ちゃんと結婚したら最後まで大切にしますよ」
そう言って、ポンっと真也の肩を手でたたく委員長(♂)。なぜかウィンクしている姿に真也は戦慄を覚え身体中至る所の鳥肌が軍隊のように一斉に立ち上がる。
「何でオレを見ながら言うんだ!?」
その手を払いのけ完全に怯えきった真也は梨緒に抱きつこうとしたが、彼女は無言でそんな真也の顔面を膝蹴りした。その攻撃の痛みに地面をのたうち回る真也を見下ろしながら梨緒は落ち着いた調子で言う。
「…お幸せに」
「ふざけんなっ!」
真也はあまりの仕打ちに痛みも忘れてガバッと立ち上がる。梨緒は唐突なことにギョッとはしたがそれでも引くことはなしに力説する。
「あなたのお陰で何人もの女性の未来が救われたわ」
「オレの未来が救われなさすぎるんだが…?」
「惜しい人を喪ったわ」
「何故に過去形!?そして人を殺すなっ!!」
真也はそこまでつっこんでから今日一日を振り返ってみる。学校でも琴音にヤクザ体育教師に担任に他クラスの奴らにまでさんざ酷いことを言われていた気がする。
「なんなんだ?なぜ今日はこんなにもいろんな奴から粗末に扱われる?誰得?」
真也はぼそぼそと疑問を口にしながらその場に体育座りして悄気る。少なくともオレ得でないことを即座に理解しながら。そんな暗くてじめじめした態度に残りの二人は同情より先に近寄りがたさを感じた。実際、真也からはTHE・引きこもりと思えるような負のエネルギーが具現化されていたし、それに感化されてか辺りの空気も冬のように寒々としていた。夏の暑さには丁度いいじゃないかと思う人もいるかも知れないが、素手でドライアイスを触るような近づいたらただではすまない感がひしひしと伝わってくるのだ。それはもはやこの辺にバイオハザードマークをつけるのを推奨するレベル。つまりそれほど重症でいくら彼が普段いじめられている側の者からいじめられる特殊な立場にある存在だとしても、そうでない人からもプラスしてやられるのでは身が持たないのである。
「春香が用事で帰っちゃっていたでしょ?今日も練習のためにはりきって来たっていうのに、それがなくなっちゃったからむしゃくしゃしていたのよ」
あまりにもの閉塞感に耐えかねたのか梨緒が弁解する。しかしその言に反論するかのように真也は梨緒にきっと向き直る。
「メールしたじゃねえか、人のせいのように言いやがって」
「だから、電池切れていたのよ。そしてそれもイライラの要因」
「充電してやってる奴にぶつけんなよ!そのイライラ」
現在、梨緒のケータイは真也のカバンの中に入っていてそこに同居している真也のメタリックレッドのノートPCからその電源をもらっているのである。区立諫山中学校は校則としてそれらの持ち込みを禁止していないためだ。そしてこの件に関しても現生徒会長がかかわっていることは言うまでもないだろう。
「そしてお前はなぜあの練習を楽しみと思えんだ…?そのお気楽細胞を少しでも分けてもらいたいから今すぐにその爪の垢を煎じて飲ませやがれ」
梨緒が「なくなってむしゃくしゃした」と言ったのを真也はまったく理解出来なかったようだ。そもそも練習とは、ここにいる三人ともう一人女の子を含む四人で最強の力の向上のための疑似試合などを行うことである。通常、一対一であれば最大二百メートルまでの距離しか因果孤立を展開させることは出来ないが、四人で行うと二キロメートルと格段に距離が伸びるようになり随分と大規模的に練習が出来るのだ。真也がこの練習を恐れるようになったのは一度だけ見た春香の最強の力の暴走の時である。サイコキネシスが無秩序に様々なものを浮かせ強引に動かす様子はまさに台風であった。近くの至る所の建物の窓ガラスを割り鋭利な雨を降らせ、サイコキネシスによる過度なプレッシャーで何台もの自動車を爆弾へと化し、終いにこの辺りで一番の高さを誇るタワーマンションを真ん中で圧し折った時には真也は恐怖で冗談抜きで失禁しそうになった。こんな世紀末の景色を見てもほとんど動じないなんてのはいかなる攻撃をも防ぐ“絶対”で創られたガチャガチャのカプセルに入っているような奴か、なにもかもを粉砕の限りを尽くす破壊の権化をあちらこちらにわらわらと召喚するようなちびっ子くらいである。その他一般に属する真也のようなよわゴシな奴はせめて意識持ってかれないように頭を抑えながら地面に這いつくばるくらいしか生き残る術ってのはなさそうであった。
「いやいやあの規模は僕も驚きを隠せませんでしたよ。僕が初めて見た時と違ってその時は練習のために攻撃の意志があった上での暴走なので威力が格段に上がってましたし。学校の時は体育館とその下の地下プールが半壊する程度でしたから」
委員長(♂)はこう言うが、真也にはそれすらも驚きである。彼らがサバイバルゲームのような戦闘を繰り広げている傍らでそんなことが起きていようとは。もし西校舎の端でなく東校舎で起きていたらと思うとどんな未来になったかは全く想像出来ない。
「はぁ…」
話は戻るが彼は今日に過剰に意地悪い言葉を言われたことにかなり気分を害していた。といっても、言われた言葉自体に怒り悲しみを覚えるわけではない。真也は言われたことについてはたいがい言い返していたから彼の中のストレスはその都度消失していたし、このようにガス抜きすることで平和な日常が持続するなら安い買い物だと思っていたし、加えてこのやりとりは辺りの空気を盛り上げる良い副作用があるのも知っていた。だから真也は言われた言葉一つ一つからの苦しみから気をおとしているのではなかった。平和な日常を誰よりも渇望しているゆえに彼は日々よりも多い作業という些細な違和感がどうしても気にならずにいられなかったのだ。言い知れぬ感覚が彼を戸惑わせているのだ。いわゆる嫌な予感というやつか。
「フフ…、あまり気にしていてもしょうがないですよ」
それを察してか否かは不明だったが真也を慰めるように委員長(♂)は優しく告げた。
「あはは、そうか…だよな。考えすぎか」
「ええ。なにせ僕はいつもと変わりませんし」
「あぁ、そうだな。いつも通り容赦なくたくさんからかいやがって…。てめぇは逆に日常を革変しやがれ!」
真也は「ハハハ」と半ば自暴自棄に笑い声を無理矢理絞り出していたが未だに気掛かりなようで表情が固いままだった。
「…大丈夫なの?」
梨緒がそんな真也に声をかける。
「……ハハ、いやオレの考えすぎかとも思うんだけどなんかひっかかってな。こういう時は過去のことを思い出してならねえ」
「過去?」梨緒が不思議がる。
「いや気にすんなそんな大それたもんじゃねえ。オレはそうじゃなくてなんか嫌なこと…例えば中二病大戦とかがまた起きるんじゃねえかってことが言いてえのよ」
「あらっ、それは良いことじゃない!」
打って変わって梨緒が快活な台詞を吐く。真也はその想定内過ぎる現状に元気よくつっこむ気力も湧かず呆れるように溜め息つくばかりだった。しかしそんなバカらしいことによって逆に真也は安心して委員長(♂)ではないが静かに微笑んだ。
「ったく、お前とはつくづく馬が合わね…………えっ?」
そこまで言ってその笑顔のまま固まり思わず疑問を吐いてしまった。真也には二の句が告げない。それは自分の右手首の白銀のリングから翡翠色の光が拡散するように放たれていたのが理由でもあるし、見えないなにかにつつまれて彼ら以外には人っ子一人いないのが理由でもある。一瞬の内に日常⇒非日常へと移行してしまったこれを因果孤立の空間と人ならぬヒトは呼ぶ。
ま、もっと簡単に言うと
予言的中?
「…っ!?」
真也はとっさにキョロキョロと辺りを見回す。彼らがいるところは五街道の一つの甲州街道に沿った片側の歩道である。こちらは上下ともにヒトが見えないのはすぐに分かったが道路を挟んでの反対側の歩道は交通量の多い道路の弊害か車や特に大型トラックが邪魔で確認しづらくこの場から全てを見てとるのは厳しかった。が、とはいえとても誰かがいそうな雰囲気ではなかったのだが。
「どこかに潜んでやがるのか?」
「落ち着いてください」
真也はことを急いて道路を越えて向こう側へと走りこもうとしたがそれを委員長(♂)が止めた。
「「対戦」の声が聞こえなかったでしょう?おそらく巻き込まれたんですよ」
「っ!? 他で誰かが戦っているってわけか?」
その時、風が強く吹いた。真也が無造作にかき上げられた髪を直そうと手を動かしたのと同時に声が響いた。
「ついに追い詰めたぞ!」
「お前をやれば俺達の評価も上がるってもんだ」
「おとなしくやられな!」
男の声である。それも複数人の。ちらと聞こえた内容から察するに多対一なのだろう。威嚇するような声色がはっきりと聞こえることからどうやら相手は近くにいるようである。真也はそこから判断して安心半分不安半分な心持ちになる。
「ってことは、オレらは関係ないわけか。良かったっ…!だったらさっさとずらかろうぜ」
「なーに言ってんのよ。この近くでのことなら次に私達が遭遇する可能性があるってことじゃない。偵察よ。敵を知っておくのにこしたことはないわ」
真也の囃すような意見を真っ向から反対するように梨緒が言う。彼女は別に真也が嫌いでその発言全てを否定したいわけではない。これは性格の差から来る必然であろう。現に彼女の発言は正論で的を射ており行動としてはこの上ないものだと思われる。
「いや…けどよ、今日はやめにしね?もっと万全を整えてからでも…なっ?ほら今日はうちの最高戦力もいないわけだしさ。もし戦いになったら困るじゃんか」
しかし真也はたとえ理にかなっていようがいなかろうが問題はそこではなかった。単に行きたくなかったのだ。理由はない。あえてあげるとしたら嫌な予感がしたから。デカルト大爆笑なオカルティック溢れる理由だが彼はこれに傾聴したかった。単にそれは自分の闘争本能ならぬ逃走本能の戦いに対する拒絶反応からあらぬ妄想をかきたてているのかもしれないが。
「そうだよ!万全な体勢が必要だ。要するに練習不足ってやつなんだよ。だってそうだろ?練習が足りないんじゃ勝てるものも勝てない、これは戦略的撤退なんだよ。兵法三十六計だって逃げるのには如かないだ………」
そんなよわゴシな感情は真也に強引な逃走ロジックを組み立てさせた。彼は自分の意見に自己陶酔してすっかり説得できたものだと思いこみ、梨緒達の反応を垣間見ようとした。
「…ろっ?」
確かに否定はされなかった。
だが…肯定もされない。
いやそれ云々(うんぬん)以前の問題として目の前には誰もいなかった。真也は東西南北、果ては上下まで見回してみるがまるでその行為自体が無意味であると嘲笑うように空虚だった。真也はまず「先に逃げたのか?」と思った。これは推理でもなんでもない。自分が最も行いたいと思うことについてずっと考えていたために最初にそれが浮かんだのだ。しかし冷静に考えると梨緒がそうする可能性は万に一つもないなと思い直し、「さては委員長(♂)と共にオレをシカトこいて見に行きやがったな」と憤慨したところで焦げ臭さが漂ってきた。
「おっ…オレは帰るぞ?いいな!もう帰っちゃうぞ?いいんだな?」
真也はかまってちゃんのようにショボい恐喝を行うが返事は静寂でしかなかった。今一度言うと彼は一応はこのファンタジー小説の主人公である。たとえ彼がひとりぼっち残されて目に涙を溜めて格好悪く歯をくいしばって両の拳を握りしめながら震えていたとしても。
「ぐっ…行くよ行けばいいんだろ!」
たとえ孤独に堪えかねて投げやり気味に声を張り上げて駆け出そうとしていても残念ながら彼は本作の主人公なのである。読者さんごめんなさい。そんな彼は焦げ臭さを頼りに一つの建物の前に来ていた。一階にコンビニが付属した二、三階建てのこの辺ではよくあるタイプの小マンションである。そこの階段をゆっくりと上っていくと一分もしない内に屋上近くへと辿り着いた。基本は鍵のかかった扉があるために屋上に上がることは出来ないのだが、その扉は鍵が壊されていた。もしかしなくても梨緒の最強の力の『粉砕爆発』の仕業であろう。彼女は練習によって威力コントロールが以前にも増して巧くなったらしく、小規模でもこのようなドアノブを噛みきれるようだ。
「相変わらず、あいつの本気の爆発だけは喰らいたいと思わねーよ」
真也は本音を漏らし改めて他の中二病患者の恐ろしさを思い知りながら、梨緒達に合流すべくなくなってるドアノブ代わりの扉を引くのにちょうど良い持ち手を探る。そして今こそ開けようとした時だった。
「いだっ!?」
手を掛ける前から扉がバンッと勢いよく開いて真也は頭をぶつけた。あまりの痛みにその場にしゃがみこみながら頭を撫でているとまた強く風が吹く。気圧の変化から生じる屋上からの風か?と辺りをつけながらもこの言い様のない怒りをぶつけるために「くそっ梨緒の奴め…」と毒づきながら開かれた扉を越えてさらに階段を上り続ける。
「おいっ!」
やっと外に出て二人の姿を見つけて声をかけたが、彼女らは前を見つめたまま振り返ることはおろか返事の一つしない。このままでは主人公なのに「あっ…いたんだ」と言われかねないと考えた真也は空気扱いを危惧しての寂しさと怒りをない交ぜにしたような感情を抱きながらもう一度声をかけようとする。
「おっ…い?」
かけようとして、彼女らの視線の先に中空になんの頼りもなく浮かんだ別の人間がいることに気付いた。そのヒトは極端に長い黒髪をツインテールする少女で、どこぞの私立中学のブレザーを身に纏っていた。背は真也と同じくらいで中学生にしては体つきがなかなか大人びていた。無表情ならばその顔は着物の映える和系のお嬢様と言えなくもなかったが、顔いっぱいに浮かべた相手を嘲笑う大きな笑みが全てをぶち壊していた。彼女がこちらに気付き真也に声をかける。
「あらっ…シンヤじゃないっ!懐かしいねぇ。まさかお前も中二病患者だったなんて。チョーうけるわ」
真也は汗を今日一番な量流しながら夢でも見ているかのように目の前の景色を疑い驚きと怒りとを込めて一言言う。
「なっ、なんで…なんで、お前がここにいやがる?ここにいるんだ!!」
梨緒が真也に初めて振り返った時、そこには誰がいるのか分からなかった。別人だと思われるくらい彼は目を吊り上げ、呼吸を荒くして、砕かんとばかりの勢いで歯軋りをして“激怒”の二文字を明瞭に表していたからだ。梨緒は本能的に怖いと思った、真也のその様子がでなく梨緒の知らない彼を垣間見ていることが。
「ふふふっ」
浮遊少女はその場景全てを愉悦に感じる。対称的な感情を剥き出しにする少年は一点しかもう見えない。そんな彼の汗は鋭い風が一筋また一筋と凪いでいき、空に飛ばされた水滴は音もなくその姿を消していった。