Ep16 I was ignored~「諦めるな!」って簡単に言うんじゃねえよという絶叫~
「よっ…予想だにしなかったぜ、この展開は」
真也は一人、教室への入り口で立ち往生しながら驚きを隠せないような表情をして、ただただ中にいる“人物”に視線を落としたまま時間を浪費していた。額から溢れ出る冷たいものがこの先の展開の不透明さを物語っていた。
「…?どうしたのよ?」
そんな譫言のようなものを呟き固まっている真也に心配の声を漏らすのは梨緒。
彼女は私立は應麗学院という政界財界医界の三千世界ともいえる各所の二世、三世様が居られる未来の権力をそのまま一つに集約したお坊っちゃまお嬢様学校に通っていた。その身には学校の制服である一着100万は下らない紺色のブレザーを纏っている。左胸には特許申請及び意匠登録されている金刺繍が施されていて、まるで暗闇を照らす満月のような様相を醸し出していた。狙ってやっているのかは疑問だが、あたかも暗い未来を選ばれしエリートが照らそうとでも言うのだろうか?とはいえこれまでもこれからも実際に国を支えてきたのは“誰かに光らされてきた月”ではなく、あくせく働いてきた庶民層なのではあるが。
ブレザーの腰辺りを両手で握り締め真也の形相にあらゆる予想を抱きながら息をのむそんな少女は、しかし意を決する。真也から離れることおおよそ二~三メートル。この短いようでいて長く感じる距離を梨緒は、一歩、また一歩と縮めていく。そしてちょこんと真也の隣にたどり着くと首を回して教室の中を覗いた。
「あっ…あなたは!」
梨緒は驚きの声を漏らす。ただ、その声は恐怖を発生源とする場を震撼させるようなものではなく、プラス…とも言い難いが、街中で急に声をかけられたかと思ったら、数年来の友人に遭遇したかのような感じに不意を突くものだった。
「おやおや、やっとお出ましですか?」
教室の中の“もの”が二人を観察するように順に見比べながらその絶対的に端正な顔に微笑を浮かべる。そんな聖人君主のような雰囲気を醸し出す“少年”は寄り掛かっていた壁からゆっくりと離れる。やっと自分の体で立ち上がった彼は外も暑いというのに律儀に第一ボタンはおろか首下のホックまで締めた自分の学ランの背中をパンパンとはたく。そんな乾いた音のみが墨汁を大袈裟にぶちまけたように焦げ付いている教室に響く。
「いやいや、「やっと」ってお前…」
その一連の動作を眺めながら嘆息して口を開く真也。さっきまでの張りつめていた自分がバカみたいに思えて、そう思うとどっと疲れが溢れてきた。真也は座るために無事な椅子を探して瞳を世話しなく動かす。
「まさか、お前も『中二病患者』だなんてだれが思うかよ?“委員長(♂)”」
やがて、真也がめぼしい椅子を発見して、その折り畳み式のパイプ性の椅子を無造作に床に散らばった中――――もともとは壁に掛かっていたのだろう―――から取りだしもくもくと組み立てる。
「僕は知っていましたけどね。真也くんが中二病患者なのを」
委員長(♂)は腕を組みながら静かに告げる。真也は意識的に自分の左腕の手首を見た。より正確にはそこについている、紅くVの字が彫られたシルバーリングを。委員長(♂)がそれを知ったのはこのヴィクターリングを通学路で見られたときだなと推測する。
「梨緒のことは?」
「簡単な推理ですよ。真也くんがヴィクターウォーズ関連以外で、幼なじみでもないのに女の子と親しげなわけないじゃないですか」
「微妙にムカつくな」
そう言いつつも梨緒によってそれなりにムカツキへの態勢をつけられた真也は、座ったまま足を組みながら紳士の笑顔で受け答えする。
「モテてる訳でもないし、変態ですし、ニヤケ面気持ち悪いですし、」
「よし、お前ぶんなぐるわ」
“しんし は にげだした”回り込む隙もないほどで、真也は握り拳を知らぬ間に作っていた。怒りながらも「(オレってそんなにニヤケ面気持ち悪いかな)」と卑屈になってしまう。委員長(♂)はそんな真也のいろいろ忙しい感情変化にクスクスと笑う。
「ちっ、なんだよ。なら、言ってくれりゃ良かったのによー」
そんな態度を目の当たりにして、いつものように玩ばれたことを悔やみつつも、知っていたことを黙っていた委員長(♂)のつれない様子にしょげながら腕を上空に伸ばしていると
「シンヤッ!!」
突如にして轟音のように発せられた梨緒の呼び声にビクつき脊髄反射でそちらに顔を向けた。
「なっ…」
真也はそこで驚きのために上がった心拍数を戻すために一拍おいて
「何だよ?梨緒」と訝しみながら問う。
梨緒はあたかも事態が未だに呑み込めないように瞳を泳がせ、目に見えぬ恐怖に怖じ気づいていた。轟音かに思えた先程の声も突発的かもしくはトラウマゆえの遠藤真也補正がかかっていたからそう思えただけで、実際には喉に何かがつまりながらもなんとか言えたような金切り声だったようだ。
「なっ…「何だよ」ってあんた、状況分かってんの?何でそんなに平然と…、落ち着いてられるのよ!」梨緒が一気にまくし立てる。
真也にはその言葉に思わず噴き出しそうになってしまったが、尋常な状態じゃない梨緒にその笑いは押し留められ、代わりに疑問を吐き出す。
「どうしたんだよ?お前。知っているだろ?委員長(♂)のことは。だってさっき会ったじゃねえか」
「会ったわ、さっき。けど、それが何?敵じゃないわけじゃ…ないじゃない!」
「あ?」
梨緒がよく知りもしないのに真也の友人とその繋がりを侮辱するかのように聞こえた真也はカチンときた。
「そーか、そーか。だが、んなこと言ったらお前だってオレの敵じゃねえか」
「なによ!!もしかして実はこの教室に私を連れてきたのはそこの人と組んで私を倒そうって魂胆だっていうの!」
「なっ!?そんなことは言ってないだろ?そうじゃなくてだな、もっと人をしんよ…」
「信用しろって言うの?また?何回裏切られたと思ってんの?チエもリサもヨッチもみんないなくなった!なんなのよ、疑ってもダメだなんて!」
「はぁ…?どーしたんだよお前?」
「何でもないわよ!!!!!!」
どうやら真也は地雷を踏んでしまったようで、梨緒は言葉にならない言葉を吐きながら台風のようにボロボロ涙を零しながら泣き出していた。真也は委員長(♂)からの痛い視線をとことん無視しながらも、傘を持って来るのを忘れたので取り敢えず気休めながらも頭を撫でることにした。
「あっ…あんひゃ…らって、裏切られたじゃない」
「……!?」
しかし真也は勘違いしていたのだ。その台風は別に他国のことでも、他県のことでもなく自分のいる場所でも巻き起こっていることに。梨緒がか細いながらも絞り出した声は真也に馴染みあった友人の名を想記させた。
―――鏑木亮太、真也の友人だった彼はヴィクターウォーズに巻き込まれたために、自身の望みを半ば強引に叶えたがそれはかわりにいろんなものを犠牲にした。強さに魅せられてか友人たる真也を襲い、関係もうやむやなまま彼は真也の前から姿を消した。その彼を。
「だからって!」真也は言う。
「じゃあ、なんであの人は私達のことを知っていたのに言わなかったの?なんでさっきまでの闘いに手助けしてくれなかったのに、疲弊した私達の前に急に現れたの?」
「そっ…それは……」
真也は何も言えなくなった。梨緒も最初こそ味方なのだと思ったが、ゆっくりと考えて、そして委員長(♂)の話を聞いているうちにあまりにもおかしいことに気が付いたのだった。けど真也は狼狽えて、頭を掻きむしりたい衝動に駆られて、泣きたくなって、死ぬ前でもないのに委員長(♂)のことが走馬灯になって―――
入学したての頃に席が近くて最初はいけすかない野郎だなって思っていたけど、実は男女問わずに周りによく気を配れてオレはいつの間にか名前で呼ばなくなって、体育の時とか特に背筋が凍るような妙な目で見てきて気持ち悪かったが、遠足の時になぜか同じ班で俺が菓子忘れたときも嫌な顔一つせずに分けてくれて、溜めてあった夏休みの宿題を崩していく作業には頼もしかったし、キルタイムするにはちょうど良かった上に、綺麗事だけじゃなくて互いに皮肉じみた笑える侮辱イコール素で話せるかけがえのないやつだと思っていた。いや!思っている!!
――――真也は自分が間違っているとは思えなかった。そして思いたくなかった。確かに人を信用すると言うことは一般的に正しい行為であるし基本的にその考え方が間違っているとは言えない。だが逆に、人を信用するということは考えるのを放棄し、真実を知ることを拒絶することとも言える。真に友人だと思うのなら逆に疑うべきなのだ、それを確実的なものにするために。真也はその負の部分に陥っていた。鏑木亮太のことがあったからこそ、二度と同じことが起こることを望まないために“最悪の事態を考えたくなかったのだ”。
「……はは…ははは、そんなこと…ないよな、委員長(♂)?お前からもこいつに言ってやってくれよ」
真也は梨緒に向いていた顔をゆっくりとひねって委員長に同意を求める。もはやどちらが泣いていたのか分からないくらいに真也は震えている。疑問や激怒や悲哀やらをないまぜにした感情が彼の笑顔をひきつらせる。
「やれやれ真也君、全く笑えてきますよねぇ」
「そっ…そうだよなぁ、お前がオレの敵だなんてそんな馬鹿げたこ…」
「君のお人好しさには。心底敬服しますよ」
「…………はっ?」
真也はあまりの事態に言葉を失う。夢だと信じ、幻聴を凪ぎ払おうと尽力した。
「叶えたい夢のためには友人の一人や二人なんて大したことないですよ、簡単に捨てられます」
「おいおい…」
汗ばむ手をズボンで乱雑に吹きながら、明らかに動揺している真也。委員長(♂)に焦点が合わない。まるで良くできた乾膝像とでも喋っているように真也の知っている彼に似せた何かに思えた。
「あなただって、そうですよね?だからこの戦いに参加した。違いますか?あの鏑木君だってそうでしたのですよね?」
「(やめろ…、語るな)」真也は何もかもから抜け出そうとして目を瞑る。
「漁夫の利だとは思いましたよ。初めは一人で二人を片さないと思うと少しばかり憂鬱でしたのに、気付いたら素敵な潰しあいが始まったじゃないですか。あとは疲弊を待てばいい」
「(……やめてくれ)」
そのまま拭った両手を頭に持っていって全ての音を遮断しようと、
「あーあ、残念でしたね。せめてここに来るのがどちらか一人でしたら楽でしたの―――」
「てめぇっ!!!!!!!!!!!!」
…したその手を、前に突き出しながら真也は駆け出して委員長(♂)に詰め寄りその胸ぐらを掴みあげる。あまりに力を入れすぎたせいか委員長(♂)の学ランの第一ボタンがぶちりと外れ流線型を描きながら落下したと思ったら、カランと高い音がしてそのまま辺りを転がっていった。
「いい加減にしやがれっ!」
真也は一気に込み上げた感情を糧に怒鳴り散らす。委員長(♂)は多少飛んだ唾に不愉快な顔をしながらも、目の前の真也に向けてはあたかも空気でも見るかのような瞳で無感情で生気のない視線を浴びせていた。
「申し訳ありませんが、その手を放してくれませんかね?」
「ふっ…ざけろよ?友人の一人や二人大したことない?オレが、鏑木がっ、捨てられるだと?それに漁夫の利だぁっ?バカも休み休み言いやがれ!」
「手を放せと言っているのが聞こえないんですかね!!!!」
委員長(♂)が声を張り上げたと思った瞬間、真也は何か見えない力に弾き飛ばされていた。体全体を同時に思いっきり殴られたような感覚が真也に気を失わせようと誘わせる。
「なっ…!? ぐっ…」
その勢いのままに尻餅をついた真也は何が起きたのか理解できていなかった。理解したのは痛さ。口の中に溜まった赤い温かいものをその辺に吐き出す。委員長(♂)はそんな真也を無視して落っこちた金ボタンを拾おうと腰を折り曲げていた。
「シンヤ!下がって!!」
後ろから梨緒の声が聞こえて咄嗟に立ち上がり、その為に使う力を過剰に足に入れて反作用で後ろに飛び跳ねる。
「粉砕爆発!!」
それと同時に委員長(♂)の前方の空間がKAGEROU…ではなく、陽炎のようにネジ曲がりそこから高温の空気が膨れ上がる。その増殖がけたたましい音色を奏でながら、まるでそれに魅了されるように委員長(♂)は包み隠された。
「…、はぁ…はぁ」
真也はその様子を無言で見つめていた。火事でなにもかもをなくしつつもその燃えかたに酔いしれるというのにも似た矛盾した感情を抱きながら、この闘いが終わったらのことを考えると真也は胃が痛かった。
校舎を藻屑へと化す程の威力を持つ梨緒の爆発は、さっきまで相対していた西山が使っていた人形を媒介としたちゃちなものとは段違いであった。そこには何も残らない。西山の爆発を真っ白の紙に4Bの鉛筆でグシャグシャに塗り潰すことに例えるなら、梨緒の爆発はその紙に印刷機用の黒インキをぶちまけるのに等しい。それくらい前者と後者は離れているのだ。
「ちっ、考えてもしょうがねえ。取り敢えず終わったならこんなクソったれな所なんざ出ちまおう…って、ん、どうした梨…」
だからこそ、真也はその爆発が直撃して無事な奴なんて万に一つもいるとは思っていなかった。これは信用というよりは偏見に近いものがあった。なにせ梨緒の爆発の威力は身をもって知っていたからだ。だけど、未来のことを言うと鬼が笑うとか何とか…。
「…………嘘だろ?」
固まっている梨緒の視線の先を追いかけるとそこには無傷でその場に立ち尽くす委員長(♂)の姿があった。
「フフフ、君は信頼という言葉が余程好きなようですね。ですが、早合点はよくありませんよ」
委員長(♂)が顔に浮かべたスマイルは、イケメンに目がない狂信者レベルの女性ならばゼロ円どころか百億萬円出してでも拝みたいだろうと思われるような万人受けするものであったが、今の真也にとっては不気味以外のなにものでもなかった。それは梨緒も同じようで蛇に睨まれた蛙が如く縮こまっていた。
「シールド…か?」
真也は心が乱れながらもなるべく冷静を装いながら委員長(♂)の能力を分析した。よく見ると委員長(♂)の廻りだけ球を描くように不自然に教室の損傷がなかったのである。
「フフ、ご明察。その通りですよ。僕の最強の力はシールドの力、その名も『絶対防御』です。この『絶対防御』はその名の冠する通り“いかなる攻撃をも防ぐ”力です」
その真也の行為に満足した委員長(♂)は顎に指を当てながら己の能力の名を告げる。だが、委員長(♂)のその物言いに不審点を感じた真也は半ば呆れ果てながら笑いだす。
「絶対?防御? ハハハ、何を言い出すかと思えばそんな薄っぺらいはったりかよ。オレをバカにすんなよ?確かそんな『絶対』なんてのは最強の力としては使えないんじゃなかったか?」
「フフフ、誰がそんなこと言っていました?」
「いや、だって何だっけ?『絶対勝利』とか『既第一位』“など”の頂点を約束されたような反則的最強の力は禁止だとかルールブック的なものに書いてあったじゃねえか」
「どうやら最強のゴールキーパーというのは向こうにとって、必ずしも頂点を約束されたものではなかったようですよ?」
「?」真也の笑いが止む。
つまり委員長(♂)は、かなり瀬戸際な能力を所望してそれが見事にも通ったようである。それはありがたい結果であるはずなのだが、自身の力を甘く見られているからなのか委員長(♂)はどこか不服そうな顔を見せていた。
対する真也は一歩下がりながら、
「あぁっ!そうか! あれだろ?実は一ヶ所もしくは三~四ヶ所弱点があってそこを同時に攻撃したら壊れるとか」
と真也はプラス思考な発想で再び無理矢理自己を奮い立たせる。
「大丈夫です、安心してください。看板に偽りなしですから。弱点はありません」
しかし、委員長(♂)は真也が幻想で創りだしたか細い希望さえも打ち砕いていく。
「はああぁぁぁああぁああ??」
真也はあまりにあり得ない現実に打ちひしがれた。数学の先生がたまにやる抜き打ちテストへの文句の時も真也は似たような声を発するが、今回のこれは純度が違った。まさにムリゲー、そしてクソゲー。それはマ〇オでワ〇ワンを倒すくらい、ポケ〇ンで“たいあたり”でゴーストタイプを倒すくらい、ク〇ッシュバ〇ディクー2でパパ〇まを倒すくらいに攻略不可であった。
「マジかよ…、そんなのズルいじゃねえか?反則的じゃない…だと?運営委員会の目は節穴か?あり得んだろ!?どうやって勝てと?それじゃあオレの唯一無二の必殺技たるムーンサルトプレス(【注意】ただの、飛び降り無理心中のことである)もその効果を発揮できねえじゃねえか…!」
目の当たりにする事実に叫びをあげながら真也は戦う前から意気消沈していて諦めモードが漂っていた。しかしそんな真也を叱咤激励したのは意外にも梨緒だった。
「しっかりしなさいよ、シンヤ。戦うわよ」
「戦うっておまえ…、さっきの話を聞いてたのか?」
「聞いたわ。けど、それがどうしたのよ。そんな理由で諦めるなんて悔しいじゃない」
「お前、頼もしいな。……つか、涙は?もう、いーのか?」
梨緒が男勝りな堂々とした出で立ちで言い切るのでいつものチビッコが別人なほど真也にはたくましく見えた。ゆえに自分の子が成長した姿を様々と見せつけられた心境のように感嘆の念を抱くのであった。
「ふふ、嘘泣きは女の持つ最高の最強の力よ」
「さっ…さすがでさぁ、姐さん!」
梨緒はちんまりした体で背伸びしたように全力で大人な女の立ち振舞いをした。そんなインテグリティーの整っていない状態に違和感を覚えてなのか、「(あれが…嘘泣きか?)」と疑問に感じなくもなかったが今はどうでも良かった。
「それに、よわゴシにとってはどんな相手でも“反則的に勝てない”んだから、たかだか“絶対に攻撃が効かない”くらいで狼狽えるんじゃないわよ」
梨緒は委員長(♂)の微笑みが感染したのか爽やかな顔で手を真也に伸ばす。
「梨…緒……」
真也は堪らず涙目。ここにきて完全に遠藤真也の主人公性を疑わざるを得ない。本来ならばこういった聞いてるこっちが恥ずかしくなるな台詞は一応は主人公のポジションにある彼が言うべきで、時に読者を勇気づけるはずのお前が勇気づけられてるのはどんな茶番であろうか。
「うっしゃ、ここにシンヤッチパワーが溜まってきただろう!」
真也は一寸前とは真逆と言えるようなうざったいテンションでなぜか腕のストレッチしながら伸ばした部分を見せつけてうざったいことを言いのける。
要するに真也は単純であり付和雷同なのである。よく言えば真摯でひたむきとも言えなくもないが詐欺師や宣教師にとって一番都合のいいタイプであろう。梨緒は真也と同様に、それなりに彼とつるんでいる間に真也の性格をだいたい理解してきたのでやる気を上げさせるのは造作もないという訳である。現に梨緒は真也のその完全にシナリオ通りの展開に対し、そのあまりの浅はかさに侮蔑の念を込めて目を細めて鼻で笑うしかなかったようだ。
しかし、これで漸く心置きなく戦闘に入れる。真也と梨緒はお互いに一瞬だけ視線を合わせると相対する敵を見据えた。急に静かになる教室。さっきから爆発が引き続いて起こっていたため室温は常時より高まっていたが、はりつめた空気の中でそれはむしろ丁度いいとすら真也は思った。
「………………」
真也は急激に口の中に湧いた唾液を一気に飲み干す。そんな普段なら注意して聞いても聞き取れないはずの些細な音すらここでは拡声器でも使ったかのように体の髄に響き渡った。そして凝視する先、この空間の中心点に少年が佇んでいた。根拠はない。だが直観が彼を中心とした空間であると訴えているのだ。よもや後光とも見てとれる比較的金に近い薄茶色の髪を自由にたなびかせている彼はその纏う雰囲気が既に涅槃寂静を極めしことを暗示しているようであった。それでいて委員長(♂)は普段と変わらずなにくわぬ顔でこちらを見返している。
「精々、素晴らしい足掻きを」
そのお世辞とも皮肉とも応援とも警告ともとれる現実はここでは冗談の役割を全くなしていなかった。さながら真也を希望へと奮い立たせる最後の柱を破壊せしめんとするノコギリといったところだろうか。
真也は視線は変わらず委員長(♂)を合わせながら、梨緒にそっと耳打ちしようと試みる。
「(一つ、確認したいことがあ…)」
「ふえぇっ!?あぅ…ふぁ」
しかし突然耳に息が吹きかかって梨緒はあまりのくすぐったさに喘ぎ声のようなものを吐き出して、紅潮してしまった。委員長(♂)に集中していたのに思わぬ横槍が入って驚嘆したのも一つの原因であろう。
「(…聞けよバカ。遊んでんじゃねえよ)」
しかし変な所で天然な真也は梨緒がふざけているようにしか見えなかった。若干の苛立ちが湧いたのがそれを助長したのか真也は梨緒の反応にお構いなしに無理矢理耳元で囁く。梨緒も今がどんな時か理解していたから歯を食いしばって考えないようにしたが、意識から外そうと試みれば試みるほどそれをより意識してしまうのは人間の持つ心理学的性質である。真也発の生暖かい微風が梨緒のマシュマロのように柔くそれでいて麗しく紋様の描かれた貝殻のような耳を、優しく、時に激しく愛撫する。そんな不規則なリズムのストロークが梨緒から慣れを奪い去りその小さな体を小刻みに震わせていた。
「(委員長(♂)の360゜×360゜に小爆発を同時に展開してみてくれないか?)」
真也はそれだけ囁くとすっと後ろに下がる。梨緒の爆風に巻き込まれたり、集中を妨げてしまうのは得策でないと判断したからだ(とは言っても後者の方は十分に邪魔したと言えるが)。バラバラになった机に転ばないように脚でそれらを出来るだけ退かしながら真也は事の成り行きを見守った。
「(委員長(♂)の最強の力がああいうものならば、今はまだ梨緒にたいした危険が及ぶことはないだろう。だが…、)」
心中で最強の力の分析をしながら真也は最大の疑問を解きあぐねていた。
「(サッカーで自陣のゴールを一寸の隙もなくコンクリートで塗り固め塞いでしまったのが委員長(♂)の最強の力の例えだとして。それはどんなバロンドールにも負けない“最強”を誇るだろう。でもその“最強”は一方向のものでしかないはずなんだ。なのに、瀕死とは言えどうやってあれをやってのけたと言うんだ?)」
真也は委員長(♂)の最強の力のまだ見ぬ力に恐れながらもまずは情報集めに撤するべきであると判断を下した。ただ、もし委員長(♂)が一気に対戦を終わらせてくるなら、最終手段として梨緒の必逃の技『大爆発エスケープ』を使うしかない。本来ならば委員長(♂)という超知り合いに対しこの技を使うのは蟠りと気まずさの原因にしかならないのだが背に腹は変えられない。
だいたいそんなことを考えていた真也の前方で爆音が轟いた。委員長(♂)の周りからまばらに火の粉が舞う。小爆発とは言えまだ僅かに残っている窓ガラスを衝撃波で震わせる力くらいは持っている。なのに案の定、委員長(♂)はその身に秘めたる『絶対防御』を使っているため、震動はおろか辺りに充満する爆煙すらもはね除ける。しかしその為に現れる。絶対不可侵の無色透明たる神域がその姿を顕す。何も通さないからこそ現れる現象。周りの煙が委員長(♂)の『絶対防御』の効果範囲を浮き彫りにする。委員長(♂)の身長を直径としてそれを軸に綺麗な球が囲んでいた。
「ちっ、やっぱり全方位の防御陣か」
ただ、真也は言うほど悔しがっていなかった。まるで一口しか買っていない宝くじで「やっぱり一等は当たらなかったか」といった感じの様子が見受けられていた。
「言ったじゃないですか看板に偽りなしと。フフフ、さながら巨大ガチャガチャと言った所ですかね?」
「はっ!だとしたらこんなもんがダブった日には不幸で立ち直れねえかもしんねえな」
「フフ、ひどい言い草ですね。さて準備体操はもう十分ですか?」
委員長(♂)は声を低くしてゆっくりと学ランの金ボタンを外していき、すっと内ポケットに手を入れる。
「梨緒っ!今のやつをさっきより火力上げてやってくれ!何度も何度もだ!」
しかしその委員長(♂)の一連の動作を黙って見ている真也ではなかった。梨緒に叫んで指示を飛ばす。
「でも、そんな闇雲にやっても…」ことの無意味さゆえに賛成しかねる梨緒。
「頼む!何も言わずに…、今は少しでも時間が惜しいんだ! それに“絶対”なんてこの戦いのルール上やっぱりあり得ねえんだ!」
「…分かったわ」
梨緒は真也の必死さを一瞥して攻撃に専念することにした。手を前に出して、目の前の空間が爆発するのをイメージする。単純に言い争いをしているよりは攻撃に集中して突破口を個人的に模索する方が得策だと考えたのもあるし、こーゆー時の真也は何か作戦を見出だしていることが多いので協力しようと思ったからだ。
「おやおや?ここにきてまだ僕の“絶対”を信じられないんですか?あなたは信頼と疑念のタイミングが全くズレてますね」
掃除道具ロッカーに寄っ掛かりながらコロコロと真也の愚鈍さを委員長(♂)は嘲笑った。真也はちょうどRPGの魔王が人間に向けるそれと似たようなものを感じてゾッとした。
「い……っ! ………」
真也は何か言ってやろうかという衝動に駆られたが、再び巻き起こった爆発群のつんざくような音にびっくりして咄嗟に手で耳を覆い、声を発してもかき消されそうだったので諦めて口を閉め場を見守る。今の状況に真也の『戦意皆無』が介入するにはあまりに矮小過ぎたのである。
「(真也の“絶対性への不信感”は多分、嘘)」
攻撃しながら梨緒は考えていた。
目の前は地獄の比喩としては十分なくらいに赤黒く染まっていた。委員長(♂)がもたれている緑の掃除ロッカーとその周囲以外は、壁や床の鉄筋コンクリートが既に露出しているのだ。
「(多分、なにか別の考えがあって敵にそれを悟られないための囮。なら、これが本筋に見えるくらい撤する!)」
爆発の勢いが忽ち上がる。雷鳴が瞬いたような爆音が次々に続く。真也は耳がやられないように耳に手をやったままさっきから微動だにしない。梨緒には『爆発耐性』という特性があり自身の爆発は爆風以外なら全てノーダメージでやり過ごせるというものである。
「はぁ…はぁ……」
その内梨緒はくたびれてきたのか爆発の勢いがだんだんと弱くなり、ついにはそれが止んだ。そのまま梨緒は前に出していた手をたらっと下におろして、ガクッと膝立ち状態になる。格段に温度の上昇した教室で委員長(♂)は内ポケットに入れていた手を取り出し「使う必要はありませんね」と静かに呟いて、その手で顔を掻く。
「フフ、フフフ」
「ぐっ」
委員長(♂)は再び顔いっぱいに笑みを浮かべ、余裕ぶって笑い出す。それを見た真也は耳から手を離しながら悔しそうに声を出す。
「もう終わりですか?準備体操は?さて、では行きま…す……?」
委員長(♂)は言い終える前に体の異変を感じたのか左手で撫でるように自分の頭を押さえて驚いたように目をパチクリとさせる。
「これは…?」
委員長(♂)はすぐに何かに気付いたように余った右手で急いで口を塞ぎにかかる。梨緒は何が起きたのか分からないままにそのおかしな風景を見て呆然としていた。それらを確認して真也は委員長(♂)に向かって静かに告げた。
「たしかに終わったよ。だが、終わったのはお前だがな!」
「っ!!!?」
真也は続けざまに言う。
「流石にもう気づいてんだろ?原因を。それは二酸化炭素だ。確か呼吸する空気に3~4%それが含まれているだけで目眩を起こし、7%もあれば気絶ものだったはず」
「ぐっ…ぐぐぐぐっ!」
委員長(♂)は両手で口を抑えたまま悶え下を向く。
「今更、口を抑えても無駄だぜ!それに人間は皮膚呼吸もしてんだ!」
「ぐぐぐぐぐっ…ぐぐ」
「だから、降参しろ! そうしたら引き分けにする」その一言に再び驚いたように真也を見る委員長(♂)、梨緒が近くで異議を唱えるためにぎゃあぎゃあとわめいていたが真也は無視して、「オレはやっぱりお前を倒したくない。二度とオレと戦うな! 学校では…中二病大戦の話はするな!以前通り接しろ!!」
あまりにもお人好しに思われるかもしれないが、真也にとってはこの大戦で一位になるよりも、これ以上に超常が介入して自分の日常を荒らされないようにするのが最善なのである。
「ぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐっ」
「おいっ!聞いているのか?」真也はさっきの爆発の再来かと思われるくらいの声で怒鳴った。
「ぐぐぐ、くくく…フフ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!!!!!!」
委員長(♂)はついに両手を口から離して柄にも合わず思いっきり笑い出す。その狂ったような笑い声に真也は何が起きたのか分からずに小さく開口したままその姿をただただ見ていた。
「いやいや、失礼。「降参しろ」「お前と戦いたくない」こんな言葉が仮にも中二病患者から告げられるとはあまりにもシュール過ぎて耐えられませんでしたよ」
「はっ…?いやっ…っ、おまっ!?」
くっくっくと未だに大笑いの余韻が抜けない委員長(♂)は真也の唖然とした姿がなお面白いらしい。
「分かりますよ?真也くん。君の考え、君が立てた論理がね。おそらく君はこう考えた。僕は“攻撃力のあるもの以外は防げない”と」
「………………」
「フッフッフ…」
終始無言で聞き入る真也に、気持ちはもう推理小説の最終局面のように朗々と語る委員長(♂)。
「だからこそ、光を防げないから僕の姿は可視出来るのであり、音を防げないから僕と話が通じるのであり、外部の空気を防げないから窒息しないでいられるんですから。そしてそのことはご推察通りで何も間違ってません。お見事です」
委員長(♂)はパチパチとゆっくりと拍手する。教室に拍手の乾いた音が鳴り響く。この拍手は感動してのそれより、ご足労だったことに対する上から目線の褒賞に近かった。
「じゃあ、なぜ?」ようやく声が出せるようになった真也は、委員長(♂)の嫌味なんて全く興味なくてそれよりも一歩乗り出して理由を探りたくなる。
「僕の最強の力は“絶対”防御なんですよ? まさか二酸化炭素中毒“対”策の耐防御機構が組み込まれていないと思ったんですか?」
「「………っな!?」」
真也と同時に梨緒までもが驚愕に顔を歪める。その絶望テイストな雰囲気を目の当たりにした委員長(♂)は実に嬉しそうにして、それから右手を虚空に差し出し人差し指を突き出しながら普通は見えない何かを指差す。しかし今は煙のために“それ”が見えているために真也達は委員長(♂)が何を差しているのか簡単に理解できた。
「ここにあるただの空間と絶対防御の狭間で空気を正常な数値に戻せるのですよ。だから僕が吸っているのは二酸化炭素、いやこの爆発ならもしやそれ以上に危険な一酸化炭素も出ているかも知れませんが、それらが多いこの有害な空気ではなくいつもの、いや…都心は空気が汚いと言いますしそれより極上なものかも分かりませんよ」
「……………………」
真也は言葉が出ない。
「君にとっては最強のゴールキーパーのいるサッカーゴールに萎ませたボールをネットの方から入れて中で膨らますといった勝利への抜け道だったようですが、残念ながらそれ、ゴールキックなんですよ。それに耐二酸化炭素中毒だけじゃない。気付かなかったのですか?君があれだけ耳を塞いでいた爆発を、僕はより間近にいたのに眉ひとつ動かさなかったのを」
「そういや…」
「耐轟音です。他にも耐熱耐寒耐有害光線耐水耐沼耐風、そして試したことはありませんが耐宇宙空間まで勢揃いですよ。…、さて。ですが二酸化炭素が充満している空間ってのもいー気分はしませんね」
「?」
委員長(♂)は黒々としている辺りをゆっくりと見回すと突如全身に力を入れた。能力を行使したのであるが真也達には何が起きたのか分からず、ただビュンと風を切るような音だけが聞こえた。依然として何も変わらず同じ煙の立ち込めた空間が広がっていた…かに見えた。
「今、僕の『絶対防御』を一瞬だけ膨張させて全ての空気を正常に戻しました。君の勝ちの目を万が一にも潰すためにね。これでそろそろ理解してくれましたかね?僕がいかに無敵最強完璧絶対であるかが」
「くっ…」
その口振りは真也がどれだけ超常に抗おうとも無駄であることを如実に表していた。馬の耳に風、豚に念仏、犬に論語、猫に経、兎に祭文、牛に経文、暖簾に腕押し、豆腐に鎹、糠に釘、その全てを凌駕する抵抗の無意味さがそこにあった。絶対という暗黒物質で創られた壁はあまりにも高くあまりにも厚かったのだ。
「なにが最強だ、お前の最強は防御一辺倒じゃねえか!確かに“絶対”負けないが必ず勝つわけじゃないだろうが?そんなよわゴシな奴のどこが恐ろしいんだよ!」
絶対に負けない=絶対に勝つという方程式は成り立たない。なぜなら勝負事のほとんどが勝ち負けの二言論で語れるものではないからだ。引き分けがあるのはもちろんだし、ボクシングとかの格闘技はむしろ防御にばかり撤していたら判定負けもあり得るからだ。
「なのに…、なぜお前はそんな目をしている!?」
しかし真也のその訴えを委員長(♂)は哀れむような目で見ていた。
「君もさすがに気付いているでしょう? 君達が無視している最大の疑問を」
「…………」
「そもそも君達はここに何しに来たんだい?まさか超能力者じゃあるまいし、僕に会いに来た訳じゃないでしょう?さっきまで戦っていた最後の一人を追ってきたはずです。そういえば彼はどこに“イッ”たんでしょうねぇ?」
分かりきったことを白々しく言う。委員長(♂)はここで両手を前方の中空に持ってくる。真也は本能的に目の前から危険な臭いをビンビンに感じ取っていた。
「せっかくですから可視化しましょう。その方が理解しやすいですから」
「な…なんなんだよ、これは」
真也の前には変わらず委員長(♂)がいたが今度は煙がなくても『絶対防御』の効果範囲がクリアグリーンに染まっていたので簡単に見てとれることが出来た。しかしその『絶対防御』は先ほど煙でその様相を確認したときとはだいぶ趣を異にしていた。その『絶対防御』は委員長(♂)よりも二周りか三周り大きく人型を描いてその身を包んでいて、加えてその両手には大剣クレイモアを埋め込んだかのような鋭利なものがギラついていた。
「矛盾って言葉がありますよね。慣用句の意味ではなく、楚の国のエピソードで、どんな盾をも突き通す矛とどんな矛をも突き通さない盾はどちらが強いかという永遠に決着のつかない疑問について」
「…、盾だって言いてえのか?」
「確かにそんなキャパシティーを持ってる私はどちらかと言うと盾を応援したい気持ちはありますが、こればっかりはなんとも言えませんよね」
「何が言いたい?」
「いや…ね。ただ、少なくとも“絶対”で創られた盾と同じ素材で創られた矛ってのはなかなか“最強”じゃないかなって…思いましてねっ!!!!!!」
委員長(♂)は静かに話していた途中からイントネーションを突然上げてそれと同時に地面を思いっきり蹴って移動力を獲得する。その断末魔は何の躊躇もなく一目散にか弱い少女へと向かう。
「なっ!?バカっ!!避けろ梨緒ぉっ!!!」
それに一瞬遅れて気付いた真也は、体力の限界と絶望に当てられた二つの理由でさっきから突っ伏したまま動かない梨緒に吠え、そのまま一秒一瞬一刹那でも早く彼女の下にたどり着けるように筋肉がちぎれるくらい伸縮させて駆け出し、すぐに低空をダイビングして梨緒を庇い抱き止める。
次の瞬間には、何かが空気を快刀乱麻に両断したような音が真也の鼓膜を思いっきり揺らした。恐怖心を煽られ全身の毛を逆立てる思いをしたが、平穏無事五体満足な梨緒を見て一応はほっと胸を撫で下ろした。そのまま真也は一度梨緒から体を離して左手で梨緒の力ない背中を支えてその様子を見る。
「大丈夫か?梨緒」
「あああぁぁああんてゃ……、へが…へひゃ………」
しかし梨緒は何かに怯えきっていてまともに喋れていなかった。まあ当然至極のことだろう。目の前であんな凶器を振り回されてまともでいられる奴なんざ正気の沙汰ではない。かく言う真也だって直接その攻撃を見た訳じゃなかったがそれでも尿意を催すくらいには内心ビビっていたのだ。真也は梨緒が視線を落としといた先の床とそこに無造作に転がっていた見慣れない物体を何気なく一瞥しようとして、梨緒を支えていた手が急に重くなったのを感じて咄嗟に視線を戻す。梨緒は首をガクッと後ろに垂らし気絶していた。真也は仕方ないここは一度、梨緒を連れて教室を出ようと思いそのままお姫様だっこの要領で抱えて外に行こうとした。
委員長(♂)が遠距離用の技を持っていないのがせめてもの救いだなと考えていた真也はどこか違和感を抱く。
「うわっ…お前……血がっ!」
どのタイミングで怪我をしたのだろうか真也は梨緒の両足にさっきまで見受けられなかった血が洪水のように溢れているのを見て、そして戸惑いながらも右腕を見て気が付いた。
「…………はっ?」
気が付いたことに驚き固まり、少々乱暴に梨緒から両手をはなす。
初め何が起きているのか理解できなかった。次に理解してそれを信じることが出来なかった。そして現実として受け止めようとして、しかし“これ”をどうするのか考えあぐねた。その次に今更になってさっきそれとなく見た物体に目をやった。まるで朝食のトーストにイチゴジャムを塗りたくったかのような色調対比を呈するそれを。
「ががあ゛あ゛あ゛ああぁあぁ゛あああ゛あ゛あああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛ああああああああ゛あ゛あ゛ああぁあぁ゛あああ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛ああぁあぁ゛あああ゛あ゛あああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛ああああああああああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛ああああああああ゛あ゛あ゛ああぁあぁ゛あああ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛ああぁあぁ゛あああ゛あ゛あああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛ああああああああああ゛あ゛ぁぁぁあああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛ああああああああ゛あ゛あ゛ああぁあぁ゛あああ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛ああぁあぁ゛あああ゛あ゛あああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛ああああああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛あああああああっっあ゛あ゛あああああああっっあああ゛ああああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛ああああああああ゛あ゛あ゛ああぁあぁ゛あああ゛あ゛あああああ゛あ゛あ゛ああぁあぁ゛あああ゛あ゛あああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛ああああああああああ゛あ゛ぁぁぁあ゛あ゛あああああああっっ゛ぁぁぁあ゛あ゛あああああああっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
最後に真也は身体中に稲妻が駆け廻ったかのような激痛に悶え苦しみかつてないほど大きな呻き声をあげた。正確には“真也自身の”右腕“それも手首から上が”“なくなったの”に気付いて。
真也はこれまでにない経験をしながらも最後まで残っていたかすかな量の理性をフル回転させて廊下と教室を隔てる壁の近くにある柱を思いっきり殴った。ガンっという音と共に左拳に痛みが走ったがお陰で気を持っていかれずに済んだ。
「ぐっ…うぷっ……おええええぇぇっ」
真也はそのままその壁の窓ガラスが割れて外と繋がったところから顔を出して嘔吐した。朝御飯から随分経っていて胃腸には何も入っていないはずなのにまだ出したりないくらいだった。嘔吐物の赤黒く粘っこいその様は生々しかった。
「いい声で鳴きますねぇ」
委員長(♂)は狂喜に酔いしれたサディストのように唇を舌なずめり、この様子をまじまじと観察していた。真也は委員長(♂)に視線を戻すと涙目になりながら怒りの形相で睨み付ける。
「かっ……てっ…んめぇ…っ!!」
右腕のリストを左手で力強く握りしめながら真也は声を絞り出す。その複雑な感情の高まりは、どんどん青白く染まり続ける真也の忘れられた右拳と対照的であった。
決して分かり合うことのない唯一無二にして尊大孤高な絶対。あらゆる物理法則を鑑みてその矛盾性が明らかであり、いかなる理論を用いても存在を証明するのが困難なものであるソレは、まるでそんな愚鈍な反論をものともしない屈強な“盾”のように、その強さを見せ付けるという単純な方法で何もかもをはね除けて、逆にその反則的な実力に抗うことの無意味さを諭すような現実の姿をした超常という“矛”が真也の胸には深々と突き刺さっていた。