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6.水の器 Hydrangea

兄妹のお話





「今まで、すまなかった」


 ここ数日で華奢な体の線がより一層細くなったような少年は妹に向かって一言、そう告げる。向かい合うシャギーはゆっくりと顔を上げ、傷ついた青緑の瞳を見た。




 それはシャギーがサングイネア子爵家から戻ってすぐのことである。


 訪問着から着替え、先程アイリスから得たゲームの知識を思い返す。兄のカランコエが水属性の魔力を持つということ。

 いきなり伝えても信じてもらうのは不可能だろうし、そもそも何故シャギーがそんなことを知っているのかという理由については到底言えることではない。だが猶予はあまりないのだ。早逝する未来については放っておいても免れるかもしれないが、10歳までに魔力が発現せず贖人と定められてしまえば家を出て教会に上がることになる。


 ちなみにアイリスには名前検索でカランコエも見てもらったがゲームの設定と同じ内容だった。これから運命を変えられたならその内容もまた変化するのかもしれない。どうしたものか。悩んでいると不意に扉をノックされ何の気もなく「どうぞ」と応え。


 扉を開けたのは今まさにシャギーが思い悩んでいた相手。ここ数日は部屋に籠もっていたはずの兄であった。


「少し、いいだろうか」

「は……あ、どうぞ」


 思ってもみなかった人物の訪れにシャギーはポカンと口を開けたまま、とりあえず中へ通して椅子をすすめる。

 あっさりと通されたカランコエは自分から訪れたはずなのに逡巡を見せ、しかしゆっくりと部屋へと足を踏み入れた。そのまま黙ってソファへ身を預ける。

 先程までシャギーの着替えを手伝っていたメイドのジニアはテーブルにお茶を用意すると、静かに部屋を出て行った。


 扉が閉まり、兄妹の間に沈黙が降りる。




「僕はずっと……勘違いをしていた」


 沈黙を破ったのは兄の方だった。


「私もです」


 重苦しく口を開いた相手を責めるでもなく、シャギーは軽く同意した。


「お母様が亡くなったのは、私のせいだと。ずっと」


 シャギーの言葉にカランコエが弾かれたように顔を上げる。丸く開かれた瞳はたくさんの色を写していて、そしてそこに、くっきり刻まれた傷が見えた。


 幼さとは、こんなにも脆く傷つきやすいものだっただろうか。


 シャギーは少年の傷ついた瞳を見ながらぼんやりと考える。前世での記憶を取り戻した日からシャギーの中にはとびきり逞しい18歳の少女が居る。5歳から8歳までの幼い記憶を辿るにはその存在は大きく、かつて大きく開いて生々しく血を流していた傷口はすっかり乾いた瘡蓋へ変わってしまった。


 兄の瞳に、アイリスに見せてもらった甲高く笑うシャギーを重ねて見る。


 まるで笑いながら血を流しているようだった。幼い頃に負った傷を癒やされることなく成長してしまった少女。“あちらの”シャギーはきっと許せなかったのだ。兄の罪も、それを簡単に癒してしまった聖女のことも。


「母上を失くしたのは、お前も同じだった」

「お兄様、」

「母上を愛していたのは、お前も」

「……」


 伏せられたカランコエの表情は苦しそうだった。父親から聞かされた真実と自分のこれまでの行動。何もかもまだ整理がついて居ないだろうことは、少し肉のそげた頬やひそめられた眉に落ちる影が伝えている。


 それでも兄は顔を上げ、妹を見た。


 今にも泣いて崩れ落ちそうな風情ながら、きちんとシャギーと目線を合わせ、そして。


「今まで、すまなかった」と。


 そう、謝罪の言葉を告げたのだ。


 謝罪する態度がとか、誠意が見られるのかとか、本当に反省しているのかとか、どうとか、こうとか、簡単に許すには足りない理由なら、いくらでも、いくらでもあるのかもしれない。


 だが、どうでもよかった。


「はい。お兄様」


 怒りも悲しみもなかった。これまで一度たりともシャギーを思いやる言葉など掛けたことのなかった兄が自分の行いを認めて謝罪した。それだけで、シャギーは3年間を水に流した。


「あなたを許します」


 家族だったから。



 それからカランコエは夕食の席に姿を表すようになった。以前より言葉は少なかったが、妹への行いを隠して猫を被っていた頃よりもその姿は自然に見えた。父のアクイレギアはいつも静かに微笑んで、二人の子どもを眺めていた。兄が謝罪に訪れた日、食卓に現れたカランコエを見ても父に驚きはなかったから、シャギーの部屋を訪れる前に何がしか話をしていたのかもしれない。


 この人が父親で良かったな。


 せっかくのイケメンを時折だらりと崩してはカランコエにため息をつかれているソルジャー伯爵の様子を眺めながら、そんなことを考えた。


 シャギーとカランコエは少しずつ、他愛もない会話を交わすようになった。





「魔法の授業はどうなの?」


 それは煙るように霧雨の降る日のことだった。庭の草木は水に濡れて、緑が鮮やかに光る。


「色々と発見があって楽しいですよ。魔力を効率よく術に変換するコツとか」

「ふうん」


 兄は何気ない風ではあったが、母親の死について聞かされてから自身も贖人である可能性を考えていることは明らかだった。カランコエの魔力はまだ発現していない。


 雨に濡れる庭を眺めながら、ふとシャギーは思いついた。


「お兄様、少し庭に出てみませんか?」

「……今日は雨だよ」


 だからです、と応えながらシャギーはレインコートと傘を取りに走る。戸惑うカランコエにシャギーが傘を差し出して言う。


「雨だから、地にも空気にもたくさん水があります。その方が使いやすい魔法があるんです」


 カランコエがやがて魔力を発現させ水属性の魔法を使えるようになることは、もちろん本人には伝えられていない。だがこんな風に何もかもがもったりと水を含んだ日には、その魔力も発露されやすいかもしれないと思い立ったのだ。




 細かな雫をまとって、紫陽花が大きな花毬をいくつも咲きこぼれさせていた。薄青の花に囲まれて、シャギーとカランコエは庭に立つ。


「手を出してください、お兄様」


 シャギーに言われ、カランコエが傘をさしていない手を差し出す。


 兄が伸ばした手のひらの上にシャギーが自分の手をかざす。ポタリと、少年の手の上に暖かな雨が降った。天から注ぐ雨ではない。シャギーが生み出した水だ。

 魔法で出した水を垂らしてゆく。ひと雫、またひと雫。水を通してシャギーの魔力が浸透するように願いを込めて。


 やがて白い手に小さな小さな湖ができる。


 いつしかカランコエは傘を落として両手で器を作るように水を受けていた。妹に注がれる水がなぜかとても心地よかったのだ。まるで乾いた大地に染み入るような、不思議な感覚があった。


「その水が、お兄様の手のひらからも湧き出るのをイメージしてみて」


 シャギーの言葉を聞きながら、なぜか「できない」という考えにはならなかった。言われたとおりイメージしながら手の中をじっと見つめる。透明な水が紫陽花の色を映している。


 青い水面が、ゆらりと揺れた。


 手のひらの中心をスウッと冷えたような感触が一筋なでて、先程まで小さく溜まるだけだった透明が指先の堤防を越えて地面に注がれていく。



「お兄様! やった! やりました!! 水魔法です!」


 興奮したシャギーの声で、カランコエはそれが自分が出した水魔法なのだと、ようやく気付いた。


 水は滾々と溢れる。止め方を忘れてしまった涙のように、これまで留められていたものが決壊するように、それはいつまでも湧き続けた。


 魔法を使ってみて初めて、カランコエは魔力の流れを全身で感じた。人の体は魔力の器なのだと感覚で知った。


 水魔法の属性を持つ自分は”水の器”とでもいうべきか。


(だから人より少し泣き虫なのか)


 そんな風に心のなかで少し言い訳をして、涙に濡れる瞳に妹を映した。


「ありがとう、シャギー」


 少年は泣いていた。


 シャギーにはそれが、兄が初めて自分に見せた、心からの笑顔のように見えた。






【植物メモ】


和名:紫陽花、八仙花[アジサイ]

英名:ハイドランジア[Hydrangea]

学名:ハイドランジア マクロフィラ[Hydrangea macrophylla ]

   

アジサイ科/アジサイ属


ハイドランジアはギリシャ語で「水の器」の意味

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