64.片喰み Oxalis corniculata
空を舞う黒い影を見失わぬように走りながら、しかしシャギーにはあの黒い獣がどこへ向かおうとしているのか予測できた。
レッドクラウン大聖堂、大天蓋の下、聖女カルミアの不朽体が眠る場所。
飛び去る瞬間に見た獣の目は目覚めたカルミアと同じものだった。ヴィオラセを引き連れてスパイクとともに内陣の広間、ドーム状になった天井の下へと駆け込む。そこでシャギー達が目にしたのは、聖女カルミアの遺体の上に浮かぶ黒い靄だった。先ほど見せた魔物のような姿から再び煙のような形を取り、漂う。
「カルミア様……?」
ヴィオラセが崇めてきた主の名を口にする。彼にとって主たるカルミアは超越者であり、地上の守護者であり、箱庭の管理者であり、つまりはこの世界の神であった。絶対に間違えることのない存在。その言葉に従うだけで世界が正しく保たれるのだという安寧。
漂っていた黒い靄が聖女カルミアの遺体へと吸い込まれてゆく。アレが教会の定める悪の形を取るのを目にした後では、ヴィオラセにとってそれは信じがたい光景であった。だが、何を信じようと否定しようと、事実は目の前で起こるだけだ。黒煙を吸収したカルミアの目が開かれゆっくりと棺からその身を起こす。
「失敗したな。教皇もお前も小娘一人に出し抜かれるとは」
深く老成した男の声。カルミアが目を覚ましたとき、あるいは空白の司教座に“呼ばれた”時に聞いていた声だ。あの声はカルミアの神としての顕れなのだと思っていた。その神の声に従いすべてを為していたのだ、聞き間違えるはずがない。だが今の光景を見た後では、それは神の声ではなくまるで。
「聖女カルミア──お前は、かつて女神に封印された獣なんでしょう?」
シャギーが立ち上がったカルミアに向かって問う。それを鷹揚に聞いてカルミアの姿をした何かは笑った。
「いかにも。まあ、正確にはこの女は容れ物に過ぎない。人には過ぎた魔力量だったせいなのか入ってきた中でも特に馴染みが良かった」
そこまで言うと、カルミアは片手を天に掲げた。途端、光が差し込んでいたはずの天蓋窓が一瞬で暗くなる。地上から四方に伸びた黒い盾が神殿を覆っていた。何事かと身構えたシャギー達の様子をカルミアは可笑しそうに眺めた。
「これで邪魔者は入れない。我を追い込んだつもりだったか? 随分とお目出度い」
だが、余裕のある様子で喋っているカルミアの天に向けた手がボロリと崩れた。手首から肘ほどまでの肉がべチャリと削げ落ち、骨がむき出しになる。
「やれやれ、やはりもう限界か」
身の毛もよだつような光景だが、当の本人は特に感じることもないような目で崩れかけた腕を眺める。
「贄を食らわせて長く持たせたが所詮人間の肉ではここまでよ。これまで聖女と呼ばれる人間どもに移れないか試しては来たが、教皇の身体同様、入れはするが魔力の行使がうまくいかぬ」
カルミアがつい、とシャギーを見た。
「お前の身体は良さそうだ。精霊どもがみっしりと詰まっている上にうようよと集まってくる。聖女なる者達の中でも特に良い。だが」
言葉を区切ってヴィオラセを見る。
「どうやら邪魔な女神の加護を持っている。余計な記憶は消しておけと言ったはずだがな、ヴィオラセ」
主の言葉にヴィオラセの目が揺らいだ。これまで絶対的なものであったはずの神の言葉。だが、自分の前に居るこの存在が神ではなかったらという疑念に揺れ始めている。それは自分のこれまでの生を根本から覆すことである。
「獣の魔法を扱える聖女などこれまで存在しなかった。解毒の可能性に思い至らなかったのも致し方ない。お前を責めることはすまい」
打って変わって甘く溶ける声は、まさしく悪魔の手管だった。
「力尽くも悪くはない」
「──ッ!」
言葉を切った次の瞬間、カルミアの姿はシャギーの目の前に迫っていた。咄嗟に剣で打ち払うが空を切った感触に終わる。シャギーが右腕を薙いだ時にはもう、カルミアは少女の頭上に跳んでいた。即座に振り仰ぐシャギーの目に、逆さまになって落下してくるカルミアの姿が目に映る。その口から靄が吐き出された。カルミアの肉体は糸が切れたようにグシャリと落下し、黒煙はシャギーの身体へ入り込む。
「グアアッッ」
──しかし、先ほどカルミアに入り込んだときとは異なり、靄は弾き返される。即座にカルミアの身体へと戻るが、一度地面に叩きつけられたせいなのか、首がおかしな方向に曲がっている。
《封印が解かれた……いえ、封印から逃れていたちっぽけな欠片に過ぎぬ存在》
シャギーのものではない女性の声が聖堂に響く。目にした光景にヴィオラセがへたり込む。シャギーの背からゆらりと立ち上る光の魔力が女の姿へと変貌していく。存在を知らずとも、その姿が女神のものだと直感的に理解した。これまでヴィオラセにとっての女神とは聖女カルミアを指した。しかしそうではない、女神は他に存在していた。
「忌々しい……」
ギチギチと音を立てて、カルミアの首が元の位置に戻っていく。憎々しげにシャギーの背後に浮かぶ女神を睨みつけて吐き捨てる。
「加護を与えたのではなく、中に入っていたか」
ふわりと、女神の姿が再びシャギーの中に消える。顔を上げたシャギーの表情には女神の浮かべていた憐憫の眼差しが宿っていた。
「この世界を、人間を憎むのをやめる気はないの?」
喋っているのはシャギーだが、シャギーだけの言葉ではなかった。カルミアはその問いにニヤリと笑う。
「そこで是と答えるのならば、お前と我は分かたれてはいまい? それとも、その娘の身体の中で共存でもするか?」
一度拒絶されながらも、なおもシャギーの肉体に入ろうかという素振りを見せる獣の言葉に、スパイクが警戒を強める。女神に弾かれずに入り込む手段を何か隠しているのではと思える程、余裕のある態度が不気味だった。
「言っただろう? 力尽くも否ではないと──」
言うやいなや、再びカルミアがシャギーに接近する。それを迎え撃とうと構えるシャギーの目の前で、突進してきたカルミアの目の光が消えた。
「な……?」
倒れ込んでくる女の遺体を受け止めるシャギーが目にしたもの。それは黒い靄がスパイクの身体に入り込む瞬間だった。
「スパイク!」
シャギーが叫ぶ、その前でがくりとスパイクが首を落とす。そして小刻みに震える肩。俯けた顔の表情は見えない。
「フ……ハハ……ッフア、ハハハハハハハッ!」
顔を上げて笑い出す、その声はもはやスパイクのものではなかった。
「始めから、欲しかったのはその娘の身体ではない。お前たちは“獣の因子”とか呼んでいるか? これぞこの上なく我に馴染む肉体よ! もっとも、黒い魔力を使う聖女の身体も悪くはなかったぞ? 邪魔な女神さえ入っていなければな!」
酷薄な笑みを浮かべる顔は愛しい相手のもののはずなのに、まるで別人に映る。シャギーはギリ、と奥歯を噛んだ。
「間抜けめ。女神、娘、お前たちは実に騙しやすいなァ。五千年前も我の肉体を封じて、それで終わったかと思ったのだろう? 肉体など容れ物だ! 意味がない! 封印の力が弱まればこうして外に出て力を蓄えることができる。守ったはずの人間に忘れ去られて力を失っていく貴様は実に哀れだったぞ、女神よ」
「……っ」
「さて、こちらからも聞こうか」
ニィ、と口の端を持ち上げ、嗜虐的な笑みを浮かべたスパイクが剣先をシャギーへと向ける。
「この世界を、人間を憎む気はないか?」
その声は愛を囁くように甘かった。
◆
「シャギー、女神像を探しませんか?」
師匠のフォールスがシャギーに持ちかけたのは、アイリスのためにも教会を追い込むと決意したその翌日のことである。その言葉に、シャギーは港の女神像のもとへ行くと言ってそのままになっていた約束を思い出した。
「やはり、女神像は4つあるんでしょうか?」
シャギーがフォールスに訊ねる。先日、風の精霊の集う草原で朽ち果てた神殿を見つけたのがひとつ、そして、今も港に残る女神像がひとつ。現状でわかっているソルジャー領にある女神像はその2つだ。フォールスは顎先に指を添えて考える。
「そうですね。おそらく、火、水、土、風、四元素それぞれの加護を纏った女神像があるのではと」
その予測を裏付けるためにも港の女神像を確認して、そこに何の精霊が集まっているのか確認する必要がある。
「女神の言葉──忘れなければその力を使うことができると、その通りならば忘れ去られている神殿を見出すことで、魔力を強めることができるかもしれません」
フォールスの言葉に、シャギーは力強く頷いた。そしてスパイクはと言えば、師弟二人の会話に口を挟むこと無く黙々と出掛ける準備をしている。フォールスの方でもシャギー同様に精霊を視ることができるスパイクにも同行を願うつもりではあったが、何を言う前から当然のように同行するつもりのスパイクに何となく不憫なものを感じてしまう。
「スパイク君……あんまりシャギーに振り回され慣れるもんじゃないよ」
フォールスの言葉にスパイクは一瞬きょとんと首を傾げるが、すぐにその言わんとするところを察したのだろう。困ったように微笑んだ。
「でも、そういうシャギーが好きなんです」
「そう……」
難儀だ、とフォールスは思った。そして健気だと。同時に、少しばかり危ういとも。
シャギーの危うさは他人のため、最善の未来のために戸惑いなく自分の身を危険に投げ出してしまうところだ。そして周囲はそれを止める。スパイクも当然止めるだろうが、根本のところで彼はそういうシャギーの危うい気質までも丸ごと肯定してしまっているところがある。止めることでシャギーの本意を曲げるくらいなら、共に修羅へ飛び込んでしまうだろう。
「歳をとるというのは面倒ですね」
誰にも聞こえぬ小さなつぶやきを漏らす。経験則から若者の無茶を止めて導くことは容易い。だがそれをしてしまえば、未来は予測可能な地点にまでしか到達できない。未踏の地を踏むのは、いつだって定石を乗り越えた少しの無茶だ。伸ばしたくなる手を止めて見守る覚悟が必要なのだろう。彼らの危うい愛がどこへ行き着くのかを。
「スパイク!」
厩舎から愛馬を引いて出てきたシャギーがスパイクを呼ぶ声がする。それは兄のカランコエや父のアクイレギア、師匠のフォールスを呼ぶのとは少し違う微かな甘さを含んでいる。すぐに駆け寄るスパイクに何事かを話し掛けて、その答えに考え込み、また何かを思いついたように話す。きっと内容はそんなに甘いものではなくて、スパイクの使う闇魔法の構築についてアドバイスを受けているとか、そんなところだ。
しかし、ふわふわと昼の光が舞う空の下で顔を寄せ合う二人の姿は暖かい。殺伐とした状況下でたくさんの傷を負っている、それでも前へ進む足を止めない子どもたち。自分の足で必死に立ちながらも少しだけ甘えて、寄り添う。
フォールスは眩しいものを見るように目を細めて、願った。
ああ、この二人が互いのどちらも失うことがないように、欠けることがことが無いように、と。
【植物メモ】
和名:カタバミ[片喰み]
英名:イエロー・ソレル[Yellow sorrel]
学名:オキザリス・コルニクラータ[Oxalis corniculata]
カタバミ科/カタバミ属




