62.眠り草 Mimosa pudica
カリ、カリリ、と、聖女の宝珠──“精霊の贄”を咀嚼していた女の喉がごくりと上下する。聖女カルミアの不朽体。千年前に死んだとされる聖女の遺体が、である。
そうして、驚きに言葉もなく震えるシャギーの目の前で、食事を終えた聖女の瞳がゆっくりと開いた。
「ヴィオラセ」
深く老成した、男のような声だった。その言葉は確かに聖女と呼ばれる女性の口から発せられているのに、まるで別人のものような響きを持っていた。
「新しい聖女か?」
「はい、カルミア様」
聖女カルミアが棺の中で身を起こしながら問う。ヴィオラセは跪き、それに応えた。シャギーは呆然と立ち尽くしたまま目の前の光景を見ていることしかできない。そんなシャギーをちらりと見やって死体の女はにんまりと微笑む。
「なかなか良い」
何が“良い”のか、カルミアの発する言葉の意味も、そもそも何が起きているのかすらシャギーにはわからない。そんな様子を気にすることなく、カルミアが少女へ手を伸ばす。指で頬を撫でられてシャギーがびくりと身を震わせた。
「恐れている」
「少々、驚いているのですよ。何も知らない新しい聖女様ですから」
ヴィオラセの言葉にカルミアはふむ、と考えるような仕草を見せる。そして見開かれたままのシャギーの目を覗き込んだ。精霊殺しを思わせる、澄んだ琥珀の瞳。
「余計な気配が強いな。我がそちらへ移る前に白くしておけ」
「御意のままに」
戸惑うシャギーをよそにカルミアはヴィオラセに命じると、糸が切れたように横たわった。シャギーがその顔を覗き込めば目も口も閉ざされて、最初に見たときと変わらぬ、たった今息を引き取ったかのような遺体がそこにあるだけであった。
「……眠ったの?」
シャギーの呟きに、ヴィオラセは曖昧に微笑むだけだ。そして彼女を促して祭壇を降りた。内陣は再び静寂に包まれている。天から落ちる光の柱。キラキラと漂う埃の粒子。不思議と精霊は見えない。外の広場で練習をしている讃美歌の声が遠く聞こえる。静止したような空間を動かしたのはヴィオラセだった。シャギーを伴って、宮殿に戻る道を歩き出す。
歩く度にさらりと動く白い髪の背に大人しく着いていきながら、シャギーが再び訊ねる。
「カルミア様が今も生きていると、どうしてみんなには秘密なの?」
「──隠してはいませんよ。女神である聖女カルミア様は人間としての生を終えられて、神としてここに眠っていると経典にも記されています。ただ、その奇跡を目撃できるものは多くありませんから、それ故に信じる者は少ないのでしょうね」
ヴィオラセの言葉を、わからないというようにシャギーが首を傾げる。
「カルミア様が目を覚まされるのは、私と教皇の前だけです。歴代の聖女には語りかけられたとの記録がありますが、実際に目にするのは私も初めてでした」
言葉を切って立ち止まり、ヴィオラセがシャギーを見下ろす。
「あなたはやはり、本物の聖女なのですね」
ため息混じりに浮かされたような顔でそう言って、跪いてシャギーの手を取ると指先に口付けた。その瞬間、シャギーは手を引いてヴィオラセを振り払う。爪が司教の唇の端に引っ掛かって、白い肌に赤い血が滲んだ。ヴィオラセが驚いたようにシャギーを見上げる。
「お茶が飲みたいわ、ヴィオラセ」
少女はぼんやりとした目のまま命令する。
「もちろん、すぐに」
ヴィオラセは口の端に滲む血を舐め取って、夢見るように表情を綻ばせた。
「たっぷり差し上げましょう」
◆
カルミア教による、聖女の就任式。
その日は朝から、雲ひとつない快晴であった。レッドクラウン大聖堂の前の広場には多くの民衆が詰めかけて、新しい聖女の誕生を待ちわびている。
「聖女様はソルジャー家のご令嬢なんだろう? ソルジャー家は教会と戦争中じゃなかったのか?」
「これで和解ということなんじゃないのかね。教会も聖女様の生家を潰そうとはしないだろう」
貴賓席の貴族たちがあれこれと噂する。その話題はもっぱら、聖女の任を受けるのがシャギー・ソルジャーだということについてだ。
「だが、ソルジャー領はイフェイオンから離脱すると宣言している」
「それも撤回になるのじゃないかと聞いたが……」
「我々教皇派としては、ソルジャー家が教皇派になるなら心強い
誰も正確な情報を掴みきれていない。それほどに、教会によるシャギーの聖女認定は急な告知であった。
「それにしても、ヴィーナス・フライトラップ嬢が偽物だったとはな」
「ヒッポリテ大司教による偽装だったのだろう? 亡くなって明らかになったとか」
「彼女の後見に手を上げていた家は冷や汗が止まらんでしょうな」
「王都派もしばらくは大人しくなりそうですなあ」
彼らは信仰心からこの場にいるのではない。おそらくこの広場にいる多くの民衆がそうであるように、カルミア教徒であることがイフェイオン王国では生きやすく、利するところが大きいゆえのことだ。彼らの関心は誰に付けば派閥で優位に立てるのか、利益を得られるのか、それだけだ。自らの家が危機に陥るのを避けつつ、他家を追い落とすためならば背後で何が行われても見て見ぬふりをする。そして安全な対岸から好きなように噂をするのだ。
「雨が降ればよかったのにね」
ソルジャー家の拠点の窓から晴れ渡る青空を見上げて、スパイクがカランコエを振り返る。
「今回は戦争じゃないからな。問題ない」
そう言いながらもカランコエが身に纏うのは青い団服ではなく、物々しい白銀の鎧だ。荒事はシャギーに譲り頭脳戦に回ることの多いカランコエには珍しい。もっとも、カランコエとてソルジャー家の跡取りである。剣術や魔法に不足があるわけでは決してない。妹のシャギーが規格外であるだけだ。
「カランコエ、合図だ」
窓から広場の方角を監視していたスパイクが室内を振り返る。スパイクもまた鎧姿だ。ただし白銀のカランコエと違い漆黒のプレートである。二人がこの姿なのは顔を隠すため、そして式典の見栄えのために教会が並べる重装騎士に紛れるためであった。まるでチェスの盤上のように、白の鎧騎士と黒の鎧騎士を左右の端に並ばせるのである。
教皇派の家門の多くが、来賓として式典に臨んでいる。警備に当たるのは聖騎士団と王立騎士団のみだ。正直、ソルジャー家が総員を上げて乗り込めば制圧は容易いが、大規模な戦闘になれば罪のない民衆を巻き込んでしまう。
聖騎士団に紛れて広場に潜入し、式典中に舞台の一部を破壊する。混乱に乗じてシャギーを奪還し群衆を広場の外へ誘導する流れで速やかに退却する。大まかに言えばそういう流れだ。
ゆったりと腰掛けていたカランコエは、立ち上がってアーメットを被ると、バイザーを引き下ろした。
「行くぞ」
白と黒の騎士が地下通路へと足を向けた。
◆
シャギーは早朝から飾り立てられていた。隅々まで磨き上げらえたきめ細かな肌に薄っすらと白粉がはたかれ、目もとには淡く薄紅で色が乗せられる。長い金色の睫毛を邪魔しないブラウンのアイシャドーに、夜露に濡れた蕾のように瑞々しく慎ましい薔薇色の口紅。化粧が終われば金細工の宝飾品が首に、腕に、耳に、幾重にもつけられていく。純白の祭服は金糸の刺繍に加え、袖に宝石を散りばめた袖飾りがついた式典用である。
長時間、椅子に座らされたままの姿勢は辛いだろうが、若葉色の瞳は相変わらず思考を映さない。何事かを話し掛けられるたび、ゆったりと微笑むだけである。
「聖女様、お疲れでしょう」
そうして、ようやく一通りの身支度が整った頃、花の香りのするお茶とともにヴィオラセがやって来た。ハーブティーはいつもと同じものだが、さらに酩酊感を強める花びらが浮かべられている。シャギーがお茶を口にするのを満足気に眺め、瑞々しい緑色の葡萄を房から外しては一粒ずつ与える。
「おいしい」
ぼんやりと微笑む少女の様子に微笑んで、ヴィオラセはゆっくりとシャギーの手首にはめられていた精霊殺しの魔道具を外した。
「光を見せてください、聖女様」
請われるがまま、シャギーが光の魔力を開放する。白く広がる光に、支度をしていた修道女達からため息が漏れる。当の本人は小首を傾げて大人しく次の葡萄を待っている。それはまるで、扉が開いているのに逃げることを知らない小鳥のようだ。その憐れさにヴィオラセの背をゾクゾクとした愉悦が這い上がる。
「さあ参りましょう」
ヴィオラセが手を差し出すと、広場から歓声が聞こえてくる。
「教皇様が舞台でお待ちです」
歓声を振り向いて、シャギーに伝えてくる。どうやら広場で沸き起こった歓声は教皇が舞台上に出てきたことによるものらしい。
宮殿を抜け、聖堂へと入る。広場へと抜ける長い回廊を白髪の司教に導かれて進むにつれて、教皇の声が徐々に大きくなる。拡声の風魔法を使用しているのか、広場全体に届く声は朗々と響き渡る。
純白の長衣を静々と引きずって、手を取られて緋色の絨毯を進むシャギーはまるでヴァージンロードを進む花嫁のようだ。嫁ぐ先は神なのか、何者なのか。
「聖女様」
耳元でヴィオラセに囁かれて、舞台上で教皇が自分を招いていることを知る。シャギーは伏せていた顔をゆっくりと持ち上げて、聖堂から空の下へと足を踏み出した。
途端、周囲の音が聞こえなくなるほどの大歓声に包まれる。シャギーはヴィオラセの手を取ったまま舞台へと続く階段を一段、一段と上がっていく。時間を掛けて舞台に立つと、そこでヴィオラセの手は離れた。そのまま教皇のもとまで歩いていき、教えられた通りに跪く。
「シャギー・ソルジャー、汝を聖女として認める」
教皇が持つのは、拳ほどの大きさの聖女の宝珠がつけられた黄金の杖。そして持ち上げられたシャギーの両手に杖が置かれた。歓声が一層大きくなる。
「聖女の力を示しなさい」
教皇に命じられて、シャギーが立ち上がる。聖女の証である杖を掲げた。指先まで魔力が正常に巡っているのを確かめる。そしてシャギーは魔法を発動した。
癒やしの光魔法ではなく、拡声の風魔法を。
息を吸い込み、喉を開く。
「私は、聖女にはなりません!」
教皇が、ヴィオラセが、舞台上に居る聖職者の誰もが、目を見開いた。民衆は何が起こったかまだ何もわかっていない。
「今ここで、教会の罪を告発します!」
たった今、聖女と認められたばかりの少女の澄み渡った声が、高らかに、青空の下で反響した。
【植物メモ】
和名:ネムリグサ[眠り草]/オジギソウ[お辞儀草]
英名:センシティブ・プラント[sensitive plant]
学名:ミモザ・プディカ[Mimosa pudica]
マメ科/オジギソウ属




