60.延命草 Isodon japonicus
「スパイク! ヴィーナス!」
大切なあの子の悲痛な叫びが聞こえる。
一瞬の浮遊感の後、重力に従って落下する体。夜風と夜の闇と、腕の中の聖女。
痛みに裂かれそうな体から魔力を振り絞り風の抵抗を作る。地上に叩き詰められる前に落下速度を和らげたスパイクはヴィーナスを抱えたまま地面へと転がった。指一本動かせないほど傷んだ体。保つのがやっとの意識の中で、それでも愛おしい少女を思った。絶対に失くせない。
「……シャ、ギー……」
呼びかける名前はうまく音にならない。呼びたいのに。泣き叫ぶあの子に届くように、その名前を呼びたいのに。
「スパイク!」
狭くなっていく視界の片隅で、シャギーによく似た気配に名前を呼ばれて、そこでスパイクの意識は途絶えた。
◆
「このような場所で、申し訳ございません」
鉄格子の向こうで赤紫の瞳が細められる。首を傾ける動作に、肩に掛かっていた白髪が重力に従ってさらさらと流れた。シャギーは無言でその整った顔を睨みつける。
ロードデンドロン宮殿の奥にある小さな一室。豪奢な装飾が成された部屋の扉枠には、建築の絢爛さに見合わぬ無骨な鉄格子の扉が嵌め込まれている。その部屋に、シャギーは鎖で繋がれた手枷と足枷をつけられて拘束された。鎖の先は扉の中央に鎮座する天蓋付きのベッドへとつながっており、逃走は許されない。更に、魔力を封じる精霊殺しの腕輪も外されないままだ。
「聖女様の体を清めて、お召し替えを」
ヴィオラセは連れてきた修道女に命じると、鉄格子を開けて中へ入れた。部屋に続く小部屋の扉はどうやら浴室になっているらしい。世話係の女性に促されたシャギーが大人しく従うのを、ヴィオラセは満足気に眺めた。
「また伺いますね」
言い置いて、鉄格子に鍵を掛けて去っていった。足枷が付いている限りそもそも逃走は無理だが、修道女を気絶させても扉はヴィオラセでなければ開けられないということだ。
「これで“教会”とは、聞いて呆れる」
シャギーがボソリと毒吐く。どう考えても貴人用に設えられている牢は一体何の目的で造られたものやら。教会の裏の闇は深そうだ。
そもそもヴィオラセの能力からして、どう考えても聖職者のそれではない。おそらく、教会にとって邪魔な人間を排除するための暗殺者というのが彼の本来の顔なのだろう。
丁寧に体を洗われて、真っ白な衣装に着替えさせられる。ストンとしたシルエットの修道服だが、上質な絹には金糸による細かな刺繍が施されており、恐ろしいほどに値の張るものだと知れる。そこへさらに、ネックレスやピアスなど高価な宝石のついた金細工の装飾を重ねられ、丁寧に化粧までも施されて辟易する。着替えひとつ終えるだけだというのに、シャギーはすでにげっそりと疲れていた。
程なくしてヴィオラセが再び現れて、湯浴みと着替えを世話した修道女が外へ出され、入れ替わりにワゴンに乗せられた食事が運び込まれる。
「ごゆっくりどうぞ」
身構えるシャギーにそう言い置いて、意外なことにあっさりと白髪の司教は背を向ける。が、すぐに足を止めて振り向いた。
「とぉってもお美しいですよ、聖女様」
ねっとりとした視線に、シャギーはぞわぞわと鳥肌を立てる。思わず手近にあった銀の盃に手が伸びたが、それを投げつけられる前に司教は踵を返して去っていった。感情のやり場がなくなってシャギーはワゴンの天板に拳を叩きつける。ついでに目に入った精霊殺しの魔道具を力任せに外そうとしてみるが、びくともしない。
「クソが!」
貴族令嬢にあるまじき荒々しさで苛立ちの声を上げ、シャギーは座っていた椅子の背もたれに身を投げ出す。
「絶対、出てやる」
人による仕業である限り完璧な監獄などというものはこの世に無い。脱出方法は必ずある。シャギーは己を鼓舞した。
それに、教会がシャギーを“聖女”と公表するならば、光魔法を使わせる必要がある。精霊殺しを外さざるを得ないタイミングは必ずあるのだ。その機会を逃す気はない。
◆
「シャギーは!?」
スパイクが目を覚ましたのは、ヴィオラセに敗北してから3日目のことだった。
ピンクスター近郊の都市に、ソルジャー家が密かに借り上げている一角がある。表向きはただの民家が並ぶ区域だが、建物に囲まれた内側には馬を引き入れる広場があり、秘密裏に出入り可能な地下通路も存在する。長い歴史の中で、ソルジャー家はイフェイオン各地に軍事拠点となる施設を整えていた。それらは本来、国防のために使われてきたものだ。王国離脱を表明した今が一番役に立っているというのも皮肉な話だが。
あの夜、カランコエは宮殿外壁で待機しており、シャギーとスパイクが戻らない異変に気付いて侵入した。そして意識を失ったスパイクとヴィーナスを回収し、ソルジャー家の拠点内に保護していたのだ。
「シャギーは無事だ。教会にいるがな」
目覚めてすぐ、まだ体を動かすこともままならない状態でスパイクが発した言葉に、傍らに座っていたカランコエが答える。その言葉にスパイクが勢いよく身を起こし──途端、背中に激痛が走り小さく呻いた。
「叔父上が治癒魔法で治療したが、酷い傷だった。激しく動けばすぐ開くぞ」
「言うの遅いよ、カランコエ……」
すぐにフォールスが呼ばれ、背中を丸めたスパイクに治癒を施す。癒しの光はかつてシャギーにかけて貰ったものとよく似ていて、涙が滲んだ。
「ごめん、カランコエ」
俯いたままシャギーを守りきれなかったことを謝罪する友人に、カランコエが首を振る。
「妹は猪だからな。俺らにあいつを止めることは不可能だ」
妹を心配する気持ちは何よりも深いが、だからといって今、誰よりも傷付いている友人をなじるほど見境を失くしてはいない。取り乱した方が負ける、それはソルジャー家を継ぐ者に伝えられてきた鉄則だ。
「お前と一緒に落ちてきた聖女も無事だ。話を聞いてるが、どうも要領を得なくてな……シャギーとお前が揃っていて、お前がそこまでやられるほどの手練れが居るということしかまだわからん」
眉間に寄せる皺の形にまで完璧な調和を見せつけて、悩ましい表情で腕を組んでいた美貌の青年が顔を上げた。その目がきらりと光を宿す。
「ただ、シャギーは無事だ。それは間違いない」
そう言って、一枚の紙をスパイクに見せる。それは今朝、イフェイオンに大々的に撒かれた教会による布告書だ。
「教会が、任命式で聖女となるのはシャギー・ソルジャーだと公表した。つまりシャギーは無事どころか、教会で手厚く保護されている」
カランコエの言葉に、先程彼がシャギーを無事だと断言した理由を知る。
「ヴィーナス・フライトラップが聞いたところによれば、教会は以前からシャギーが光魔法を発現させ聖女になると予想していたらしい」
スパイクは、かつてシャギーとロルフ・フィードラーへ向かった旅の出来事を思い出していた。アリストロキアの教会で前任の司祭だという老人に絡まれたときのことだ。現役の司祭アリストロキア・サンバドレンシスはシャギーを庇い、過激と言って良いほどに老人を打ちのめした。あの時にはすでに、教皇派ではシャギーを聖女とする動きが始まっていたのか。だが。
「──あの聖女の言葉は信頼できるのか?」
今すぐにでもシャギーを取り戻しに飛び出していきそうな気配で、スパイクが訊ねる。
「ああ。自白剤を使ったからな」
「自白……もしかして、ドラコ侯爵令息?」
聞いたこともない薬の存在についてしれっと答えるカランコエに、スパイクがハッとした顔をする。以前、アイリス・サングイネア嬢がシャギーの毒殺危機について予言した手紙で書いていた。解毒薬はドラセナ・ドラコ侯爵令息に作らせると。
「彼に監視がつけられたときに、アイリス嬢から助言されていたからな。味方にしておけと」
カランコエがスパイクの問いに頷き、補足する。
「半ば誘拐めいた手段にはなってしまったが、彼も納得してここに居る」
どうやら、フォールス奪還の裏で監視下にあるドラセナ・ドラコを解放するためにカランコエが動いていたようだ。その上で、拘束中のフォールスに使用される懸念も含めて自白剤のような薬は存在するのかどうかその知識を頼っていたらしい。
「結果として自白剤はなかったが、できた」
長らくドラコ侯爵家で無茶振りされ続けていた不幸なのか幸運なのか、「こんな薬はないか?」と聞かれたら作らずには居られない体質になってしまっていたドラセナ・ドラコは、自白剤の生成に成功した。
「だが、あの夜何が起きたか聖女自身も正しく理解していないのだろう。お前の話を聞きたい」
スパイクは頷いて、自分の見たものについて語り始めた。
「また精霊殺しか……」
シャギーが遅れを取った理由について聞いたカランコエが頭を抱える。ヴィーナスの話では急に動きが悪くなったとしか聞けなかったため、詳細はわからなかった。しかし、実際にその目で精霊殺しを見たことがあるスパイクが言うのなら間違いはない。
「白髪の男はそれを差し引いても強かった。おそらく、聖職者は表の顔で暗殺専門の人間だと思う」
組織が巨大になれば、必ずそういった分野の人間を抱え込んでいる。王家にも暗部はあるし、ウィンター・ヘイゼル公爵家では当のスパイクがそうだった。一国を凌ぐほど巨大な権力を持つまでになった教会が持たないはずはないのだ。
「じゃあおそらく、今もシャギーは魔力を封じられてその白髪に油断なく監視されてるな」
元気になったら勝手に逃走してくるのでは、という兄の淡い期待は消えた。日頃妹を猛獣扱いしてはいるが、当然ながら本当の猛獣なわけでは無い。魔力が封じられてしまえば平凡……よりは多少強い騎士と変わりない。はずだ。
「儀式についてヴィーナス・フライトラップに聞いてみるか。シャギーを奪還するのはそこしかない」
カランコエが立ち上がると、当然のようにスパイクも起き上がってベッドから出る。
「傷は開かないように気をつけろよ。叔父上も暇じゃない」
「善処する」
着いてくるスパイクを横目でちらりと見やったカランコエが釘を刺す。安静にしていろと止めても無駄なことはわかっている。妹と言い、スパイクと言い、フォールスと言い、カランコエの周囲には無茶しかしない頑固者ばかりが揃っている。そう評するカランコエ自身が父のアクイレギアからは同様に危険視されているのだが、知らぬは本人ばかりである。
◆
ヴィーナス・フライトラップは、与えられた部屋のベッドで膝を抱えていた。シャギー・ソルジャーとスパイク・ウィンターヘイゼルがやって来たあの夜。まさに悪夢となったあの夜、ヴィーナスは絶望の底に叩き落された。
ここが前世でやり込んだ乙女ゲームの世界だと思い出し、自分がヒロインだと気付いた瞬間は、甘美で刺激的な毎日が始まるのだとそう信じていた。ゲームのように進まないことに苛立ちながら、それでも。
自分が聖女であるというその事実だけが、唯一ヴィーナスに残された希望だったのだ。聖女である限り自分がヒロインになる道はあるはずだと。その最後の拠り所を打ち砕かれた。
『あなたの役目は終わりですよ』
自分を聖女だと讃え持ち上げてきた教会の、ヴィオラセの言葉。倒れ伏したヴィーナスをゴミ屑のように足蹴にしながら、司教は嘲笑っていた。心が完全に砕けた音がした。もう何をどうしても立ち上がる気力ひとつ持てなかった。ここで殺されるのだとわかっても、抗うだけの何をも持たなかった。
そのヴィーナスを庇ったのは、かつて自分が軽い気持ちで殺そうとした悪役令嬢だった。
この世界で初めて、命をかけてヴィーナスを守ろうとしてくれた存在。それが直前までヴィーナスを完膚なきまでに叩きのめし、追い詰めていた敵であることが信じられなかった。同時に、アイリス・サングイネアを正しく弔うためだけに敵の本拠地まで乗り込んでくる無謀を思えば、どこか納得できる行動でもあった。シャギー・ソルジャーがどれほど命ひとつを重んじる人間なのか。本人の行動を目の当たりにして、ヴィーナスはようやく理解していた。
扉がノックされて、ゆっくりと顔を上げる。一度は絶望に塗りつぶされていた瞳は、今は弱々しくも光が戻りつつある。
「ヴィーナス・フライトラップ、話を聞きたい」
入ってきたのは、カランコエ・トメントーサと、スパイク・ウィンターヘイゼル。カランコエは洗礼名を捨て、スパイクはウィンターヘイゼル公爵家を捨てた今ではどちらの名前も正しくはないのだろうが、ヴィーナスが知る彼らの名前はそれだった。
「──はい」
ヴィーナスは立ち上がり、真っ直ぐに前を見た。
償いをするべきだ。自分が奪ってきた命に対して、それが自分の本意ではなかったとしても。そのために生かされたのだという気がした。
【植物メモ】
和名:エンメイソウ[延命草]/ヒキオコシ[引起]
学名:イソドン・ジャポニカス[Isodon japonicus]
シソ科/ヤマハッカ属




