43.ユダの木 Judas tree
蕾の時代ラストのお話です
スコーンに似た焼き菓子に、たっぷり乗せられたベリーのジャム。見覚えのあるスイーツがシャギーの恐怖心を煽る。陽射しを浴びて赤い宝石のように光るそのジャムは、悪役令嬢シャギーを殺す、毒なのだ。──ゲームの中では。
「スパイクはこっちをどうぞ。ハチミツも美味しいよ」
ヴィーナスがそう言って、スパイクの前に置かれた焼き菓子の皿に蜂蜜をかける。シャギーはやはりゲームと同じだとそれを見た。ゲームの中で、シャギーはヴィーナスを殺すために蜂蜜に毒を仕込む。しかし買収していたメイドが間違えてジャムに毒を入れてしまい、シャギーは毒入り菓子を口にしてしまうのだ。
ウィンターヘイゼル公爵夫人の前にも蜂蜜をかけた焼き菓子が置かれている。ヴィーナスは自分の分は取らずにニコニコと笑いながら、菓子をサーブする。さり気なくだが、この席でベリーのジャムの皿を置かれたのはシャギーだけ。
自分が毒を仕込まなければという建前は存在しない。ゲームとは違うこの現実世界で、シャギーが暗躍しなくとも学園では体調不良になる生徒が出て、王子やスパイクという攻略対象とヴィーナスは接近し、シャギーとスパイクの関係は切れている。
それならば、シャギーが毒を入れていない菓子にも毒が仕込まれていても不思議ではない。むしろ、学園での事件の真犯人がシャギーでなかったように、ソルジャー伯爵令嬢がヴィーナスの殺害を謀ったという展開そのものが冤罪で、主人公目線からは真実が描かれていない可能性が高い。数々の罪を着せられて退場する悪役令嬢に、前世の記憶が蘇ったシャギーは同情し、唇を噛んだ。
とにかく今は、眼の前の菓子を避けなければならない。聖女の心遣いを無下にしたということで教会からの印象は更に悪化するだろうが、即死することはない。断りを告げるため口を開いた瞬間、シャギーの前にあった皿がひょいと持ち上がった。
「いや、ジャムの方をもらおう」
「えっ?」
スパイクが唐突にシャギーの前の皿と自分の皿を入れ替える。想定外の行動にヴィーナスは驚きの声を上げ、シャギーも固まった。
「ま、待って……」
フォークが差し込まれ、ナイフがさっくりと生地を割る。ヴィーナスが静止のために手を伸ばすのも間に合わず、ツヤツヤの赤いジャムを乗せて一口大に切り取られた菓子は、あっという間にスパイクの口の中に消えていった。
「スパイク! いやあああっ!!」
スパイクの手からカトラリーが滑り落ち、その体が椅子から崩れ落ちる。その光景はやけにゆっくりとシャギーの目に映った。まるでスローモーションのように。
ヴィーナスが叫んで、倒れた体に縋り付く。聖女の証だというペンダントの赤い石を握りしめて、癒しの光魔法をスパイクにかける。しかし。
「どうして……どうして治らないのっ!?」
スパイクはすべての精霊の働きを無力化する“獣の因子”の持ち主だ。精霊殺しとも呼ばれるその力を発動させ、ヴィーナスの光魔法を遮断している。
──なぜ?
ウィンターヘイゼル公爵夫人が侍女に医者を呼ぶようにと声を張り上げている。護衛たちは応急処置のためにスパイクを囲むが、取りすがるヴィーナスをどうしたら良いのか戸惑う。そして、シャギーがゆらりと立ち上がった。
「解毒剤は?」
軽々とヴィーナスをスパイクから引き剥がし、片手一本で吊り上げるように立たせたまま、シャギーはヴィーナスに尋ねる。真正面から覗き込む緑色の目にはヴィーナスへのいかなる感情も映していない。ただ、全身からはただならぬ気配──殺意にも近いそれが溢れ出していた。
「さっさと出して。お前は人殺しになる覚悟なんて無いだろうが、こっちはとっくに教会とやり合う覚悟があるんだよ。出さないなら出させる」
ゾッとするほど低くシャギーが囁く。ヒッと小さく息を漏らしたヴィーナスが震える手でポケットを探り、茶色の小瓶を渡してくる。シャギーは目を逸さぬままそれを受け取り連れられてきた医者に渡した。
「解毒剤だそうです」
医者は驚きつつも一刻の猶予もないと判断したのか、公爵夫人に許可を求める。夫人も他に選択肢は無いと理解し頷いた。シャギーは公爵家の護衛にヴィーナスを拘束させると、スパイクの傍に屈み込んで手を取る。医者によって解毒剤を含まされた喉が弱々しく上下するのを、息を詰めて見ていた。今すぐにでも回復魔法を掛けたいがスパイクの体を膜のように覆う精霊への拒絶がそれを許さない。スパイクの生命力を信じて解毒剤が効くのを待つしかなかった。
誰も動けず、声も出せずに見守る時間が続いたが、やがて医者が一言「呼吸が落ち着いてきました」と告げた。即座にベッドへと運ぶ手筈が取られる。これでヴィーナスの出した解毒剤が混入された毒に効くものだと証明された。
シャギーは安堵に崩れ落ちそうになる体を叱咤して立ち上がり、青ざめて震えるヴィーナスを見た。
「聖女ヴィーナス・フライトラップ」
呼ばれて、両腕を騎士に拘束された少女がびくりと震える。
「あなたを、私シャギー・ソルジャー殺害未遂の罪で告発する」
純白のテーブルクロスから、キラキラと精霊が霧散して行く。それは魔力の込められた指先で書かれた文字。スパイクが、精霊を見ることができるシャギーにだけ伝わるように書いた一言のメッセージ。
“聖女を告発しろ”
なぜ、ゲームの存在もそのシナリオも知らないスパイクが、あの菓子に毒が入っているとわかっていたのか。なぜ、シャギーが回復魔法を持つのを知りながら、自ら毒を飲んだのか。彼が目を覚ましたら、聞きたいことがたくさんあった。
◆
翌日。シャギーは学園の中庭で一人の生徒と向き合っていた。
「解毒剤、ヴィーナスに渡してくれてありがとう」
「元はと言えば僕の作った毒が原因だから……毒じゃなくて、薬のつもりだったけど」
低く応えるのは長い前髪で目元を隠した男子生徒、ドラセナ・ドラコだった。
「あの薬は……咳止めとして呼吸や脈を整える効果の薬草から作っているんだ。だが、その薬草の配合を間違えれば呼吸困難や中枢神経の麻痺をもたらす」
ドラセナはそこで言葉を切ると顔を上げ、はじめて正面からシャギーの顔を見た。
「君が指摘してくれなければ気付けなかった。増産については養父が握っているから、レシピを改変されていても僕には知る術がない」
「教会がドラコ侯爵家から、“表に出回らない薬”を仕入れてることに気付いたのは私じゃないわ。私があなたに聞いたのは、治験が十分でない販路不明の薬はないかということ」
「あの薬草の危険性について気付いたのは最近なんだ。でも、もしかして欠陥があったんじゃないかと思いながらも、目を瞑っていた。養父に意見をするのは……面倒だから」
ふわり、風が二人の間でゆるやかに巻いて、ドラセナの前髪を持ち上げた。
「──信じてくれて、ありがとう。例え侯爵家の命令だったとしても、僕が人の命を奪う目的で調薬をしたことは誓って一度もない」
風であらわになったドラセナの目に以前のような卑屈な色が無いのが見えて、シャギーは薄く微笑んで頷いた。
「まさか聖女と呼ばれるような子が毒だと知った上でそれを使うなんて信じられなかったけど……」
「解毒剤はなんて言って渡したの?」
「ドラコ侯爵家から教会に渡った薬には欠陥があるかもしれないから、もしも服用してしまったら飲むようにと」
ドラセナはふと目を細め小さく笑った。
「すんなり受け取ってくれたよ。彼女は僕が毒を調合する人間だと思っていたみたいだな。『表向きはそうなのね』って……僕も特に否定はしなかったけど」
シャギーは少し複雑な気分になった。ヴィーナスはドラセナの人間性を見て判断したわけではない。「ゲームではそうだから」という理由で、シナリオを知る転生者だったからに他ならない。
「ドラコ侯爵家も、今回のことで追求されるかもしれない」
シャギーは意を決して、ドラセナに告げる。製造元であるドラコ侯爵家に責任があるのは当然のことだが、ドラセナのことを考えれば巻き込んだ申し訳なさはある。
「その覚悟がなきゃ、君に協力してない」
ドラセナはシャギーが思うよりさっぱりと言い切る。
「あなたが善意で解毒剤を作成してくれたこと、必ず証言するわ」
若葉色に輝く、真っ直ぐ向けられたシャギーの視線をドラセナは眩しく受け止めた。
シャギーがドラセナ・ドラコと接触したのは、学園で倒れた生徒たちへの聞き込みをした後のことだった。
ドラセナ・ドラコは麻薬中毒になりかけている生徒たちに中毒成分を排出する薬の治験を持ち掛け、原因となった茶葉を渡すように交渉していたのだ。しかし、自分達が飲んでいたものが単に頭がスッキリとして高揚するお茶だと思っている生徒たちは茶葉を手放さず、ドラセナを拒絶した。シャギーとアイリスが初めて目撃した現場も、茶の危険性を訴えるドラセナを疎んで突き放したシーンだったのだ。
生徒への聞き込みによって、その事実を推察するに至ったシャギーとアイリスは、ゲームで描かれた『恋に溺れて製薬の知識を悪用し、聖女の邪魔者を殺害する毒物を製造する』というドラセナのキャラクターに疑問を持った。ドラセナは製薬の知識と技術に誇りを持っていると感じたのだ。
ゲームではシャギーが死んだ毒はドラセナ・ドラコによって作られたという情報があるだけで、それがどういう経緯でシャギーに渡ったのかなどは描かれない。
今となっては、“イフェ聖”の中で語られたシャギーの罪の多くが冤罪か、犯行の匂わせでしかないと確信しているシャギーとアイリスはドラセナについてもストーリーのミスリードがあると仮定して、ドラセナ本人に事情を聞くことにしたのだ。
初めは二人を警戒したドラセナだったが、レシピの危険性に思い当たる薬があったのか協力してくれることになった。被害者を出さない為にと解毒になる薬を生成してもらい、薬は教会に卸されている可能性があると伝えて解毒剤をヴィーナスへ渡すように頼んだのだ。
「ひとつ聞いていいかな」
ドラセナが、しっかりとシャギーの目を見て尋ねる。
「君は人を信じることが怖くないの?」
シャギーはぱちりとひとつ瞬き、苦笑した。
「時々は、怖い」
正直に答える。だけど、怖いばかりでもないことを知っている。それに。
「一人でやれることには限界があるから、限界を超えるには人を信じて一人の世界から出て行くしかないと思ってる」
ドラセナは再び目を細めた。
「勇敢だな」
「ありがとう」
そのまましばらく微笑み合って、そこで別れた。去って行くドラセナの足取りはしっかりとしている。シャギーはその背中にもう一度、感謝を伝えた。
その日、王宮から戻った父アクイレギアから新たな動きが知らされた。
◆
「教会がヴィーナス・フライトラップの解放を要求している」
「まさか王宮側は応じませんよね?」
「交換条件として叔父上の身柄解放を要求しては?」
アクイレギアの言葉に同時に別々の反応をしたシャギーとカランコエが顔を見合わせる。
「フォールズの身柄と交換は……難しいな、教会側は聖女の無実を訴えている」
「あの状況で教会関係者以外の誰が毒を入れられると?ヴィーナスは解毒剤まで持ち込んでいたっていうのに」
「解毒剤についてはドラコ侯爵家が令息を使って聖女を貶めようとしたのだと教会は主張してる。それと、聖女が先読みの力を発動させたのだとも。教会側は何も知らず、薬がジャムに混入されたのはあくまで事故か陰謀だと」
シャギーはぐっと唇を噛み締める。
ドラセナが開発した薬のレシピを、毒性が優るものに改変して教会へと売ったドラコ侯爵家が罪になるのは当然のことであり、仕方ないと思っていた。侯爵家の没落によってドラセナを巻き込んでしまうことも本人が納得していた。
しかし、聖女を逃すために犯してもいない罪を着せられるのは見過ごせることではない。
「王宮側も教会の主張を無下にはできない。ドラコ侯爵令息については身柄の拘束まではされていないが、騎士団の監視がついている」
シャギーは考える。ヴィーナスは自分が助かるために攻略対象者であるドラセナを切り捨てた。同じく攻略対象であるスパイクも意識不明。残るは兄のカランコエとリナンサス王子、そしてレオノティスだが、兄のカランコエの攻略はほぼ不可能だろう。この状況でもヴィーナスはまだ“イフェイオンの聖女”をなぞり、王子と護衛騎士の攻略に動くだろうか。
教会の思惑は聖女の権威を高めて王宮に対して今以上の支配力を持つことだ。聖女信仰にとって不利になる情報を持つフォールスを消すことはヴィーナスに関わりないが、第一王子に取り入ること、そして今回の件で明確に教会と対立したシャギーを排除することは教会にとって都合が良い。リナンサス攻略と悪役令嬢の排除についてはヴィーナスと教会の利害は一致している。解放されればヒロインは今後も乙女ゲーム通りの攻略に動くだろう。
「ドラコ侯爵子息の解放と師匠の奪還は、もはや実力行使しかないということですね? お父様」
「王宮が法に則って動けるなら解放の手段はあるけど、国王陛下がここまで教会に寄っているとなると……」
アクイレギアは腕を組んで眉を顰めた。ソルジャー伯爵家は水面下で挙兵の準備を進めている。フォールスの身柄引き渡しが行われれば教会との衝突は決定的となる。
シャギーは静かに、やるべきことを考えた。まずはフォールスの命を確保すること。カルミア教会を告発するのはそれからだ。
「お父様、お願いがあります」
「何だいシャギー。今の状況であまり物騒なことは許可できないけど?」
過去シャギーのおねだりについては貴族令嬢にあるまじきものしか記憶にないアクイレギアが頬を引きつらせつつ尋ねる。
「私、もうすぐ16歳になるんです」
「うん……? もちろん知ってるけど」
「成人ですから、夜会にデビューしても良い歳だと思うんです」
「夜会」
突然始まった脈絡のない話に疑問を浮かべる父アクイレギアに、シャギーはにっこりと微笑んで言う。
「王宮の夜会に、連れて行ってください」
なぜかゴリゴリの武闘派に育ってしまった娘からの、初めての貴族令嬢らしいおねだり。それだけを見れば喜ぶべきことなのだが、状況が状況なだけに、不穏しか感じない。アクイレギアは泣きそうになった。絶対この娘、物騒なこと考えてる。
「──王城の見取り図が必要だな」
「カラン!!」
ああ、息子まで物騒なこと言い出した。この兄妹がこうなったら彼らを愛してやまない父にはどうしようもない。隠れて行動されるより、近くにいて守れる状況の方が幾分かマシな筈なのだから。
何も言えない父親を残して、作戦会議だなどと言って仲良し兄妹は退出して行く。何だろう、まだ許可していないのに決定してる。しんどい。アクイレギアは執事を呼んだ。
「胃薬を……頼む」
執事は無言で頷き、ハンカチを差し出した。
アクイレギアは涙を拭い、ついでに「洗って返すね」などと言って鼻もかんだ。
◆
「信じられない……! アイツ……ドラセナ・ドラコはヒロインのお助けキャラのはずじゃない! なんでアイツの解毒剤のせいで私が捕まるのよ……!?」
貴賓牢の中でヴィーナスは一人呟く。そもそも、ゲームでは毒を入れるのはシャギー・ソルジャーだ。あの女が悪役令嬢としての立ち回りを一切せずに男装して学園に通い、スパイク・ウィンターヘイゼルと婚約もしていないせいでなかなかシナリオの通りに進めることができなかった。
それでも、ゲームの強制力なのかどうか、イベントを起こすことは出来たのだ。スパイクとシャギーは婚約は結ばずとも交流はあったらしく、学園でヴィーナスがスパイクと居る場面に出会した時は嫉妬と動揺を見せてヴィーナスに手を挙げようとした。そしてスパイクを訪ねてウィンターヘイゼル公爵家に行けばシャギーが居て、シナリオ通りにお茶会で同席することになった。
だからシナリオ通りに、悪役令嬢は退場する筈だと思ったのに。
大司教に連れられて教会にある修道院へ行った。そこではシナリオと同様に教会に伝わる菓子を焼くことになった。
『聖女様には知られぬように』
以前、大司教がシスターの一人に何か薬を渡すのを、ヴィーナスはこっそり見ていた。ゲームで見覚えのあるデザインの瓶。あれを手に入れてジャムに入れるのは悪役令嬢シャギー・ソルジャーの筈なのにと思いながら、これもシナリオ通りに進めるための強制力なのかなと納得していた。だから、イベントを起こすために、シスターから盗んでいたそれをジャムに混ぜた。シャギーに食べさせようと動いた。ゲームをやり込んでいた自分なら上手くやれると思ったから。
そう、ヴィーナスは前世の記憶を思い出して以来どこか、ゲームをしている感覚でこの世界を生きていたのだ。
なのに、シャギーの代わりにスパイクが倒れたのを見て急に怖くなった。自分は人殺しになるのだろうか。シャギーが死ぬのはシナリオ通りだから仕方がないと思っていたのに、これは現実なのだということに急に気がついて、怖くなった。だからドラセナの解毒薬も出してしまったのだ。それで自分が疑われることになるところまで考えられなかった。
「こんなの裏切りじゃないの……!」
ドラセナから解毒剤など受け取らなければよかった。スパイクを見殺しにすることになっても助ける手段が無いのだから仕方がないと思いたかった。安全な場所で、ただゲームを楽しみたかっただけなのだ。
絶望して俯くヴィーナスのもとへ、面会を告げる騎士がやってくる。ゆるゆると顔を上げた聖女の前に、いつもと変わらない、柔和な笑みを浮かべた大司教が立っていた。
【植物メモ】
和名:セイヨウハナズオウ[西洋花蘇芳]
俗称:ユダの木[英語:Judas tree]
学名:サーシス・シリクアストラム[Cercis siliquastrum]
マメ科/ハナズオウ属
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次回から最終章です。




