8 . 紅茶との出会い②
「お待たせいたしました」
差し出したティーカップをカチャッ、と小さく音を立てて持ち上げた男性は一度口元で手を止め、すぅーと香りを吸い込む。
「すっごいいい香りですね」
「ふふ、そうでしょう。なんとなくフルーティーさを感じさせてくれるとても深く熟成された香りが特徴なんですよ」
香の説明にうんうんと頷いた男性はひとしきり香りを楽しんでから、どこか期待を込めるようにカップに口をつけた。
さて、ゆっくり口内に広がる紅茶はいったいどれほどの芳醇さを秘めていることやら。
お客さんに楽しんでもらいたい一心でいつも丹精込めて紅茶を淹れているが、その独特なコクと香りを迎え入れる贅沢な瞬間を見ていると、時にはひどく羨ましくなる。
できることなら自分が……。
(なんてね)
コクリ、と男性の喉が小さく動く。
嚥下された紅茶はじっくり体に沁み渡っていることだろう。
「うわ、うま……」
思わず、といった風に溢れ出た男性の言葉はどこまでも本心そのもので。
香はにっこりと笑みを深めた。
それから二度、三度と無言でカップに口をつける男性。
その様子をこっそり窺っていると、パチッ、と目が合った。
「……あ、すごく美味しくて、つい…」
「その気持ち、すごくよくわかります。ゆっくり楽しんでいってくださいね」
そろりと気まずげに目を逸らした男性は再び紅茶を口に含む。
「ダージリン、でしたっけ? 今まで紅茶とか全然飲んでなかったんですけど……」
「はい」
「なんか俺、とてつもなく新しい扉を開いたような気がします」
「ふふ、ぜひぜひ。大歓迎ですよ」
この瞬間、息をするように行われていた香の紅茶布教活動に寸分違わずハマった男が誕生した。
ゆるく表情を綻ばせて紅茶を飲む男性に香は夢のつまったお皿を差し出した。
そこに乗るのは、表面にナッツを散りばめたパイ生地にごろごろと間に挟んだりんごのフィリングが目を惹くアップルパイ。
「よろしければこちらもどうぞ。サービスです」
「いいんですか? うまそー」
「さわやかな味わいのダージリンには甘酸っぱいアップルパイがよく合うんですよ。なんといっても紅茶とスイーツは相性抜群ですからね」
『Caprice』で出しているアップルパイは香の気まぐれに左右されない開店当時からの固定メンバーのひとつだ。
何層にも折り重ねたパイ生地に、アーモンドクリームとたっぷりのりんごを敷き詰めて丁寧に焼いたアップルパイ。
パイもナッツもサクサクと香ばしく、中はしっとりした甘酸っぱさがダイレクトに伝わるように。
派手さはないもののどこか懐かしい安心感のあるスイーツ。
香としても定期的に食べたくなるお気に入りの一品だ。
サクッとフォークを入れて口に運ぶ男性。
りんごとバターの味をしかと噛み締めれば自然と笑みがこぼれる。
言葉にせずともその表情を見ているだけで多幸感が伝わってくる。
(ああ、アップルパイ食べたい……)
そんな表情を見せられたらこちらとしても無性に食べたくなるというものだ。
「ごちそうさまでした。ほんっとウマかったです」
「ふふ、お口に合ったみたいで良かったです」
「また、紅茶の話を聞きに来てもいいですか?」
「もちろんですよ。まだまだたくさん種類もございますので、ゆっくり楽しみましょうね」
なんといっても紅茶は奥が深い。
少しでも興味を持ってくれる人ができたのは喜ばしいことだ。
窓から見える空模様はすっかり機嫌を取り戻した様子。
こうして今日も『甘味喫茶 Caprice』は小さな一期一会を運んでくる。
店にも、お客さんにも───。
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「ねえ蔵ちゃん。ちょっと手が空いてたらアップルパイのフィリング仕込んどいてくれない?」
「もうなくなったのか」
「ううん、自分用。ただ食べたくなっただけ。二階にりんごもパイ生地もあるはずだから」
「相変わらずころころ気分が変わんのな」
「こればっかりは仕方ないね」
「手が空いたらな」
「ふふ、ありがと。もちろん蔵ちゃんも食べるよね?」
「当たり前だ」
「どーんと大きくワンホールいこうよ」
「ああ」
実はこの男、白蔵桐もあのアップルパイが好物だったりする───なんてちょっとした裏話。