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(9)継父

(9)継父


 真夜中の田舎町に、まるで穴でも空いたようにポツンと灯った看板の明かりが、鉄之介のボコボコの顔を紫色に染め上げていた。久しぶりなうえにこんな顔では息子だと信じてもらえないのではないかと思うと、さすがに扉を開けるのを躊躇した。

 鉄之介はさっきタクシーが走り去って行った暗い一本道に目をやった。

 ずいぶん長い時間タクシーに揺られていたような感覚でいたが、実際は甲府を出てから1時間半ほどしか経っていなかった。夜中の3時前だった。まだ、なのか、もう、なのか、自分が昨日にいるのか今日にいるのか、およそ時間の感覚というものが剥ぎ取られてふわふわしていた。

 しんとした冷気のなかに懐かしい木々のにおいを感じた。改めてダンディーな運転手に感謝した。不思議な男だった。しかし、彼が幽霊でも妖怪でも、無事に鉄之介と杏をここまで運んできてくれたのに違いはなかった。

 彼が最初から料金メーターをセットしていなかったのは知っていたが、本当にそうしてくれていたことに、ありがたさを通り越してただ驚いた。到着して起こされたときはまだ半分まどろみのなかにいて、運賃を尋ねると、いらないと平然と言われた。そこで完全に目が覚めた。それではこちらの気がすまないと鉄之介は言い張って、あり金を全部置いていった。しかし正規の料金からぜんぜん足りていなかったのは明らかで、だったらそのままタダにしてもらったほうが運転手の顔が立ったのかもしれないと降りてから後悔した。まだ遠くの方でゆらゆら揺れている赤いテールランプが完全に闇に混じってしまうまで鉄之介は見送った。

 「スナック永妻」と明朝体で書かれた白い文字が、古い映画のタイトル画面みたいに紫の背景のなかで浮かび上がっていた。こんな田舎のスナックに、こんな時間になっても客がいるものなのだろうかと鉄之介は扉の上から突き出た長方形の看板をしばらく見つめた。

 鉄之介の実家がある地域は、御殿場のなかでもとくに田舎で、中学では唯一自転車通学が許可されていたようなところだった。学校指定のダサいヘルメットの着用が義務付けられ、それを被って登下校する姿は同級生から嘲笑の的だった。メット部族、影でそう言われていた。だから、そんなクソ田舎でスナックをはじめると母の和子が言い出したときは、どうしてわざわざバカにされるネタを自ら提供するようなことをしなければいけないのか、殺してやりたいくらい腹が立った。さらに、店ができてみて看板を見たときには愕然とした。永妻というのはここらへんの地名のことで、ただでさえ田舎のなかの田舎というレッテルを貼られている地名を店名にするというそのセンスが耐え難かった。わざと鉄之介をイラつかせるためにやっているとしか思えなかった。

 案の定、不良仲間のなかには、「スナック永妻」に行っていいかと、何かにつけギャグにして言ってくるやつや、誰にもらったのか店名入りの紫のライターを1ダースほど持ってきて配っているやつもいた。そういうやつらは友達だろうが先輩だろうが容赦なく叩きのめした。だから鉄之介にとって、この紫の看板は、親へのわかりやすい反発心の象徴なのだった。

 しかし、ほぼ10年ぶりに看板の明かりを見てみたら、反発心どころか、どこかホッとする気持ちのほうが正直強かった。

 予想外のドタバタのなかで、結局自分が身を寄せられる場所はここしかなかったのだと思い知ったら、思春期の頃の自分がずいぶん遠くにあるような気がした。いちいち腹を立てたり、イライラしていた自分が、何かに守られていたのだということをようやくわかった。

 元々の家屋の一階部分を強引に店舗にしたため、「スナック永妻」と自宅の玄関は一緒だった。部屋に入るには店の端から端まで通っていかなければならない造りになっていた。それも10代の鉄之介をムカつかせた理由のひとつだった。バイトや遊びで夜遅くなったときは、酔っ払いのオヤジ共とよく喧嘩になりそうになって、あとで和子に怒られた。

 杏を抱きかかえて扉を開けた。

 カランコロンカランとコントみたいな鈴の音が頭のすぐ上で鳴った。酒のにおいと饐えたような独特の飲み屋の空気が全身を包んだ。一番嫌いなにおいだった。

 「あらあ」

 カウンターにいた和子が気の抜けた声を出して迎えた。馴染みの客だと思ったのだろう、顔も上げず立ったままペンを動かし、メモをとっていた。

 赤ワインみたいな色をした趣味の悪いソファーに大理石柄がプリントされたテーブル、カウンターのスツールもソファーと同じ色のものだ。店の一番奥のど真ん中にはカラオケのモニターと機器が仏壇のように鎮座していた。巨大な招き猫が睨みをきかすカウンターの向こうの棚には、プラスチックの丸いラベルをメダルみたいにぶら下げられた同じかたちのボトルが並んでいた。そのラベルには子供の頃から見慣れた和子の細い字でさまざまな客の名前が書いてあった。鉄之介が家を出て行った18歳のときのまま時間が止まっていた。

 「ごめんなさい。もう看板なのよ」

 上目づかいにこちらを見た和子の鼻の先には老眼鏡があった。

 「あら!」

 ようやく鉄之介に気づいて老眼鏡をむしり取り、カウンターを回り込んで出てきた。

 「あらあらあらあら」

 黄色と黒が幾何学的な模様を織りなしている襟のどデカいボディコン風の服を着た和子が近づいてきたかと思ったら、鉄之介を無視して杏を奪うように抱っこした。

 「あらあらあらあら」

 と、もう一回言った。

 和子の声につられて自宅のほうから継父の雅彦がのっそり現れた。

 「なにー、どうしたのー」

 声に酔いが混じっているのがわかった。

 雅彦は次の瞬間、「おう!」と言ったまま固まって、鉄之介と、それから和子の腕に抱かれて眠そうに目をこすっている杏を交互に見た。

 あらあらあら、と和子は雅彦に向かって杏を揺らした。

 ゆるめた黒の蝶ネクタイが中途半端にぶら下がったままの雅彦は、どういうつもりか鉄之介を抱きしめて、「おうおうおうおう」と言って、杏を抱っこした和子に対抗するようなことをはじめた。

 「おい」鉄之介は迷惑そうに言った。「痛えから放せよ」

 二人の妙なテンションがシンクロしながら高まっていき、さながら滅多にお目にかかれない獲物を捕らえた原始人みたいに、あらあらおうおうと回転しながら狂喜のダンスへと突入していった。

 「おい!」

 鉄之介が大声を出すと、ようやくおさまった。

 「何あんたおっきな声出して」と鉄之介に向かって言った和子は、すぐに杏に顔を寄せて、「ねえ」と甘えるような声を出した。

 「鉄之介くん」雅彦が眼鏡の奥の細い目をいっぱいに見開いて、診察する医者みたいな真面目くさった口調で言った。「またずいぶん派手な顔をしているね……うん、大人になった」

 そして和子と顔を見合わせて笑った。

 息が酒臭かった。鉄之介はここへ来たことを早速後悔した。

 ひょろひょろした体型でメガネをかけた雅彦を久々に見たら、ツカサを思い出した。数日後に迫ったバトテンのことが頭をよぎり、つくづくおれをイラつかせるやつだと雅彦に対して苦々しく思った。

 鉄之介の使っていた2階の6畳間はそのまま残っていた。

 部屋の隅にはベッドが、窓際には勉強したことのない勉強机があった。本棚には「宝島」や「PATi PATi」などの雑誌やCDがそのまま残っていた。壁には色あせたブルーハーツのポスターが貼ってあった。家のにおいが一段と濃く感じられた。

 ベッドに杏を寝かせた。

 杏はすこし不安そうにきょろきょろ部屋を見回した。

 「ここはね、おれが杏くらいの頃から使っていた部屋なんだよ。だから安心して朝までいっぱい寝ていいからね。おれは風呂から上がったら――」

 よほど疲れていたのだろう。ことんと寝てしまった。大きな布団に包まれて眠っている杏を見たら、やっと安心できた。

 2階には3部屋あって、鉄之介の部屋以外はリビングと寝室として使われていた。台所や風呂などの水まわりは1階にまとまっていた。1階のスナックといい、2階の部屋といい、家だけが奇妙なくらい鉄之介が出て行ったときと同じだった。しかしそこで生活している和子も雅彦も確実に歳をとっていた。鉄之介は老眼鏡をかけた和子と雅彦の首筋にできたたるみを思い出した。和子がいくつになったのか、自分の歳から計算しようとしたが面倒くさくなってやめた。

 熱い湯が傷口に浸みて風呂は地獄だった。何かの罰を受けているみたいだった。余計に体力を消耗した。

 リビングとして使っている和室をのぞくと、部屋着に着替えた和子と雅彦が向かい合ってコタツに足を突っ込んでいた。その奥で石油ストーブのオレンジの炎がこんもりとした形で光っていた。

 「むかしあんたが着てたジャージ、出しといたよ」

 鉄之介は黙ってジャージに着替えた。

 入れ替わりで雅彦が風呂に行った。

 壁に掛かった鳩時計が遠慮がちに秒針を刻む音に和子の新聞をめくる音が時折混ざった。夜中の3時に読む昨日の朝刊は何の役に立つのだろうと思った。

 「何突っ立ってんの」

 和子は新聞から顔を上げずに言った。長い茶髪の巻き毛を左手で押さえながら熱心に読んでいた。もしかしたら読んでいるふりをしているだけかもしれなかった。

 「早く座りなさいよ」

 鉄之介は和子の左側の一辺に足を入れた。

 「結構遅くまで店やってるんだな」

 何を話していいのかわからず、しかし何か言わなければ落ち着かないというだけでどうでもいいことを口にしていた。

 「今日はたまたま」

 和子は新聞に視線を落としたままだった。鉄之介もコタツの天板に付いたタバコの焦げ跡みたいな黒い染みを見つめていた。

 「たまたまっつーのは? 何かあったのか?」

 「たまたまはたまたまよ」

 「……」

 「あんたがいきなり子供連れて現れるよりはずっと普通のことだよ」

 タンクから灯油がストーブに送り込まれるコポコポという音が聞こえた。

 静かだった。田舎の夜はこんなだったろうかと鉄之介は落ち着かなかった。東京の夜も静かだが、それはひとりひとりに与えられた個室のようなものだ。ところがいま鉄之介を取り囲んでいるのは、嘘や言い訳を挟み込む余地のない、どこまで行っても壁のない透明な静けさだった。

風呂に入ったせいで余計に熱を持った顔の傷がひどく疼き、もしかしたら音をたてて和子に聞こえているんじゃないかと心配になった。

 和子が鳩時計を見て、また新聞に目を落とした。

鉄之介は息を殺して痛みに耐えた。

 「こおんなに」と、ふいに和子が言った。

 新聞のどんな記事に引っかかったのか、鉄之介は何となく視線を向けた。すると和子は顔を上げて鉄之介を見た。

 「こおんなに顔腫らして帰ってくるなんて、どういうつもりなんだろうね」

 鉄之介が口ごもっていると、和子がつづけた。

 「だいたいあんたは喧嘩弱いんだから。あんまり突っかかるもんじゃないよ」

 「好きでやったわけじゃねえから」

 「お父さんは強かったけど、あんな人でも上からユンボが落っこちてきたらひとたまりもないんだからね」

 和子は新聞をたたんで、よっこらしょと言いながら立ち上がった。タンスをごそごそしだしたかと思ったら、救急箱を持ってまた座った。

 つんとしたにおいが部屋に漂った。消毒液をたっぷり染み込ませた脱脂綿を、「ほら」と鉄之介の顔に乱暴に塗りたくった。

 飛び上がるほど痛かったが鉄之介は声を出すのを我慢した。和子はそれを知っていて、「ほれほれほれ」と消毒液をじゃぶじゃぶかけはじめた。

 「いい加減にしろよてめえ」

 鉄之介が手を払いのけると、和子は勝ち誇ったように言った。

 「あんたはすぐにいいカッコしたがるんだよ。痛いときは痛い。しんどいときはしんどい。素直にそう言ったほうが人は助けがいがあるんだよ」

 「うるせえよ」

 「出たねー」和子は後ろにのけぞって大げさな表情をつくった。「バカ鉄の十八番が」

 「ちっ」

 「あの子、どうしたの? あんたの子じゃないってのはさすがにわかるわよ」

 救急箱を片付けながら訊いた。しかし和子の声には、何かのついでではない、まっすぐな真剣さが込められていた。

 鉄之介は、順を追ってたどたどしく説明をはじめた。杏にはじめて出会った日のこと、そのときに見た杏の体にあった痣のこと、東中野の部屋に警察と児童相談所の職員がやって来て杏を連れて行ったこと、しかしそれでも虐待は収まっておらず、ついには数時間前、実父と思われる男が泣き叫ぶ杏を無理やり公園まで引きずり回してきたこと、たまたまそこに出くわして喧嘩になってしまい、電車に飛び乗ってここまでやって来たこと。ところどころで千恵子の名前を出しそうになった。そのたびに息継ぎをしてごまかした。不自然に息を吸い込むのが泣いているみたいで嫌だった。

 「おれは、悪者なのかな?」

 思わず声に出して言っていた。

 「あんたは――」何か言おうとした和子を遮って、ガラス戸が勢いよく開いた。

 「鉄之介くんは何にも悪くない」

 パンツ一丁の雅彦が立っていた。風呂に入ってきたばかりのはずなのに、寒そうにしていた。おそらく鉄之介の話をガラス戸の向こうで聞いていたのだろう。

 「雅彦さん」和子が言った。「それ、パンツ後ろ前逆なんじゃないの?」

 ああ、と鷹揚に言って、雅彦はその場でパンツを脱いで穿き直した。そして、寝巻きに着替えると、先に寝ると告げてすぐに出て行った。

 気をつかってくれているのがわかった。しかしもはや、この人とどう接していいのか鉄之介にはわからなかった。

 母が再婚したのは鉄之介が16のときだった。微妙な年頃の鉄之介に、自分以外を受け入れる余裕はこれっぽっちもなかった。まして、新しい父親などという存在は、自分を否定する敵にしか見えなかった。身構えて臨戦態勢を整えた鉄之介に、しかしその敵は、何の攻撃も加えてこなかった。それどころか、ひたすら優しく接しようとした。それがかえってフラストレーションとなった。まるでジャングルのなかの見えない敵と戦っているみたいだった。鉄之介が思いつく対抗手段は、ひたすら無視することだった。だからどれだけ思い出してみても、これまで雅彦と口を聞いたことはほとんどなかった。

 「わたしはあの人がいてくれることで本当に助けられてるよ」

 和子が自分の肩を叩きながら言った。そして、「あんたにわかってくれとは言わないけどさ」と早口で付け加えた。

 「おれはべつに……」

 鉄之介にしても、いまさら雅彦に対してどうこう思う気持ちはなかった。それよりも、杏と出会って、雅彦のことがすこし身近に感じられるようにさえなった。それは自分でも驚きだった。

 もし杏が、10代のおれが雅彦に抱いていたような感情を持っているのだとしたら……そんな疑問が鉄之介の頭をふとよぎった。事情が違いすぎて杏と自分を比べるのは意味のないことだとわかっていても、そこからなかなか離れられないのは、血が繋がっていないという事実が重くのしかかってくるからだ。もしそれが理由で拒絶されるのであれば、そこには埋めがたい溝がある。だけど――、と鉄之介は杏の姿を思い浮かべた。おれならそんな溝なんてすぐに飛び越えてやる。その勇気があの人にはなかったんだ。おれが無視したならいくらでも胸倉つかまえて揺さぶって振り向かせてくれればよかったんだ。そしたら――。

 「あの子のことをどうするのか、あの子の身になって考えてあげなきゃダメだよ。あんたの都合や感情で振り回したって、それはあんたの……えーとなんだっけ、あんたの……」

 「なんだよ」

 「なんて言うんだっけかなー、うーん、エゾ?」

 「エゾ?」

 「違う?」

 「いや知らねえよ」

 「まあいいや」

 「よくねえよ、気持ち悪ぃな」

 和子は鳩時計を見た。

 鉄之介が高校2年のときだった。時刻に合わせて出てきた2羽の鳩目掛けて腹立ち紛れに投げつけたゴルフボールが命中して、それから二度と鳴かなくなった。和子が猛烈に怒るかと思ったら、静かに泣き出したので鉄之介はどうしていいかわからなかった。和子の誕生日に雅彦がプレゼントしたものだということを後で知った。

 「お風呂いこ。もうこんな時間だ」

 そう言うと、和子はその場で着ていたセーターを脱ぎだした。

 「おい、こんなとこで脱ぐんじゃねえよ。なんだおまえら夫婦揃って。露出狂か」

 「だったらとっとと自分の部屋行きな」

 「おまえが座れっつったんだろうが」

 立ち上がってガラス戸を開けたところで、和子に呼び止められた。ブラジャー姿の和子が言った。

 「久しぶりにあんたと話したけどさ」

 鉄之介は黙ってつづきを待った。

 「ちっともおもしろくないんだけど、大丈夫?」

 「ほっとけよ!」

 「だってあんたお笑い芸人やってんでしょ」と言って、和子はファイティングポーズをとった。「裸でこんな格好してさ。CMでしょっちゅう流れてるよ。雅彦さんは出るたびに手を叩いて喜んでるけど」

 全国放送も迷惑なものだと鉄之介は思った。

 「ねえ、なんかおもしろいこと言ってみてよ」

 「……」

 「そのカビの生えたみたいな頭流行ってるわけ? お願いだからやめてくんなーい? 恥ずかしいんだけど」

 鉄之介は何も言わずにガラス戸を閉めた。

 「そうだ、思い出した!」

 自分の部屋に戻ろうとした鉄之介は、リビングの明かりの届かないところで足を止めた。

 「エゴ、エゴだ。あんた、エゴはダメなんだからね!」

 「ポッポー、ポッポー」

 鉄之介は返事の代わりに鳩時計の真似をした。

 「やっぱりあんた、おもしろくないね」

 うるせーよ。鉄之介は心のなかで言った。


 翌日起きたら昼だった。

 目を開けると鉄之介はどこにいるのか混乱した。実家の自分の部屋だと思い出すまでにかなりの空白を要した。しかしすこし体を動かした瞬間、猛烈な痛みが恐ろしい速度と鋭さで全身を駆け巡り、ぼってりした意識をズタズタに切り裂いて、まざまざと昨晩の記憶をよみがえらせた。

 杏はリビングのコタツで、和子と一緒に食事をしていた。

 「あんた、なにその顔、寝てるあいだにまた喧嘩したの?」

 和子がそのへんから手鏡を拾い上げて、鉄之介に向けた。

 「え?」

 鉄之介は鏡に映った自分に思わず問いかけた。元々の顔を飲み込むように派手に腫れ上がって、変色していた。

 「痛くないの、それ?」

 とくにひどい、食虫植物みたいな赤黒い色をした左の目尻を指先でおそるおそる触ってみた。埋め込まれていた小型爆弾が爆発したんじゃないかというくらい激しい痛みが脳天を突き抜けていった。

 見兼ねた和子が薬を染み込ませたガーゼやら絆創膏を貼ってくれた。杏はずっとごはんを食べていた。

 「この子、すごい食べるわね。ちっちゃいのにさ。朝だって雅彦さんより食べるんだもの。あ、あんたごはんは?」

 そういえば、昨日の夜からほとんど何も食べていなかった。

 下駄みたいな大きさの卵焼きや、野菜をくたくたに煮込んでよくわからなくなったもの、何かの汁、ロースハムを切っただけのもの、どんぶりいっぱいの納豆、とにかくいろんなものが次から次へと出てきた。

 「うれしいでしょう。久々のおふくろの味は」

 「全部あまりものじゃねえかよ」

 「あまりものでもおふくろの味はおふくろの味よ」

 口のなかがぐちゃぐちゃで、浸みるわ血の味が混ざるわで、おふくろの味どころではなかった。ただ空腹の求める速度に合わせてヤケクソで噛み砕いたものを食道から胃に送り込んだ。

 「なによ、あんたたち。もっとしっかり味わって食べなさいよ。東京って食料不足なわけ?」

 昼の1時からカラオケ教室があると言って和子があわただしく食器を片付けはじめたので、鉄之介は杏を連れて外に出ることにした。

 鉄之介が小さい頃に着ていたおもちゃみたいな紺色のダッフルコートやコーデュロイのズボンを着た杏を和子は不思議そうに見送った。1階のスナックでは雅彦がテーブルを拭いたりしてカラオケ教室の準備をしていた。鉄之介と杏に気づいて、今晩はごちそうだぞと言った。鉄之介は雅彦に返事をする代わりに、「だってさ」と杏に振った。

 「なんかあんたが家を出て行ったときよりずっと寂しい気持ちになっちゃうね。なんでだろう」

 和子は玄関を出たところで杏を抱き上げ、頬をすりつけた。

 空気は冷たくて透き通っていた。よく晴れて、風もほとんどない穏やかな日だった。ゆるやかな登り勾配の道路の先に富士山の裾野が、うねる波のように迫って見えた。子供の頃から当たり前にあった景色のはずなのに、鉄之介はまるではじめて目にしたみたいにすこしのあいだ見とれてしまった。

 「杏、散歩しよっか。いっぱい歩いてお腹減らして、またご飯食べような」

 杏ははっきりと笑って、元気に足を踏みしめて歩き出した。

 アスファルトの道路からそれて、畑と森と空だけの風景のなかを鉄之介は杏と手をつないで歩いた。色彩に乏しい冬の景色に富士山の白がまぶしく映えた。自分と杏とが一枚の絵のなかにいるようだと思った。

 久しぶりに帰った実家の部屋といい、外の景色といい、自分をお笑いと結びつけるものは何ひとつとしてなかった。そして、こうやって杏と歩いていることと、バトテンで優勝して芸人として売れることがイコールではないことをここへ来てわかった。何もない、ただの田舎道にこれまで鉄之介が抱えていたものがぼろりと落ちて、富士山の裾野に沿ってつづくなだらかな傾斜を音もなく転がっていった。

 農道からさらに脇道に入り、道の途絶えた森のなかを抜けると、突然サッカー場の半分くらいもある芝生の広場がぽっかりと口を開けている場所がある。中学や高校の頃、ここでよく学校をサボってタバコを吸ったり、ラジカセを持ってきてブルーハーツをフルボリュームでかけたりしたことを鉄之介は思い出した。誰にも邪魔されない自分だけの場所、ここにやって来るたびにいつもそんなふうに感じていた。

 芝生に寝転んだ。

 芝生がめずらしいのか、駆けまわる杏を視界に留めながら、鉄之介はどうして自分がプロの芸人を志すようになったのかを思い出していった。

 養成所で鉄之介はなかなか相方を見つけられないでいた。かと言って、ひとりでは何をやったらいいかわからなくて身動きできなかった。理由はお笑いというものに対して鉄之介があまりにも無知だったからだ。漫才にボケとツッコミという役割があるのすらも知らなかった。

 養成所に入って3ヶ月目くらいにネタ見せで何かやらなければいけないタイミングがあって、何も思いつかずに一か八かモノマネをやった。甲本ヒロトがぺろぺろ舌を出しながら、「森のくまさん」をひとりで輪唱して最後はわけがわからなくなって暴れるという勢いだけのネタとも言えないネタだった。それがウケた。理由はわからなかった。ただ気分がよくなって、おれはモノマネをベースにしたネタをひとりでやっていこうとたまたま空いていた椅子に座るような感覚で決めた。

 それから、どれくらいの人たちを笑わせてきたのだろう。

 何がおもしろくて、おもしろくないか、結局のところいつまで経っても鉄之介には理解ができないままだった。だから後付けで知った「お笑い」を追い求めているふりをしていた。

 しかし、自分にとっておもしろいとはどういうことか、そのこたえは、じつはずいぶん前にわかっていた。千恵子との暮らしのなかで感じる楽しさのほうが、狙いすましてもぎ獲った笑いよりも鉄之介にとっては本当のおもしろさだった。そして杏とはじめて出会った真夜中の公園で確信したのだ。そのとき聞いた、杏のかすかな笑い声は、それまで鉄之介が浴びたどんな笑い声よりも自分を必要としてくれていると感じられるものだった。

 そんなものは「笑い」ではない――。そう言われたら素直に認めるだけの隔たりが、自分にとっての笑いと芸としての「笑い」とのあいだにあることを鉄之介は観念するような気持ちで理解していた。

 金銭や地位、あるいは挫折といったような代償のない笑いが芸としての「笑い」であるはずがないのと同じように、鉄之介にとっての笑いは、そういったものが入り込む余地のない生活のなかから湧き起こってくる真っ白な笑いだった。

 ツカサのおかげで急に注目されるようになり、たくさんの人の前でネタをやるようになったからこそ、自分がいるのはここではない、とはっきり思うようになっていった。人を笑わすために、コンマ何秒の間を気にするツカサを尊敬しつつも、鉄之介はやはりそのコンマ何秒にはるかな断絶を感じるのだった。

 いつの間にか杏が鉄之介の隣で寝転んでいた。冬なのに顔じゅうに汗をかいて、それが冬の陽の光にきらきらと輝いていた。鉄之介は首に巻いていた千恵子にもらった赤いマフラーを手のひらに当て、小さな玉をすくい取るように丁寧に杏の額や頬を拭いた。あまりにも気持ちよさそうにしているので、ふざけてそのまま背中に手を入れた。すると杏が、くるくる笑い出した。その姿が可笑しくて鉄之介は杏をくすぐった。身をよじりながら逃げた杏を追いかけて、今度は二人で汗びっしょりになった。めちゃくちゃ笑った。

 鉄之介は杏を抱き上げた。

 「腹減った?」

 杏は大きくうなずいた。

 「すごいな杏は、いっぱい食べて。すぐに大きくなるな。でもまだ晩ごはんには早いから、帰ったらおれがインスタントラーメンをつくってやろう。おれのインスタントラーメンはうまいぞ。なんてったってモノホンのラーメン屋仕込みだからな」

 八ちゃんは、と言いかけて口をつぐんだ。八ちゃんは、おれのつくるインスタントラーメンが、きっとどんな高級料理よりもおいしいって褒めてたぜ。

 鉄之介は杏を見つめた。

 一度東京へ戻ろう。そして大晦日のバトテンのステージを最後にしよう。


 夜は雅彦が張り切ってすき焼きにしてくれた。

 スナック永妻は臨時休業となった。


 翌々日の昼過ぎ、鉄之介と杏が散歩から戻って来ると、家の前にパトカーが2台停っていた。胴体に黒々とした文字で「静岡県警察」と書いてあった。嫌な予感しかしなかった。

 スナックのなかには制服を着た警官と婦人警官、それと、ドラマか何かから抜け出てきたようなよれよれのコート姿の男が二人いた。もちろん客には見えなかった。

 「もしかして刑事?」

 カランコロンという音とともに鉄之介が言うと、そこにいる全員が振り返った。

 「三島鉄之介さん、だね? で、そちらは」目ざとく杏を見つけた背の低いコートが首を伸ばして言った。「高崎杏ちゃんだね」

 「署までご同行願えますか?」

 背の高いコートが緊張感を漲らせて言った。こっちのほうが若くて挑戦的だった。

 「うちの息子は何も悪いことはしていない!」

 雅彦の興奮した声に鉄之介は驚いた。

 「悪いのはこの子に暴力をふるってたっていう親のほうじゃないか! どうしてそっちが罰せられなくて、うちの息子が捕まらなきゃいけないんだ!」

 「それは先ほども説明しました」背の高いほうが文章でも読み上げるような感じで言った。「捜索願が出されていて48時間以上も5歳の子が行方不明なんです。おまけにいなくなった子の父親は大怪我を負った。これは誘拐、および傷害事件です」

 「誘拐って……」

 絶句した和子の細い肩を雅彦が支えた。

 「バカなことを言うもんじゃないよ。それは事実の上澄みにすぎないだろう。真実じゃない。うちの息子がいつ誰を脅迫した? 身代金を要求した? 息子の顔の傷はどうでもいいっていうのか? 私は何よりも自分の息子を信じているし、それに――」

 「もういいよ」

 鉄之介は雅彦の声を遮って言った。

 「ちょうどいまから東京に戻ろうと思ってたところなんだよ。ねえ、刑事さんたち。杏をどうするつもりなの?」

 コートの二人は素早く目配せをした。そして背の低いほうが言った。

 「速やかにご両親の元に送り届けます」

 「それだったら、ここではいどうぞというわけにはいかないぜ」

 背の低いコートが眉をしかめた。

 「この子は虐待を受けていたんだ。それをやってたのは父親だ。そんなやつのところに返したら、杏はどうなる? もう何度もこういうのを繰り返してるんだよ。一回は東京のおれの家で保護したんだ。そしたら児童相談所とかのやつらがやってきて大丈夫だって言うから任せたのに、また暴力を振るわれてたんだ。それでおれは杏を連れて逃げた。父親をぶっ倒したのは悪かったけど、やらなきゃこっちが死んでたからね。なんせ向こうはプロボクサーなんだから」

 「我々は形式に従って処理する意外にはない」

 背の高いほうが威丈高に言った。

 「形式ねえ」鉄之介はため息をついた。「それのおもしろさや正しさをおれはわからないんだね、一生、たぶん」

 「おもしろさ?」

 「とにかく約束してくれよ。親のところに戻りたいかどうか、何よりも杏の意思を尊重してほしい。杏が嫌だって言ったら簡単には両親に引きわたさないでくれよ。辛い目に会うのはこの子なんだから」

 事情はよくわかったと言いながら、二人のコートは隙のない動きで鉄之介の両脇を強い力で固めた。

 「待って!」

 雅彦の声が震えた。そして、絞り出すように言った。

 「鉄之介……また、いつでも帰ってこいよ」

 その一言に鉄之介は思いっきり抱きとめられたような気がした。

 血の繋がっていない継父である雅彦が、ふてくされてろくに話を聞こうともしない自分を、法に照らせば明らかに潔白とは言えない自分を、必死になって庇ってくれた。その姿よりほかに本当のことはないはずだと鉄之介は思った。この人を親と思わないでおれが杏を何とかできるはずがないじゃないか。

 「ありがとう」鉄之介が背中を向けたまま言った。「母ちゃんをよろしくたのんだぜ」

 そして振り返って言った。

 「杏」

 杏は泣くのを我慢しているみたいに見えた。

 「だいじょうぶだあ」

 それはもうモノマネでもなんでもなかった。


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