(8)セイレーン
(8)セイレーン
三鷹で中央特快の高尾行きに乗り換えた。
行く当てはどこにもなかったが、とにかく遠くに運んでくれる電車ならなんでもよかった。
立川を過ぎると空席が目立つようになり、鉄之介と杏は寄り添うように並んで座った。あまり馴染みのない街を通り過ぎていくたびに、体にまとわりついていた緊張がすこしずつ解けていくのがわかった。乗り合わせた人の視線ももはやあまり気にならなくなった。
正面に座ったスーツの男が広げたタブロイド紙に大きく印刷された日付がぼんやり見えた。大晦日まであと6日か、と鉄之介は思った。
6日で顔の腫れがどれくらい引くだろうか。鉄之介は中学や高校時代に喧嘩した記憶を引っ張り出して思い出そうとしたが、さすがにここまでコテンパンにやられたことはなかったので、想像もつかなかった。ただ、どう考えても、すっきりした顔にはなりそうにないということはわかった。
いくらなんでもそれはマズイだろう。どんな事情があるにせよ、顔を怪我している段階で暴力というイメージがついてしまうことからは免れないし、何よりもっとも痛いのは、笑いの沸点がかなり高くなってしまうことだ。普通にやってウケていたことが、視聴者の関心が顔の方に向いてしまい、まったく笑いと結びつかなくなってしまう。そうなると、ネタを根本から見直さなければならなくなり、その苦労をほとんど負うのはツカサだった。そしてコンビを組んで半年ほどしか経っていない安心チャイルドに、ネタのバリエーションはないに等しかった。ツカサが呆れ、怒り出す姿が目に見えるようだった。
鉄之介は、どこかで事情を説明したかったが、この状況をどう伝えればいいのかわからなかった。きっと何を言ってもわかってもらえない気もした。しかし何も言わないままというわけにもいかないだろう。ではどうするのがいいのか、結局考えがまとまらず、ぐるぐると堂々巡りをするばかりで、しまいには殴られた頭がひどく痛み出す始末だった。とにかく体が座席に溶け出してしまいそうなくらい疲弊していた。
ほんでその子どないするつもりやねん?
おまえのやってることドンピシャで誘拐やで、それ。
おまえ、笑いとその子、どっち取んねん!
それは……そりゃあおまえ――。
肩を叩かれて、鉄之介は飛び上がった。
いつの間にか寝ていたみたいで、反射的に左側に座っている杏を確認した。杏も鉄之介にもたれて眠っていた。
「終点です。回送電車になりますのでお降りください」
帽子を目深にかぶった駅員が車内アナウンスみたいなメロディアスな口調で告げた。
鉄之介が顔を上げると、息を飲んだ駅員は、驚きを職業的な慎みで嚙み殺すように無表情を繕い、小刻みに何度も頷いた。
鉄之介は礼を言って、逃げるように杏を抱えて電車を降りた。
ホームを吹き抜ける風が、その先端を感じるほどに都心よりも鋭かった。しかし腫れて熱を持った顔にはそれくらいが心地よかった。
何も考えずに次にやってきた「大月」と表示された電車に乗った。ガラガラだった。最初にいくらの切符を買ったのか、慌てていたのでおぼえていなかった。鉄之介はふと気になって尻ポケットに差した財布に手を伸ばした。
ところが、右側の尻にあるはずの膨らみがなかった。
きっと殴られたから感覚が鈍っているのだ、と鉄之介は思った。大きく息を吐き出し自分を落ち着かせてから、もう一度触ってみた。しかし、手に触れるものは何もなかった。体をねじってポケットを指で広げてみても、淡い期待を抱いて反対側を触ってみても同じだった。
悪い夢を見ているのだと思いたかった。
鉄之介は東中野駅で切符を買ったところから思い出そうとしてみた。目をつぶると、闇のなかに痛みが抽象的な模様になって次々と現れては消えていった。子供の頃に夢中になったシューティングゲームみたいにそれらを避けながら具体的な記憶を辿るのは骨が折れた。
思い当たる節はひとつしかなかった。
三鷹行きの総武線各駅停車の車内で、若いサラリーマンが席を譲ろうとしてくれたとき、急ブレーキのどさくさに紛れて鉄之介の方に思いきり倒れこんできた初老の男がいた。きっとあのときに掏られたに違いない。そう考えれば、その男がいかにも人の良さそうな笑顔を見せて何度も謝りながら混み合った車内を移動してどこかに消えたのも合点がいった。
もしかしたら、あの若いサラリーマンもグルだったのではないだろうか――一度疑い出したらキリがなかった。そしてそんなことを考えるのに嫌気がさして、自分がどこかに落とした可能性だってあるのだというもっともな事実に行き当たった。たとえばさっきの車両に寝ていて落としたことに気づかなかったのかもしれない。そう思う方がよっぽど諦めがついた。
そのとき、隣に座った杏がふっと鉄之介を見上げた。鉄之介がニッコリ笑うと、杏の口がかすかにハートのかたちになった。
何とかなるだろ。財布の中身に入っていたもので現金以外に思いつくものは、期限が切れたツタヤのカードくらいだった。鉄之介は杏に励まされたような気がした。
せめて小銭がいくら残っているのか気になって、ジーパンの前ポケットに手を突っ込んだ。すると指先が硬貨じゃないものに触れた。祈るような気持ちでそっとポケットから手を抜くと、人差し指と中指でつまんだ先には折りたたんだ何枚かの紙幣があった。さらにそのあいだから切符がポロリと落ちた。
東中野駅の券売所で切符を買うときに1万円札しかなくて崩したのだった。そして慌てていたおかげでお釣りを切符ごとぜんぶポケットに入れたのを鉄之介は思い出した。
それもこれも、杏のおかげだと思った。
大月からさらに特急に乗り換えて甲府まで行った。特急電車の意外な安さに気持ちが大きくなって、どこまでも行けそうな気がしてきた。
甲府に着いたのは、深夜12時を過ぎた頃だった。ちらほらと雪が舞っていた。空を見上げたら、けれど星が瞬いていた。つくりものの世界にいるような気がした。
バスのロータリーにはほとんど人がいなかった。信玄公の何とかと勢いのある筆文字で書かれた幟が歩道に沿っていくつもはためいていて、それが余計に寒々しかった。箱みたいな四角い駅を背負って、ロータリーから先に伸びるまっすぐな通りに向かい、鉄之介は杏と手をつないで歩いて行った。
「杏、お腹減っただろ?」
杏はこくりと一度うなずいた。
鉄之介は杏を抱き上げた。すべすべした杏の頬が鉄之介の腫れた顔をなでた。甘いにおいがした。
特急代を払って、手持ちは五千円札一枚と小銭だけになった。大通りにファミレスはあったが、遅い時間のせいか営業は終わっていた。ほかに開いているのは居酒屋くらいしかなかった。仕方なく鉄之介はコンビニでおにぎりや杏の好きそうなお菓子を買った。
どこか安宿にでも落ち着いて、これからのことはそこでゆっくり考えた方がよい。とにかくこのままだと寒さと疲労で二人の限界は見えていた。
いかにも地方都市にありそうな、鉄之介がこれまで何度も営業で泊まったことのあるようなビジネスホテルを一軒見つけた。
「グリーン・イン」という名前だけにエントランスにはよくわからない観葉植物がわさわさと飾ってあって、ほとんどラブホテルみたいな雰囲気だった。
フロントには誰もいなかった。電気も半分消えていて、暖房もあまり効いていなかった。
チーン、と呼び鈴の音が長い余韻を引きずって、消えた。
鉄之介がもう一度押そうとしたとき、紺色の暖簾がかかった奥からバーテンみたいな格好をした中年男性が咳払いをしながら出てきた。鉄之介が一泊の料金を尋ねると、5800円プラス税、ただしシングルで、と言われた。
なんとか5000円で二人で一泊させてくれないだろうか、この子が熱を出していて、と鉄之介はとっさに嘘をつくと、だったら病院に行ったほうがいいよとあっさり返された。
「あんたも。どうしたのその顔」
フロント係の中年男はあからさまに不審な表情を浮かべて言った。
諦めてホテルの自動ドアから一歩出た。雪はもう降っていなかったが、凍りつくような冷気が服と体のわずかな隙間から容赦なく滑り込んできた。
鉄之介はフロントにとって返し、もう一度呼び鈴を押した。
さっきと同じ、額がM字に禿げあがった係りの男が出てきて、鉄之介を見るなり迷惑そうな顔をした。
「一泊はあきらめるんで、あの、そこの」と言って、明かりの消えたロビーを指差した。「ソファーでこれだけ食べてもいいですか? お願いします」
鉄之介はコンビニの袋を目の前に掲げて見せてから頭を下げた。
「お願いします。食べたらすぐ行きますんで」
もう一度言った。
フロント係がおおげさにため息をついた。こんな深夜に面倒を持ってこないでくれよ、とでも言いたげな態度だった。
それももっともだと鉄之介は思った。どこからどう見ても、殴られてボコボコに顔を腫らせたやつが、深夜に小さな女の子を連れて現れたのだ。警察に通報されてもおかしくない。しかし、それでも頭を下げてお願いすることしか、いまの鉄之介にはできなかった。
「いや、そう言われてもね……」
男はまたため息をついた。しかし今度はどうしたものかと迷うような、うなり声ともつかないようなものだった。
もう一度たのんでみようと鉄之介が頭を下げようとしたときだった。
「おねがいします!」
はっきりと杏の声がそう言った。
鉄之介は驚いて、隣に立つ杏を見た。杏は口を真一文字に結んでカウンターを見上げていた。
フロント係が観念したように、やれやれと外人みたいに両手を広げて力なく笑った。そして、「いいよ」と投げやりに言った。
ロビーの奥で眠っている大型動物みたいな黒いソファーに杏と並んで座った。薄暗いなかでコンビニ袋のなかを探っていると、目の前がパッと明るくなった。
フロント係が壁のスイッチを触って立っていた。
鉄之介は立ち上がっておじぎをした。
杏は、前にそうだったように、ものすごい食欲だった。おかかと紅鮭のおにぎり、フランクフルトとフルーツインゼリーをペロリとたいらげた。
鉄之介は明太子のおにぎりをひとつ食べた。東京のコンビニで食べるおにぎりよりおいしいような気がした。
杏はソファーで足をぶらつかせながら、おっとっとの箱を大事そうに抱えていた。小さな手でイルカのかたちをしたスナックをつまんで、しばらく真剣に眺めてから口に入れた。
「杏。すごいな、さっき。よろしくお願いしますって言えたな」
鉄之介は杏をおっとっとごと抱きしめた。そして、旋毛のにおいをかぎながら「すごいな」ともう一度言った。
すこしだけ泣きそうになった。
誰も褒めてはくれないだろうが、杏を連れ出してよかったと鉄之介は思えた。
「よし、行くか」
まだ中身の残ったおっとっとの箱を閉じて、杏は鉄之介に差し出した。
「また明日のお楽しみだな」
鉄之介はカウンターで呼び鈴を押そうとしてやめて、暖簾に向かってすみませんと声をかけた。
係りの男がすぐに出てきた。
「あの、ありがとうございました。助かりました、マジで」
男はさっき見たよりも人懐っこい顔になっていた。セイウチみたいだなと鉄之介は思った。おっとっとのせいか、海に住む動物にしか見えなかった。胸についた白いバッヂに、ホテルの名前と近藤という文字が緑色で書いてあった。
「大丈夫なの?」と近藤はくりくりした目で鉄之介に尋ねた。
「あ、あの、すみません。この子が熱あるって言ったのは嘘で……つい。すみません」
「いや、君のその顔」
「ああ、これは。はい」
鉄之介は苦笑いでやり過ごすしかなかった。
「泊めてやりたいけど、こっちも雇われの身でね。勝手に値下げはできないんだ。それに、信じてほしいんだけど今日は満室なんだよね」
「このへんでほかに安いホテル知りませんか? 明日になれば銀行でお金が下ろせるんで、最悪5000円より高くても多少なら何とか」
近藤は重々しく首を振った。
「そうですか」
落胆を隠せない鉄之介に、近藤は慌てて言葉を継いだ。
「や、あるんだけどね、安いとこはいくらでも。うちだって普段はもっと安いんだから」
「え、ほんとですか?」
「でも、日が悪いよ。何やらどこそこの宗教の大きな会合がこのへんであるっていうのでさ。あ、オウムとかじゃないからね。いくら山梨って言っても。まあそれでさ、甲府中どこのホテルも宿も週末までいっぱいなんだよ。こんなこと、ここで働き出してからはじめてだよ」
「わかりました。……そうだ、あの」
「ん?」
もはや近藤は完全に鉄之介に同情を示していて、人の良さがいっぱいにあふれた顔を向けた。
「電話を、借してもらえたらありがたいんですけど」
近藤は黙って手元からクリーム色の電話を持ちあげてカウンターに置いた。
ツカサに一本連絡を入れておこうと思った。携帯電話の番号をメモした紙を取り出そうと尻ポケットに手をやった瞬間、それをしまっていた財布ごと失くしたのを鉄之介は思い出した。電話番号は暗記していなかった。
「すみません。大丈夫です」
「へ? いいのかい?」
「はい。ありがとうございました」
「あ、ちょっと」男はそう言うと、カウンターから出てきてエレベーターホールの脇にある自動販売機に小銭を入れた。小銭が落ちる硬い音が響いた。
「これ持って行きなよ」
缶入りのコーンポタージュスープを2本、手渡してくれた。
駅のロータリーまで戻って、とっくに最終が出たあとの路線バスのベンチにとりあえず座った。スープの甘いにおいがひとときの安らぎになった。一本を杏が飲み、もう一本は開けずに冷めるまで服の上から杏の体に当てた。
夜空がまた雪でまだらになっていた。さっきよりもたくさん降っていた。しかしやっぱり空には星が出ていた。バカにしてやがると鉄之介は空を見上げて毒づいた。
ここに着いたときよりも冷え込みが何段階もメモリをあげたように感じられた。鉄之介は着ていたダウンジャケットを脱いで杏をくるんだ。
「寒くない?」
杏はかすかにうなずいた。眠そうな顔をしていた。
雪山で眠ったら死ぬという話を思い出して、こんな寒いところで眠ったらそれこそ死んでしまうかもしれないと鉄之介は焦った。しかし、もう夜中の1時をとっくにまわっている。杏のような小さな子に寝るなとは言えなかった。
鉄之介は疼く頭を抱えて考えた。
グリーン・インに引き返し、近藤に土下座して朝までロビーを貸してもらおうか。それとも公園を探してみようか。カマクラみたいな遊具のなかは意外と暖かいと元ホームレスの芸人が語っていたのを思い出した。しかし、公園がどこにあるかもわからないし、あったとしてそんな都合のいい遊具が置いてあるとは限らない。それにいまから探しまわるには二人とももう限界だ。やっぱり近藤にお願いするしかない、と鉄之介は祈るように思った。
ピッピー。
鉄之介が意を決して立ち上がろうとしたとき、突然すぐ近くでクラクションが鳴った。杏が驚いて目をパチクリさせた。
体のあらゆるところから力を総動員して杏を抱きかかえ、歩きはじめると、ピッピー、もう一度鳴った。つづけて車のドアが閉まる分厚い音がして、「おーい」と男性の呼ぶ声が鉄之介の耳に届いた。
これ以上面倒に巻き込まれるのはごめんだと思った。しかし、おーい、声は明らかにこちらに向かって近づいてきた。振り向くと、10メートルほど離れたところでタクシーの運転手が手招きをしていた。
鉄之介はわけもわからず、おれなのか? 自分を指差して確認すると、「そうです」運転手は大きな声で言った。やけに丁寧で、マイルドな、いい声だった。
「なんすか?」
鉄之介は警戒して声を張った。それだけで呼吸がすこし乱れた。本当に本当の限界の近いことがよぎって、体の底の方が冷たくなった。
運転手が小走りで近づいて来た。鉄之介は杏を下ろして、自分の後ろに隠すように立たせた。
「なんすか」
もう一度、今度は声を押し殺して言った。
「泊まるところがないのではないですか?」
「……」
「先ほどもそういうお客さまがいらして。この週末は異常ですね。とにかくこの寒さですし、小さなお子さんを連れていらっしゃる。どうか乗ってください」
羽毛布団でくるまれるような声に誘われて、鉄之介は車のなかに入った。杏を奥にやり、自分は後部座席の左側に座った。清潔なタクシーのにおいがした。暖房がいい感じに効いていた。すぐに体がふやけていくようだった。もうこのまま一歩も動きたくないと思った。しかし一方で、突然の親切に対する戸惑いと、ここじゃないどこかに早く行かなければ杏が連れ戻されてしまうという焦燥が、鉄之介の芯の部分をまだ強張らせていた。
車は音も立てずに走り出した。
「適当に流しますので朝までゆっくりしていってください」
「いや、でも……」
「お代はご心配なさらないように。これは私のサービスです」
「そんな。なんで」
運転手は何も言わずハンドルを左に切った。
それにしても、なんて落ち着く声なんだろう。
セイレーン、という言葉を鉄之介は思い出した。千恵子と別れてすぐ高円寺のツカサの部屋に転がり込んでいた時期だった。集中してネタを考えているツカサに、吉野家でも食いに行こうぜとか、松本人志のビデオを見ていいかとか、鉄之介的にはツカサを気づかったり、お笑いの勉強をしようと思ったりして言ったのだが、ツカサにとってはたんに邪魔をしているだけだったみたいで、「おまえはセイレーンか!」とツッコまれた。当然その言葉の意味を知らない鉄之介にツカサのツッコミは空振りし、仕方なくツカサはセイレーンを説明する羽目になった。セイレーンちゅうのはギリシャ神話かなんかに出てくる妖怪みたいなもんで、航海している旅人を美声で惹きつけて食い殺すっちゅうとんでもないやっちゃ。それのどこがおれなんだと、そのとき鉄之介はさらにポカンとした。
いたぞ、ツカサ、本物のセイレーンがここに。もし悪さをしだしたらおれがとっ捕まえてやる。
「あの――」
鉄之介は運転手に声をかけた。
運転手はかすかに鉄之介のほうに顔を動かした。
「行ってほしいところがあるんですけど」
「はい。どちらまで?」
「いいんですか?」
「もちろん。タクシーですから」
そう言ってから鉄之介は自分がどこへ行こうとしているのだろうと考えた。
車が赤信号で止まった。ワイパーがフロントガラスの上を滑る音が車内に積もっていった。
「これは心配のない雪ですよ」
振り向いた運転手が鉄之介を見て微笑んだ。白髪をオールバックにして、顔には深いシワが何本も刻み込まれていた。酸いも甘いも噛み分けたというようなダンディーな風貌だった。まるで外国のタクシーに乗っているみたいだと思った。
「御殿場まで行けますか?」
「承知しました」
なんの躊躇も疑いも驚きも挟まずに運転手はアクセルを踏み込んだ。
御殿場――。ここからどれくらい離れているのだろう。いくらかかるのだろう。まあ、いいや。ボクサーにぶっ倒されたとき、たしかに聞こえた父の声を鉄之介は思い出そうとしたが、細胞の隅々にまでこびりついた疲労のせいで、うまくかたちにならなかった。
杏は鉄之介の太ももを枕に寝息を立てはじめた。
朝が来るまで、まともな夜であることだけを祈った。
目を開けたらそこにはさらに濃密な暗闇があった。鉄之介は自分が寝ているのか起きているのかわからなかった。杏のささやかな重みと触れ合った部分からじんわり伝わる体温に安心した。体が錆び付いたみたいに、指一本動かすたびにひどい痛みに襲われた。息を吸うごとに肋骨が軋んだ。熱を持った顔はますます腫れているように感じた。
しばらく後部座席にくくりつけられているみたいに動けなかった。ゆっくり首を捻って左右、そして後ろを見た。
ヘッドライトで切り裂かれた暗闇の一部が、車の通ったすぐそばから元にくっついて何事もなかったようにまたぼってりした暗闇に戻っていった。
「あかきた にいさん にんじん とって」
オールバックの運転手が聞いたことのない歌を口ずさんでいた。低い声で歌われる一本調子なメロディーがちょっと不気味で、鉄之介は聞き入ってしまった。
「あおきた にいさん きゅうり とって
きいろの にいさん かぼちゃ とって
さあてな なにをか なにをか するぞ」
歌は同じメロディーをリフレインしているだけだった。赤と青と黄色の兄さんがそれぞれの野菜をどうするのか、つづきが無性に気になって待ったが、また最初に戻るだけで、それを何度も繰り返した。
普通の車より幅の広いバックミラー越しに運転手と目が合った。
「起こしてしまいましたか。これは大変申し訳ありません」
運転手は控えめな声で軽く頭を下げた。
鉄之介は杏に目をやった。杏は鉄之介の緑色のダウンジャケットのなかでぐっすり眠っていた。
「ほかの色の兄さんは出てこないんですね」
「はい? あ、いやいやお恥ずかしい」
すこしでも会話に隙間ができると、車内の闇に混じって、くぐもったエンジン音が忍び込んできた。
「それは何の歌なんですか?」
鉄之介が聞いた。
「わからないんです」
「わからない?」
「ええ」
またバックミラーで目が合った。
運転手はさっと目をそらして言った。
「私がタクシーに乗るようになったのは10年ほど前からなんです。それまでは横浜で小さな旅行代理店を経営しておりました。大手の下請け仕事ばかりでしたがバブル景気のおかげで大層繁盛しましてね」
運転手の身の上話は、鉄之介でも容易に筋が想像できる退屈なものだった。それよりも野菜をどうしたのか歌のつづきが知りたかった。
「フィリピンのとある島に、リサーチを兼ねて行ったことがあったんです。そうしたらそこにいた老人がさっきの歌を歌って聞かせてくれたんですよ。妙に印象に残りましてね。一回聞いただけでおぼえてしまいました。もっとも、歌詞もメロディーもあれだけしかないんですけど。それからふとしたときに口ずさむようになってしまったんです」
「その老人っていうのは日本人なんですか?」
「いえ、現地の方です。おそらく太平洋戦争の時分にこども好きの日本兵から教わったか何かしたんじゃないでしょうか」
「はあ。じゃあ、運転手さんも赤と青と黄色の兄さんが野菜をどうしたかはわからないんだ」
「ええ。わかりません」
それからしばらく鉄之介も運転手も何もしゃべらなかった。ただ黒い幕がかかっただけのような平べったい闇が張り付く窓の外を見ながら、鉄之介は頭のなかで野菜の歌のメロディーを再生させた。たしかに一度聞いただけなのにすっかりおぼえていた。
「ねえ」
痛みを堪えながら慎重にあくびをひとつしてから鉄之介は運転手に向かって話しかけた。
「どうしておれたちを乗っけてくれたんです?」
運転手は鉄之介の言葉をひとつひとつゆっくり噛み砕いて飲み込むような間を空けてから静かに言った。
「お困りのようでしたから」
「でも、おれはこんな顔してるし、夜中だし、小さな子供を連れているし、どう見ても普通じゃない」
「普通の方だったら困っているなどとは思いませんよ」
まぶしい光とともに対向車がすれ違って行った。けたたましいエンジン音のせいで、杏がぐずりだした。しばらく頭を撫でたりあやしたりしていると、また寝息を立てはじめた。
「私はね」運転手がタイミングを見計らったように言った。「こう思うんですよ。あの歌についてですがね」
鉄之介は黙って運転手の言葉を待った。
「〝とる〟っていうのは盗んだってことでしょう。彼らがそれぞれ盗った野菜で何をしようとしていたのか――スープでも拵えようとしていたのか、何か祭りの準備でもしようとしていたのか、それはわかりませんが、何にせよ盗むってことは、いけないことです。だから捕まったんじゃないですかね」
「野菜を収穫したってことなんじゃないかな」
「それだと、野菜が子供の隠喩になっているように聞こえて、やりきれない。そう思いませんか?」
運転手はかすかに顔を鉄之介の方に向けて、すぐに戻した。
鉄之介は、緑色のダウンジャケットのなかで寝息を立てる杏をじっと見つめた。
「だから盗んだんですよ。私はそう思いたいですけどね。とは言え、どことなく悲しいメロディーです」
鉄之介は親指の腹で杏のつるつるした頬を繰り返しそっと撫でた。
「緑を着た兄さんがいなくてよかったよ」
運転手は何も言わなかった。
そしてまた低い声で歌い出した。
「あかきた にいさん にんじん とって
あおきた にいさん きゅうり とって
きいろの にいさん かぼちゃ とって
さあてな なにをか なにをか するぞ」
深い闇のような眠気がまた鉄之介を飲み込んでいった。