(6)レモンサワー
(6)レモンサワー
新宿にある150人ほどのキャパのホールでバトテン1回戦が行われた。午前中から日が暮れるまで総勢180組ほどのお笑い芸人たちが持ち時間2分のネタを披露しては捌け、また新しいコンビが出てきてはネタをやって捌け、その様子はさながら大量生産される自動車工場の流れ作業を思わせた。一組一組のどこにどんな違いがあるのか、よっぽどのインパクトを残さない限り勝ち上がるのは難しいということを鉄之介も頭ではわかっていたつもりになっていた。しかし実際に、楽屋に入りきれずに溢れた大量の芸人が出順を待っているあいだ、ビルの外付けの螺旋階段で列をなしてネタ合わせしている姿を見たら、これはとんでもないところに来てしまったと、鉄之介は緊張することすらもできなくなった。
こんな予選が3週にわたって週末に、しかも大阪や名古屋といったほかの大都市圏でも同時に行われているのかと思うと、昨晩ツカサが余裕めいたことを言っていたのがまったく信じられなくなった。
強引にほかの芸人のあいだに割り込んで、螺旋階段の地上から3階部分くらいのスペースでネタ合わせをはじめた。ところが、ツカサのいなかった3週間の空白が、今頃になって鉄之介のなかで途轍もない感情的な軋轢となって、うまく滑り出したと思ってもすぐにつっかえ、ツカサとのあいだにギクシャクした間だけを残して最後までやり通すことができなかった。
まわりから聞こえてくるステージ用の派手なスーツを着た芸人のネタが、どれもこれもテレビから流れるような一流のものに思え、Tシャツにジーパン姿の自分たちが、それこそツカサがバカにしていたみたいな大学生ノリの急造コンビだと思われているに違いないと、どんどん卑屈になっていった。
「ちょっと、ストップ」鉄之介は何度目かのネタ合わせの途中でまた止めた。そしてごまかすように言った。
「おれたち出番、何時頃だったっけ?」
「ネタやめんなや」
「1回戦は大丈夫なんだろ? おめえが言ったんじゃねえか。だから牧場でちんたらバイトしてたんだよな」
「何ビビってんねん」
「ああ?」
頭ひとつぶんほども背の高いツカサが螺旋階段の一段上にいるせいで、鉄之介は見上げるようにして睨んだ。
「6時半頃や。ケツのほうの出番やと思うで」
朝からぶっ通しでネタを見ている審査員のことを考えれば、後になればなるほど不利なのではないだろうか。鉄之介はため息をついた。
「何ビビってんねん、マジで」
ツカサはもう一度言った。
「おまえどうせあれやろ、七五三みたいなスーツ着たしょーもないやつら見て、うわー、おれらだけやんこんな格好してんのん、絶対負けるわー、とか思てるんやろ」
ツカサが、明らかにまわりのコンビに聞こえるような大きな声で言うと、がやがやうるさかったネタ合わせがしんと止まった。
「アホやな鉄。おまえほんまにアホやな。こいつらおもんないのをごまかすために七五三しとんねん。よう見てみい。千歳飴もろたらよろこぶようなしょーもないコンビばっかりや」
「なんだとコラー!」
螺旋階段のすぐ上から怒声が落ちてきた。
「な。いまの聞いたか?」そう言うとツカサは上に向かって、「もっとオモロいこと言わんかい!」と怒鳴り返した。
すると、「おまえもな!」と今度は下からツッコミが入った。
小さな笑いが起こった。
「いまからおれの相方の三島鉄之介がごっつおもろいこと言うさかい、おまえらよう聞いとけよ!」
そう言ってツカサが、ほれ、と鉄之介を煽った。
ふざけんなよ、このバカ!
ツカサが顎をしゃくった。
もうどうにでもなれ。鉄之介が何か言おうとしたとき、
「鉄ちゃーん」
千恵子の呼ぶ声が道路の方から聞こえた。
それで思わず鉄之介は、「は〜い!」と大きな声で返事をした。
螺旋階段に笑い声が響いた。
「百点や、鉄。いや、八ちゃんやな。最高のタイミングやったで。おまえほんまええ彼女もったな。おまえの羨ましいのんそこだけやわ」
「うるせー」
螺旋階段から顔を出して下を覗くと、道路からこちらを見上げて千恵子が手を振っていた。その横に杏もいた。
昨日の夜中、久々に顔を見せたツカサが何気なく言った目撃情報に飛び出して行ったら、いつもの公園のブランコに杏がいた。
「杏!」
鉄之介が下に向かって大きな声で呼びかけた。
「応援しに来たんだよー」
千恵子が言った。
「仕事は?」
「予約が一件キャンセルになって、わたしの担当分は終わったから、店長にお願いして早めに上がらせてもらったー。杏ちゃんも、家にひとりにしておくの心配だったし」
千恵子は鉄之介の晴れの舞台だからと言って、この日に合わせて休みを取ろうとした。しかし、美容室が予約でいっぱいになる日曜になかなか休みが取りづらいのを知っていた鉄之介は、一回戦は大丈夫だから、どうせだったら二回戦以降の白熱した戦いを見てもらいたいと千恵子を説得した。それは同時に、絶対に一回戦は突破するのだと、自分に気合を入れるためでもあった。
「もうすぐ出番だから!」
「うん、がんばってね!」
さっきまで張り付いていたネガティブな感情が一気に吹っ飛んでいったのを感じた。
ポカンと口を開けたツカサが鉄之介を見ていた。
「なんだよ?」
鉄之介が言った。
「いや。おまえってほんまに単純というか何というか、つまりアホやな〜と思って」
エントリーナンバーと安心チャイルドの名前がコールされ、舞台袖からセンターマイクに向かって鉄之介とツカサが勢いよく出て行った。
テーブル席に座ってラーメンをすする鉄之介と千恵子、そして杏を、「ラーメンおいしいよ。」店長の山岸が不思議そうに見ていた。ついひと月ほど前に入った新入りの、ヴィジュアル系バンドでドラムを叩いている田原という若いアルバイトが厨房で山岸に耳打ちをした。
「あれ、鉄さんの子供っすか?」
山岸は首を傾げ、餃子を山盛り載せた皿を田原に手わたし、顎をしゃくった。
「マジっすか! 山岸さん、いいんすか? こんなにいっぱい」
鉄之介が餃子の皿を受け取りながら大きな声で言った。
「すみません。ありがとうございます」
千恵子が頭を下げた。
山岸は片方の口の端をかすかに上げて応えた。
「日曜の夜は案外暇なんで。ぜんぜん大丈夫です」
田原が顔の前で大げさに手を振りながら言った。先端が緑色の長い髪の毛が揺れた。
「おめえが言うな! しかも山岸さんの前で。日曜の夜が暇なことぐれえ知ってるわ、こっちゃ5年もやってんだからよ。つーか、暇なのと餃子をサービスするのと関係ねーだろ」と、鉄之介がいつもよりかなり饒舌にツッコんだ。
「なあ鉄」山岸が厨房から出てきて言った。「あれどうなったんだよ。お笑いのコンテスト。たしかおまえ、予選があるとか言ってたの今日じゃなかったっけ?」
鉄之介が首を大きく縦に振りながら餃子を咀嚼し、慌てて飲み込んだ。そして立ち上がって言った。
「はい! 安心チャイルド、一回戦を突破しました!」
「お、そうか」
目を半分ほど隠すくらい太く巻かれたバンダナと血色のよくない顔色のせいでわかりにくいが、山岸の顔がパッと明るくなった。
「ありがとうございます! 山岸さんと、八ちゃんと、まああとは相方のツカサと、そんでこの子のおかげです。この子はおれを導いてくれるお笑いの天使なんですよ」
杏は、剥げかかったアンパンマンのイラストがプリントされたプラスチックの器から小さなフォークでラーメンを巻きつけ、懸命に口に運んでいた。
「おれは何もしてねえよ」と言った山岸が杏をちらりと見て、すぐに目をそらした。「まあ、突破したんなら最高じゃんか。あと何回勝ったら優勝なんだよ?」
鉄之介は指を折りながら、「5回、すかね。たぶん。でもあと4回勝てば大晦日の全国ネットに映りますよ。それで優勝してまた3人で年越しそば食いにきますから!」
「晦日は店やってねえよ。5年もいたら知ってるだろ」
山岸の一年の締めとはじまりは、内田裕也が主催する「ニューイヤーワールドロックフェスティバル」と決まっていて、親の死に目とかぶっても「ニューイヤーロックフェス」と言い切っていた。だから「年中無休、ただし大晦日のぞく」という貼紙が店内のメニューよりも目立つところに堂々と掲げられていた。
「なあ鉄」山岸が改まった感じで言った。「その、立ち入ったこと聞くようで悪いんだけどよ」
「え、なんすか?」
「その女の子は、どうしたんだ?」
「ああ……えっとー」
「あの、わたしの姪っ子なんです。豊橋から遊びに来ていて」
口ごもった鉄之介を押しのけるように千恵子が答えた。
「ああ、そうなんだ。へー。そういやあ八ちゃんにどことなく似てるもんね」と山岸は言った。
そして黙々とフォークを口に運ぶ杏に、「ラーメンいっぱい食べてくれてありがとな」と、子供をあやすには渋すぎるスモーキーボイスで話しかけた。
なんていい日だろう、ほんのついさっきまで鉄之介は体の芯が溶け出すほどゆったりした波に浸っていた。こんな日がずっとつづけばいいのにと。しかし、千恵子が杏は姪っ子だと言った途端、魔法が解けたみたいに見ている景色が一変した。目の前の千恵子と杏が、波打ち際でつくった砂の城のようにサラサラと崩れていった。さっきまでたしかにあったはずの幸せな時間は嘘で、どうやったらそれを自分たちのものにできるのか、わからないままごまかしているのが本当の姿だった。もしここにツカサがいたら、そんなもんコントやん、ほんまの夫婦でも親子でもないんやから暗転しておしまいやで。そんなふうに切り捨てられるのがオチだ。そして、ツカサが空気を読まずに言うことが大抵の場合、言われた当人にとっては認めたくない事実であるように、コントみたいなあっけない終わりがやって来るのかもしれない。
鉄之介は一生懸命ラーメンを食べる杏の姿を見つめ、嫌な考えを振り払おうとした。
「あ、そうだ鉄」
店を出たところで、山岸が声をかけた。
「なんすか?」
「おめえボクシングなんて興味ねえよな?」
「なくはないすけど。どうしたんすか? 突然」
「ああいや。知り合いの知り合いみたいなやつからさ、今度東日本の新人王に挑戦するボクサーがいるから応援してくれってたのまれてさ」
「山岸さんも本当面倒見いいですよね」
「まあ、知り合いに興味あるやつでもいたら教えてやってくれよ。チケット用意すっからさ」
そう言って山岸は、チラシを鉄之介にわたした。A4の紙のなかで何人かのボクサーがこちらを睨むような表情でファイティングポーズを取っていた。上半身裸の男たちがあまりに真剣な顔をしているのが可笑しくて、鉄之介はそれを面白がって杏に見せた。すると杏は、いきなり大きな声を上げて泣き出した。顔を両手で覆って、その場にうずくまってしまった。子供でもこんなに切実な声が出せるのかと驚いた。
「ごめんごめんごめん! 杏ちゃんごめんよ。なんか怖かった? もうだいじょうぶ。だいじょうぶだあ。ほら、だいじょうぶだあ、ね?」
鉄之介は必死にあやしながら、山岸に頭を下げ、杏を抱きかかえて歩き出した。くしゃくしゃになったボクシングのチラシが、昼間の余韻をたっぷり含んだ湿った風に舞って、人通りのまばらな夜の繁華街を転がっていった。
翌朝、玄関の薄い引き戸の向こうから、ごめんくださいと男の声がした。
千恵子はいつものようにばたばたと美容室に出勤する用意をしているところだった。鉄之介は杏を連れて遊園地に行くためにめずらしく早く起きていた。
なんだろう。二人で顔を見合わせた。これまでこんな朝早くに誰かが家に来ることなんてなかった。どことなく嫌な予感がして、出ようとした千恵子を制して鉄之介が玄関のそばまで行った。引き戸の格子状になった曇りガラスに何人かの影がぼんやり透けていた。そのなかのひとりが警察官だというのは、帽子をかぶっている頭のかたちですぐにわかった。
「三島さん?」
向こうでもなかの鉄之介の姿を確認したようで、捕まえるようにすぐに声をかけてきた。相手の切迫した感じが嫌な予感を加速させた。
「何すか?」
鉄之介が引き戸越しに言った。心配で様子を見に来た千恵子を振り返って、向こうへ行ってろと目で合図をした。
「ちょっとお聞きしたいことがありましてね、児童相談所の職員さんと来たんですよ。開けていただけませんか?」
のんびりとしたしわがれ声に聞きおぼえがあった。以前、杏を交番へ連れて行ったときの人のいい巡査長に違いなかった。
「悪いけど、いま忙しいんですよね。またにしてくれると――」
千恵子が鉄之介の横をすり抜け、裸足で土間に降りると、素早く玄関の鍵を開けた。
巡査長が日焼けした顔で挨拶して、彼の横に並んだスーツを着た男女を紹介した。
男性の方が目の前の千恵子に名刺を差し出した。千恵子は食い入るように手元の小さな紙片を見つめた。
「高崎杏ちゃんの捜索願がまた出されてね」巡査長が言った。「それで、このあいだ三島さんが教えてくれみたいにほら、ご両親には虐待の疑いがあったし、今回はまずこちらから児相のほうに連絡を入れたんですよ。保護が必要かもしれないと思ってね」
「はあ」
鉄之介は訝しがりながら返事をした。
「きっとまたお宅が杏ちゃんを保護しているんじゃないかと思って、というかまあ、そういう噂を近隣からも聞きましてね、こうして訪ねて来たわけですよ」
なんとなく感謝されているような気もするが、この妙な緊張感はなんだろう。鉄之介は巡査長の脇に立つ男女二人に無遠慮な視線を投げかけた。
「児童相談所で杏ちゃんを預かっていただけるんですか?」
千恵子が硬い声で言った。
「一時保護の必要があると判断された場合はそうなります。しかし、まだどうすればいいのかの決断は下せません」
名刺をわたしたスーツの男がそう説明すると、後を引き取ってその隣にいた小柄な中年女性がつづけた。
「市役所の職員の方と警察の方が高崎さんの家にも同時に伺っております。まずは杏ちゃんの様子を確認させてください」
わかりましたと言って千恵子が部屋へ戻ろうとするのを鉄之介が止めた。
「ちょっと待てよ。何のことだよ、児童相談なんとかとか保護とか」
「鉄ちゃん、あとできちんと説明するから、お願い」
千恵子は鉄之介の手を振りほどくようにしてその場を離れると、杏の手を引いて戻ってきた。
杏は明らかに怯えていた。
「杏、どこにもやらねえからな」鉄之介が杏を振り返った。
そして、玄関に向き直ると、言った。
「いまからさ、遊園地行かなきゃいけないの、おれたち。だから帰ってくれるかな?」
巡査長が何か言いかける前に、千恵子の張り詰めた声が響いた。
「鉄ちゃん、いい加減にして! 杏ちゃんのことを思うんだったら児童相談所の人たちに任せるべきなんだよ」
「どうしたんだよ、八ちゃん急に。杏は二度も脱走してきたんだぜ。また痣が増えてるの見たろう? おれたち三人で楽しくやってるほうが絶対いいじゃん」
「そんな簡単なことじゃないって……」
「そりゃあそうかもしんないけどさ」
「この子はわたしたちの子供ではないの。このままの状態をつづけることは、わたしたちが罪に問われることにもなるし、この子のためにも良くないの、将来のことを考えるのであれば」
二人のあいだに見えない壁ができたような気がした。千恵子がつづけた。
「ほんとは昨日の晩にでも話をしなきゃって思ったんだけど……鉄ちゃんが1回戦突破したのもあったし、杏ちゃんと一緒にいるのが楽しそうだったから、それでつい。ごめん」
「なんで謝ってんだよ。八ちゃんも杏と一緒にいて楽しいだろう?あの子のためって言うんだったら、暴力親のところに返すほうがよっぽど将来真っ暗だぜ。もしこれでこっちが罪に問われるってんなら上等だよ!」
「もう、鉄ちゃん、お願い」
千恵子がすがるような声を出した。
「何がお願いなんだよ」
鉄之介は苛立って言った。
「わたし、児童福祉法に詳しい弁護士さんに会ってお話を聞いたり、図書館で調べたりしたんだよ、鉄ちゃんが最初に杏ちゃんを連れて来たときから。わたしだって心配だったから。それで、仮にこの子をわたしたちがちゃんと引き取ろうと思ったら、特別養子縁組制度のもとで児童相談所の認可や、ゆくゆくは家庭裁判所にもきちんと認められないといけないの」
「だったらそうしてもらおうぜ、いますぐ。あんたら児童なんとかの人たちなんだろ?」
鉄之介は児童相談所の中年男性に詰め寄るようにして言った。
「はやくそれやってくれよ、なあ」
児相の職員が鉄之介の無知と勢いに気圧されて言葉に詰まっていると、千恵子の声に湿ったものが混じりはじめた。
「わたしだって一緒にいたいよ、このまま。心配だよ、杏ちゃんがどうなるか。でも、この子の親がわたしたちではない限りいまはどうしようもないの。そして、いまの状態では、わたしたちはこの子の養親にはなれないんだよ」
「はあ?」
眉をしかめた鉄之介の目を見て、千恵子は一度大きく息を吸って吐くと、鉄之介に言い聞かせるように静かに言った。
「ちゃんとした収入があるかどうかも養親には求められるから」
鉄之介はずいぶん昔に大暴れした公園で千恵子から後頭部に喰らった一撃を思い出した。自分の中身がぶっ飛ぶほどの衝撃は今回も同じだったが、あのときはあれではじまり、そして今回はこれで終わるのだと、似たような確信のなかでまったく逆のことを思った。終わるときは痛みがないんだな。最後まで聴き終わったCDのシュルシュルした音みたいに、そこからのことは鉄之介にとって何の意味もなさなかった。
鉄之介の前を何人かの人間が通り過ぎ、玄関の向こうに杏の後ろ姿が遠ざかっていき、気づいたら千恵子と二人だけになっていた。
「仕事行かなきゃいけないから、夜にでもまた話そ、ね。さっきも言ったけどわたし、はじめて鉄ちゃんが杏ちゃんを連れてきたときから自分なりに時間を見つけていろいろ調べたの。だから、ね」
玄関で靴を履いた千恵子がまるで子供に留守番をお願いする母親のように言った。
「ああ……ちょっと待って」
鉄之介は部屋に戻ると、手に薄緑色の封筒を持って現れた。
「これ、返しとくわ。そんで、悪かったな、いろいろ迷惑かけて。もういいよ」
「何? 鉄ちゃん、これ?」
千恵子がなかに入った札束と封筒にプリントされた実家の病院名を交互に見た。
「おまえの兄貴がやって来て、これをおれにわたしておまえと別れろって。なんかおれじゃおまえんちとは釣り合わないんだと。おまえの結婚相手は立派みたいだから、まあ、よかったじゃん」
「ちょ……何、どういう――」
「うるせーーっ! いいから二度とおれの前に現れんなバカヤロー! 今日中に荷物まとめてとっとと出てけよ!」
鉄之介が千恵子に声を荒げたのは、これがはじめてだった。
9月いっぱいで辞めさせてほしいと山岸に伝えに行った。山岸はしばらく鉄之介を見つめ、わかった、と一言だけ発した。もっとちゃんとしたかったが、何をどう話したらいいのかわからなかったし、これからの生活も顧みずどうしてアルバイトをやめるのか自分でも説明がつかなかった。ただ、そうすることが必要なのだという一方的な思い込みに突き動かされるまま、鉄之介は千恵子との痕跡を消そうと無駄に歩きまわっていた。気づいたら夜になって、「ジェイソン&アリス」にいた。
カウンターに座ると、大将の神崎が「一回戦突破したんだってな」と言って、ジョッキに氷を入れてウーロン茶を準備しはじめた。それを見て鉄之介は、「あ、神崎さん、レモンサワーもらえる?」と言った。
「なにあんた。お酒飲むの?」
おしぼりを差し出した女将の由美が驚いて言った。
「たまには飲みますよ、おれだって」
「たまにも何も、むかし生中一杯でゲーゲーやってたじゃねえかよ」
神崎が言うと、鉄之介はむっつり黙り込んでしまった。
ジョッキのなかの白濁した液体を鉄之介は勢いよくあおった。
「おい、鉄之介」神崎の声がした。「おまえそれで4杯目だぞ。大丈夫か? え?」
大丈夫ですよ――そう言いかけた瞬間、猛烈な吐き気がこみ上げてきて、トイレに駆け込んだ。
便器に顔を突っ込んで、体が裏返るんじゃないかというくらい吐いた。吐いても吐いても吐き気がおさまらなかった。
勘定を済ませて外に出た。心配して由美が持たせてくれたペットボトルの水をちょびちょび飲みながら線路沿いを歩いた。
高円寺の安アパートの薄っぺらいドアを叩くと、すぐにツカサが出てきた。
「あれ? 今日ネタ合わせやった?」と言ったツカサは、しかしすぐに鉄之介の様子がおかしいのに気づいた。鉄之介はハイロウズの「相談天国」のサビをいつかツカサがそうしたみたいに大声で熱唱しはじめた。
「え? 酔っ払ってんのん? なんで? もうええわ。ええからはよ入れ。近所迷惑や」
物が散乱しているのも構わず、鉄之介はその上にダイブするように寝転がった。
「何やってんだよ、ツカサ」
「おまえが言うな」
「おれは、酔っ払ってんだよ」
鉄之介が肘枕の姿勢になって言った。肘の下でバキッと何かの割れる音がした。
「おまえ下戸ちゃうんか」
「下戸が飲んだらいけねえのかよ?」
「うわ、めんどくさ」
「今日から泊めてもらうぜ」
「こんなとこでどやって二人で寝んねん。え、ちょっと待って。今日から? からってどういうことやねん」
「ツカサ!」
突然、鉄之介が大声を出した。
「トイレどこ?」
「へ?」
「早くしろよ、気持ち悪いんだよ!」
鉄之介はまた吐いた。
「ツカサ」
トイレから出てきた鉄之介がいくぶんすっきりした声で言った。
「なんやねん」
めんどくさそうにツカサが返事をすると、鉄之介がつづけた。
「俺たちには漫才しかねえよな」
「はあ?」
「バトテン、絶対に優勝しようぜ!」
「……おう」
何がなんだかわからず、ツカサはなかば相手にするのを諦めて鉄之介に合わせることにした。とにかく明日の朝までにやってしまわなければいけないCD評が6本あるのだ。パソコンの画面に向かおうとしたとき、鉄之介の声が背後から響いた。
「何おまえそれ? パソコン? すげえの持ってんな。はじめて実物見た」
「仕事道具や」
ツカサは眼鏡のブリッジを人差し指でさっと上げた。
「おまえの仕事お笑いじゃねえの?」
「こっちはバイトや、バイト。おまえのラーメン屋と一緒や。やりたあてやってんちゃうわ」
「だったら最初からそう言えよ。お笑いに本気じゃないのかと思ったぜ。ちなみにおれはな、バイトは一切やめてお笑い一本に集中することに決めたからよ。ちゃんとついてこいよ」
「ほないまからネタ合わせやろうや」
ツカサが真顔で言った。すると鉄之介は、「いや……いまは、そんな気分には、なれねえわ」と歯切れ悪く言い訳をして、ペットボトルの水を一口含んだ。
「よし、ちょっとあの玄関のところが平らそうだからあそこで寝るとするか」
そして逃げるように暗い場所まで這って行った。
ものの数分で鉄之介はいびきをかきはじめた。
ようやくツカサが原稿に集中しはじめたときだった。
「おい、ツカサ」
鉄之介の声にまた邪魔された。
「なんやねん」
ほとほと嫌気がさした声で返事をすると、鉄之介があっさりこう打ち明けた。
「おれ八ちゃんと別れたからさ、しばらくここでやっかいになるわ。たのんだぜ相方」
「ああそうなんやそれは大変やなって、おい!」
ノリツッコミを決めて鉄之介を見たら、ツカサに汚い足の裏を向けて、細長い廊下だかなんだかわからないスペースに転がってピクリとも動かなかった。
鉄之介が飲めない酒を飲んでいること、妙に漫才に対して前のめりになっていること、そのくせネタ合わせを拒絶したこと、それらの行動のすべての理由がいとも簡単に直結した。なんてわかりやすいやつなんだろう、可笑しみがこみ上げてくるのと同時に、ツカサは言い知れない不安を感じた。そしてそれは苦い罪悪感となって、心の奥の方に落ちていった。
鉄之介に笑いの才能がないのは明らかだ。ただ自分のようなひとりでは世の中に受け入れられるのが難しい毒みたいな存在を薄めて広めるにはちょうどいいキャラクターだとツカサは考え、利用していた。ツカサは、当たり前だが、鉄之介との関係を利害でしか割り切っていなかった。なぜなら笑いをつくりだす人間たちのあいだに情は必要ないからだ。あらゆる情はネタのなかにのみあって、ネタに昇華されない情は自らを束縛するものでしかないということをツカサは何度もコンビを解散する過程で思い知らされていた。鉄之介も半分はわかっていると思うが、問題は半分もわかっていないということだ。
もし安心チャイルドが笑いの世界で認められるようなところまで辿り着いたとして、そしてそこで鉄之介がツカサとの意識のギャップに気づいたら、鉄之介はもう再び笑いとは向き合えないのではないだろうか。たぶん、鉄之介がぼんやり想像している笑いの世界は、彼女と別れたから人を笑わせないでも済んでしまえる日常の延長としてあるものだ。しかしそんなものは、現実の笑いの世界には存在し得ない。自らが日常で抱く感情とはまったく切り離されたところで怒ったり困惑したり笑ったりするのが笑いに限らず芸の領域なのだ。それは、鉄之介には無理だ、とツカサはこのときに確信した。成功するということと引き換えに、鉄之介はそこに気づいてしまうことになるだろう。そして安心チャイルドは解散し、鉄之介は自分の世界へ帰り、ツカサはまたひとりになってしまう。だけど、そうなることがわかっていたとしても、一度でも成功できる可能性がいまあるのなら、そこに賭けてみたい。その切羽詰まった思いだけで二人はかろうじてつながっているのだ。
「なあ、鉄」
ツカサは起こさないくらいの声で静かに呼びかけた。鉄之介は何の反応も示さなかった。
「鉄?」
今度は部屋中に響くほどの声を出してみた。鉄之介は無理して飲んだやけ酒に酔っ払ってぐっすり眠っていた。その様子をたしかめてから、ツカサは声に出して独り言を口にした。
「おまえには、お笑いの才能はないで。せやから、ごめんな」
鉄之介は目を覚ましていた。酒の抜けない気持ち悪さや頭のなかで渦巻く千恵子とのこと、杏がどうしているかという心配……処理できないそれらいろいろと、粘っこい眠気との狭間で、金縛りにあったように身動きができないでいた。すると、ふいにツカサの呼びかける声がしたかと思ったら、つづけてツカサの独り言がはっきりと聞こえた。おまえには、お笑いの才能はない――。その瞬間、自分の意思とはべつに右手が動いて、傍に置いておいたペットボトルを倒した。
ぼとん、という鈍い音が鉄之介とツカサを隔てていった。
キャップを閉めていなかったペットボトルから半分ほど残っていた水がこぼれて板張りの床に広がっていった。
鉄之介は自分が生きているのか死んでいるのかわからないような宙ぶらりんの状態で、背中が濡れていくのだけをはっきり感じていた。