(5)台風
(5)台風
四畳半の部屋はCDやカセットテープ、書籍、雑誌、ビデオテープなどが散乱し足の踏み場もなかった。さらに部屋の端にいくつも山積みにされたそれらはタバコのヤニで茶色っぽく変色した白壁の一部や小さな窓の大部分を覆い隠し、わずかな隙間から差し込む弱々しい光の加減が、ドラマなどで見たことのある思想犯のアジトを思わせた。
フローリングなのかカーペット敷きなのか判別もつかない床のところどころに、裏返しになった銀色のディスクが転がっていた。荒れた海に漂う難破船のようなそれらを適当に何枚か拾い上げてみると、知らないバンド名のものばかりだった。
「ぜんぶサンプルや、新人の。ほとんどが2、3年で契約切られて消えていく運命や」
地面に書いた落書きを消すように雑にその辺のものをツカサが片足で払うと、グレーのカーペットが染みみたいな感じで出てきた。
「ここ、座って」とツカサは鉄之介を促した。「バイトでな、あっちこっちにCD新作レビューみたいなもん書いてんねん。500文字で1500円、10本書いてようやく1万5000円、おかんの内職思い出して泣けてくるでほんま」
鉄之介は、はじめてツカサの部屋に入った。なんとなく想像していた感じそのままではあったが、部屋全体を覆う孤独の空気はむせ返るほど重く息苦しかった。玄関を開けた瞬間から足を踏み入れるのを躊躇したのはそのせいだった。自分の住む東中野の借家との違いを感じ、鉄之介は改めて千恵子の存在の大きさを認識した。
「何してんねん。おまえもしかして潔癖性か? おれもやねん。せやから安心せえ。いろんなもん散らかってるけど、これぜんぶ資料や。さっき言った小遣い稼ぎのな。変なもんは落ちたりしてへんで。食べたらすぐに片付けるし、ゴミもきっちり杉並区の言う通り従って捨ててますわ。おれ、そうゆうとこほんま几帳面やねん。せやからぱっと見い汚いかもしれんけど、絶対汚くはないねん。言うたらここはおれの頭んなかみたいなもんやわ」
やたらと早口で言い訳がましいツカサに、なぜかはじめて親近感が湧いた。鉄之介はその場に腰を下ろした。そして、部屋を見まわしながら言った。
「きれいでもねえし、おめえの頭んなかにいると思ったら、余計に嫌だよ」
めずらしくツカサが、ええツッコミやん、と鉄之介の言うことに笑った。「タイミング、ちょい遅いけどな」
そして、金庫みたいな小さな冷蔵庫から350ミリリットルの缶ビールとヤクルトを一本出した。
「鉄は酒飲まれへんから。これしかないわ」
ビールとヤクルトの中間はなかったのかと思ったが、鉄之介は黙って小さなプラスチック容器を受け取った。ちまちまと蓋をめくり、一口で飲み干した。
「ええ飲みっぷりやん」
「うるせー。で?」
「で?って」
「プランがあるんだろうが」
「ああ……」ツカサがまた冷蔵庫を開けた。「ごめん、買うてないわ」
鉄之介は一瞬何のことかわからなかったが、つい先日の阿佐ケ谷駅高架下でのやり取りを思い出し、「って、プリンじゃねえよ!」と一拍置いてツッコミを入れた。また間が悪いと文句を言われるかと思ったら、ツカサは意外にも満足そうな表情を浮かべて缶ビールの飲み口を開けた。ビールを喉に流し込み、一息ついてから言った。
「いまのんは、客も乗っていけるええ間やんか。なんでも食い気味にツッコんだらええっちゅうもんちゃうし、声張ったらええっちゅうもんでもないしな。漫才のおもろいおもろないを決定づけるのはツッコミやで」
ツカサは頭を勢いよく後ろに傾けてビールを飲んだ。プハーと大げさに言ったのにつづいて、特大のゲップを見舞った。
「うるせーな」
ツッコミのウンチクに対するうんざり感から何から込みで、感情をたっぷり込めて鉄之介が言った。
「ええ〜感じの〝うるさい〟やねえ。ほな今度は漢字で〝うるさい〟って言うてみて」
「は?」
「うるさいって漢字で何て書くか知ってる?」
ツカサはタバコに火をつけた。
「いや、知らねーよ」
「五月の蠅って書くやんか」
「だから知らねーよ。なんで急に国語の授業みたくなってんだよ」
「五月蝿に送り仮名の〝い〟付けたら、〝五月蝿い〟になんねん。わかったら、はよ、漢字で言うてみて」
「意味わかんねーよ」
「しゃあないな。こうやんか」
そう言ってツカサはいかめしい顔をつくると、低い声で唸るように「五月蝿い」と言った。そして、「な」と鉄之介に同意を求めてきた。
「な?って。ぜんっぜんわかんねーよ!」
「ほな今度は、プノンペンの不動産王になって、うるさいって言うてみて。これはできるやろ」
「いつもやってるみたいに言うんじゃねえよ」
「やってなかったっけ?」
「やるわけねーだろ!」
「ほないこう。はいっ」
「う……うる、うるうる、うる、できるかバカ!」
ツカサがのけ反って笑った拍子に後頭部がCDの山に激突し、派手に崩壊した。
「いったあー。CDめっちゃ硬いやん」
顔に乗っていたCDをツカサが手に取ると、アイアン・メイデンだった。「そら硬いわ!」と言って投げ捨てた。
「ざまあみろ、わははは」
「ヤクルトおかわりいるか?」
「んじゃ、もらうわ」
ツカサは鉄之介にヤクルトをわたすと、飲み干したビールの空き缶にタバコの吸い殻を入れた。
「なあ鉄」
「ん?」
「さっきの、うるさいのクダリ、ネタになってると思わへんか?」
鉄之介はヤクルトの蓋を開けながら、「そうかな」と言った。
「なってんねん。ちゃんと漫才になってんねんて。もちろんもっと精度あげてネタにしていかなアカンにしてもや、できると思うねん。おれはおまえのアホみたいなピュアさがほしいねん。おまえって客よりもちょい下くらいのちょうどええレベルやねんか。褒めてんねんで、これ」
「うるせーよ」
「井上陽水で」
「うるさぁいですよ」
「せやねん。ちょいちょいモノマネ入れていってもええし、なんやったらおまえがモノマネしてる横でおれがぜんぜん関係ないボケ連発してるくらいのことやってみたいわ。いや、もうボケとかツッコミとか関係なくてもええわ。その場でころころ変わっていくんもおもろいで。ボケ&ツッコミ&モノマネや」
「わかんねえけど、おまえがおもしろいっつーんならいいんじゃない」
鉄之介は小さなプラスチック容器に入った黄色い液体を見つめ、覚悟を決めたようにそれを一息に飲んだ。
「コンビ名決めなアカンな」
「はいどうもー。安心チャイルドですう」
「き、ら、め、き」
「なんやねん、のっけから。おれの相方いつから五木ひろしやってん。ほんでなんで〝ヨコハマ〟やなくて〝きらめき〟やねん。勝手にわけわからん方面にアレンジすな」
夜中の公園にネタ合わせの声がごにょごにょと呪文みたいに流れていた。
「ひ、め、ご、と」
「つづき、〝ひめごと〟かいな。きらめき、ひめごと、ちょっと気になってきたけど。まあええわ。もうこのまま相方五木でやらせてもらいますわ。こないだ友達が結婚詐欺師になるゆうてね、突然。そんなもんなるゆうてなれるもんなん、ちゅうかそれ犯罪やしアカンやんみたいな話してたんですわ。ほんならね、結婚詐欺師の養成所があるゆうんですわ」
「ほ、ん、と、に?」
「五木、ガッツリ気になってもうてるやん、というか、五木のまんまなんや」
「た、そ、が、れ」
「急に本物の歌詞出して無理くり五木感放り込まんでええねん。なんのこだわりか知らんけどわかった、おまえこの漫才中ずっと五木でおれよ。ええな。ええねんな。……ってそこは何も言わへんのかい!〝か、い、だ、く〟とか〝ど、う、し、よ〟とか言うてくれよ。まあええわ。結婚詐欺師の養成所の話ですわ」
「お、ま、た、せ」
「無視無視。何目線やねん。歌のリズム合うてても漫才のリズムめちゃくちゃやで。ほんでその養成所っちゅうのがね、入学金も授業料もタダなんですって。でも通ってるうちにね、気いついたらお金めちゃくちゃ取られてるんですって」
「それが詐欺じゃねーか!」
「五木やないやないか!」
「あ、い、か、た」
「もうええわ!」
ネタ合わせは、鉄之介がいつもモノマネの練習に使っていた公園でやることになった。ツカサは自分の住んでいる高円寺と東中野の中間地点で場所を探そうと言ったが、鉄之介はどうしてもここじゃないとできないと言い張った。鉄之介の言い方があまりにも真剣だったので仕方がなくツカサが折れた。ただ、ネタ合わせが終わったあとに鉄之介の家に行き、そこで千恵子が作ったカレーやらチャーハンやらを食べさせてもらえるという破格のオプションが付くことで、結果、ツカサは何の文句もなかった。
コンビ名をどうするか、鉄之介の口をついて出てきたのが「安心チャイルド」という言葉だった。もちろんそこには、杏の存在が大きく影響していた。そして東中野の寂れた公園でネタ合わせをするのにこだわったのも、杏がいつまたそこに現れてもいいようにということからだった。
鉄之介が偶然思いついたコンビ名を、ツカサは何度かぶつぶつ口のなかでテイスティングするようにつぶやいてから、絶賛した。漢字とカタカナの組み合わせ、言葉同士のマッチングと語感、親しみやすいポップなイメージ、めっちゃええやん! と目を輝かせた。
やっぱり杏が導いてくれているような気がしてならない、と鉄之介は思った。そうやって杏の存在が鉄之介のなかで大きくなればなるほど、いま杏がどこでどうしているのか、同じだけ心配も募るのだった。
ツカサの書くネタはおもしろかった。何より新しいと感じた。従来のボケとツッコミという固定された役割をネタの種類や進行に合わせて変えていくやり方は、ツカサ曰く、普段の人間の会話がそうだから、ということで漫才をやるのがはじめての鉄之介にも意外と無理なくその世界に入ることができた。
「鉄が理解できるっちゅうことは客もそういうことやから」とツカサは悪びれることなく言い切った。
たしかに芸人仲間のあいだでささやかれていたとおり、ネタ合わせとなるとツカサは厳しかった。ひとつのボケ、ツッコミ、その強弱や間に神経質なほどこだわった。ツカサの隣にいると、笑いに対する感覚のあまりの違いを痛感し、鉄之介は何度も自信を砕かれそうになった。ネタ合わせをすればするほど、お互いが違う人間だということを表明しあっているような感じがした。しかしそれでも離れないでいるのは、鉄之介もツカサも自分たちの現状に危機感を抱いていたからだし、何より共に成功することに飢えていたからだ。もし、バトテンというわかりやすい共通の目標がなければ、二人が一緒にやることはなかっただろう。たとえその先に描くものがまったく異なるものだったとしても。
「うまいわー八ちゃん。これなんちゅう料理?」
「どう見てもカレーじゃねーかバカ」
「ほなおれの食ってきたカレーがカレーやなかったっちゅうことやな」
「ジャワカレーの中辛だよ」
千恵子が言った。
「無理して褒めなくていいんだよ、おまえは」
「無理してるわけちゃうやん。ほんまにうまいねんもん」
「つーか、うち来てカレー食うの何回目だよ。黙って食えばいいんだよ」
「薄情な男やでえ。八ちゃん、鉄に嫌気がさしたらぼくっとこおいで」
「うーーん……無理!」
「熟考の末に!」
八雲隆宗に呼び出されたことを鉄之介は黙っていた。千恵子に言ってしまうと、何かが決定的に壊れるような危うい予感があったからだ。
あの日、千恵子が誰と会っていたのかも気になった。同級生というのは明らかに嘘だというのはさすがに鉄之介にもわかった。もしかしたら、八雲隆宗が鉄之介に会いに来たことと関係しているのかもしれない、などといろいろ勘ぐったりしたが、鉄之介はあまり深く考えるのをやめた。千恵子はいつもと変わらずケラケラよく笑い、鉄之介との生活を楽しんでいるように見えた。そんな千恵子と一緒にいると、八雲隆宗がどんな陰謀をめぐらしていようとも、どうでもいいやという気持ちになった。
ただ、鉄之介の心に重しのようにぶら下がっているものがあった。それが、八雲隆宗が去り際に押し付けるように置いていった薄緑色の封筒だった。
京王プラザホテルのティーラウンジを出て、都庁がそびえ立つ西新宿のあたりをうろつきながら、鉄之介はジーパンの尻ポケットに突っ込んだ封筒の中身をたしかめた。見たことのない分厚さの1万円札が束になって入っていた。
慌てて公園にある公衆トイレの個室に駆け込み、枚数を数えた。きっちり100枚あった。
君は千恵子にはふさわしくない――そう言った八雲隆宗の言葉がよみがえった。こみ上げる怒りに何度も封筒ごと便器にぶち込んで流してやろうかと思ったが、できるわけがなかった。
おまえはいったいどれだけの人を笑わせられたら、これだけの金を稼げるのだ?――そうコケにされているような気がした。自分を見失うほどの激しい怒りの一方で、ものすごく冷静に、まるで札束を数えるみたいに自分自身を値踏みしている自分がいた。あの男が言った、ふさわしくないという言葉が、すぐに金額になって表示され、自分の値段がチーンとはじき出されたような気がした。
落書きだらけのひどい臭いのする公衆トイレのなかで、鉄之介は札束を握りしめて、それをどうすることもできない自分の限界を感じた。
誰それがすぐにやらせてくれる。あいつとあいつはできている。夜露死苦。都庁を◯月◯日◯時◯分爆破します。どれだけ見回しても、そこに救いの言葉など書いていなかった。
そのときだった。鉄之介がツカサとコンビを組もうと決心したのは。ひとりで結果の出ないままぐずぐずやっていても仕方がない。願いが叶うなら毒でも何でも一気飲みしてやる、そう思った。
おまえひとりじゃ何もできへんねん!
プリンやないとアカンねん!
ツカサの声が耳の奥から聞こえてきた。
「おれはどんなプリンなんだバカヤロー!」
鉄之介は便所のなかで絶叫した。
「ほななあ」
ツカサが自転車にまたがって、夜のなかへゆっくり消えていった。それを鉄之介と千恵子が並んで見送るのが、コンビを組んでからの習慣になっていた。
「なんだかんだ言って、あいつが一番得してるよな、タダ飯にありついて」
「でも、鉄ちゃん楽しそうだよ、ツカサくんとやるようになってから」
鉄之介は何も答えず、家のなかへ入っていった。
フジロックフェスティバルに行ったツカサは予定の日を大幅に過ぎても帰ってこなかった。
嵐に巻き込まれ富士の樹海をさまよっているのではないか、お笑いに見切りをつけて音楽関係の仕事に鞍替えしたのではないか、鉄之介もかわいそうに、せっかく一か八かでコンビを組んだのに、まあ組んだのがツカサじゃ相手が悪かったと思うしかないだろう――芸人仲間のあいだでまことしやかに噂されるようになった。
一週間目は毒づきながらもなんとか平静を装い、二週間目はそれが激しい怒りに変わり、三週間目にはさすがにただ事ではないと焦りはじめた。
そうやって鉄之介が気持ちの乱高下に振り回されているうちに8月も半ばを過ぎ、バトテン1回戦がいよいよ明日と迫っていた。コンビで申し込んだ以上、それ以外での参加は認められないという規約を鉄之介もわかってはいたが、事情を話せばなんとかピンでも参加させてくれるのではないかと一方的な楽天さで考えるよりどうすることもできなかった。それほど鉄之介は精神的に追い詰められていたし、そのぶんツカサへの怒りが収まらなかった。しかしもうツカサのことをどうのこうの思っても仕方がない――どうなるかわからない明日に向けて、鉄之介は何百回目かの腹を括った。全身から吹き出す汗でじっとしているだけでも溺れてしまいそうな残暑の厳しい蒸し暑い夜だった。
建て付けの悪い縁側の網戸からふらふら侵入してきた蚊を一発で仕留めて、そんなことでも明日への験担ぎになるかもとよろこんだときだった。ツカサの声が聞こえた、ような気がした。顔を見合わせた千恵子が玄関に行った。
「はあい」
つづいて千恵子の驚く声がした。
玄関の前にはすこしふっくらとしたツカサが立っていた。
「まいど」
その姿を見るやいなや、鉄之介は口よりも先に手が出ていた。かろうじてグーはこらえたが、強烈な張り手がツカサの左ほほをとらえ、湿気ったロケット花火みたいな音とともにツカサの体が地面に転がった。
「ちょっと鉄ちゃん!」
千恵子があわてて鉄之介にしがみついた。
「いったあ〜、何すんねん!」
てめえこのヤロー、怒声を張り上げていまにも暴れだしそうな鉄之介をなんとか家に押し込めて、千恵子は小さな丸いちゃぶ台の前に二人を座らせた。千恵子の額からダラダラ流れる大粒の汗が止まらなかった。
「暑いなこの家。クーラーないのん」
左ほほをさすりながら言ったツカサの胸ぐらを鉄之介がつかんだ。
「てめーどこほっつき歩いてたんだバカ! マジに樹海でくたばったんじゃねーかと思って心配したじゃねーかよ!」
てっきりネタ合わせが止まってしまったことで怒り狂っているとばかり思っていたツカサは、鉄之介の心配していたというその一言に、返す言葉を失ってしまった。
「そうだよツカサくん。まずはちゃんと説明して」
千恵子ができの悪い子供を叱り飛ばすように言った。
洋楽の大物アーティストを多数招聘して行われた日本初とも言える大型野外ロックフェスは、ツカサ曰くサバイバルそのものだった。友人の車に便乗して会場へ向かったはいいが、アクセスが集中しまくった一本道は完全に動かなくなった。何時間も足止めを食らったツカサたちは、勝手に近所の民家の敷地にガス欠になった車を乗り捨て、そこから歩いて向かおうとしたところ道に迷い、いつの間にか友人ともはぐれ、運悪く台風の直撃を喰らった。ここぞとばかりに持っていったなけなしの全財産は、雨と泥で財布ごとおしゃかになった。夏とは思えない寒さのなか、会場へもたどり着けず、行けども行けども切れ目のない森で途方に暮れているところ、牧場を経営しているおじさんに助けられた。そこで親切にしてもらううちに仕事を手伝うようになったということだった。
「東京まで戻るお金貸したるって言われてんけど、なんや悪いなあと思って。ほんで旅費分くらいは働こうと思ってやってたらひと月近く経っててん」
「浦島太郎かおまえは」
「浦島と一緒にしたらアカンわ。あいつ海の底のキャバクラで一生分遊んだだけやん。こっちはホルスタインにまみれて働いててんから」
「つーかおまえ太ってねえか?」
「めし、めっちゃうまっかってん」と、あごのあたりをさすりながら言った。
「やっぱ浦島じゃねえか」
「まあ白黒の毛皮着た巨乳の娘ばっかりではあったけどな」
鉄之介とツカサは声をあげて笑った。
「明日は大丈夫そうね」
千恵子が疲れをにじませた声で言った。
「ネタ合わせしようぜ、時間がねえよ」
そう言って鉄之介は立ち上がった。
「そのつもりでバトテンに合わせて帰ってきてん」
「偉そうに言うんじゃねえ。もう明日だぞ」
「でも1回戦は大丈夫やって鉄。聞くところによるとアホな大学生ノリの素人もぎょうさんおるみたいやさかい。そういう素人とよっぽどひどいやつらをふるいにかけるのが1回戦やで。なんぼおれらが組んだばっかりやっていうても、そんなやつらに負けるわけないやんか。まあ、ひと月後の2回戦のための雰囲気見学や。そない思てリラックスして楽しんでこようや」
それでも人前で漫才をやったことのない鉄之介は、何となく落ち着かなかった。
「あ、そうそう」ツカサが何かを思いだしたという感じで言った。「さっきここ来るときおれらが使ってる公園覗いてん。ほんならな――」突然怪談っぽい口調になった。
「なんだよ」
煩わしそうに鉄之介がつづきを促した。
「小さい女の子がひとりでブランコに座っててん」
鉄之介はツカサの頭上を飛び越えると、疾風のように足音だけを残して外を駆け出していった。