(転車台)
(4)転車台
1997年大晦日、お笑い界に新たな伝説が誕生する――。
鉄之介が久々に所属事務所のアサゲイに行くと、壮大なキャッチコピーがでかでかとデザインされたポスターが、4階事務所の扉脇にある掲示板に二枚並べて貼ってあった。ついこのあいだまでファイナルジャッジが深夜バラエティーのレギュラーに決定したという知らせが出ていた場所だ。
3階の養成所の生徒や何人かの芸人が溜まってメモを取りながら真剣な表情で見ていた。なかには、おそらく無理して買った携帯電話を自慢したいばかりに、アンテナをこれ見よがしに伸ばして、相方か誰かと大きな声で話している者もいた。
鉄之介も気にはなりつつ素通りして、事務所に入った。期待しないで予定表を確認していると、若手芸人をまとめて面倒見ている――と言っても管理が必要なほど売れている芸人は一組もいないのだが――マネージャーの日高が、参加するんだったらこれわたすぞと言って、元甲子園球児のかけらも残っていない肉付きのいい顔の横でA4の用紙をひらひらと振った。
「それ、何すか?」
「だんだポスター見れ来らんじゃだいのかよ」
やたらと滑舌の悪い日高は、言葉の端と端が真夏にポケットに入れっぱなしにしていたチョコレートみたいに溶けてくっついて、聞き取るのが容易ではない。日高に「滑舌が悪い」と注意されてやめていった芸人を鉄之介はすくなくとも二人は知っている。ポスターという単語でかろうじて何のことかわかった。
いったい何のポスターだったんだろう。相変わらず白ばかりが目立つスケジュールに落胆しながら廊下に出て掲示板に近寄ろうとすると、そこに待ち構えたようにツカサがいた。鉄之介を見つけるや、強引に腕を引っ張ってビルの外に連れ出した。
「なんだよ」
ごちゃごちゃ自動販売機が並ぶ高架下の一角で、鉄之介が文句を言った。
「コーヒーでええか?」
ツカサはかまわずのんびりと言った。
「よくねえよ」
「ほな、コーラ?」
「飲み物のチョイスの話じゃねえんだよ。いきなり何の用だっつってんだよ」
ツカサは自動販売機に小銭を入れて、缶コーヒーのボタンを2回押した。ガシャンという音がつづけてして、鉄之介にひとつをわたした。鉄之介は仕方なく受け取り、一口飲んだ。
「まあ、そういうこっちゃ」
タバコに火をつけて大きく煙を吐き出し、ツカサは満足そうにうなずいた。
鉄之介が無視して行こうとすると、「あれ見たやろ?」とツカサが声をかけた。
何のことを言っているのかはすぐにわかった。
「見ようとしたらお前に邪魔されたんじゃねえか」
「優勝賞金1000万やて」
階段を4階ぶんダッシュで駆け上がり、ポスターが貼ってある掲示板の前まで行った。人垣をなぎ倒すようにして目の前に陣取ると、鉄之介は書いてある文字を吸い込む勢いで読んだ。
「第一回 お笑いバトル10開催決定!」という大きな文字につづいて、参加資格に関する条件がいろいろと書いてあった。芸歴10年未満のお笑い芸人であれば誰でも参加可能で、漫才、コント、漫談、モノマネ、お笑いのジャンルであれば何をやっても自由、ただしオリジナルでオモシロイこと。8月の末から予選がはじまり、11月末まで計4回の予選を勝ち抜いて大晦日に行われる決戦の舞台に進出できる。決戦には選ばれし10組が参加。その模様は大晦日特番としてゴールデンタイムで生放送される。賞金は1000万円。エントリー締め切りは7月末日。
「日高さん、申し込み用紙って」
鉄之介は慌てて事務所に駆け込んだ。
「鉄之介やむか」
「もちろんすよ」
「まあそうたな。鉄之介はばってなんれんめだ?」
ちょっと英語みたいに聞こえて本当は何を言っているのか自信はなかったが、9年目です、と勘で答えた。合っていたみたいで、日高はさっきと同じように顔の横で申し込み用紙をひらひらさせた。
鉄之介は日高の手からひったくるようにして申込用紙を取った。
「じゃあだあほろんどギイギイらもーんら。ばんばえよ」
最後はもう何を言っているのか完全にわからなかった。ラモーンズがどうしたとか聞こえたが、いまの流れとこの人の口からまさかニューヨークパンクのバンド名が出てくるとは思えなかった。
急に目の前が開けたような気がして、いつもはエレベーターがないのにムカついていたが、鉄之介は軽やかに階段を降りて行った。
ようやくチャンス到来だぜ。これを勝ち抜いたら一気に売れる。間違いない。よし、やってやるぜ!
「そういうこっちゃ」
ツカサがにやにやしながらビルの外で待っていた。飲みかけの缶コーヒーを鉄之介に返した。
「おまえも出んのか?」
鉄之介が訝りながら聞いた。
「当たり前やん。こんなチャンスないやろ」
「だよな」
しかし、ツカサはたしか4月にコンビを解散したばかりだった。それから事務所ライブには顔を出すが、ピンで何かをやっている姿を見たことはなかった。
「勝てると思うてんのか?」
ツカサのずいぶん上からの物言いにムカついたが、鉄之介は無視した。
「たぶん、鉄もおれも勝たれへんで」
「おまえはだって、コンビ解散したばっかでネタもねえんだから」
「鉄のモノマネでは勝たれへんよ」
「はあ?」
いい加減にしろよこいつは――鉄之介は苦々しく思った。ツカサはいつも空気を読まずに何か言ってはまわりの人間に嫌われていた。実際、4月までコンビを組んでいた相方は、ツカサのスパルタとも言える一方的で理不尽なやり方に愛想をつかして、お笑い自体が嫌になってやめてしまった。しかもそういうことは、これがはじめてではなかった。鉄之介が知っているだけでも、その前に2回解散していて、理由はどれも一緒だった。噂では、アサゲイに来る前は大阪の大手事務所に所属していたことがあり、そのとき組んでいた相方にボコられてこっちに逃げて来たという話だ。どうしてそんなやつが、最近自分のまわりをうろちょろしているのか、鉄之介は、まるで疫病神にでも目をつけられたみたいな迷惑な気持ちになった。せっかく大きなチャンスが転がり込んできたというこんなタイミングで――鉄之介はため息をついた。
「鉄のモノマネはな――」
「うるせえよ! てめえのごたくなんか聞きたかねえんだよ」
「聞けや!」
めずらしくツカサが声を荒げた。眼鏡の奥の細い目がつり上がっていた。
「鉄のモノマネはな、一人では笑いとして成立せえへんねん」
「……」
「せやからな、おれとコンビ組まへんか?」
呆れて思わず笑ってしまった。そうか、そういうことか。売れるチャンスにしがみつくために、ピンでやっているおれに目をつけたわけだ。鉄之介は声を出して笑った。
「な、オモロなってきたやろ?」
ツカサの勘違いに、鉄之介はさらに可笑しくなった。
「おれのモノマネの隣でおまえが何すんだよ」
「プランがあんねん」
「ひとりでプリンでも食ってろ」
「え、何それ、オモんな!」ツカサは大げさにのけぞって驚いた。そして神妙な声で言った。「プリン警察に自首しにいこ。ついてったるから」
鉄之介はこれ以上ツカサといると本気でぶん殴ってしまいそうで、黙って歩き出した。
「鉄! そういうことやねんで! プリンで終わってしまってるんがいまのおまえや! そこから広げていってはじめて笑いになんねん。せやけどそれはおまえひとりじゃできへんし、おれにとってもなんでもええわけやないねん! プリンやないとあかんねん!」
片側二車線の広い道路の横断歩道を渡りきったところで、「プリン警察ってなんだバーカ!」鉄之介はツカサに向かって思いっきり叫んだ。
「せやからツッコミの間、悪いわ!」
ツカサはさらに何か言っていたが、頭上の高架を通る電車の音でその声はかき消された。このあいだもこれに似たようなことがあった気がしたが、鉄之介はムカムカしてきてそれ以上考えるのをやめた。
中央線に乗って吉祥寺で降りた。北口から吉祥寺大通りを歩きベルロードを入って奥に行ったところにある黄色い看板のラーメン屋で鉄之介はアルバイトをしていた。古いキャバクラやソープランドが並ぶ昔の繁華街の面影を残す一角にある「ラーメンおいしいよ。」は昼の11時から朝の5時まで暖簾を出しており、深夜ともなれば付近のポン引きやホステスが腹を満たしにやってくる夜の定番の味として親しまれていた。カウンターとテーブル席がふたつだけの狭い店は、夜が深くなればなるほど混み合った。
大将の山岸は元バンドマンで、だから音楽やお笑いや演劇など、エンターテイメントの世界でなんとか一旗上げてやろうともがいている若者を積極的に雇っていた。急に営業が入っても嫌な顔をするどころか、むしろ腹ごしらえにとラーメンにチャーシューを山盛り入れて食べさせてくれたりした。鉄之介の他にはロックバンドをやっているやつや俳優を目指して上京してきたやつなんかがいて、とりわけバイト同士仲が良いというほどではなかったが、同じような境遇が親近感を増すのか、自然と仲間意識みたいなものが醸成されて、みんな長続きした。しかし、夢を追う者にとってアルバイトが長続きすることが決して良いことではないという矛盾もみんなわかっていて、必要以上にお互いを詮索しないのが暗黙の掟になっていた。
そんななかで、アルバイトをはじめて5年近くになる鉄之介が気づけば最古参となっていた。鉄之介より先にやめていったやつらがどこで何をしているかは知らなかった。誰も顔を見せに来ないということは、良くも悪くも誰も何にもなっていないのだろう。
この日は昼から夕方までのシフトで比較的客が少なかったというのもあって、仕事の合間に鉄之介は先ほど事務所で知ったお笑いコンテストのことと、いささか問題児である同期の芸人にコンビを組まないかと誘われたことなんかを何となく山岸に話した。
すると山岸はスカル柄の赤いバンダナの隙間から落ち窪んだ目を鉄之介に向けて、「ラストチャンスじゃねえかよ」とスモーキーな声でぶっきら棒に言った。
「えいらっしゃえぇい」
こけた頬に、鉄之介の知っているこの5年間寸分の変化も見られないナチュラルに逆立った髪型、小ぶりな腰回り、針のように細い脚、山岸は誰がどう見てもラーメン屋の店主には見えなかった。一度はメジャーデビューしたバンドでベースを弾いていたという山岸が、どのような経緯をたどって、この狭くて湿っぽい厨房に閉じこもり、来る日も来る日も麺の湯切りをしているのか、鉄之介だけでなくほかのアルバイトもみんな知らなかった。
ポロリと中途半端な時間にひとりでやってきた客が注文したラーメンの麺を菜箸でほぐす山岸の横顔を鉄之介は眺めた。
ラストチャンスじゃねえかよ――そう言った山岸がどこで踏ん切りをつけたのか、どうやって夢から抜け出せたのか、山岸にとってバンドとは何だったのか、鉄之介は山岸の姿につい自分を投影してしまいそうになるのを目の前の仕事に集中することで追い払った。しかしそうやってアルバイトに精を出せば出すほど、本業の成功から遠ざかって、もうここから抜け出せなくなるのではないかと、ひたすら怖くなった。
正直、ついこのあいだまで鉄之介はほとんどあきらめかけていた。
あなたのご職業は? お笑い芸人です……ほんとか? ツタヤのカード更新で必要な書類を記入するのに職業欄に何も書けなくなって、結局更新しなかった。それまで何のてらいもなく、ツタヤだろうが電気の申し込みだろうが営業先のビジネスホテルの宿帳だろうが、そこに「お笑い芸人」とむしろ一番目立つように書いていた。しかし何ひとつ目立った結果を残していない自分がお笑い芸人なんて名乗っていいのだろうかと一度弱気になってしまうと、ボールペンを握った手が石のように固まって動かなくなった。もし、お笑い芸人と書いたら、後日ツタヤから電話がかかってきて、お客様にご記入頂いた内容に不備がありました、お客様の本当のご職業を教えてください。そんなふうに問い詰められるんじゃないだろうか。かと言って空欄のままにして出して、その場でご記入をお願いしますと突き返されたらどうしたらいいのだろうか。手塚治虫が晩年、丸が書けなくなってきましたと苦悩を告白したというエピソードがよぎり、一瞬そこに自分をダブらせようとした愚かさに、泣きたくなった。
知っている誰かが自分を出し抜いてでも売れてくれたなら、そいつを目標にしたり、やめる理由にしたりもできたのだろうが、鉄之介のまわりに華やかな舞台に立っている者は誰ひとりとしていなかった。このまま、放置された死体が腐っていくように、夢見る意識もろとも朽ちていって、挙句、中身の何もないただの廃人になると思うとぞっとした。
そんな折だった。ファイナルジャッジが人気深夜バラエティーのレギュラーを勝ち取ったというニュースを知ったのは。とくに盛田のことはいけすかなかったが、鉄之介は自分のことのようにうれしかった。事務所ライブの打ち上げで盛田にさんざんダメ出しされて、ちゃんと落ち込む自分のいたことが、生きている実感になって鉄之介を立ち上がらせた。
そして何より鉄之介にとって決定的だったのは、それと同じ日の夜遅い公園で杏に出会ったことだった。
その子の小さな体には、目を覆いたくなるようなひどい痣があった。何があったかはわからないが、過酷な状況で自分のモノマネに笑ってくれた、これ以上尊いことはないように思えた。
テレビのレギュラーが決まって調子に乗る盛田に説教をされて悔しかったこと、そして、鉄之介の知らない暴力的な日常を生きている小さな女の子が笑ったこと、偶然にも同じ日に起きたそれらが動力となって、鉄之介を別の方向へゆっくりと動かしたような気がした。
数年前に青森だか秋田だか、東北の方に営業で行ったとき、寂れた駅のホームから転車台というものをはじめて目にしたのを思い出した。鉄之介はそれが何だったのかわからなかったが、そうだ、そのときそれが転車台というもので、汽車が方向転換するための装置なのだと教えてくれたのは、解散した前のコンビを組んだばかりのツカサだった。
賞金1000万円のお笑いコンテスト「お笑いバトル10」が大晦日に開催される。バカな中学生が一夜漬けでおぼえた簡単な英単語を繰り返し復唱するように、鉄之介は大会への参加条件を思い出した。こんなタイミングで、こんなチャンスが転がり込むなんて――回転して止まった先に延びる線路の先が眩しく光っていた。
美容室「レイモンド& Co.」から出てきた千恵子を待ち構えて、勢いよく目の前に飛び出した鉄之介に悲鳴を上げたのは小杉夏菜子だった。
道行く人たちが突如上がった金切り声に思わず身をすくめた。細い道のわりに人通りが多く、鉄之介は至近距離から迷惑そうな視線を浴びせかけられた。
「いや、違うんすよ〜。ご通行中のみなさん、え、え」
鉄之介は通り過ぎる人たちに坂上二郎ふうの声音でへこへこ頭を下げた。余計に眉をひそめられた。
「ちょっと夏菜ちゃん、おれが悪者みたくなってんじゃん」
鉄之介が振り返って言うと、
「もうやめてくださいよ鉄ちゃんさん」
小杉夏菜子はまだ胸のあたりを押さえて肩で息をしていた。
「ごめんごめん。八ちゃんの姿が見えたからさ」
「もう。でもなんでママは驚かないんですか? 完全に変質者に襲われたと思いましたわたし」
「いただきました! 変質者」
二人のやりとりにずっと笑っていた千恵子が、あーあ、と最後の笑いを絞るように言ってからつづけた。
「なんか今日は待ち伏せしてるって予感があったんだよね」
「え、すごーいママ。って、だったら言ってくださいよ!」
千恵子はまた体を折り曲げて笑いだした。
井の頭線で帰る小杉夏菜子と別れ、鉄之介と千恵子は中央線の電車に揺られた。
夜8時をすこしまわったばかりの上り電車は、パンパンに人を詰め込んだ反対側の車両が嘘のように空いていた。ふたりはドアを挟んだ両側に向かい合って立った。
「ごはんどうする?」
鉄之介が訊いた。
「簡単なものでよければ何か作るよ。何がいい?」
「そしたらさ、ジェイソン行こうよ」
「わあ久しぶり。でもお金大丈夫なの?」
鉄之介は口の片方を釣り上げてわざとらしく不敵な笑みを作り、無言で何度もうなずいた。
「ちょっと。悪いことはやめてよ。鉄ちゃんに限ってそれはないと思うけど」
阿佐ヶ谷で降りて、「ジェイソン&アリス」の縄のれんをくぐった。
会社帰りのサラリーマンがちらほらいるだけだった。
千恵子と並びで座ったカウンター越しから大将の神崎が、「出たな二人目のバカ」といきなりの先制パンチを食らわせた。
「何すか、二人目って」
鉄之介が聞くと、
「八ちゃん久しぶり〜」
後ろから明るい声の由美がおしぼりをわたした。すぐに女同士の賑やかな会話が隣ではじまった。
「おめえどうせあれだろ」神崎が言った。「バトテンだかいう大晦日のお笑いコンテストに参加すんだろ?」
「さすがに情報早いっすね。つうか、バトテンって略すんすね」
「さっきノボルがバイト仲間だかを連れて来てさんざん息巻いて帰っていったよ」
「ああ」
ノボルというのは、ノンボルノンというコンビのボケのほうで、鉄之介より5年後輩の芸歴4年目になる若手だ。
「もう賞金1000万取った気になってよ、普段はたのみもしないもんやたらと注文するから大丈夫かなと思ってたら勘定の段になって、出世払いで年明けすぐ倍返しします、なんてぬかすからこいつで頭おもいっきしぶん殴ってやったよ」
ガハハハと悪魔みたいなダミ声で笑った右手には、鈍く土色に光る使い込んだオタマが握られていた。チェーンソーを持ったジェイソンより恐ろしく見えた。
「そりゃあ、いい音したでしょうね」
「パッコーンつってな。ガハハハハ。んであいつよ、結局ダチと割り勘したんだけど、てめえだけ1000円足りねえでやんの。1000万どころか1000円もねえんじゃねえかおめえはつってもっぱつ殴ってやったよ」
由美がジョッキに入れたウーロン茶をふたつ運んできた。
「鉄はそんなバカじゃないよねー」
由美が明らかにからかうような口調で言った。
大至急、財布にいくら入っているか調べたくなった。
なんでジェイソンになんか行こうと言ったのだろう。鉄之介は自分の浅はかさを呪った。事務所でポスターを見たときから千恵子に「お笑いバトル10」の話をしたくてたまらなかった。気持ちが先走りすぎて、ついいつもの調子で暖簾をくぐってしまった。べつに家ででもゆっくり話せばよかったのだ。
バトテンという降ってわいたようなチャンスが、どこか杏に出会ったことと関係があるんじゃないかと千恵子と確認しあいたかった。だからこそこの大会は自分たちのためにあるのだという確信を二人で噛み締めたかった。絶対にものにすると手を取り合って誓い合いたかった。
なのに――。パッコーン。神崎のオタマがクリーンヒットする音が鉄之介の頭のなかで響いた。ノボルと変わらないのぼせ方をしていた自分にすっかり酔いが醒めたみたいになった。
ウーロン茶でたこの唐揚げを流し込みながら、ポツポツと大晦日に開催されるお笑いコンテストのほとんど概要だけを千恵子に説明していると、ガヤガヤとうるさい連中が入ってきた。
アサゲイの芸人たちだった。そのなかにはツカサもいて、鉄之介はますますここに来たことを後悔した。
千恵子もほとんどの顔を知っていることもあり、自然な流れで同じテーブルを囲むことになった。案の定、話はバトテン一色だった。
ツカサがまた、空気を読まない唐突なタイミングで、いつコンビを組もうと言い出さないか鉄之介はヒヤヒヤしていた。そんなことになれば、アサゲイじゅうに話が広がり、あとに退けなくなってしまうかもしれなかった。しかし結局、ツカサは何も言わなかった。相変わらず、場の空気を一変させたり、しらけさせたりしながら、自分はバトテンには参加しないという体で他の芸人連中と話を合わせていた。
その態度が、かえって無言のプレッシャーとなり、どうにも居心地の悪さを感じた。鉄之介は途中で席を立った。
「ツカサくんと何かあったの?」
千恵子がいかにも何かのついでといった感じで鉄之介に訊いた。
鉄之介が口ごもっていると、大量のノイズを撒き散らしながら二人のすぐ横を電車が通り過ぎていった。永遠につづくんじゃないかというくらい待てども待てども車両は途切れなかった。先頭と最後尾が地球一周してつながって、その電車の行き先はどこなんだろう? 鉄之介はぼんやり考えた。
ふうん、とすべてを見透かしたように言った千恵子の声で鉄之介は我に返った。
雨が降り出しそうなにおいが立ち込めていた。
「久しぶりだね、こうやって線路沿いを歩いて帰るの」
そう言うと、千恵子がブルーハーツの「TRAIN-TRAIN」のメロディーをハミングした。
鉄之介の大好きな曲だった。千恵子の柔らかい声がオレンジ色の街灯に溶けて線路の上をすべっていった。
「なあ八ちゃん」
千恵子は大げさに鉄之介のほうに首をひねった。後ろでひとつに束ねた長い髪の毛が音もなくすべり、雨のにおいを一瞬追い払った。
「明日火曜で、八ちゃん休みじゃん。おれもバイト夜だし。昼間にでもさ、杏ちゃんを探しに行かないか?」
奥二重の目をいっぱいに見開いた千恵子に鉄之介はつづけた。
「交番からお巡りさんが歩いて連れて行ってたからうちからも近いと思うんだよね。それにあの子は自分の足であの公園に来てたんだし。ほら、おれがネタの練習で使ってるところ。近いじゃんあそこ、うちから」
千恵子は黙ったまま鉄之介の隣を歩いた。
「だって、心配だろ? あんな痣があったんだぜ。おれたちそれ、見ちゃったんだぜ」
鉄之介の声にじんわりと熱がこもっていった。
「放っておけないぜ」
「ごめんね。明日用事が入ってるんだ」
千恵子は自分の足元を見つめたまま言った。
「え?」
「高校のときの友達がこっちに来てて。それで久しぶりに会うことになってるの」
「それって昼間なの?」
「うん」
「初耳」
「ごめんごめん。言ったつもりになっちゃってた」
付け足したような無邪気さで千恵子が言った。
何か言いかけた鉄之介の声を、さっきとは反対方向へ行く電車がかき消した。
腹減ったな。電車の通り過ぎたあとの奇妙な静寂のなかで鉄之介は思った。
本当の声を聞かせておくれよ。
「何?」
千恵子の瞳が微妙に揺れていた。
「腹減ったな」
「え? やだ、食べたばっかじゃない」
千恵子の笑い声が降り出した雨に濡れていった。
はじめて会う目の前の男をどうしてこんなに不快に思うのか、その理由を鉄之介はテーブルの下で指折り数えてみた。すぐに両手では足りなくなった。
一週間ほど前だった。鉄之介宛に届いた薄い緑色の封筒には「八雲記念病院」と印刷されていた。それが千恵子の実家だというのは、すぐにわかった。でもなんでおれ宛なんだろう? 疑問に思いながら封を切ると、なかには便箋一枚きりの短い手紙が入っていた。広げてみると、それは手紙ですらなかった。メモ書き程度のほとんど一方的に鉄之介を呼び出す通知だった。そこには、こちらの都合などお構いなしの、電気代や水道代の督促状などと同じ種類の冷ややかさがあった。
指定された日時と場所に行くべきか、ほとんど無視する方に傾いていた。しかし、まさにその日に千恵子が同級生との予定があると急に言い出したことで、考えが変わった。べつに深い考えというほどのものが鉄之介にあったわけではなかったが、千恵子の態度にどこか引っかかるものがあった。鉄之介は場違いを承知で京王プラザホテルのラウンジまで出向いて行った。
何年か前の事務所ライブのときに芸人仲間ですこしずつお金を出し合って作った鮮やかなオレンジのTシャツと膝に穴の空いたジーパン、薄汚いコンバースといういつもと変わらない格好で鉄之介はホテルのふかふかの絨毯の上を歩いた。
ラウンジの入り口で、鉄之介がキョロキョロしていると、知らない男に声を掛けられた。
「すぐにわかりましたよ」と、男はあからさまに見下して言うと、鉄之介の返事を待たずに、すたすたと席まで歩いて行った。
席についた鉄之介の前に名刺を滑らし、水を持ってきたウェイターに向かって、「そちらにもコーヒーを」と早口で勝手に注文した。名刺には、封筒で見たのと同じ病院の名前とロゴ、そして八雲隆宗という名前が書いてあった。
鉄之介がじっと名刺を見ていると、「千恵子の兄です」と無表情な声で告げた。
縁なしメガネの奥の目が千恵子には似ても似つかないくらい淀んでいた。
「おれ、金ないすよ」
わざと明るい声をつくって鉄之介は言った。
相手はその意味を計りかねて、メガネのブリッジを素早く中指で触った。まるで、ファックユーと挑発されたみたいだった。というか、その方がマシだと思えるくらい、鉄之介には目の前にいる男が、取っ掛かりのないつるつるの人間に見えた。
「だって〜、これ〜、詐欺なんでしょ?」
鉄之介はさらにふざけて言った。
向かいに座る男は明らかに苛立たしそうに口の端を曲げた。ポットからあたたかいコーヒーを注ぐウェイターに向けた視線に鉄之介に対する蔑みがこもっていた。ウェイターがその視線に気づいて、失礼いたしました、とそそくさとテーブルを離れた。
「あんた本当に八ちゃんの兄貴なの? ぜんぜん似てないぜ。とくにそのすこぶる悪い目つきが。あっつ」
鉄之介はコーヒーカップの中身に息を吹きかけて冷ましはじめた。
八雲隆宗は大げさにため息をついて言った。
「もう一度言う。私は八雲千恵子の実の兄だ。君の言う詐欺云々など関係ない。それにどう見ても君がお金を持っているようには見えない」
「そのとおり!」
鉄之介はラウンジじゅうに響く大声を出して立ち上がった。まわりにいたダークスーツを着たビジネスマンがいっせいに振り向いた。
冷静な素振りをアピールするようにベージュのジャケットの襟元を正し、八雲隆宗は切り出した。
「結論から言う。千恵子との交際をこれきりにしてほしい」
鉄之介がつづけざまに何本かのスティックシュガーをコーヒーに入れる乾いた音が二人のあいだに留まっていった。
「千恵子に縁談の話がある。あれももういい歳だ。もちろん君とは比べるべくもなく立派な相手だ。我が家は代々医者の家系で、跡継ぎではない女とは言え、そこから外れることは許されない」
鉄之介はさらにスティックシュガーを投入した。八雲隆宗が、ため息のような咳払いをしてからつづけた。
「悪いが君のことは調べさせてもらった」
「おもしろかった?」
鉄之介の言葉に意表を突かれて、八雲隆宗は首をかしげた。
「いやほら、おれの素性にどっか笑えるところあったかなーと思ってさ。売れてないけど芸人だから、素性でもおもしろかったら得した気分になるんだよ」
「君が八雲家にはふさわしくない人物だというのはわかった。ま、調べるまでもないことなのだが」
鉄之介は突然人差し指を八雲隆宗に向けた。そしてそれをゆっくり額に押しつけた。
「あれ?」鉄之介は首をひねって、今度は胸のあたりを触ろうとした。
「失敬な!」
八雲隆宗は鉄之介の手を払いのけた。
「ロボットミテエナシャベリカタスッカラサ、ナンカボタンデモアンノカナトオモッテ、ドモアリガット、ドモアリガット」
ロボットダンスみたいな動きを加えながら鉄之介はまわりに聞こえるくらいの声で言った。
金髪丸坊主の汚い格好をしたチンピラが、身なりのいい紳士をコケにしながら脅している――いくつもの好奇の目が二人のテーブルに注がれた。
顔を真っ赤にした八雲隆宗は、茶色いレザーのブリーフケースから薄緑色の封筒を取り出して、鉄之介に突きつけた。
鉄之介は無視して、またスティックシュガーを投入しつづけた。
「余計なお世話だと思うが」と言って八雲隆宗は立ち上がった。「糖分の摂りすぎはおすすめしない、医者として」
そう言って、透明なプラスチックの筒のなかで丸まった伝票を盗むように素早く引っこ抜くと、行ってしまった。
砂糖の比重でカップから溢れ出した黒い液体に金色のスプーンを突っ込んで、さらにこぼれるのも構わず鉄之介はかき混ぜつづけた。