(3)鋏
(3)鋏
若い巡査が、鉄之介を舐め回すように上から下までじろじろ見ていた。
金髪の坊主頭、色あせたグリーンのよれよれのTシャツ、膝に穴の空いたリーバイス、元々そういう色で販売していたのかと思うくらい見事に汚れたローカットのコンバース。身長は165センチくらい、体格は細身で年齢は20代半ばから後半。自分の外見的特徴を調書ふうにまとめたら、ざっとこんなものだろうか。そりゃあ、あやしいわな、と鉄之介は思った。
それなのに、巡査と目が合うたびについふざけた表情をしてしまうのをやめられない。女の子を連れているのだからあまり悪い印象を与えてはいけないとわかってはいるのだが、何かを訊かれたりするたびに唇をすぼめたり、寄り目にしたり、挑発ととられてもおかしくない行動を鉄之介は繰り返していた。たとえば葬式の場でしんみりしている空気に耐えられず吹き出してしまうのと同じように、警察官とか役所の職員とか、そういう堅い職業の人の前ではふざけないではいられなくなってしまうのだ。
昨晩遅く近所の公園に女の子が一人でいたところを保護したのだと言っても、目の前の巡査は、一応はメモをとったりしていたが、鉄之介の言うことをまるで相手にしていないようだった。どういうわけか、さっきからしきりにデスクの上の紙と女の子を交互に見ていた。
*
「何かあったんですか? ママ」
吉祥寺のサンロード商店街を入ってすぐにあるマクドナルドで、向かいに座った小杉夏菜子が下から覗くように千恵子を見た。
「へ? ああ、ごめんごめん。ぼーっとしてた」
「ママでもぼーっとすることあるんだ」
小杉夏菜子は屈託なく笑って、マックシェイクバニラの残りをズズズズと音を立てて勢いよく吸い上げた。
「ダイエットする気ないでしょ?」
千恵子が冷やかして言うと、「バレました?」と高い声で歌うように言った。
「もうこんな時間だ。戻らなきゃ」
「はーい」
千恵子は二人分のトレイを重ね、ダストボックスの前で手際よく分別して捨てた。
「さすがママ」
中道通りにある雑居ビルの2階に千恵子が勤めている美容室「レイモンド& Co.」が入っていた。子供がいるわけでも老けているほうでもないのに、いつの間にかみんなから「ママ」と呼ばれるようになった。しかも言いはじめたのは店長で、千恵子より10も年上のバリバリの子持ち主婦からそう呼ばれると、なんだかサイズの合わない服を無理やり着せられたような奇妙な感じがした。どうしてわたしがママなんですか? どうせ千恵子だからスナックにおけるチーママと美容室での立場を重ねてそんなふうに言っているのだろうと予測をつけて、あるとき軽い調子で聞いたら、「だってチエちゃん大きな子供育ててるじゃない、金髪の男の子」と言って店長は笑った。
悪気がないのはわかっていたが、鉄之介がまわりの人からはただのヒモみたいにしか見えないのかと思うと無性に悔しくて、あっはっはっは、やーだーもう、あっははは――鉄之介の名誉を守るつもりで、心配されるくらい爆笑してやった。結局それが新しい呼び名を受け入れたというしるしになり、以来千恵子は店長をはじめ同僚の美容師やアシスタントからもママと呼ばれるようになった。
パーマ液のツンとしたにおいのなかで、鉄之介が昨晩連れ帰った女の子を無事家まで届けることができたのか、気が気でなかった。
とりあえず近所の交番に行ってくると言っていたが、鉄之介の真っ直ぐすぎて、ときにやっかいな性格からすれば、じゃああとはお願いしますお巡りさん、とすんなりいくはずはなかった。女の子の体に痣があることを知らせ、一緒に家を探すと言い出し、家が見つかったらおれも行くとなり、家の人の顔を見たら開口一番喧嘩腰で文句を言い放ち、場合によっては胸ぐらにつかみかかる……ペーパーとロッドに髪の毛を挟んで器用に素早く巻き上げながら、鉄之介の行動が次々目に浮かんできた。ロッドに引っ掛けて留めた輪ゴムがパチンと音を立てた。
目の前で吸い殻をポイ捨てした人に、それをわざわざ拾って引きつった満面の笑顔をつくり「落し物」と言ってわたす姿が思い出された。またあるとき、吉祥寺駅のホームでおじいさんを全速力で追いかける男性を後ろからタックルでつかまえたら鉄道警察の捜査員で、警察がずっとマークしていた大物の超ベテラン掏摸師を取り逃すということもあった。
そういう鉄之介だからこそ千恵子は好きになってもう7年も一緒にいるのだが、何をしでかすか面白さと不安がいちいち半々だった。大きな子供を育ててる――たしかにそうかもしれないと思うと自然と笑みがこぼれた。
パチンと輪ゴムが鳴った。
千恵子が鉄之介と出会ったのは20歳になったばかりのころだった。早稲田大学の演劇サークルに所属してキャンパスライフをそれなりに満喫していた。
学内には、定期公演ともなれば情報誌に載るようなほとんどプロというレベルの劇団から、いかにも学生演劇サークルというものまで、数多くの団体がひしめきあっていた。そのなかで千恵子が入っていたのは、キャンパス内に練習場所すら持てないような小さなサークルだった。
総勢10人程度のメンバーは誰もが役者であり照明であり音響であり大道具を兼ねていた。べつに将来プロの演出家や役者になろうなんて思う者はおらず、学生生活を仲間との共通の話題と体験でほんのすこし充実させることが目的というような文科系のユルい人間の集まりだった。
唯一、小さな教室を借りて公演ができる11月の文化祭だけが彼らの演劇サークルらしい活動といえた。
その年も、それぞれのメンバーが後期の授業に合わせて東京へ戻ってきた夏の終わりから、公演に向けての本格的な準備がはじまった。オリジナルの脚本の構想を練り、衣装のアイデアを出し合い、夜になれば誰かの家に集まり酒を片手に稚拙な演劇論を語ったり、映画批評をぶつけあったりした。
そうしてできあがった演目は、近未来の東京を舞台に活躍する武闘派の女性刑事を軸に描くSFサイバー犯罪ものという、「攻殻機動隊」を何度もケミカルウォッシュして劣化させたような代物だった。
秋も深まったころ、彼らは練習場として使用している大学近くの公園で、あるシーンの稽古をしていた。
主人公のトラウマとなっている、複数の男に犯された過去を描いたパートで、演技に臨場感を持たせようとわざわざ日が落ちてから集まった。
広々とした土の広場の一角で、やめてー! うるせー! おらやっちまおうぜ! 迫真の演技での稽古がはじまった。一度通してみては動きや立ち位置を確認し、もう一度最初から繰り返す。それを何度かやって軽めの休憩を挟み、じゃあ最後にもう一回だけやって終わりにしようと稽古を再開し、順調に行っているそのときだった。
「何やってんだゴラアァ!」
ものすごい怒声に全員が動きを止めた。
「素通りできるわけねえだろがああああああ!」
いきなり男が叫びながら乱入し、見境なく暴れ出した。パンチを繰り出し、「おい逃げろ!」、キックを浴びせ、「いいから早く行け!」、完全に勘違いしているのは明白だった。
「ちょっと待ってちょっと待って! これ演技だから!」
「ああすちぇからどりゃあああ!」
ヤバいクスリでもキメまくっているとしか思えないぶっ壊れ方で、男はなおも突進をやめなかった。ライオンに襲われたシマウマの群れのようにメンバーたちは逃げ惑った。
フィクションのレイプから鬼気迫る本気の鬼ごっこへ様相は一変し、最終的に主人公役の女性メンバーが小道具のトンファーを男の後頭部目がけてフルスイングするというヴァイオレンスで暗転となった。
広場には気絶した男と、男にやられたメンバーが3人うめきながら転がっていた。
ペットボトルのアクエリアスを顔にかけられて、男は目を開けた。その瞬間素早く立ち上がったかと思うとファイティングポーズをとったからメンバーは思わず後ずさりした。
「あの……」さっきまでレイプされ悲鳴をあげていた女性が男に話しかけた。「大丈夫ですか?」
男は居並ぶメンバーをキョロキョロ見回し、「何これ?」と夢から覚めたような顔で言った。
サークルで二人しかいない女性メンバーのうちのひとりが主人公で、それが当時2年生の千恵子だった。
乱入男はもちろん鉄之介で、養成所を出たばかりの芸人2年目だった。
先輩芸人に事務所ライブのチラシを配って来いと命令されて、当時のバイト先にもっとも近かった早稲田を選んだはいいが、肝心のチラシをどこかに失くしてしまい、それで何もせずに帰るのも癪だからとキャンパス内でひとしきりネタをやった。案の定ウケないどころか、誰も鉄之介を見もしなかった。せめて冷やかしでもしてくれたらそれを突破口に笑わせてやったのに……肩を落としながら近所の公園までやって来たのだった。
後頭部がダンスフロアになったんじゃないかと思うくらい痛みを伴った激しいビートに目が眩むなか、鉄之介は自分がとんでもない勘違いをしていたことを知らされた。
鼻にティッシュを詰め込んだ顔や目に青たんを作っている顔が、公園の白々とした外灯に照らされて鉄之介をじっと見ていた。
完全にやっちまった……。
「すみません!」
鉄之介の声に千恵子の声がシンクロした。二人は同時に謝っていた。
翌日、改めて鉄之介が演劇サークルの面々に謝罪しに行くと、みんなが笑顔で迎え入れてくれた。
よくよく振り返ってみると、昨日の出来事が相当に面白かったらしく、脚本を全面的に改稿してフィクションのなかに現実が乱入するドタバタアクションコメディーに挑戦するのだと手を取らんばかりの勢いで片目を腫らした男に熱っぽく語られた。
「君のおかげだよ! これは新しい」
そして、どうせだったら本物のお笑いの人に劇中に乱入してもらった方がよりリアリティーのある設定になるのでは?という千恵子の提案がすぐに受け入れられて鉄之介も参加することになった。
内容自体はタランティーノと三谷幸喜が屁のこきあいをしているような鼻をつまみたくなるものだったが、鉄之介はユマ・サーマン風のボブにした千恵子が自分のネタに笑ってくれる姿がうれしくて、まばらに座った観客を無視して小さな舞台袖を向いてやってしまう始末だった。
勘違いとはいえ、危険を顧みずに自分を助けようとした鉄之介の行動が、千恵子はうれしかった。フィクションに現実が乱入する筋書きの舞台はいたるところが破綻して終わったが、鉄之介のことを思う気持ちは加速度的にフィクションを凌駕し、気づけば千恵子は自分から告白していた。そんなことは生まれてはじめてだった。
鉄之介は先に気持ちを打ち明けられたことを悔しがり、もう一回最初からおれバージョンをやらせてくれと翌日同じ時間同じ場所(二人が出会った大学近くの公園)で待ち合わせした。千恵子は鉄之介から告白された。何もかもが嘘みたいに可笑しかった。
千恵子は鉄之介のことを鉄ちゃんと呼び、鉄之介は千恵子をなぜか八ちゃんと呼んだ。千恵子がどうして下の名前で呼んでくれないのかとすこし不満げに尋ねると、なんか「八ちゃん」って陽気で幸せな感じするじゃんと鉄之介は照れながら言った。
3年生に進級する前に千恵子は大学を自主退学し、美容師になるために専門学校へ入学した。
これ以上大学に行く意味が見出せないというのが理由だったが、もうひとつの本心としては、2年も伸ばし放題にして輪ゴムでひとつにまとめているだけの鉄之介の髪の毛をいつでも好きなときに切ってあげたいというのが大きかった。売れるまで伸ばすんだよと強がってお金がないのをごまかしてはいたが、売れるんだったらどう考えても切ったほうがいいと千恵子は思った。
猛烈に反対する両親を説得するのは想像以上に骨が折れた。愛知県の豊橋市で一番大きな総合病院を経営する千恵子の父は学歴至上主義の権化みたいな人物で、東大の医学部を卒業した長男を当たり前、早稲田に行っている千恵子を明らかに不満に思っていた。そんな人に、大学を辞めて専門学校へ行くと告げるのは、未開のジャングルに引っ越すと言うよりも理解しがたいことなのかもしれなかった。母は父の言うことがすべて正しいと考えるように長い年月をかけて自分を失くしていった人だった。同情するべき点もあったが、千恵子はそんな母も父と同じくらい軽蔑していた。
大学を出て、どこかの病院で医者をするつまらない男と結婚させられる未来に辟易としていた千恵子にとって、いずれ自分のための決断が必要になることはわかっていた。それがここだと思った。自分のためだけだったら言い出せなかったかもしれないが、鉄之介のためにもなると思えば行動に移すことにためらいはなかった。わたしも母みたいに相手に影響されて自分が変わってしまったのかしら? 一瞬そう思わないでもなかったが、すぐに、母とわたしはぜんぜん違うと確信した。なぜなら、これは諦めなのではなく、わたしの人生をわたしが歩むための決断だからだ。そこが決定的に違うのだ。だから千恵子は1ミリも譲らなかった。
2年間専門学校に通い、国家試験を一発で通過し、千恵子は晴れて美容師になった。
そのあいだ、鉄之介は一度も髪の毛を切らなかった。背中を隠すほどまで伸びた長い髪をぐるぐるとぐろのように巻いてできそこないのちょんまげみたいに頭頂部に乗せていた。うんこみたいだろ? と言って冗談を言いながら、八ちゃんがプロになったらおれが一番に切ってもらうんだと勝手に決めていた。そして、おれが売れるのと八ちゃんがプロになるのとどっちが先か競争しようぜと、鉄之介は子供みたいに無邪気に笑った。
鉄之介が千恵子にオーダーした髪型は、丸刈りだった。
せっかく一生懸命学校で勉強したんだからもっと技術力を発揮できる最新のかっこいい髪型にしなさいよと千恵子は不満を言ったが、鉄之介は坊主がいいと言い張った。それだったら、金髪に染めたらどうかと千恵子が提案した。
「わたしは鉄ちゃんの髪の毛を切りたいと思って美容師になったんだからね! 丸坊主にするだけなんだったらバリカンで誰だってできるじゃない。せめてカラーくらいさせてよね!」
千恵子は気色ばんで言った。
「おれのためって、そうなの?」
驚いて鉄之介が返すと、千恵子はべつにとかなんとかもごもごとごまかした。
「坊主がいいっていうのはさ――」鉄之介が何やら言いにくそうに言った。「すぐ伸びるじゃん。おれ、髪の毛伸びるの早いんだよ、スケベだからさ。へへ。そしたらまたすぐ八ちゃんに切ってもらえるかなと思ってさ」
「……うん。カラー入れてもいい?」
「マジでヒロトみたいになるじゃん。これで売れるな!」
「うん」
*
若い巡査がわざとらしく咳払いをした。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
鉄之介から女の子をさりげなく引き離しながら、巡査は二人のあいだに割り込む位置取りでしゃがんだ。
「この子、一言も喋らないんすよ」
鉄之介が言った。
巡査は無視して年齢やどこに住んでいるのかをしつこく聞いた。
「おまわりさん、ダメなんですって。この子はおれのギャグにしか反応しないんすよ。いいすか、いきますよ――」
「高崎杏ちゃん、5歳じゃないかな?」と巡査は鉄之介を遮るように言った。
すると女の子はそれまでうつむいていた顔を上げた。
「高崎杏ちゃん?」
巡査がもう一度たしかめると、女の子はこくりとうなずいた。
「え、マジ?」
驚く鉄之介を勝ち誇ったように巡査は振り返った。
「おまわりさん、なんで知ってんの? この子の名前。つうか、アン、アンちゃんっていうのか! アンちゃん、へー!」ただでさえ大きい鉄之介の興奮した声が、狭い交番のなかに響いた。「アンちゃんか、へーそうか、アンちゃん、うん? アンちゃん……アンちゃん、お、これチィ兄ちゃんできるな。アンちゃん……アンちゃん。ねえどう? おまわりさん、いけるかな?」
「な、何が?」
「モノマネっすよ。アンちゃん。『ひとつ屋根の下』のチィ兄ちゃんじゃないすか。福山雅治。いやいや顔はべつっすよ。声だけ。アンちゃん……どう?」
巡査は眉間にしわを寄せて咳払いをした。
そこで我に返った鉄之介が、すみませんとバツが悪そうに頭を下げた。
「でもどうしてこの子の名前がわかったんですか?」
「捜索願が出されているんですよ」巡査は憮然と答えた。そして鉄之介をじっと見据え、口元にありったけの威厳を込めて言った。
「あなたには聞かなければいけないことが山ほどあります」
「はあ。いや、おれも言わなきゃいけない大事なことがあるんすよ」
「ん?」
巡査は話の腰を折られたとでもいった感じで思わず聞き返した。しかし鉄之介が話し出すのを制止して、デスクの上に置いてある電話から受話器を外して電話番号をプッシュした。
本署へ連絡しているらしかった。はっ、はっ、と何度も勢い込んで返事するのが可笑しくて、鉄之介は杏を見ながら巡査が「はっ」と言うたびに、それに合わせてアイーンの顔とポーズをキメた。
「アイーンでも笑うじゃん!」
アイーンとだいじょうぶだあを交互にやったり、二つを組み合わせて「アインじょうぶだあ」というドイツ語のようなへんてこなものを作ったりしてはしゃいでいた。
「三島さん」
受話器を置いた巡査は、さきほど鉄之介の話を聞きながらとったメモを見て言った。「三島、鉄之介さん」
鉄之介がふざけて返事をしようとしたら、それを無視してつづけた。
「この子はいまから自宅の方に連れて帰ります。あなたにはまだお聞きしなければいけないことがありますので、本署へ行っていただくことになりますがよろしいでしょうか」
ばかに丁寧な言葉づかいに嫌な予感がしたが、べつにおれは何も間違ったことはしちゃいない。鉄之介は「いいよ」といささか挑発的に答えた。
「でもね、お巡りさん。この子を家に帰すのはちょっと考えた方がいいって」
厳しい顔つきで巡査は鉄之介を見つめ、話のつづきをうながした。
鉄之介は巡査に近寄り肩に手を回して、杏に聞こえないように小さな声で言った。
「体に打たれたような痣がいっぱいあるんすよ。虐待されてるんじゃないかな。だからさ、それで家にいるのが怖くなってあんな時間の公園に逃げて来たんだって」
言い終わると、鉄之介はポンポンと巡査の肩を叩いて、目を見てうなずいた。そしてネズミ色のキャスター付き回転椅子にちょこんと座っている杏に二人は視線を落とした。
「いずれにしても」巡査は乾いた口調で言った。「捜索願が出されている以上、連れて帰らなければいけない」
「だったらおれも行くよ。おれの取り調べみたいのはその後でも好きなだけやりゃあいいじゃん」
「ダメだ」
「なんで」
「当たり前だろう。あなたが何者かもわからないのに、いきなり関係者の家まで案内するバカがどこにいるんだ」
「じゃあ虐待してるかもしれないクソったれの家なのにそんなところに帰すバカがどこにいんだよ!」
「なにい!」
外で自転車のブレーキの軋む音が響いた。パトロールから戻った50代くらいの巡査部長がのっそり交番に現れた。巡査部長は、はいはいはいと塵でもはたくように睨み合う二人のあいだに入った。巡査を連れて奥の座敷部屋に行ったかと思うと、またすぐに戻ってきた。そして柔和な笑顔を浮かべて鉄之介に言った。
「あなたの心配もごもっともだね。でもその子のご両親が行方を探しているのに変わりはないし、署がそれを受理してこうして近辺の派出所に情報が来ている以上放っておくことはできないよ」
「でも……」と、言いかけた鉄之介の肩にやさしく手を置いて、巡査部長は言った。
「市役所に連絡を入れて、虐待の疑いがあることをきちんと警察から報告するから。一度それで様子を見るしかない。ね」
子供を諭すように言われると、鉄之介も「わかりました」と言うしかなかった。
若い巡査に連れられて杏は行ってしまった。あの柔らかくて小さい手がさっきまでは自分の手のなかにあったことを思うと、何か取り返しのつかないことをしているんじゃないかと不安になった。角を曲がるとき、杏がこちらを見たような気がした。
結局、巡査部長の計らいで本署での取り調べまでは行われず、その場での形式的な聞き取りだけですんだ。
「ねえ、おまわりさん。ひとつだけ教えてほしいんだけど」
巡査部長は日々のパトロールで日焼けした顔を鉄之介に向けた。
「あの子、アンちゃんって名前なんだけど、どんな字書くのかな? おれバカだから『アン』なんて漢字まったく思いつかなくてさ」
そこに答えが書いてあるんじゃないかと思うくらい巡査部長の笑った顔に深い皺がたくさん刻まれた。
「あんずの杏だよ」
「あんずのアン? 赤毛のアンみたいな感じ? え、じゃあカタカナ?」
わっはっはっはと巡査部長は豪快に笑った。メモ用紙に「杏」と書いて鉄之介に見せた。
「あんたは悪いことできない人だわ。ははは。じゃないとあの子がついて行ったりしないわな」
「じゃああの若いおまわりさんも信用していいんだね」
「あんたと同じくらいな」
千恵子の動かす鋏の音が頭のまわりでこちょこちょと心地よかった。
庭というか、雑草が伸び放題の細い通路みたいなデッドスペースに面して付いている慎ましすぎる縁側に座って千恵子の手先を感じているのが鉄之介は好きだった。ひと月半に一回のペースで千恵子がバリカンではなくわざわざ鋏でカットし、カラーリングもしてくれるのだ。すぐ目の前にある染みだらけのブロック塀にその日の出来事を投影するように面白おかしく話して聞かせるのが千恵子に対するギャラだった。
昼間出会った交番勤務の二人の警官を勝手にデフォルメし、冬に放送していたドラマ「踊る大捜査線」になぞらえて話した。若い巡査は織田裕二になり、五十代と思しき巡査部長はいかりや長介になった。織田裕二が虐待クソったれ親に殴り込みに行くって鼻息荒いのをおれと長さんでなんとかなだめたんだよ。鉄之介は即興のモノマネをちょいちょい入れて話した。千恵子は何度も鋏を止めて笑った。
「レパートリーでいけるんじゃないの、『踊る大捜査線』」
「お、そうだな。さすが八ちゃん。練習しよっと。そうそう新ネタもういっこできたんだよ今日」
「えーなになに?」
「アンちゃん!」
鉄之介は福山雅治の声を真似て言った。
「チィ兄ちゃん!」
「だろ! あの子の名前、杏っていうんだぜ。どういう字書くかわかる?」
「あんずの杏?」
千恵子は鉄之介の頭をチェックしながら言った。
「すっげ。さすが早稲田」
鉄之介はケープの下から手を出して小指で鼻の頭を掻いた。
「中退だけどね」
「あんずって何?」
「梅みたいなかたちした小ぶりの果物。知らない?」
「そんなん普通に売ってたりする?」
「崎陽軒のシウマイ弁当に入ってるよ」
鉄之介の耳のまわりで、また鋏がリズムを刻みだした。
「あー、あのオレンジっぽいやつだ」
「そうそう。あってもなくてもいいやつね」
「何言ってんの八ちゃん」鉄之介は千恵子を振り返った。「あれがあるからシウマイ弁当全体が引き立つんだよ」
「えー、そうかな。なんかあれだけ端によけるからかわいそうな感じがいつもしちゃうんだけど」
「わかってねーなー八ちゃんは。あれ? 雨降ってきた」
縁側から乗り出し、二人で夜空を見上げた。目のなかに雨つぶが入ってきた。
「こんな大きなてるてる坊主がいるのにね」とまだ途中の鉄之介の頭をなでて千恵子が言った。
「杏ちゃん、大丈夫かなあ」
鉄之介が空を見上げたままポツリと言った。
「だいじょうぶだあ」
千恵子は志村けんのモノマネをした。
「やるじゃん、八ちゃん」
鉄之介は不意を突かれて笑った。
「あの子もきっと今ごろ笑ってるわよ」
「うん、そうだな」
サアーーッと巨大な何かが近づいてくるような音とともに雨足が急に強くなった。二人は慌ててガラスの引き戸を閉めて部屋のなかに入った。しばらく窓際に並んで雨の降るのを見ていた。