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(11)時計

(11)時計


 鉄板を溶接しただけの簡素な階段を乾いた靴音が上がっていく。自分は正しいことをしているのだという信念が足音のするたびに試されているような気がして、途中でどっちの足を出しているのかわからなくなりそうだった。

 これまで何度も怖い目に遭ってきた。

 チャイムを鳴らし、こちらの身分を告げ、勢いよく開いた玄関から出刃包丁を突きつけられたこともある。

 酒瓶を投げつけられたこともあるし、手首をかき切ろうとしているところをあわてて止めたこともあった。

 親にとっての子、子にとっての親というものが、どうしようもなく分かち難く排他的で、まるで実体と影のような関係にあるのを常に思い知らされている。

 呼び鈴を押そうとして、一瞬迷ってからドアをノックした。薄いドアの感触とその向こうに人がいる気配を感じた。

 「中央児童相談所の八雲です。秋山さん?」

 息を殺して耳を澄ます。何の応答もない。

 「児童相談所の八雲千恵子です。このあいだもお邪魔しました――」

 どすどすと大きな足音が迫ってきて、そこにいる全員が身構えた。

 「せからしか! 児相みたいなもんに用はなかっど!」

 野太い声とともに玄関が開いて、金色のアルファベットが胸元や太ももで踊る派手なジャージを着た男が出てきた。ずいぶん若かった。男の吐く息からも、家のなかからも、ムッとするほどの酒の臭いが漂い、押し戻されそうになる。

 千恵子の調べたところでは、朝の7時過ぎには父親は土木関係の仕事に出ているはずだった。だからわざわざ母親と娘だけになる平日朝9時の晴れている日を狙って来たのだ。

 「帰らんか! 人さらい!」

 部屋の奥から女性の金切り声が聞こえた。

 千恵子は、まだ2歳の女の子がどうなっているか気が気ではなかった。

 「お父さん、お母さん、落ち着いてください。わたしたちの話を聞いてくださいませんか?」

 千恵子は自分に言い聞かすように柔らかい、しかし決意を込めた声で呼びかけた。

 一週間ほど前くらいからだった。近隣の住民から児童相談所に女の子の泣き叫ぶ声が毎晩のように聞こえてきて心配だという通報が複数件寄せられるようになったのは。同じような連絡が警察にも市役所にもあるということで、関係各所の緊急の会議を設け、すぐに児相からワーカーを派遣することが決定した。

 中央児童相談所の初期対応チームのなかでもベテランの千恵子と部下の山中睦美が問題の家庭を調べたところ、父親による虐待の疑いが持たれた。そこで父親が仕事に出かけた隙を見計らって自宅を訪問し、母親の話を聞くことができた。それがようやく一昨日のことだ。母親は憔悴しきっており、彼女も夫の暴力に苦しんでいると涙を流しながら告白した。

 2歳になる女の子の腕や背中には目を背けたくなるほどの大きな痣ができていた。

 千恵子と山中はその場で母親に女の子の児相での保護を提案した。ところがそれを聞いたとたん母親が豹変し、娘を人形みたいに乱暴に抱き抱え、茶椀や雑誌などそのへんのものを手当たり次第に投げつけはじめた。山中の首筋にサボテンが当たってあとで大変だった。

 事務所に戻り報告書をまとめ、児相内で検討した結果、強制的に子供を保護する職権保護を適用することがすぐに決まった。

 「お願いですから話を聞いてください」

 千恵子は噛んで含むように言った。

 「わたしと担当のものだけでお話を伺います。お邪魔してもよろしいですか?」

 父親は玄関の前に居並ぶ関係者を睨みつけるようにひとりずつ見てから、渋々といった感じで千恵子の言葉に従った。

 アルコール類の空き缶や空瓶とディスニーのキャラクターがプリントされた衣服がごちゃまぜになって散らばっていた。物は少ないのに部屋が雑然としているのは、どういうわけかネグレクトや虐待をしてしまう家庭に共通していた。どろりとしたアルコールのにおいが篭った部屋は、いるだけで酔ってしまいそうで、すぐに換気をしたほうがいいとは思うが、まだカーテンがかかったままになっている窓を勝手に開けて神経を逆なでしては元も子もない。まずは子供の保護が先だと考え、喚き散らす母親のそばでじっとしている女の子の正面に山中をさりげなく陣取らせ、千恵子は絨毯であぐらをかいた父親と向き合った。

 父親はタバコに火をつけ、苛立たしそうに煙を吐き出した。

 いつこの男が暴れだすかわからない。千恵子は玄関の鍵を開けっぱなしにしてきたことをそれとなく振り返って確認した。

 家族のために女の子の保護が必要だということを刺激しないように慎重に言葉を選んで説明していると、母親は千恵子のひとつひとつの言葉尻に狂ったように噛みついてきて、何度も話の腰を折られた。自分たちに敵意を剥き出しにすることで、夫から身を守ろうとしているのが痛いほどわかった。自分のせいでこうなったのではないのだと。悪いのは勝手に家のなかへあがり込んできた目の前の女たちなんだと。

 千恵子は母親の脈絡のない子供じみた悪口にそうですねと同意したり、ときには謝ったりしながら、それでも我慢強く保護を訴えた。

 じっと話を聞いていた父親が突然立ち上がったかと思うと、いきなり母親の顔面を思いっきり引っ叩いた。鈍い音が腹の底を震わせた。

 千恵子も山中も、あっけにとられ、金縛りに遭ったように身動きができなかった。

 「横からガタガタぬかしくさるな!」

 長い髪の毛を引っ張り上げられた母親は鼻から滝のような血を流し、首がいまにも取れてしまいそうな角度で曲がっていた。女の子が悲鳴のような泣き声をあげた。

 「お父さん、やめてください! 落ち着いてください!」

 千恵子が父親にしがみついた。そして山中に目配せをして、この隙に女の子を連れ出すように促した。

 山中は女の子を抱え上げ、玄関に向かって走り出した。

 それに気づいた父親が千恵子を振りほどいて追いかけたが、開いた扉からなだれ込んだ警官2名に取り押さえられた。男はなおも暴れようとして両足をばたつかせていた。

 人間のどこから、どんな感情を持てば、こんな声が出てくるのかと思うほどの咆哮をぶちまけながら、母親が台所に向きを変えたのを千恵子は見逃さなかった。足首を必死につかんだ。

 「死ぬーーーー! 死ぬーーーー! 返せーーー、子供返せーーーー!」

 髪を振り乱し、血を滴らせながら叫ぶ母親の底なし沼のような瞳は、日常というものの不確かさそのものだった。そして千恵子は思った。これが現実なのだと。わたしのいる現実そのものなのだ。ここから逃げてはいけないのだ。市役所の職員に肩を叩かれてもなお、千恵子は母親の足首にしがみついていた。

 諸々の手続きを終え、児童相談所に併設されている一時保護所に女の子を預け、報告書をまとめてほっとしたのも束の間、明日からはあの父親と母親に向き合わなければいけない日々がつづく。そしてそれだけでなく、継続している案件や続々と押し寄せる新たな事案を受け止めなければいけない。人がいくらいても足りない――ため息をつこうとしたら、先に山中のため息が聞こえてきた。

 「……疲れましたね。さっきのは、さすがに」

 千恵子のデスクの向かいに座った山中がポツリと言った。首筋に貼った絆創膏がまだ痛々しかった。

 山中は千恵子より6歳下のワーカーで、社会経験は長いが児童相談所で働きだしてまだ4年だった。それまでは保育園の現場にいた。10歳と8歳の男の子の母親だ。夫と育ち盛りの子供を持つ女性の苦労がどんなものなのか、四十半ばを過ぎても独身の千恵子には想像もできなかった。だから、独り身の自分が疲れたなどと言っては申し訳ないと思い直し、山中を励ますように初期対応チームのリーダーとして明るく振る舞った。

 そこへ所長の石和伸二が家で淹れて持ち歩いているコーヒーを魔法瓶からマグカップに注ぎながら言った。

 「来月には、若い人材がひとり入ることになってますんで」

 風をはらんでゆったりとした波形に膨らむ帆を思わせる石和の関西弁は、どんなに大変なことが起こっていてもその場の空気を和ませてくれる不思議な力があった。いまは大変だけど、たしかに前進している、そう思わせてくれるのだ。京都の私立大学の社会学部で福祉学を教えていた教授だったという経験がそうさせるのか、もともとの性格によるものなのか、強制的に子供から離されて怒り狂った親でも石和と面と向かうと、ものの5分もすれば飼い猫のように手なずけられているという場面を千恵子はしょっちゅう見てきた。

 「さきほど報告書を読ませてもらいましたよ。大変でしたね」

 丸いメガネの奥の目を細めて言われると、何かもう、それほど大変ではないことに思えてくる。

 「まあ、よくあることなので」

 千恵子も微笑み返した。

 「ところで、新しい人が来るんですか?」

 山中の弾んだ大きな声に、その場にいた他の課の職員も石和を見た。

 「ええ、来月の一日からね」

 おお、と静かな歓声が上がった。それほど児童福祉司の資格を持った人材の確保は日本全国どこの児童相談所でも難しいのだ。

 「八雲さんのチームに入ってもらうつもりでいてますから」

 やったー、と思わず漏れた山中の声が、古い事務所のなかに響いた。

 「女性ですか? 男性ですか?」

 山中が急き込んで聞いた。

 「女性ですね」

 「年齢は?」

 「えーっと」石和は引き出しから資料を取り出し、メガネのつるを持ち上げて手元を覗き込むようにして言った。「24歳、ですね。ほー。大学出てすぐに養成機関に一年行って、認可資格を取得したとありますから、ピカピカの新人さんですねえ」

 また歓声が上がった。今度はざわめきに近かった。


 「布施杏です。よろしくおねがいします」

 杏という名前に、千恵子の鼓動が速まった。しかし、たしかあの子の苗字は布施ではなかった。そう、高崎、高崎杏ちゃん。その存在を片時も忘れたことはなかった。千恵子が児童福祉司になったのも高崎杏がきっかけだった。

 「よろしくね、布施さん」

 千恵子が挨拶をすると、布施杏はまっすぐに千恵子を見てから静かに会釈をした。年齢に似合わない落ち着きがあった。

 「それにしても背が高いわね、あなた」山中が早速人懐っこい声と態度でコミュニケーションを取りはじめた。「ねえ、何センチあるの?」

 「172センチです」

 キリッとしたショートカットに、小さな顔、すらっと伸びた足、グレーのパンツスーツで立つ姿はファッション誌か何かから抜け出してきたみたいだった。

 「ひゃー、横に並びたくないよー」

 小柄でぽっちゃりした山中が体を隠すような仕草で言ったのを皆が見て、事務所が笑いに包まれた。

 「まあそうゆうことで、布施さんには八雲さんのチーム待望の新戦力として活躍してもらいましょう」

 石和がにこにこしながら布施杏を見上げた。

 この日は先日保育園から相談が寄せられていた4歳の男の子を職権保護するべきかどうか、アドバイザーを入れて検討することになっていた。千恵子は良い機会だと思い、布施杏も会議に参加させることにした。

 殺風景な会議室に重たい空気が流れた。

 保育士が撮った写真に写った男の子の体には、どう考えても虐待としか思えない痕跡が複数見られた。迎えに来た母親に問い合わせた保育士の話では、たぶん兄弟げんかでこうなったのだろうと、あたかもはじめて知ったような態度でごまかされたという。心配になってその場で男の子に尋ねてみたら、母親は烈火のごとく怒り出して帰ってしまった。そしてその日の夕方に、男の子の父親から保育園に激しいクレームが入った。家庭のことにまで首をつっこむな、今度やったら承知しないぞ、ほとんど脅しのようだったと応対した保育士は、千恵子にすがるように語った。

 職権保護の線は確定として、問題はいかに保護するかだった。保育士から聞いた両親の態度からすると、家に行ったら余計にこじれるのは目に見えていた。すこし強引ではあるが、親と子が離れているタイミングを見計らって保護するしかないという方針を千恵子は発表した。

 「しかしそれではまるで……誘拐みたいじゃないですか」

 最近子供が生まれたばかりで父親らしくなってきた三十代のアドバイザーは遠慮がちに言った。

 「仮にですけど、虐待を親が認めなければ、相当めんどくさいことになりますね」

 山中がつい本音を漏らした。

 千恵子は布施杏をちらと見た。目があった。

 「布施さん。あなたはどう思いますか? 今日来たばかりで判断に困るとは思うけど。でも、あなたももう児童相談所の初期対応チームのワーカーなんだから、意見を聞かせてほしいの」

 布施杏はまっすぐ千恵子の目を見つめたまま答えた。

 「わたしは八雲課長の意見に賛成です。虐待をしている親に自分の行為を認めさせることと、危険な環境に身を置く子供を救い出すことは同時にはできないのではないでしょうか。だとしたら、まずは子供の保護を確実に行うことが適切な対応だと思います」

 聞き取りやすい声だった。自分の意見を押し付けるでもなく、しかし主張するところはしっかりするという意思が込められていた。

 「もちろんおっしゃるとおりだとは思います」アドバイザーが布施杏に言った。「ただ、我々がいまポイントとしているのは、保護の仕方についてなんです。さらには、本当に親が虐待を行っているのかどうかをどのようにたしかめるか、その確証が得られなければ児童福祉法28条も適用されるかどうか――」

 「保育園の先生が男の子の写真を撮ったときの状況はわかりますか?」

 アドバイザーの発言を打ち消すようなタイミングで布施杏は言った。一瞬ムッとしたアドバイザーが口を開きかけたところを見計らって千恵子が説明をした。

 「ずっと虐待を疑っていた保育士さんがその子と二人だけになって確認したそうよ」

 布施杏はうなずいた。

 「虐待を受けている子供はギリギリまでその傷を隠そうとします。本能的に親をかばってしまうのです。先生の前で上着を脱いで傷を見せたということは、これは間違いなくSOSのサインです」

 「だから、多少強引なやり方でも保護を急ぐべきだと?」

 アドバイザーが眉間にしわを寄せて言った。

 「そうです」

 布施杏ははっきりと言った。

 千恵子が腕時計に目をやった。午後の2時になろうとしていた。

 「これから保育園に行きましょう。ご両親が迎えに来る前に保護します。ご両親への説明はわたしがするので、山中さんは一時保護所の手配を。布施さんは――」

 「保育園に行かせてください」

 車で下道を40分ほど行ったところに目指す保育園はあった。千恵子と布施杏が到着すると50代くらいの女性の園長が出てきて、明らかに困惑の色を浮かべていた。千恵子が事前に電話で、母親が迎えに来る前に保護すると伝えていたからだ。

 園長も若い保育士も、迎えに来た親にどう説明すればいいのかということばかり気にしていた。

 「男の子を無事に保護した後、わたしだけここに残ります。お母さんにはわたしからきちんと説明しますのでご安心ください」

 千恵子が伝えると、あからさまにホッとした表情を浮かべた。日々、園児の親と向き合わなければいけない保育士たちの苦労が目に見えるようだった。

 問題の4歳の男の子は、ほかの友達と元気に園庭で走り回っていた。こうやって端から見ると、虐待という事実が嘘のように思えてくる。長年かけて積み重ねてきた自信が一瞬で揺らぎそうになる。しかしここでひるんだら、取り返しのつかないことになるのをこれまでも存分に味わってきた。思い出したくないが、千恵子がこの仕事をはじめて3年経ったときだった。保護をためらって結局命を落としてしまった0歳児がいた。もちろん千恵子だけの責任ではなかったが、この仕事を辞めようと本気で思った。でも気づいたのだ。ここで逃げ出したら、これから救える命が救えなくなることに。そして誓ったのだ。子供の命の危険と、あとで親に文句を言われることと、そんなものを絶対に天秤にかけて立ち止まったりはしないと。

 「あの無邪気な笑顔が家庭でも普通に見られるように早くしたいです」

 布施杏が言った。

 千恵子は自分が励まされたような気がして、知らず知らずに張っていた気が、ふっと緩んで楽になった。

 「あなたは、大丈夫そうね」

 布施杏は、すこし首をかしげた。

 「いえ、独り言よ」

 「車の運転が、一番自信ありません。免許を取ったばかりなので」

 千恵子は笑った。「こんな田舎の道、大丈夫よ。でも細心の注意は払って運転してね。大切な子供を乗せてるんだし」

 「もちろんです」

 別室に移動し、千恵子がやさしい声で園児に話しかけた。

 「今日からすこしお父さんとお母さんと離れて、別のところでごはんを食べたり遊んだりするけど、竜樹くんは大丈夫かな?」

 男の子は、とくに嫌がる素振りも見せず、なんでー、とか、どこに行くのー、と、むしろ興味津々で話を聞いていた。

 「この背の高いかっこいいお姉ちゃんが車で連れて行ってくれるからね」

 担当の保育士の顔を見て、またすぐに千恵子に向き直り、保育園には行けなくなるのかと聞いた。

 こんなに小さいのに、大人に気をつかっているのが切なかった。やっぱりこの子の保護は間違っていないのだと千恵子は確信した。

 夕方になって保育園にやって来た母親は予想どおり激しい怒りをぶちまけた。千恵子につかみかからんばかりの勢いで罵った。そのあいだ園長と保育士は、母親の立場に立ったり、千恵子の言うことに納得したり、とにかく中立であることに努めた。それは前もって千恵子がそうしたほうがよいとアドバイスしておいたからだ。母親の側に立ちすぎては今回の行動に筋が通らなくなる。しかしかと言って3対1で向き合ってしまえば、味方がいないという精神的圧力が加わり、暴力的な行動にエスカレートしてしまう可能性がある。引いてはそれが子供への憎しみになってしまう。

 母親は、子供を返せ、の一点張りだった。

 千恵子はあくまで冷静に、子供の保護は子供のためでもあり、両親のためでもあるのだということを説明した。

 話が平行線と見るや、母親はその場で電話をかけはじめた。しばらく小声で話していたかと思ったら、千恵子に携帯電話を差し出した。出ると、巻き舌の男の声が耳のなかを引っ掻くように響いた。さんざん罵倒されて、母親に電話を戻すと、ひそひそ会話をしていた母親が急に千恵子を振り返り、いまから取り戻しに行く、とヒステリックな声を上げた。そしてまた電話を耳に当て、しばらくすると外し、今日返さなかったら訴える、と千恵子を睨みながら言った。父親にそう言えと命令されているようだった。

 母親が帰った後、憔悴しきった園長と保育士にタクシーを呼んでもらい、車を待つあいだに山中に電話をした。

 布施杏が無事に男の子を保護して戻ってきたこと、一時保護所に預ける手続きが完了したことを確認した。そして千恵子からは、男の子の両親が児童相談所にいまから行くと言っているので、応対をお願いした。これから急いで戻るということと、布施杏も同席させてほしいということを付け加えた。

 どれだけ子供のため家庭のためと思ってやっても、すぐさまそれを踏みにじられるような母親や父親からの罵詈雑言は、いくら経験を積んでいても堪えるものだ。しかし、今日はいつもに比べてどんどん体の奥底から力が湧いてくるような不思議な感覚があった。特別に何かいいことがあったとか体調がすこぶる良いとかいうことはない。思い当たることと言えば、配属されて来たばかりの若い布施杏の存在だった。彼女が千恵子の足元を支えてくれているような感じがした。ひとりではない――それは、どこか懐かしさを伴う感情だった。

 千恵子は保育園からずいぶん離れたところにある最寄り駅までタクシーの後部座席で揺られながら、わたしは親子ほども年の離れているあの子に何を期待しているのだろうと思った。


 「大変な一日だったわね。本当におつかれさま」

 一人残ってデスクで作業をしてる布施杏に、千恵子は声をかけた。

 午前中に職権保護をした5歳の女の子の両親と親戚が、異議を唱えに夕方になって大挙して児童相談所に押しかけてきた。千恵子と山中は外出中だったため、布施杏がひとりで応対した。

 彼女がこの地方都市の児童相談所に来てから二週間近くが経とうとしていた。千恵子や山中だけではなく、誰もが認めるワーカーとして、この短いあいだに布施杏はもはやなくてはならない存在となっていた。

 「この時間にしては誰もいないなんてめずらしいわね」

 千恵子はガランとした事務所を見回して言った。

 事務所の壁に掛かった丸い時計の針が、8時50分を指していた。

 「それにしても――」と千恵子は疲れを滲ませながら自分のデスクの席に着いた。「どうして一日ってこんなに経つのが早いのかしらね。わたしも歳をとるはずだわ」

 千恵子がおどけて言うと、布施杏がパソコンの画面から顔を上げた。

 「失礼ですけど、課長はおいくつなんですか?」

 「あら、それ聞いちゃう?」

 「すみません」

 冗談めかして言った千恵子に、布施杏は真剣な表情を崩さなかった。千恵子はその眼差しに一瞬怯んだが、彼女もきっと疲れているのだろうと思った。無理もない。いくら優秀とはいえ、まだ大学を出たばかりなのだ。

 「46になりました」

 おーやだやだ、と言いながらメールのチェックをした。すぐにパソコンのキーボードを打つ音が千恵子の手元からリズミカルに聞こえてきた。

 「あの、課長」

 「いい加減もう名前でいいわよ。課長なんて呼ぶの布施さんだけよ」

 千恵子は笑った。

 布施杏の沈黙をパチパチという千恵子のキーボードの音が埋めていった。

 「八雲さんでも千恵子さんでも何でも言いやすい呼び方で構わないわよ。そう言えばわたしね、若い頃だけど、八ちゃんって呼ばれてたことあったのよ」

 「やっちゃん……」

 「そう」

 パチパチ……パチパチ……。

 「あの……」

 「どうしたの?」

 千恵子は手を止めて、心配そうに布施杏を見た。

 「わたしのこと、おぼえていませんか?」

 千恵子の視界が突然ぎゅっと狭まった。

 「え?」

  布施杏がつづけた。

 「わたし、虐待されていたんです。母の再婚相手から。ずっと小さい頃のことなんですけど、忘れたくても忘れられないんです。怖かったことやどうしたら許してもらえるのだろうって追い詰められていたこと、そういう感情はいまでもはっきりと残っているんです。体のなかに」

 そう言って、胸の前で苦しそうに両手を握った。

 千恵子は自分のデスクを離れて、布施杏の隣の椅子に座り、彼女に膝を寄せた。

 「毎日毎日怯えて暮らしていました。母はわたしよりもひどい状態になっていきました。限界でした。それで、自分がどうしてそこにいたのかはわからないのですが、瞬間移動でもしたみたいに夜の公園のブランコにひとりで座っていました。そしたらそこに、変わった男の人がやって来て、わたしに声をかけました。不思議とその人に対してまったく怖いという気持ちはわきませんでした。だからやっぱり夢なのかなと思いました。でも、夢じゃありませんでした。わたしは笑っていたんです。その人と一緒にいると、なんだかとっても楽しい気持ちになったんです。この気持ちは夢なんかじゃなくて、ちゃんと現実のものなんだとわかりました。同時に、はじめて会ったその男の人が、わたしの味方だということも」

 布施杏が千恵子を見つめた。千恵子は込み上げてくる感情の塊を必死に抑えていた。

 「それからわたしは怖くてたまらない地獄のような毎日のなかで、もうどうにもならないと思ったときに一度、夜中にこっそり家を抜け出して、自分の意思でその公園に行きました。するとまた、その男の人が走ってわたしを助けに来てくれたんです。黄色い頭をしたその人は、こう呼ばれていました」

 ドクン……千恵子の鼓動が大きく速く打った。

 「てっちゃん」

 布施杏は深呼吸をした。

 「てっちゃん。そう呼ばれていました。そしてその人をそんなふうに呼ぶ声はいつも優しい女の人の声でした。わたしはその女の人のあたたかい春の陽射しのようなやわらかい声をはっきりとおぼえています。その女の人のことを、てっちゃんと呼ばれていた男の人は、『やっちゃん』と呼んでいました。ふたりのお互いを呼び合う、甘えるような、自分のすべてを捧げているような、無垢な響きがわたしのなかから消えたことはありません」

 千恵子の瞳から涙が溢れ、止まらなかった。

 「八雲さんは、あのときの女性なのではないかと、この児童相談所に配属されてはじめて会ったときにその声を聞いて、直感的に思いました」

 「杏ちゃん……」

 長い年月を交換し合うように、二人は手を握り合ったまま涙を流した。

 鉄之介のあの出来事をテレビで知った千恵子は、騒ぎ立てるマスコミをよそに、鉄之介の行動の正しさと愚かしさのすべてを理解できるのは自分だけだと思った。彼の助けになりたいと心から思ったが、会いに行く勇気はなかった。代わりに、と言っては変だが、児童福祉司を本気で目指す覚悟がそのときにできた。

 あれから19年が経って、たどたどしい杏の記憶で聞かされた一連の鉄之介の行動が、自分のなかの鉄之介と寸分の狂いもなくぴたりと一致した。彼をずっと信じてきた自分と、それをきっかけに児童福祉司になり多くの子供たちと向き合ってきた自分の人生を、このとき、鉄之介に褒められたような気がした。

 さすが八ちゃん――。

 杏が、立派な女性になっていることに改めて胸がいっぱいになった。鉄之介がこの、目の前にいる杏を見たらなんと言うだろう。

 「あのことがきっかけで母は離婚できました。わたしは元々の母の姓であった布施を名乗り、千葉県にある母の実家で母娘二人なんとかやっていきました。わたしが児童福祉司を目指したのは、もちろんわたしのような子供をひとりでも多く救いたいという思いがあったのは間違いありません。けれど、本当に本当の根っこにあったのは、わたしがわたしのような子供に向き合いつづけている限り、いつかどこかであの人たちに会えるのではないかと思ったからです。だから、びっくりしました。課長の声を聞いたときは。いきなり、やっちゃんがいる!って。信じられませんでした」

 杏は笑った。

 「杏は笑うと口がハートのかたちになるんだぜって、鉄ちゃんがよく自慢してた」

 事務所の壁にかかった時計の針が9時25分をまわろうとしていた。

 鉄之介はどこで何をしているのだろう――。

 何となく二人で同時に時計を見た。

 長い針がゆっくりと動いた。

 そのときだった。突然大きな揺れに襲われた。キャビネットが倒れかかり、何かが割れる音がそこかしこから響いた。千恵子と杏はとっさにデスクの下に潜り込み、抱き合って揺れがおさまるのをじっと待った。

 しばらくしてサイレンの音が何重にも取り囲んだ。おそるおそるデスクの下から出てきて見た事務所は、嵐でも通ったあとのように一変していた。

 子供たち――千恵子と杏は一時保護所に向けて同時に駆け出していた。

 

 


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