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(1)軽ワゴン (2)公園

(1)軽ワゴン


 あっけないほど彼はかんたんに見つかった。

 石巻で活動するボランティア団体「陽だまりこども園」をホームページで検索し、だいたいのあたりをつけて行ってみた。

 石巻を訪れるのははじめてだった。

 海岸線にうず高く積み上げられた瓦礫がまるで堤防のように延々つづいているのが皮肉に思えた。そう思った瞬間、口にしてしまってすぐに後悔するときみたいに胸がチクリと痛んだ。

 瓦礫と道路のあいだの広大な空間にはわずかばかりの建物がポツポツと残っているだけだった。震災から2年が経って、東京で暮らす私にはいくぶんかすれかかっていたあのときの恐怖が上書きされてぶり返した。

 仮設住宅の並ぶ真新しいアスファルトの上で、子供たちの底抜けに明るい笑い声が響いていた。思わず不謹慎なものでも見たときのようにあたりをきょろきょろうかがったのは、私が他所からやって来た人間で、ここで生活する人たちのことを何も知らないからだとあとで思い知った。

 どこの国やどんな地域でも共通の、ころころした子供たちの笑い声の中心に、彼はいた。


        *


 「誰もが光る才能をひとつは秘めている。さあ、みんなが主役」――低音の渋い男性の声につづき企業名のコーラスが流れる途中でカーラジオの音はカーナビのアナウンスにかき消された。

 最寄り駅まで乗せてくれた編集者に締切りの念を押されながら助手席のドアを閉めた。

 心臓が妙なリズムを刻み、口のなかがカラカラに乾いた。さっきまで感じていた空腹はどこかへ消えてしまった。

 もういい加減聞き飽きた編集者によるネット時代における出版事業のあるべき姿云々という御託に相槌を打ちながら、惰性でついているだけのFMラジオに逃げ場を求めて耳を傾けているときだった。道路交通法の改正で高まる無謀運転の罰則強化に対する是非を巡って男性パーソナリティーが専門家に意見を求めたり、アヴィーチーの「ヘイ・ブラザー」がかかったりしていたなか、震災後にさまざまな活動をつづける団体や人物を取り上げるコーナーで、突然忘れられない声が流れた。車を運転する編集者に、ばれるはずもない気の動転を悟られないよう、私は全身を耳にして寝たふりをした。

 「三島さん」とパーソナリティーは彼を呼んだ。私の知っている男も三島という苗字だった。震災後から、石巻で行っている彼のボランティアは子供たちを笑わすことだと言って、パーソナリティーの大げさな関心を引いていた。

 「まったく知られてない市井のモノマネ芸人なんすよね」

 語尾がすこし投げやりになるしゃべりかたも昔のままだった。

 湿っていた導火線に急に火がついて、16年前感じた怒りと憎しみと蔑みが私のなかに広がっていった。かつてのようにすべてを焼き尽くしてもなお燃え盛ったまま消えることはないと思われていた炎は、しかしすぐに勢いをなくし、私はなぜか息苦しさとともに目を開けた。片側3車線の広い道路が光って見えた。サイドミラーの隅にいる私と目が合って、けれどそれは、手を伸ばしても触れられそうにないほど遠くにあった。

 編集者はまだひとりでしゃべりつづけていた。

 私はこの16年間、いったい何をやっていたのだろう――おそるおそる振り返った私の心の目に映ったものは、しかし、私ではなく彼の姿だった。

 あのとき彼に何があったのだろう? それをまだ彼の口から聞いていないことに改めて気づいた。


        *


 石巻を拠点に日本全国どこへでもこいつでボランティアに行くんだと言って、彼はスズキeveryのルーフをぴしゃりと叩いた。まるで漫才コンビのツッコミみたいに。

 「おれの人生で一番高い買い物がこいつ。中古だけど」

 子供たち相手のオンステージだけでなく、瓦礫の撤去や仮設住宅での暮らしのサポートなど、彼の一日はめまぐるしかった。夜になり、彼は私を自慢の相方のなかへ誘った。足元にペットボトルが転がっていたり、衣類が丸まって放置されていたり、狭い軽ワゴンに彼の生活がそっくりそのままあった。

 私が聞くよりも先に、彼はあのときのことを話し出した。

 一日で帰るつもりが、気づけば三日経ち、一週間経ち、苦手な肉体労働を手伝いながら、夜になればまた彼の話を聞いた。話は私と彼が出会った頃に飛んだり、いまの活動に及んだり、てんでばらばらだった。しかし彼は何かに憑かれたように話すのをやめなかった。同じように私も、彼の脈絡のない話を聞くのに夢中になった。興味のない雑文を書く仕事よりも、彼の話を聞くことのほうが何十倍も意味のあることに思えた。

 私は彼の目線でもう一度あのときに至るまでの短い期間を生き直す必要があるのではないかと思った。そうすることで、私自身が失ってしまった何かを取り戻せるのではないか――。

 私は東京へ帰ってパソコンの画面に向かった。

 はじめて書きたい言葉を打ち込むキーボードの音が心地よかった。




 (2)公園


 おれは誰になれるんだろう?

 三島鉄之介はオレンジの街灯に照らされた線路沿いの道を歩きながら考えた。

 阿佐ヶ谷から鉄之介が住んでいる東中野の借家まではだいたい5キロほどの道のりで、万年金欠の若手芸人にとってそれくらい歩くのは何ら苦にならない距離だ。しかも事務所主催ライブの打ち上げで腹もそこそこ満たされている。コンディションは申し分ない。ただし、先輩芸人に強烈なダメ出しをされたばかりでメンタルはズタズタだった。

 隣では、頭ひとつ分ほども背の高い同期の泉北ツカサがぼそぼそとした関西弁でしゃべりつづけている。ついさっきまで鉄之介をこき下ろした先輩芸人の悪口だったのが、いつの間にかこの年――1997年の夏に開催される野外ロックフェスティバルの話になっていて、レッチリだのマッシヴだの言いながらひとりで興奮している。

 うるせーな。小さく舌打ちをして、鉄之介はぼんやり空を見上げた。一日中どんよりして雨を降らせていた6月の空が、気まぐれに開けて頭上に月が浮かんでいた。

 「はん。ジンライムのようなお月様っちゅーやっちゃ」

 RCサクセションの「雨上がりの夜空に」の歌詞と、いま浮かんでいる月のかたちや色が符合しているということをツカサが言いたいのはわかったが、鉄之介は無視した。

 「せやけど、ジンライムのようなお月様っておかしないか? ジンライムっちゅーのはカクテル自体を指すやんか。正確に言うんやったら、ジンライムに入ってるカットしたライムのようなお月様〜、やろ」

 お月様の「様」の部分を清志郎ふうに言ったのにイラっときた。それでつい鉄之介は、「雰囲気でわかんだろうが」と噛みついてしまった。

 「やっぱ鉄はツッコミのセンスないわ。ワードのチョイスもいまいちやし、間も悪すぎる。こんだけポカンとした間あいたらお客さん不安になるで」

 ただでさえ落ちこんでいるところに、よくも傷に塩を塗り込むような真似ができるものだと鉄之介は呆れた。養成所で知り合った昔から変わっていないツカサのこういうところ――空気の読めなさというか無神経すぎるところをまわりの芸人連中も毛嫌いしていて、だからいつも浮いていた。鉄之介も特段仲がいいというわけではなかったが、打ち上げの流れから一緒に帰ることになってしまった。   

 鉄之介やツカサが所属している阿佐ヶ谷芸能新社は、もともと不動産関係で成功した成金が、趣味の演芸鑑賞の延長で十五年ほど前に設立した会社だ。誰が言い出したのか、自然とそうなったのか、芸能関係者からアサゲイと呼ばれていて、老舗芸能ゴシップ誌と同じ通称を持つことで、芸能界におけるアウトサイダー的な立ち位置をうまく表していた。

 

 この日のライブは、そのアサゲイが本業を生かして借り上げている、阿佐ヶ谷の商店街のなかほどにある地下のスペースで行われた。表向きにはビルの名前から取って「長谷川ビーワン劇場」というたいそうな名称が付けられていたが、誰もそんな正式名で呼んだりする者はいなかった。いつからか芸人たちはそこを「部室」と呼んでいた。

 ぎゅうぎゅうに人が入っても50人くらいの空間は、それでもいっぱいになることはまれで、芸人にとっても客にとっても過酷な環境だった。売れている芸人とまではいかずとも、せめて大手事務所の若手がそんな極小の空間に出ているというのなら、将来の投資のしがいもあって先物買いの業界人や客なんかが集まるのだろうが、出演者は揃いも揃ってさっぱり売れる見込みのない弱小事務所の不良物件のような若手ばかりだったから、そこで何かが生まれる余地はないに等しかった。

 出演者の友達やその友達に連れて来られたやつ、「ぴあ」か何かを見て間違ったアンテナを立てて来てしまったやつ、そんなやつらが数人とか多いときでも20人くらいしかいない空間は、しかし奇妙な連帯感が生まれるのか、けっこうウケた。客からすれば、きっと何でもいいから笑わなければ見ている自分たちがみじめに思えてくるからだろう。大半の芸人はそれに満足していた。身内笑いとも種類の異なる奇妙な引きつり笑いがベタベタ張り付く正方形のそこは、自分たち同士で芸人と呼び合うだけで気持ちよくなっている若者(もはやそう呼べない者もゴロゴロいたが)を甘やかすだけ甘やかして、結局そこから大成する者を誰ひとり出さない、まさに弱小運動部の部室そのものの腐臭を放っているのだった。

 「だからな鉄、おまえのネタは甘いし古いんだよ。いや、ネタ以前の問題だ。うん。モノマネやってんだったらさ、もっときちんと対象をとらえないと。うん。そいつになりきらないと。うん。おまえのを見てるとさ、おまえにしか見えないんだよ」

 6人掛けのテーブルをふたつくっつけて酒を飲んでいるのは、部室でのライブを終えたアサゲイの売れない芸人たちで、人数の割に出ている料理が少ないのは、この日の客の入りがいつもどおりだったということだ。

 部室でのライブがはねて落ち着く場所は、決まって「ジェイソン&アリス」だった。同じ商店街の目と鼻の先にある居酒屋で、しかも大将夫婦が元アサゲイに所属していた男女コンビという気安さからいつもそこ一択だった。

 店名になっているジェイソン&アリスというのは大将の神崎久信とおかみの由美がかつて組んでいたコントユニットの名前だ。言うまでもなく、映画「13日の金曜日」のジェイソンとヒロインのアリスにちなんだコンビ名なのだが、ちなみすぎて、ネタまで映画の世界観を引きずり、結果、映画以上に悲惨な末路を辿った。生意気なアメリカンギャルのアリスに扮した由美のボケに、アイスホッケーマスクをした神崎のウォーというくぐもったツッコミというか奇声がワンセットで繰り広げられるショートコントは、会場をさながら地獄に変えた。しかし、地獄のようにつまらないという点で、あるいはネタとしてよくできていたのではないか、「13日の金曜日」だけに、とツカサなんかは真面目くさって分析めいたことを言ったりしていたが、おもしろくなければそれでジ・エンドだ。

 そんな二人が一念発起してはじめた店が、ジェイソンの世界観など微塵も感じられない、入り口に縄のれんがかかるような和風で陽気な居酒屋なのだった。

 「鉄、おまえもう何年目だ」

 「9年目す」

 「9年目にもなって部室を凍らせてたんじゃやべーよ。うん。なんださっきの?」

 酒の飲めないしらふの鉄之介に絡んでいるのは、ファイナルジャッジというコンビのツッコミ、盛田だ。鉄之介より一年先輩にすぎない彼が、ここ最近後輩と見るやとたんにダメ出しを浴びせかけるようになったのには理由があった。

 深夜で人気を誇っている突撃系バラエティー番組の新企画のオーディションにファイナルジャッジが通ったのだ。この番組からブレイクした無名コンビは多く、若手芸人なら誰もが憧れる成功への近道だった。来月からいよいよ収録がはじまるというので、とくに盛田はもう売れたかのように有頂天になっていた。

 「おまえ、9年目でそのポジションはやべーよ、マジで。うん。いやおれもおまえくらいのときはさ――」

 いつの間にかまわりの芸人みんながそれぞれの会話をやめ、盛田と鉄之介のやり取りに耳をそばだてていた。そしていっせいに「おまえの9年目は去年だよ!」というツッコミを心のなかで入れた。

 「たしかに苦しんでたよ。うん。でもな、ぜってー売れてやるってネタを磨きつづけてたんだよ。うん。ネタ書いてはボツにして、書いてはボツにしてさ」

 おまえはネタ書いてねえだろうが! 誰よりも盛田の相方の浦添が素早く鋭いツッコミを入れた。心のなかで。

 「おまえはそこまでやってるか? 金髪ボウズはカッコいいけどさ。うん。見た目じゃお笑いはできないぜ」

 番組が決まった瞬間茶髪にしたの誰だよ、このてっぺんハゲ!

 「おもしろくてなんぼなんだからよ、この世界は。うん。だいたいモノマネっていまの時代どうなの? 需要あんの? モノマネ四天王とかって笑うの子供だけじゃん? モノマネなんて――」

 鉄之介の口の端が不自然にぐにゃりと持ち上がった。鉄之介がキレる、誰もがそう思った瞬間、のんびりした関西弁が割って入った。

 「せやけど、ファイナルジャッジいっこもオモロないですやん」

 ツカサが度のきつい黒縁メガネのブリッジを人差し指で上げながら何食わぬ顔でまわりを見回した。みんなもそう思うだろう? 同意を求めるように。

 一瞬フリーズした空気は、盛田の酔い混じりの「あーん?」という威嚇で、すぐに険悪なムードを漂わせはじめた。そこですかさずフリマくんという名前のピン芸人が、「バックします。ピピーピピー」と大型車のバックシフトに入れたときの音声を真似するやいなや椅子ごと後ろに豪快に倒れるという起死回生のギャグをぶちかまし、不穏な雰囲気はなんとか収束する方向に不時着した、かに見えた。

 「だって今日のライブの小鼻をムンズホンズっちゅーボケかってあれ、シャワーオーシャンのパクリでしょう? ちゃいます? 大阪の若手コンビのネタやからちょっといじってこっちでやっても誰も知らんやろうっちゅーのは、さすがにルール違反ですわ。しかもコンビでボケるから伝わるオモロさやのにオーソドックスすぎるツッコミ入れてもうたらもう台無しですやん。それ、アレンジしたつもりなんやったら逆効果もええとこですわ」 

 ツカサが台本でも読むような調子でボソボソ言い連ねた。

 それにはさすがにファイナルジャッジのネタを書いているボケ担当の浦添が立ち上がった。そこへ、大将の神崎が「おまえら他のお客さんの迷惑になるからもう出てけ! なあに椅子ごとぶっ倒れてんだこのバカ!」と一喝した。

 いつもよりかなり早めの解散となった。


 しかし――と、鉄之介はまっすぐ先の方まで延びる線路にぼんやり視線を這わせながら思った。

 盛田が調子に乗っているのは癪にさわるが、あいつの言っていることもあながち間違ってはいない。高校を出てアサゲイの養成所に入って芸人になり9年が経とうとしていた。これまでテレビに出た尺を数えたら5分にも満たないだろう。獲得した笑いの音量を足し上げたら何デシベルになるのか、想像はつかないが想像したくもない。週1回の部室での事務所ライブに、たまに入る地方の営業仕事がメインの鉄之介の月給は、手取りで5万もあればいいほうだった。

 27歳にして月給5万。盛田じゃなくとも一言物申したくなるというものだ。どうするんだよ、と鉄之介は自分に弱々しいツッコミを入れた。

 いやいや――。しかしすぐに奮い立たせるように鉄之介は思った。まだあきらめてる場合じゃない。きっと。

 「おまえようキレへんかったな?」

 並んで歩くツカサがポツリと言った。

 「ああ……」

 なんとなくその先の言葉を濁しながら、鉄之介はツカサが自分を擁護してくれたことを思い出した。

 「さっきのジンライムのくだりあったやろ? あれじつはな、ダウンタウンの初期の漫才ネタのパクリやねんか。オリジナルはな、カモシカのような足ゆうてな――」

 お笑いオタクを自認するツカサのライナーノーツみたいなしゃべりが、ダウンタウンというビッグネームを引き合いに出したことで熱を帯びはじめていった。止まらないツカサの話をほとんど聞き流しながら鉄之介は確信した。べつに擁護してくれたわけではなかったのだと。ただファイナルジャッジのネタがお笑いオタクとして許せなかっただけなのだ。さっきはありがとう、そう言いかけて寸止めできた自分を褒めた。

「ファイナルジャッジのパクリは悪質や。同時代のコンビのネタをいかにも自分らあのもんのようにちょっぴりアレンジしとる。しかもオモんない方向で。罪やな、はっきり言うて。でもおれのはオマージュや。わかるやろ? その違い」

「おめえ高円寺だろ?」

 放っておいたらこのまま東中野までついてきそうなツカサに鉄之介はやや突き放すように言った。

 二人は高円寺駅の北口広場の前で足を止めた。まだ電車の動いている時間だけあって、駅前は仕事帰りのサラリーマンやOL、ギターケースを肩から掛けたバンドマンや酔っ払いであふれていた。そこに売れていないお笑い芸人が二人混ざったところで、もちろん誰も気にしやしない。パクリとオマージュの違いがここにいる人たちにとってどうでもいいように。

 「ほんまや、ほな行くわ」

 「じゃあな」

 「なあ鉄……」

 歩きかけた鉄之介の背中にツカサは声をかけた。声のトーンと間から、ただならぬものを感じて鉄之介は身構えた。おい、おれは落ち込んだりしてたけど、てめえに励まされたりするほど安かねえからな。やめろよ、絶対にやめろよ――。

 「フジロックフェスティバル、一緒に行かへん?」

 「そっちかよ!」

 「ええ! どっち?」

 二人はお互いの顔を見合わせた。時間差で起こった笑いが止まらなかった。

 「ツッコミのセンスない言うたん取り消すわ」

 「うるせーよ、いまさら」

 深夜に差し掛かった時間に腹を抱えて爆笑する二人は、行き交う人々の目の端にちらりとだけ留まり、そしてまたすぐに消えていった。

 「さっき話したやんか。日本ではじめての大型ロックフェスティバルやで。レッチリくるわマッシヴアタックくるわ、レイジもやで。あとおまえの最重要モノマネレパートリーのヒロトもな」

 「ハイロウズも出んの?」

 食いついた鉄之介にツカサは自信たっぷりうなずいた。まるで自分がブッキングしたとでもいうように。

 「せやから一緒に行こうや。大阪のときのツレがな、車で向かう言うてるから、途中で合流して乗っけて行ってもらえんねん」

 「へー」

 鉄之介は目を輝かせてツカサの話に身を乗り出した。しかし次の瞬間、目の前にカーテンが引かれるように、それまで眩しかった話は色を失った。

 「おまえの実家、富士山のへんやったやろ? そこで落ち合おうや。大阪のツレにも言うとくさかい」

 「おれはパスだわ。じゃあな」

 「なんでやねん」

 「そんなもんに行く金ねえよ」

 食い下がるツカサを振り切るように鉄之介は歩き出した。

 ツカサはハイロウズの「相談天国」のサビ、相談しようそうしようの部分を突然大声で歌いだした。今度は誰もがじっとりと奇異な視線を投げかけて通り過ぎて行った。

 無視して遠ざかって行く鉄之介の耳に、ツカサの「相談しようそうしよう」という歌声がすこしずつフェイドアウトしていきながら、しかしいつまでもしつこく消えなかった。

 「うるせー!」

 我慢できずに鉄之介は振り返って叫んだ。

 すぐ後ろを歩いていた太ったサラリーマンが鉄之介の声にびっくりして、ギャッという短い悲鳴をあげた。金髪ボウズ頭の鉄之介の風貌を見て、さらに気圧されるように、すみませんと謝った。


        *


 実家にはもう9年帰っていなかった。つまり高校を卒業してアサゲイの養成所に入ってから鉄之介は一度も親の顔を見ていなかった。電話もしなかった。帰りたいとも思わなかった。

 理由はあったが、それを考えると鉄之介は自分という人間が大人の着ぐるみを着て駄々をこねている子供のように思えてきて、自分に対してと同時に、そう思わせるものに対しても、より激しい怒りが湧き上がってくるのだった。そしてその両者の間で湧き上がる不毛な報復合戦のような感情の行ったり来たりが鉄之介を余計に実家から遠ざけた。

 一年中大砲やヘリの音がBGM代わりに重低音で鳴り響く静岡県御殿場市の自衛隊駐屯地がすぐ近くにあるところで鉄之介は生まれ育った。両親と鉄之介の三人家族。父は基礎工事を請け負う小さな会社を経営しており、豪放磊落な性格は誰からも慕われ、荒っぽい従業員に囲まれている姿はどんなプロ野球選手やJリーガーよりもカッコよく映った。鉄之介は将来、父の仕事を継ぐことが何よりの夢だった。

 しかし鉄之介が小学校6年生のとき、その父が現場の事故で亡くなった。横転したトラックの荷台から転がり落ちた重機の下敷きになったのだ。じつにあっけない死だった。それ以来、鉄之介は悪い仲間とツルむようになり、お笑い的に言えばベタにグレた。

 さらに地元の公立高校一年生のときに母が再婚をして、いきなり見知らぬおじさんが家に上がりこんできた。七三分けの銀縁メガネにひょろっとした体つき、何もかもが大好きだった父の真反対だった。そんな男を当てつけのように選んだ母に対してもそうだし、柔和な笑顔を浮かべて、鉄之介くん、なんて言ってくる男には、これが殺意なのかと合点するほどの激しい憎しみを抱いた。決定的だったのは、家の一階部分をろくに相談もなく改築してスナックを開業したことだった。それが引き金となってあまり家には寄り付かなくなった。二人して自分を否定している、そうとしか思えなかった。

 そろそろ進路を決めなければいけない高校三年の秋、バンドをやっているクラスメートが東京で買ってきたという情報誌をパラパラめくっていると、お笑いタレント養成所のモノクロ広告が目に飛び込んできた。衝動的にそのページを破り取り、トイレの個室にこもって熟読した。学費は入学金込みで50万。養成期間は1年。試験は書類審査と面接のみ。年齢制限は25歳まで。所在地は東京都杉並区阿佐ヶ谷。卒業と同時に所属タレントとして活動できる。卒業生にはこんなタレントが――といっても鉄之介が知っている名前はひとつもなかった。

 とにかく、これだと思った。お笑いのことも知らなければ、積極的に人を笑わせたこともなかったが、あの家から出ていけるのと、働かなくていいのと、なにより一年で芸能人になれるなんて夢のような話だ。記事を握りしめて、甘美で稚拙な空想に浸りながらタバコを吸っていると、激しくノックする音に我に返った。クソするところでクーソーしている場合じゃないぜ、元気にドアを開けたら目の前には生活指導の体育教師が仁王立ちしていた。

「くわえタバコで出てくるとはいい度胸だな」

 二週間の停学をいいことに、鉄之介は狂ったようにアルバイトをはじめ、春までに50万円を貯めて卒業と同時に東京へ出た。


        *


 いつもネタの練習で使っている公園に寄った。このまま帰る気にはなれなかった。

 おまえのモノマネはおまえにしか見えない。盛田に言われた言葉がフラッシュバックする。

 ちくしょううるせーな。あの野郎調子に乗りやがって。やっぱり一発ぶん殴っときゃよかったぜ。ツカサが邪魔なんかするからよ。

 鉄之介は滑り台の向こうの定位置に行こうとして、ふとブランコを見ると、そこに人影があった。

 古い住宅街の奥まった場所にあるこの公園は、手入れも何もされていない錆び付いた遊具とその足元には空き缶や吸い殻、伸びきった使用済みのコンドームなんかが落ちている荒みきった空き地で、子供のためというよりも行き場のない大人のための吹き溜まりのような場所になっていた。

 どうせ酔っ払いか何かだろう、しかし鉄之介の目に映ったシルエットは、どう見ても子供にしか見えなかった。

 腕時計を持たない鉄之介には正確な時間がわからなかったが、ジェイソン&アリスを出たのが11時くらいだったはずだ。ということはたぶんもう12時に近い。

 鉄之介はブランコに座る影に向かって目を凝らした。やはりどう見ても子供にしか見えなかった。

 近づいて見てみると女の子が一人、座っていた。

 「えーー!」

鉄之介は驚きの声をあげた。しかし女の子は何の反応も示さなかった。

 「ねえ、お父さんとお母さんは? 心配しないの? あ、そっか! 待ち合わせしてんのかな?」

 いくら喋りかけても、女の子はうつむいたまま、鉄之介の存在自体がいないもののように無視しつづけた。

 ようし、おもしれーじゃねえか。ちょうど練習しようと思ってたところだったんだ。客がいるなんておあつらえむきだよ。

 鉄之介は女の子の正面に立った。

 「はい、こんばんわー! 楽しいモノマネの時間がやってまいりましたよー……と、いうことで、えー、それではさっそくいきましょう! もしも武田鉄矢がブルーハーツのメンバーだったら! ぁドブネスミみたいにぃ、ぅ美しく……なれるわけないだろうがこんバカちんがあ! あれ? えーーーっと、あ、そう。はいはい、ちょっと難しかったかな? じゃ次はね……これどうかな。古畑任三郎vs中島らも」

 ひたすらうなりつづける古畑と虚空を睨むだけのらものセッションは、シュールすぎるという欠点もさることながら、照明のほとんどない夜中の公園では何も伝わらないに等しかった。しかも武田鉄矢よりもさらに小さな女の子向けではなかった。

 江頭2:50、甲本ヒロト、忌野清志郎、大槻ケンヂ……あまりメジャーとは言えないレパートリーに無理やりバイキンマンの「はーひふーへほー」などを挟み込んでワンマンライブさながらネタを繰り出したが、女の子は番組オーディションの関係者みたいにぴくりとも反応しなかった。しかし不思議なのは、嫌なら逃げればいいものを、そこを微動だにしないことだった。

 本当に親を待っているのかもしれないなと鉄之介は思った。それは十分に考えられた。というか、それ以外にはありえないだろう。とは言え、こんな夜中に外で小さな女の子をひとりにもしておけないので、鉄之介はまったくウケなかったバツの悪さを引きずりながら隣のブランコに腰を下ろした。

 錆び付いたブランコの軋む音が、気まずい咳払いみたいに聞こえた。

 どれくらい時間が経っただろう。風俗で働いているにしても遅すぎやしないか? いや、風俗って決めつけるのは偏見だろう。夜中のパン工場かもしれないし。鉄之介はだんだん女の子と二人でいるのが不安になってきた。

 「だいじょうぶだあ」

 女の子に向かってか、自分に向かってかはわからなかったが、思わず志村けんの声音でつぶやいていた。

 んふふ……。

 え! いま笑った?

 鉄之介は隣の女の子を見た。女の子は変わらずうつむいてブランコに座っていた。

 「だいじょうぶだあ」

 今度はもっと強調してやってみた。すると、女の子の肩がかすかに揺れたのがわかった。

 鉄之介はブランコをスイングさせながら、「だ〜いじょうぶだあ〜」と言ってから、ジャンプして着地した拍子に「うぇ、うぉ、うぁ」とへんな動きをつけてやった。女の子の笑い顔がはっきりと見えた。

 やった! やったぜ! 

 そのあたりに落ちていた空き缶を握って、ブランコの前にある鉄柵に打ちつけリズムをとりながら、何度も何度も「だいじょうぶだあ〜、うぇ、うぉ、うぁ」を繰り返した。

 やっぱすげえわ、しむけん。ガキの頃のおれも、この子もおんなじように笑わせられるんだから。

 「ねえ」鉄之介は女の子の前にあぐらをかいて座った。「お母さんここで待ってろって言ったの?」

 女の子は首を横に振った。柔らかい肩までの髪の毛先がふわりと浮かんだ。

 「え、じゃあさ、一人なの?」

 女の子はうなずいた。

 「誰も迎えに来ないの?」

 またうなずいた。

 「よし」鉄之介は立ち上がると、言った。「いまからさ、おれのとこおいでよ」


 東中野の商店街を抜け、都道を越えてさらに行ったごちゃごちゃした住宅街の一角に、そこだけ昭和で止まったままの木造平屋の家がある。家というか小屋に近いそれは、火事で奇跡的に焼け出されたあとみたいに黒く変色しており、近所の小学生男子数人が見たまんま、「黒こげハウス」と呼んで、やれ黒人が住んでいるのを見たとか、夜中に女の人の悲鳴が聞こえたとか、あることないこと噂し合っているのを鉄之介は耳に挟んだことがあった。

 そこで鉄之介は来るべき有事に備えておいた。はたしていよいよ、下世話な興味丸出しの小さな集団がやって来た昼下がり,アサゲイの備品から拝借したティアドロップのサングラスと白タイツ、それに自分で用意した白のランニングシャツを装着し、あまり似ていない鈴木雅之のモノマネで「ランナウェイ」を熱唱しながら躍り出た。小学生は「うわーっ」とマンガみたいな悲鳴をあげながら走り去っていった。黒人が住んでいるという噂に引っ掛けてマーチン率いるシャネルズのモノマネをしたわけだが、よくよく鏡で自分の姿を見てみたら、マーチンというよりフレディ・マーキュリーだった。それは怖いかもしれないと小学生男子たちにちょっぴり同情した。

 鉄之介は同い歳の恋人、八雲千恵子とそこで暮らしていた。六畳と四畳半が襖で仕切られただけの間取りに奇跡的に水洗トイレと風呂が付いて4万8000円。築40年にしても、たとえ事故物件だったとしても格安だった。

 

「鉄ちゃん、犬や猫じゃないんだからね」

 千恵子は小声で鉄之介に詰め寄った。

 「でもさあ八ちゃん」

鉄之介は千恵子のことを八ちゃんと呼んでいた。

「夜中の十二時過ぎてひとりで公園にいたんだぜ。そのまま放っておくわけにはいかないだろう? 嫌がらずについてきたんだし」

 千恵子は鉄之介の軽はずみな行動に呆れながら、一方で彼が言うことももっともだと思わずにはいられなかった。

 「ねえ、お年はいくつかな?」

 千恵子がやさしく話しかけても、畳の上に敷いたペイズリー柄の絨毯の上にちょこんと座ったまま、女の子は無表情で何の反応も示さなかった。まるで魔法にかけられて老婆にされたみたいだと、鉄之介は明るい部屋で改めて女の子を見て思った。

 「とにかく風呂入れてくるわ」そう言うと鉄之介は千恵子に耳打ちした。「ちょっとにおうんだよな」

 「ようし! お風呂いこっか。あ、そうだ! その前に。八ちゃん、ちょっと見ときなよ。いくぜ、せーの」鉄之介はTシャツを脱いだ拍子に顔を出すと「だいじょうぶだあ」と志村けんの真似をした。それまで抜け殻みたいな表情だった女の子の顔にかすかな笑みが浮かんだ。

 「すげえだろ。おれのギャグだと笑うんだぜ」

 「志村けんのギャグでしょ」

 「じゃあさ、八ちゃんやってみてよ」

 「え、何を?」

 「だいじょうぶだあ、だよ」

 「嫌よ」

 千恵子は笑いながら鉄之介の肩を軽く叩いた。でも、そうね、と思い直して「だいじょうぶだあ」とやってみた。モノマネというよりも保育園の先生が園児をあやすみたいな感じだった。

 「ほら! ほらほらほら。やっぱおれのじゃないと笑わないんだよ。な?」

 「おかしいわね」首をひねりながら千恵子がムキになって何度やっても結果は同じだった。

 そこで鉄之介が「だいじょうぶだあ」、人語が話せるヤギみたいな声音で言うと、女の子は少し声を出して笑った。

 「八ちゃん、ウケない芸人の気持ち、ちょっとわかっちゃったんじゃないの?」

 茶化すように鉄之介が言った。すると、

 「そうね。すこしだけ世界に追いていかれる感じがする」

 千恵子の真顔と芯を食いすぎた表現に、鉄之介はついさっきまでけちょんけちょんに説教されていたことを思い出してそそくさと部屋を出て行った。

 鉄之介は風呂場の薄っぺらい扉を開けて女の子になかを見せた。

 「こんな木だらけの風呂見たことないだろ? 昨日までエノキみたいなのがそのへんから生えてたんだぜ。そうだまた2、3日すれば生えてくるからさ、きのこ狩りしようか。食べたら元気になるかもよ、スーパーマリオじゃあ〜」

 鉄之介はふざけながら女の子の着ていた長袖のワンピースを脱がせようとした。しかし女の子は抵抗した。こんなに感情を表に出したのはこれがはじめてだった。きっと恥ずかしいのだろうと思った。

 「八ちゃん、八ちゃん」

 鉄之介は千恵子を呼んだ。

 しかし千恵子でも同じだった。やさしく促しても女の子は体を硬くして首を横に振りつづけた。

 「わかった。おれが見てたら恥ずかしいもんな。じゃあお風呂は女同士で入るか。八ちゃん悪いね。また入ることになっちゃって」

 鉄之介は千恵子に任せて部屋で待つことにした。

 「鉄ちゃん! 鉄ちゃん!」

 しばらくして、千恵子の悲鳴にも似た声が響いた。

 鉄之介は驚いて風呂場に行った。

 裸になった女の子の体を見て息を飲んだ。

 女の子の体には無数の痣があった。とくにひどかったのは、背中からおしりにかけて、鞭か何かで打たれたのか、おぞましい爬虫類にも似たかたちと色をした痣だった。他にも肩のあたりが赤黒くなっていたり、胸のあたりにも何かを押し付けられような跡があった。小さな体が負うにはあまりにも残酷すぎるそれらの痣が訴えるものを前に、どんな言葉も感情もかたちをなさなかった。見るに堪えない傷跡のかたちと色は、そのまま女の子のなかに広がる闇の深さとつながっているような気がした。

 女の子は自分が悪いことでもしたように泣きそうな顔をして立っていた。

 鉄之介はその場に自分の服を脱ぎ捨てて裸になると、女の子を抱きしめて「だいじょうぶだあ」と針が飛んだレコードみたいに繰り返した。千恵子もその姿を見るや、衝動的に着ていた寝間着と下着を脱いで素っ裸になり、鉄之介と挟むようにして女の子を抱きしめた。



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