二話(2)
少女は『音』が好きだ。
初恋の音は母親の心音。トクンッ、トクンッ、と、抱き締めてくれた母から聞こえる規則的な音。
側にいることを確かなものにしてくれる安心できる音だ。
少女が自身の特異性に気付いたのは幼少の頃。
キッカケは当時、少女が慕っていた友人の吐いた一つの『嘘』。
内容は下らないモノだ。
大切な用事が出来たから遊べない。実際は他の友人と遊んでいた。その程度の事だ。
だが、少女はソレを知っていた。
その言葉が嘘だと気付いていたのだ。少女の大好きな『音』によって。
人は嘘をつくとき、少なからず動揺や罪悪感、または緊張から……心拍数が上がる。それだけならば運動後も同じく上がる。
だが少女には、その二つの違いが……わかったのだ。離れていても聞こえる。
他人よりも耳が良い。
少女のソレはそんなレベルの話じゃなかった。
集中すれば、筋繊維の軋む音も、血の流れる音も、数十メートル先で水滴が地に弾ける音も、今回のような『数百メートル先で鳴く猫の声』でさえ、ハッキリと聞き取れるのだ。
最初はオンオフの切り替えが上手くいかず、不意の暴音に気絶したことさえあった。
だが《マナ》の扱いに慣れていく内に、いつの間にかオンオフどころか、聞きたくない音の隔絶まで出来るようになった。
だから少女は集中する。
どこかで鳴く猫の声に……。
同方向から聞こえる鈴の音に……。
そして同時に、肉が引きちぎれるような悲惨な音に……。
少女はただ――集中する。
「……こっち」
音を頼りに進むこと数分。
『危険な音』を避けながら、辿り着いたその光景は、……とても悲惨なものだった。
血に濡れた肉塊が至るところに散乱し、辺り一面を漂う死臭、草木を紅く染める血溜まり。
そしてその中に立つのは、少女の予想に反し、最も意外な『人間』だった。
「……夕凪、先輩……?」
学園内最弱の生徒にして、少女が会いに行く予定だった、志音がそこにいたのだ。
その右手には血に濡れた西洋剣。制服も血塗れで、明らかに後から来たという風貌ではなかった。
まるで、すべて自分一人で殺したとでも言うように、弱肉強食の勝者の席に……志音が立っていたのだ。
少女はとっさに木陰に身を潜めてしまった。
相手は『最弱な筈』の志音だというのに、少女の本能が反射的に少女の身体を身の危機から、自分を守ろうとしたのだ。
本当にアレは志音なのか?
人違いだと言われた方がまだ現実味がある。
息を殺し、気配をできうる限り消す。
隠密行動を得意とするわけではないが、最低限、身を守る術として少女はその技術を身に付けていた。
今のように……、無差別な『殺意』が、少女に向けられたりしない為に……。
「…………誰だ」
ビクッ!
呟くような声が少女の耳に届く。
それと同時、耐え難いまでの殺気が少女に向けられたのがわかる。
気づかれている。
少女が身を潜めたのは、志音から数十メートル近く離れた場所で、隠れる際の物音も極力殺したというのに……。
志音の殺気は、正確に少女に向けられていたのだ。
殺される。
少女の本能がそう告げていた。
交渉など出来るような雰囲気ではない。逃走をはかっても良かったが、きっと数秒ともたず消される。迎撃? それこそ自殺行為だ。
そう思うほど、志音から放たれるプレッシャーは半端なものではなかった。
「……人か」
「…………」
「まぁ、出てこないならソレでもいいが、ソレなら絶対にその場を動くなよ……」
「……っ!」
瞬間。
地面を抉るような小さな音と、大きな物体が高速で近付くような風を切る音。
そして――。
鮮明に聞こえる。
眼前で、肉を剣で切り裂く、……切断音。
大量の血が落ちる音。
「……怪我したくなかったら、ソコから動くな」
「……え?」
少女の眼前で、志音は【狂狼】《ヴォルガレフ》を西洋剣で真っ二つにしていたのだ。
わからない。
少女の目の前で起きている事態に、まだ少女の思考が追い付いていなかったのだ。
数十メートルもあった距離をどうやって一瞬にして縮めたのか、あの特級危険指定獣【狂狼】《ヴォルガレフ》をどうやって真っ二つにしたのか、そんな些細なことはどうでもいい。
少女が驚愕した事、それは……。
「……なんで、助けて……」
志音が少女を助けたという事実が、少女には疑問でしかなかった。
志音のあまりの存在感に、少女は周囲の状況に注意を向けることを忘れていた。そのせいとまでは言わずとも、少女は【狂狼】の存在に気付くことが出来なかった。
あのまま志音が助けに入ったりしなければ、少女は確実に【狂狼】の餌になっていただろう。
少女が『音』で気配を探れば、……あと七匹、少女達を囲むようにコチラを狙っている。
群に狙われたのだろう。
たとえ一匹だったとしても、一人で向かっていくのは無謀とまで言われる化け物が、七匹もいるのだ。
きっと、志音も気付いている。
だから、少女にはわからない。
「なん……で」
「あぁん? なんか言いたそうだが……、悪いな。話は後だ。さっさと森を出るぞ」
「……あの……ま」
「あ、それと悪いが、コイツ」
そう言ってフードの中から白い子猫を取りだし、少女の方へと放り投げる。
いきなりだったので間一髪だったが、子猫をうまくキャッチした少女。
「ちょっと預かっててくれ。ヤンチャだから逃がすなよ」
「にゃーん」
「……えっと」
言葉を続けようとした少女の眼前には、もう志音の姿はなかった。
逃走した。普通ならそう考えてしまうだろうが、そうでないということは『音』が教えてくれた。
目にも止まらない。
志音はそんな世界で戦っていたのだ。少女の予想を遥かに越える次元で……。
「これのドコが……『最弱』なんですか……」
「にゃー♪」
少女は胸に抱いた子猫にただ問いかける。
◇◇◇
時間にして三分弱。
躾のなってない犬っコロを数匹始末し、他に襲ってきそうな雑魚がいないことを確認した志音は、やっと気を緩める。
それと同時、昨日と同じ過ちを起こしてしまった事を意識し、また全身を脂汗が伝う。
(……さて、どう言い訳しようか)
また一般生徒に見られてしまったのだ。
志音の不注意が原因なので、自業自得と言われればそれまでなのだが、まさか……こんな時間に森林内に侵入するバカが志音以外にいるなんて予想もしていなかったのだ。
言い訳を考えつつ先ほど猫を預けた少女のもとへ戻ると、いかにも根暗な印象の強い少女が志音をジトッと睨んでいた。
「えっと、待たせたな。怪我はないか?」
「…………」
「……?」
「……私、嘘つき……大っ嫌いです」
「はぁ?」
「先輩は……嘘つきです。だから、嫌いです」
「嘘? 先輩? ……悪い。話が全く見えないんだが……。オレを知ってるのか?」
「……夕凪 志音先輩。二年生。……去年の戦績から、学園内最弱と呼ばれている」
「んで先輩って事は、お前はウチの一年か」
「はい。一年の……リアーナ・レイ・フォルトです」
「自己紹介どうも。だが生憎、話したこともない初対面のヤツに嘘を吐いた記憶は無いんだがな……」
「『最弱』じゃない」
「ソレを言い出したのはオレじゃないし、そもそも戦績基準で測るなら間違いでもない。オレは試合で一勝もした覚えはないからな」
「でも、皆先輩を弱いって……」
「だからソレはオレが言い出した事じゃない。他の奴がそう思ってて、オレが否定していないだけだ。肯定した覚えも、自分から言いふらした覚えもない」
リアーナは暫し考え、確かにと合点がいったように納得する。
実際、志音は嘘をついてはいない。ただ、試合で本気を出していないだけ。勝とうとしないだけなのだ。
他の誰かが勝手に決め付けた事を否定しないだけで、嘘つき呼ばわりされる謂れはない。
「まぁ、嫌われるのには慣れてるし、お前から好かれたい訳じゃねえから別にどう思われようが構わねえけど……」
言いながらリアーナとの距離を詰める志音。
先程までのような殺気こそ放ってはいないが、リアーナは知ってしまっている。
志音のあの姿を……、あの雰囲気を、あの殺気を、知ってしまっているのだ。
リアーナの感じているソレの名は、きっと『恐怖』だ。
結歌にすら感じなかったソレを、志音を目の前にして感じている。
最強に感じ得なかったモノを、最弱とうたわれた一人に感じてしまったのだ。
リアーナは一歩後退する。
「……逃げるな」
「っ!?」
数秒もまたず、志音とリアーナとの距離は一メートル未満となる。
また、汗がリアーナの頬を伝う。
極度の緊張から、声がでない。
意識せずとも自分の心拍数が跳ね上がっている事がわかる。
迫り来る『死』を前に、ただ少女は……怯えることしか出来ないでいたのだ。
そんな少女の怯える顔を見て、志音はまたうんざりとした。
またか、と。
「……怖がんなよ。別にアンタをどうこうしようだなんて考えてねえからさ。ただ、そのクソ猫を返してくれりゃあ何も言わずに消えてやるよ」
「……ね、こ……?」
「そう。今アンタの持ってるソイツ。一応、依頼なんだ。オレの二単位がかかった大事な依頼」
「にゃおーん♪」
すると、先程までリアーナの腕の中で大人しくしていた白猫が、志音の顔面目掛けていきなり飛び出す。
志音はそれを避けることもせず、頭に引っ付いた猫をまたフードに突っ込む。
「にゃー♪」
どうやら志音のフードの中を気に入ったらしい。
中で丸まって喉を鳴らしている。
「……ったく、現金なやつめ」
「……」
「んじゃオレは森を出るけど、何の用があるのかは知らんが、森の中を一人で行動するならそれなりに気を付けた方がいい」
「……あっ」
「それと、今回アンタが見た事は他言無用で頼む。出来のいい身内と違って、あまり目立ちたくないんだ」
「…………じ、じゃあ、取り引き……しませんか?」
「取り引き? アンタ、初対面の先輩相手に脅しかけるって、どうなんだよ……」
「脅迫じゃなくて提案です」
「あっ、そう」
呆れ顔で頬を掻く志音。
実のところ、志音としてはリアーナの出す取り引きに応じるメリットは無いのだ。
百聞は一見に如かず。ということわざがある。
リアーナにどれほどの発言力や説得力があるのかは、志音にはわからない。だが、どれだけ情報伝達能力に長けていたとしても、『志音が実は強い』なんて事実を信じる者は誰一人としていないのだ。
例外を上げるなら、ずっと志音を疑い続けるエイラ。先日、実力の一端を見せてしまったアリシア。そして、聖都市内で唯一の身内、結衣歌。その三人だけは信じるだろう。
だが、志音の過ごしてきた『最弱』という一年間しか知らない他生徒達に、新米の一年生一人が何を言おうと……結果は目に見えている。
発言力のある生徒会長様の言葉でさえ、誰一人信じなかったのだから。
だからリアーナの言葉を待つ必要もない。無視して早々に依頼主の元へと猫を届けて学園へ向かえばいい。
志音はそうすればいいのだ。
だが、何故か待ってしまった。
ノーと答える前提で、この後輩がどんな要求をしてくるのか……わずかながら、志音は興味を持っていた。
そして数秒と待たず、リアーナは口を開き、言葉を紡ぐ。
「誰にも言わない代わりに、この森から出るの……手伝って欲しいです」
「…………はぁ?」
「ですから、森を出るなら……私も一緒に連れていって、欲しいです」
「……いや、勝手に出ればいいだろ」
「それが出来そうにないから言ってます。……半径五十メートル圏内全方位、種別はわかりませんが……猛獣に囲まれてます」
「へ?」
そう言われ、志音は辺りを見渡した。
パッと見た感じは木々の生い茂るただの森林。数十メートル先に血溜まりと肉片があるとは思えない程、のどかな場所。
志音は目を閉じ、意識する。
耳で感じる小さな足音に、鼻で感じるかすかな獣臭に、肌で感じる……突き刺すような殺気と視線に、感覚を研ぎ澄ませる。
「……二十五……いや、三十か? よくもまぁ、そんな大量に群がってきたもんだな」
「……わかるんですか?」
「かなり集中すればな。そう言うアンタは随分と余裕がありそうだな」
「まぁ」
「んで、どうする? さすがに全部狩るとなると、それなりに時間がかかるから、このままだと遅刻するんだよな……」
「見捨てないでください」
「当然だ。でも、戦うのはなし。あんまり生態系を弄ると、住民区にまで被害が出るかも知れないし」
「それじゃあ、どうやってこの場を切り抜けるのですか?」
「あぁ、そりゃあ……」
言葉を言い切るより早く、志音は足でリアーナの足を払う。
そして必然的に体勢を崩してしまうリアーナを、両腕で軽々と抱え上げる。いわゆる、お姫様だっこだ。
「……っ!?」
「暴れんなよ?」
「………………わかっています」
「聞き分けが良くて助かる」
リアーナの表情は変わらない。
怒るでも、恥じるでも、喜ぶでもなく、ただ真顔で無愛想な表情のまま志音の横顔を睨みつける。
リアーナから発せられる負のオーラを全力で無視しつつ、足にため込んでいた《マナ》を開放し、その超脚力で――
力一杯、跳び出す。
前後左右がダメならば、上に跳べばいい。正確には、化け物達の行動範囲外、手の届かない高さで移動すればよいのだ。
そして、逃げ切ること数十分後。
「…………」
「……あぁー……なんだ」
「…………」
「あのさ、無言で睨み続けるのやめてくれないか……」
「…………」
無事に森林から脱出し、抱き抱えていたリアーナを下ろした志音は……、何故か助けた筈の少女から、負のオーラを纏った視線で睨まれ続けていた。
しかも、何を話し掛けても無言しか返ってこないので、なお質が悪い。
脱出して数分。
間が持たないと判断した志音は、くるりとリアーナに背を向け歩き出す。
「んじゃ、オレは依頼主にコイツを届けに行くから、ここからはアンタ一人で行け。今から急げば……ホームルームは無理でも、一限目には間に合うだろ?」
「……待ってください。まだ、夕凪先輩に言わなければならない事が……」
「後にしろよ。入ったばかりの一年坊がいきなり授業をボイコットする気か?」
「……いえ。ですが、先輩は」
「オレは……不良生徒だからいいんだよ」
「ですが……話……」
「言いたいことがあるなら昼休みに食堂に来い。話は以上だ……さっさと学校に行け」
「…………わかりました」
少しは機嫌が直ったのかと振り返ってみると、やはり不満げな視線を向けているリアーナ。
それを見て、めんどくさいと思う反面……少しだけ、小さく苦笑を浮かべる志音。
「……やれやれ」