5 大切な時間を
居酒屋に到着したとき、最後列にいたはずの里中は列の中央あたりにいた。里中が前に来ると共に、小南と姫野は後ろに来ていた。そのため、現在、すぐ前には小南がいる。記憶にある風景だった。「ここ初めてだね〜」「美味しいのかな」と姫野と話しているのが聞こえたと思うと、「里中くんは、」と姫野から名前を呼ばれた。
「里中くんは、ここ来たことある?」
「うん」
この時点だと来たことはないのだが、思わず、そう答えてしまった。「未来で」と言いそうにもなったが、言葉を飲み込んだ。
「どうだった? おいしかった?」
小南が少し首を傾げて里中を見上げる。
里中は言葉を失った。
すぐ目の前に小南がいて、一緒に会話をする。彼が何よりも求めていたものだった。
感動や高揚と共に、戸惑いや恥ずかしさで耳が熱くなってしまう。
「里中くん? どうしたの?」
「あ、いや……、なんでもない。ごめん」
はにかむと、一段と顔が熱くなった。前髪の生え際に汗が溜まり始める。
「ここの味は、」
おいしかっただろうか、おいしくなかっただろうか。
覚えていなかった。
隅の席に座り、あまり人と話さず、時折小南の横顔に目を奪われては頭を振るう。そんな記憶はあったが、味は覚えていなかった。
じっくりと味わうだけの気持ちの余裕がなかった、ということだろうか。
ただ、「おいしくない」だとか「まずい」という声を聞いた覚えもなかった。「おいしい」という声なら、あったかもしれない。
「わりとおいしかったと思う」
「それならよかった。そんなに安くないし、外観も結構いい感じだし」
これでまずかったらキレてやる、と小南は自嘲気味に笑う。彼女の男っぽい一面が垣間見えた瞬間だった。それを受け、里中の鼓動が、一瞬、リズムを狂わさせた。中毒的な、快楽の狂いだ。頭に熱が集まっていく。体を震わす夜風が、涼しかった。
キレてた記憶はないから大丈夫だろう、と口の中で呟いて店へと目を向ける。
朱色に近い黄色が基調となった看板が、左右のライトによって下から照らされている。煌々と輝く習字体の店名が、通り過ぎる人の目線を一瞬ずつ奪っていく。入り口の前には、コース料理の写真と値段の記された置き看板があるが、そこに安さを売り出すような文句はない。かといって大学生が「高いなあ」と思うほどの値段でもなかった。
店内に入ると、威勢のいい雑踏に体が包まれた。だが、決して下品な雑踏ではない。
店員の制服はブラウスのような落ち着いたデザインだった。いらっしゃいませ、の声はよく通りつつも決して耳に痛くない。
オレンジ色のやや薄暗い照明。木目調の壁やテーブル。ライトを反射する黒い床。
庶民的な雰囲気の中にどこか上品さを感じる、不思議な空間だった。
懐かしい。
里中は想いを噛みしめる。目の前に小南がいる。つむじまで見える距離にいる。
あの日の記憶のままの風景。そして、その記憶たちがフライングして里中の脳に蘇ってくる。席に案内され、姫野が音頭をとって乾杯し、お酒を口に含む。そして、遠くの小南を眺め、ため息してうつむく。そんな記憶から目を逸らして現実に戻ったのと、店員の「どうぞ、こちらです」の声が同時だった。一列になって廊下を歩く。彼の前には、やはり小南がいた。この景色も初めてじゃない。
案内されたのは長テーブルだった。そして奥から詰めていくように座っていくことになる。壁側と廊下側の、ちょうど二列になる。
小南の後ろについていた里中は、彼女らと共に、壁を背にした側の席に座ることになった。ちょうど真ん中あたりだ。この一列が埋まると、次は正面の通路側の列が奥から埋まっていく。
前はあそこに座ったなあ、と向こうの列の端の席に目を向けてみる。そこにいたのは、この日参加したメンバーで最も大人しい男子だった。右手にある醤油差しや七味唐辛子を眺めている。あの日、里中の右には壁、左には彼がいた。里中はこれまで彼とあまり積極的に話してこなかったため、あの日もお互いあまり喋らなかった。たまに彼が気を使って話しかけてくれはしたが、里中から話しかけはしなかった。普段の里中なら、気を使ってくれる相手には優しくなれるはずだが、あの日はそんな気分ではなかったのだ。もやもやとした、霞んだ黒い感情があったことは、よく覚えている。
どうして小南の隣に行かずに奥側に行ったのか。それは彼がこれまで幾度となく考えてきた難題だったが、今となってはどうでもよかった。
なんでもいいや、と一息つき、席に座る。薄いクッションの敷かれた椅子だった。
生ビール以外がいい人いくらいるー? と里中の隣の隣、すなわち小南の左隣の姫野が立ったまま手を上げ、全員を見渡した。彼女は普段からリーダーシップが強くて、まとめ役を勤めることが多く、この日の幹事でもあった。
いきなり悩むのも面倒だしビールでいいな。里中は手を上げない。小南も姫野を見上げるだけで言葉を発さなかった。
その後、姫野が店員を呼び、お酒を注文した。食べたいものは各自頼んでねー、と声をかけて座る。そしてコートを脱ぐ。
そういえば着たままだったな、と思い出して里中もコートを脱いた。それを背もたれにかけるとき、小南もコートを脱いだ。
白のダッフルコートの下に現れたのは、桃色のワンピースだった。ほとんどシワが寄っていなくて、色落ちも感じられない。この距離だと、新品であることがはっきりと分かった。そして、彼女には珍しく、胸元が鎖骨の下まで開いている。その瑞々しい透明感は、膨らみのすぐ麓まで広がっていた。
彼女に露出の多い服装はイメージはない。首元までしっかりと襟のある服を着ていることが、ほとんどだ。胸元が偶然見えてしまったこともあったが、それは、よれた服を着ていたときだけだった。
その珍しい光景が、今なら少し屈んだだけで拝めるかもしれない。
腰下のふわりとしたフリルの下はジーンズだった。細い脚のラインが強調される、スリムタイプのものだ。座っていてもスリムな太ももに、手を伸ばしたくなる衝動が駆られる。
「どうしたの里中くん。足元に何か落ちてるの?」
その声に、ようやく自分が小南に見とれてしまっていたことに気がついた。
「あ、いや……」
小南は体を傾けてテーブルの下を覗き込んだ。その際、重力で胸元の布が浮いた。里中は反射的に目を逸らした。
「ごめん、なにも落ちてない。ヒール履いてるの珍しいなあ、って思って」
あまり人の靴に注目することはないが、小南はスニーカーのイメージが強かった。あまり高さのないものだとはいえ、ヒールを履いているのを見るのは就職活動のとき以来かもしれない。
「うん。この前買ったの。自分でも柄にもないって思うけど」
あはは、と小南は自嘲する。
こういうときはどう返事すべきか、と反射的に思うも、「そうだね、柄にもないね」なんて言われて喜ぶはずはない。褒めるべきだろう。
少しだけ、攻撃的に。
「そんなことないと思うよ。いつものラフな感じもいいけど、今日の雰囲気もかわいくていいと思う」
言いながら、顔に熱が集まるのを感じる。やはり、こういったセリフはCPU負荷が重たい。
かといって、立ち止まってじっくりファンを回している場合ではない。ギリギリまでやるしかない。
「そ、そう……? この服も一緒に買ったんだけど、似合ってるかな?」
この人生を、成功させなければならない。
勇気を出せ。
気合いと、チャレンジだ。
「うん、すごく似合ってると思う」
額から汗が噴き出す。でも、それを悟られてはいけない。拭いてはいけない。そのまま微笑む。
「あ、ありがとう……」
小南はコクリと頭を下げ、俯いたまま前を向いた。両手を握って膝の上に置いている。
どうやら恥ずかしかったのは小南も同じらしい。
「あ、里中くんが小南をナンパしてる」
そう茶化したのは小南の左に座る姫野だった。
「してない!」
声を揃える小南と里中。小南に至っては姫野の肩を反射的に叩いていた。ぱん、とやや湿った音がした。
「もう、ハモっちゃって。かわいいわね。ごちそうさま、ごちそうさま! おかげで、お通しが来る前にお腹いっぱいになっちゃった」
「やめてよー、もー」
ごめんごめん、と姫野がにやけながら謝っていると、数名の店員がビールジョッキやグラスを両手に、笑顔でやってきた。
「けっこう早いわね」
「そうだね。遅いところは本当に遅いもんね」
通路側の席の人たちが店員から飲み物を受け取り、こちらへと回していく。里中の手にビールが届くと、彼はその琥珀色の輝きに目を奪われた。
ジョッキにはクリームのような泡がなみなみ盛られていた。少しでも傾けたら溢れそうだ、と思ったら少し零れてしまった。取っ手を持つ里中の右手にかかる。喉が渇き、目の奥が痛くなるほど冷たかった。
泡がピチピチと弾ける音が、喧騒の中でも耳を甘辛く刺激する。
隣から「堪んねえな」と聞こえた。
「小南、おっさん出てるわよ」
「ごめんごめん、つい」
謝る気のない明るい言い方だった。
笑いながら小南がマスクを外す。
彼女がマスクをつけるようになったのは一年生の冬だったか。一度、風邪をひいてしまい、マスクをつけて苦しそうに登校してきたのを、里中はうっすらと覚えていた。
無理しなくてもいいのに、と声をかけたはずだ。
「だって、サボりたくないもん」
「風邪ならサボりではないと思うけど」
「なんといっても、ウチは真面目だから!」
明るくうそぶくような口ぶりだったが、声はすっかり枯れていて、聞いている側が苦かった。
この頃はまだ、里中は恋をしていなかった。でも、マスク補正とかいう現象のせいか、小南のことを初めてはっきりと「かわいいな」と思ったのは、このときだった。彼女は頰のニキビが濃く、それをコンプレックスに思っていた節があった。そのコンプレックスが隠されたせいなのかもしれない。
それから一週間経った頃、里中はふと気づいた。そういえば、まだマスクをつけてるな、と。
「風邪、まだ治ってないの?」
「治ったよ。マスクつけてるとあったかいなあ、って思って」
だが、夏になっても彼女がマスクを外すことはなかった。
こうして食事をするときでもなければ、小南のマスクの下を見ることはできない。そんな、滅多に見られない姿を見ることが、里中は好きだった。
ニキビが濃いのは確かだが、レア度補正というべきか、マスクをしていない表情はすごく魅力的に映った。
さてさて、と幹事の姫野が再度立ち上がる。
「そろそろ乾杯といきましょうか!」
この姫野さんが柄にもなく恥ずかしいこと言うよー、と彼女が自分でおどけると、どこからともなく「柄にもあるだろ」と聞こえた。「うるせー、ほんとのこと言うな」
「四年間お疲れさま! いろんなことがあったね。大学だから、高校生みたいにみんなが同じ授業を受けてきたわけじゃないし、ぶっちゃけ、この中にも『あんまり絡みなかったなあ』って人もいるけど!」
どっと笑いが起こった。隣の小南も「そんなこといちいち言わなくても」と苦笑している。
「でもね、私たちは確かに、同じところで勉強してきた。遊んできた。時には連携をとって出席扱いにしてサボったりもした。そしてバレて怒られた! その時その時でも、それはいい思い出だったし、今となってもいい思い出だし、きっと、これからもずっといい思い出だと思う」
この恋は、いい思い出だっただろうか。
あまり考えたことはなかったが、いい思い出だったのかもしれない。
そうだ。好きな人のことを想う時間は、確かに苦しかった。
だけど、好きな人と一緒にいる時間は、確かに楽しかった。
純粋に楽しむことができた。そんな自分は、嫌いじゃなかった。
「社会に出ると、きっと私たちはバラバラになる。怖いよね。私は怖い。でも、私たちには思い出がある。心の中には、一緒に戦った仲間がいる。その思い出が強大であればあるほど、楽しいものであればあるほど、その数が多ければ多いほど、目の前の困難に立ち向かう勇気になると思う。困難を打ち破る力になると思う。共に戦ってくれる仲間になると思う」
この演説を聞くのは二回目のはずだが、なぜだろう、一回目とはずいぶん違って聞こえる気がする。
社会人になって小南のことを想うことは多かった。それは、まるで心を滅ぼす敵のようだったけど、もし、ここで告白していたら、たとえ失敗に終わっていたとしても、その思い出は、暖かい味方になってくれていたのかもしれない。
「だから、今日この日を、明日を共に戦う頼もしい仲間にするために、全力で楽しみましょう! 乾杯!」
乾杯!
みんなが笑顔でジョッキを掲げ、互いに打ち合わせる。里中は少し控えめに乾杯した。隣の小南も同じように控えめだった。そして、他よりも一段低い位置にある二つのジョキが鳴らされる。
「四年間お疲れさま、小南さん。乾杯」
「乾杯、里中くん」
輝く金色の液体が二人の舌を潤し、歯茎を冷やし、頰を緩め、喉を鳴らして通過していく。ひんやりとしたものが食道へと落ちたかと思うと、今度は熱を帯びて身体中に広がっていく。そして、芳醇な苦味が脳へと充満し、心地よい混沌を招くようだった。
ぷは〜っと、満たされた笑顔と香りを放ち、小南は勢いよくジョッキをテーブルに置いた。
「あ〜、やっぱり堪んねえなあ」
「小南、おっさん出てるわよ」
「ごめんごめん、ちょっと自重するね」
自重する気のない、上機嫌な言い方だった。
一口付けただけだというのに、小南の顔はすでに少し赤かった。小南はお酒好きではあるが、決して強くはなかった。それにしても赤くなるには早すぎるな、と里中は思うが「おっさんっぽいところが出てしまうのが恥ずかしいのかな」と思えば解決する気もした。
ジョッキを持つ小南の指が光った。よく見ると、彼女はクリアネイルをしていた。今まで意識して小南の爪を見たことなどなかったが、彼女がネイルをしているのを認識したのは初めてだった。服装といいネイルといい、今日の彼女はいつものズボラな小南とは違っているように見える。
周囲をよく見回してみると、初めて目にする服を着ている人も少なくなかった。きっと、みんな『学生時代最後の集まり』だということを意識しているのだろう。
そんな小南の姿は輝いていた。恋のフィルターを通しているせいなのかしれないが、いつも以上に魅力的で、他の誰かに口説かれたりしないか心配でならなかった。
恋人でもなんでもないのに、そんなことが心配になってしまうなんて。
里中はジョッキに口をつけながら嘲笑した。誰にも見られてはいけない笑みだ。
「食前酒」
https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/10a