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4 好きになりたい。

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「大丈夫」


 後ろから押し寄せた人の肩が、里中の肩に当たった。急なことに躓きそうになったが、なんとか耐えて、少し走ってバランスを崩したのを誤摩化す。


「なんとか……、大丈夫」


 ベルの音と共に電車の扉が閉まる。それを、里中は固まって見ていた。

 見慣れた駅だった。通学に使っていた駅。学校の最寄り駅。

 空は すっかり黒かった。駅の屋根のすぐ上に半月が見えた。


「これは……」


 この駅に降車するのは、たいてい朝だった。夜だということは。


「飲み会の日だ」


 卒業式の一週間後の夜、待ち合わせ場所に向かう電車を降りたところだった。


「本当に戻ってる……」


 夜の風が頬をさする。厚手のコートの隙間を縫い、鳥肌のたった腕を抜ける。この鳥肌は寒さからか、感動からか。

 あの日の風だ。あの子と最後に会ったあの日の風。

 肩が軽かった。思わず腕を回してしまう。肩こりがないなんて、いつぶりだろう。目の奥のだるさもない。視界も心なしか明るい気がする。


「ああ、本当に戻ってるよ……」


 高揚に口角が上がってしまう。歓喜なのか緊張なのかは分からない。テーマパークのアトラクションの最前列に立っているようだった。

 夜風が気持ちいい。


「この夜を、好きになりたい」


 そして、自分を好きになりたい。

 そういえば、あいつはいないのか?

 里中は周囲を見渡す。右に、左に首を振る。でも、あいつはいない。

 少し、寂しい気がした。


「なに挙動不審になってんのよ」


 その瞬間、里中の背中に何かが直撃した。

 寒さでポケットに手を入れていたのが仇となった。バランスを取り戻せず、里中はそのまま肩から駅の床に落ちた。


「痛っ」


「あ、ごめん。まさかこけちゃうとは思わなかった」


 痛てててて、と顔を上げると、懐かしい顔があった。


「姫野さん……」


 里中の数少ない女友達である姫野だった。

 そういえばそんなことがあったな、と思い出した。だが、倒れはしなかったはず。


「よっ。久しぶり。——っていっても一週間ぶりか。もっと久しぶりな感じがするね」


 グレーのニット帽、肩に少し当たるくらいの髪、クリーム色のダッフルコートと紺のミニスカート。黒のニーハイソックス。そして、笑顔にできるえくぼ。背は低くないし大人っぽいイメージは強いが、くしゃっとした笑顔にはあどけなさが残っていた。

 かわいい、と思った。会社は基本的に平服だったが、姫野のように若々しい女子社員はいなかったので、この感覚が懐かしかった。恋をしているわけではなくとも素直に「かわいい」と思える女性には、これ以来会っていなかったんだなあ。と、気がついた。


「久しぶり。元気そうで良かったよ」


 立ち上がりながら膝の砂を払い取る。肩は痛かったが、近頃の肩こりに比べればたいしたことがない。


「元気だけが取り柄だから」


 社会に出てからもこの元気は健在なのかな、と里中は思う。そうであってほしい、と。


 待ち合わせ場所はこの駅のすぐ前の広場だった。赤いレンガ調の少し洒落た場所だった。お世辞にも都会といえた町ではなかったが、落ち着いたいい場所だった。東京に出てくるとき、大学も近いし住みやすい町だという評判も高かったから、このあたりに住もうか、と思っていたことを思い出した。だが、どうしても家賃相場が高くて、数駅離れた場所に住むことになったのだった。


「こんなに寒いんなら、待ち合わせは屋内にすればよかったね」


「そうだな。まだ三月に入ったばかりだし」


 腕時計に目を向ける。七時十五分だった。あまり覚えてはいないが、おそらく集合時間は七時半なのだろう。


「暖かくなる頃には、もう社会人だよ」


「うん」


 そして、どんどん苦しめられていくことになる——仕事よりも、後悔に。


「緊張するよね」


「うん」


「里中くん、今日元気ないね? 何かあった?」


「え?」


 まったくそんな気はなかった。でも、言われてみると元気がないような気もした。さっきまで感動で頰が緩んでいたというのに。


「さっきから空返事ばっかりだし、どこか固い気もする。社会人になるのが怖いの?」


「いや、そういうわけじゃ……」


 過去の俺はこの質問にどう返したっけ。いや、そもそもこんな質問はされていない。ということは、やはり本来の自分と今の自分は違うのだろう。

 社会を知っているからだろうか。それとも、二度目の人生を成功させなければ、というプレッシャーからだろうか。


「大丈夫だよ。私だって怖いんだから」


 俯き気味の横顔は悲しげだった。いつも明るい姫野のこんな表情を見たのは初めてかもしれない。姫野でさえこうなっているのだから、当時の自分はもちろん、他のみんなも不安だったのだろう。

 もしかすると、そんな不安いっぱいの自分より、今の自分の方が怖がっているのだろうか。


「そうだな。でも、なんとかなると思うよ」


 実際になんとかなっている自分が言うのだから間違いない、と心の中で加える。無責任だなあ、と思いながら。そして、一握りの勇気を出して、彼は言った。


「頑張ろう。苦しくても、俺とか他の友達はいつだって、味方だからさ」


 社会に出ても俺たちはつながっている、とキザなことを口にして笑おうかと思ったが、その言葉はせき止められた。

 これ以降、里中はクラスの誰とも連絡を取っていなかったから。

 その代わりに「それに、さ、」と続ける。


「『大丈夫』って三回唱えれば最強で、もう一回加えれば無敵なんだから」


『最強』も『無敵』も変わらないな、と今更ながら思う。

 一瞬、ぽかん、とした姫野だったが、徐々に口角が上がっていき、ついには「そんなことあったね」と吹き出した。


「そうだね。ありがとう。なんか元気出たよ。小南に感謝しなきゃ」


 そこで、いつものように姫野の頬にえくぼができた。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫! そして、大丈夫! 今日は全部忘れて、飲み明かそう!」


「おう」


 あの子のことだけは忘れずに、と心に付箋を貼りつける。






 広場に到着すると、すでに過半数のメンバーが揃っていた。卒業してから一週間での出来事に、みんなが花を咲かせている。中には、すでに涙を流している者もいた。気が早すぎる、とみんなが楽しそうに声をかける中、里中はその輪から少し外れて立って、微笑んでいた。

 こんなことあったな、なんて懐かしんでるのは俺だけなのだろう、と涙を堪えながら。

 実際には、あの輪の中に里中もいた記憶がある。一緒に笑い合ったはずだ。あのときも少し、もらい泣きしそうではあったが、今と同じように堪えていた。涙を堪えるはめになるのは一回目でも二回目でも変わらないようだ。


 そこで、ふと思った。SF映画なんかで「過去に戻っても、過去の人物に干渉してはならない。なぜなら未来を変えてしまうから」というような文言をよく聞くが、自分はこんなに干渉していいのか、と。

 でも、すぐに「大丈夫だろう」と結論づけることができた。あの残酷な未来はもう、すでにないのだから。

 これは過去じゃなくて、現在なんだ。

 そう思って、輪に入ろうと足を上げたときだった。


「おまたせー」


 それは、小さくて、儚げな声だった。心を吹き抜けるような透明感も、遠くまで響き渡るような密度もない、普通の女の子の声。むしろ、かすれ気味で、風邪をひいているような印象さえもある。決して「いい声」とは言えない。だが、その枯れた声は、どこか秋の落ち葉のような哀愁を感じさせる。暗色ではありつつも、色とりどりで、ちらちらと人を惹きつける、落ち着いた魅力。そして、逆説的に、生命力を肌で感じさせる。そんな力強さを秘めた、儚い声だ。


「小南さん……」


 宙へと落ちるような里中の声は、周囲の歓声に掻き消された。

 久しぶりー、元気だった? と、女子たちが小南の元に集まって嬌声を上げた。小南はマスクをしていたが目尻に皺を寄せていて、可憐な笑顔を見せている。

 ロングヘアはポニーテールに束ねられていた。白いダッフルコートで上半身は覆われ、体格が隠されている。だが、彼女の細身のジーンズが、その体の華奢さは健在だと安心させてくれた。

 ある意味では「不安になるほど細い」とも言えるが、最後に見た日のまま、最後の記憶のままで小南が立っていることに、里中は震えていた。誰にも悟られないように、目を閉じてこっそりと深呼吸を繰り返す。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。大丈夫。


「寒いね」


「ほんとそれだよね、屋内に待ち合わせればよかった」


 小南と姫野のやり取りも懐しかった。小南への独占欲はあるが、姫野と楽しそうに話しているあの笑顔は、どうしても奪いたくなかった。だから、里中は近づけずにいた。

 これでいいのだろうか。この消極性が後悔を生んだのではなかったか。

 そうこう思っているうちに全員が集合し終わり、居酒屋へと出発していた。


 里中は列の最後列にいた。小南は姫野と共に最前列にいる。後ろ姿しか見えないが、その顔はきっと笑顔なのだろう。

 ふと、彼の頭に疑問が浮かんだ。

 前の俺はどんなことを思っていたっけ。

 小南と姫野が楽しそうに話していて、それを少し離れて自分が見ている。その光景に覚えはあった。でも、「これでいいのだろうか」と思っている記憶がすっぽりと抜けていたのだ。


「どうしたんだよ、暗い顔して」


 男の声が聞こえたが、それが自分に向けられているものだと里中は気付かず、返事が聞こえないなあ、と顔を上げると、よく見知った顔が自分に向けられていた。


「俺?」


「そう、お前だ里中」


 彼は里中とそれなりに仲が良かった。気がつくと二日に一回くらいは隣にいるような関係だ。親友というほどではないが、それなりに心を開ける相手ではあった。

 また、このあと小南に「男のくせに女に負けてんのかよ」と罵られる運命にある男でもあり、同時に里中に妬まれることにもなる男でもなる。


「今日はこのメンバーで会う最後になるかもしれないんだから、そんな陰気な顔すんなよ」


「そんな陰気な顔してたか?」


「してたさ。世界が滅びることを知っている未来人が過去に来て、『この平和もそのうち破壊されるのか……』と悲しくなっている、みたいな顔してたぞ」


 あながち間違いじゃないな、と里中は苦笑する。


「そうだな。暗い顔してる場合じゃないよな。俺には世界の崩壊を阻止する宿命がある」


 おかしくて二人は声を出して笑い合う。

 細かいことは気にしなくていい。未来を変えることだけを考えよう。

 小南とこいつの間に入って未来を変えなければ。それだけだ。

 そこで、ふと小南が振り返った。

 一瞬だけ目があった。かもしれない。

「四月の前」

https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/09a


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