3ー2 だから、
今晩まで考えさせてくれ、なんて言った記憶さえも失ったことに気づいたのは、まさに今晩たる今晩だった。
仕事に充実していたわけではない。証拠に、具体的にどんな仕事をしていたかも思い出せない。上司に怒られた記憶だけがある。どうして怒られたのかは、はっきりしない。
小南への恋心を紛らわせるどころか、まさか考えることさえも忘れてしまっていたとは。
習慣とは恐ろしいものだ。
帰り道にひとり、口元を緩ませる。
夜の国道沿い。空には雲ひとつなく、下弦の月が美しくも儚げに輝いていた。
すぐ左を車たちが通り過ぎていく。音量を上げながら近づき、音程を下げながら遠ざかっていく。すれ違いざまの風は乾いている。
反対車線に目を向けると、ほとんど車が走っていなかった。と思った矢先、ピンクのコンパクトカーが走りすぎていった。その後ろ姿は、軽快に走られていることに喜びを覚えているようにも、孤独に苛まれて悲しんでいるようにも見えた。
「コンパクトカー、か」
姫野が乗っていた車もピンクのコンパクトカーだった。
きょう車で学校に来たんだけどさー、という彼女の声が蘇る。
「車? 意外だな」
「言うと思った」
たまには運転しないとペーパードライバーになっちゃう気がして、と彼女は嘲笑する。実際にペーパードライバーな里中は「偉いな」としか言えなかった。
「偉いでしょ」
姫野が胸を張ったところで「どうしたの、なんの話?」と小南が近づいてきた。自分が話しかけられたような気がして、少しだけドキッとした覚えがある。
これは四年生の十一月頃だっただろうか。もうすぐ学生生活が終わり、別れが目に見えてきていた時期。想いを伝えるか否かを真剣に悩んでいた時期。
「おはよー小南」
姫野は小南のことをそのまま『小南』と呼んでいる。本人曰く「コミナミって響き、好きなのよね。この、なんというか、カタカナにしたくなる感じ」とのことだ。いまいち理解はできないが、理解されないことを指摘されて喜ぶ人はいない。「わかる気がする」と曖昧な返事をして煙に巻いた。
里中はシンプルに「おはよう、小南さん」と微笑む。
「おはよう。で、なんの話?」
「きょう車で学校に来たんだけど」
「うん」
「ちょっとだけ寝坊しちゃって、急いでメイクと準備して車に乗り込んでさ、暑かったの」
「急いで車に乗るくらいならゆっくりと電車で来たらよかったんじゃ」
正論だった。
マスクの奥の口元を綻ばせ、肩を揺らして笑う小南に「オシャレでしょ」と嘯く姫野。いったい何がオシャレなのか里中には皆目検討もつかなかったが、小南は「だね」と答えた。半笑いだった。
「暑かったから窓開けてたのよ。クーラーって冷えるから好きじゃないし。私は自然を感じたいのよ」
「うん。前半はわかるよ」
「でね、途中まではよかったの。汗が引いてくると寒くなってきちゃって、窓閉めようかなあ、って思ったわけ」
「自然に負けちゃったんだ」
「大自然の前に人間は無力よね」
いったい何の話なんだ、と口を挟まずにはいられなかった。二人とも笑いを堪えて話していたようで、同時に噴き出した。自分の言葉で人を笑わせたみたいで、嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な高揚感があった。
そして、小南のくしゃっとした笑顔が可愛かった。目尻にシワが寄り、白くて小ぶりな前歯が遠慮がちに顔を出している。
おでこと耳が熱くなる。
「でねでね、女の人が歩いていたのが見えたの。すごい短いパンツで、脚丸出しなの。上は上でけっこう薄い服で。いま十一月じゃん。どう考えてもあれ、九月くらいの格好なのよ。しかも、寒さを微塵も感じさせない、堂々とした歩き方で」
「大自然に勝利してる」
「あんな寒そうな格好の人が堂々歩いてるんなら、私も負けてられないって思ってさ。車の窓全部開けちゃった」
「あ、道理でちょっと鼻声なんだね」
「オシャレでしょ」
鼻声がオシャレなんて最先端すぎるな、と里中は率直な感想を漏らしたが「鼻声はさすがにオシャレじゃないでしょ」と真顔で指摘された。とりあえず「すみません」と謝っておいた。
「あの人オシャレだったなあ。オシャレは気合い。寒さになんて負けない」
姫野は噛みしめるように繰り返す。「オシャレは気合い。寒さになんて負けない。リピートアフタミー」
里中と小南は顔を困って見合わせる。その困り顔も可愛い、なんてさすがに口にはできない。
「だーっ! なに困ってんのよ。先生の言うこと聞きなさい」
いつ先生になったんだ、と里中は呟く。
大自然に負けたくせに、と小南も呟く。
「いい、小南さん」
教師口調で姫野は小南の顔に指を差し、ゆっくりと首へ、胸へ、腹部へ、脚へ、靴へ指を下ろしていく。里中の視線はその指先へと向かう。少しよれた薄手のコートに、よく分からないアルファベットが羅列されたシャツ、色の落ちたジーンズ、ベルトは汚れたような茶色で、靴は白のスニーカーだった。
「あなたはもっとオシャレなさい」
「えー、これはこれで悪くないと思うんだけどなー」
「良くもない」
「大丈夫だよ。大丈夫、大丈夫だ。三回も『大丈夫』って言ったんだから、大丈夫だよ」
「なに言ってんのよ」
「ほら、『大』と『丈』と『夫』って似てるし。『大丈夫』の三乗は、最強なんだよ」
「ごめんなさい、あなたの思考回路と将来が不安だわ」
「大丈夫だよ。ほら、これで四回目。予備の四回目もあれば、無敵だよ。ファッションなんて気にしなくても」
「はいはい、分かったわ。勝手にしなさい……」
姫野は頭が痛そうにため息したが、里中は笑っていた。『大丈夫』の三乗プラス『大丈夫』。今度使ってみよう、と密かに思う。
「まあ、確かに小南の二重人格チックなところにはよく似合うかもしれないけど……。もっと女の子っぽいのも似合うと思うんだけど」
「そうかなー」
「里中くんはどう思う?」
「え、俺?」
このタイミングで話が振られることになるとは思いもしなかったが、気がつけば小南の体を、今度は下から見つめてしまっていた。顔まで上がったところで、彼女のリスのような目と視線が合った。丸くて黒く、愛嬌のある目だが、奥の方にどこか逞しさが感じられる。
こういった場面ではどう答えるのが正解なのか、里中は考えを巡らせる。正直に「いいね!」というべきだろうか。いや、女子はともかく男が言うといやらしく捉えられかねない。では、「ファッションなんて人にどうこう言われようと、自分のやりたいようにやるべき」と小南の側に立つべきか。ただ、里中はどう見てもファッションを語るような柄じゃない。「お前が言うな」「きもいぞ」と自分の中の自分が石を投げてくる。
「いいんじゃない? 俺は結構、好きだけど」
無難な答えだ、と思って選んだ言葉だったが、二言目は、うぶな里中のCPUでは負荷が重すぎた。語尾につれて声が少しずつ小さくなっていく。一番ダメなやつだ、と思うと、それがまた恥ずかしくて、顔が熱くなる。だが、幸か不幸か、小南の額も赤くなっていた。
「なに照れてんのよ、あんたたち」
「照れてない!」
手をブンブンと振って照れを否定する小南。その幼気な姿に、里中は少し照れる。それを、笑ってごまかした。
里中同様、小南もあまりコミュニケーションが得意ではない。異性と話す経験も少ないようで、お互い目が合うだけで恥ずかしくなってしまうことは珍しくなかった。そして、いつもそれを姫野が茶化す。そんな流れが定番となっていた。
「でもさ、里中くん。小南のもっとガーリーな格好見てみたいと思わない?」
ちょっと! と小南はわたわた腕を振る。薄手のコートが揺れ、シャツの縁がふわりと舞い上がる。ほんの一瞬、シャツの陰に白い横腹が見えた。
その幸運を悟られてはいけない、と里中は微笑んでごまかす。
「まあ、見てみたい気はする、かな」
曖昧な言い方をするが、本当は見たくて見たくて堪らなかった。
「ほら。里中くんもこう言ってるんだからちょっとチャレンジしてみなさい」
「からかわないでよー」
「気合いを入れなさい、気合いを。気合いとチャレンジ。じゃないと、成功は掴めないわよ」
その姫野の言葉が夜に溶けると共に、里中は玄関の鍵を開けていた。
現実に帰ってきてしまった。
昔の思い出に浸るたび、胸が温もりに満たされていくのを感じる。それと共に「あのとき、こうしていれば」「こう言っておけば」と後悔が波のように押し寄せ、温もりが胸から零れてもいく。それが、濡れた靴下のように気持ち悪かった。
男友達と気楽に話しているときに後悔することなんてほとんどない。だが、小南と話しているときは毎回のように後悔してしまう。
そんな情けない自分が、嫌いだった。
——自分のことを好きになれねえ奴が、他の誰かに好きになってもらえると思ってるのか?
靴を脱いで電気を点けると、あいつが床に大の字で気だるそうに寝転がっていた。今にも鼻をほじり、そこから出てきたものを、そのあたりに貼付けてしまいそうな勢いだった。
「おかえりなさい。夕食にする? お風呂にする? それとも、ワ・タ・シ?」
「決めたよ。過去に戻る」
「うん、分かったけど、とりあえずボケを拾えよ。無理やり話を進めるな」
まあいいか、と影はあくびのような動作を見せた。
「どういった風の吹き回しだ?」
「気合いを入れないと、と思って。気合いとチャレンジがないと、成功が掴めないかなって」
気合いも入れず、チャレンジもないまま、里中はあの飲み会を終えて今に至っている。
後悔を一通り味わった今なら、気合いを入れ、チャレンジすることもできる気がしていた。
「それにさ。後先考えずに突っ走ったりして、自分のことをちょっとでも好きになれたら、って思ってさ」
「なるほどな」
納得したのかしてないのか、それとも理由なんて気にしていないのか。影は「了解」と言って立ち上がった。
「そうか。じゃあ、もう戻るか?」
「ああ」
「やり残したことはないか?」
「ああ」
「小南さんと上手くいったときのための予行演習に、隣のビッチOLを襲ってからでもいいんだぞ? 警察に捕まる前に過去に戻れるんだから」
「襲わなくてもあの人なら頼めばやらせてくれそうだな。でも、童貞は童貞らしく童貞のままでいるよ」
「童貞万歳」
「童貞万歳」
なんだこれは、と里中は吹き出す。ふざけていると気分がいい。
緊張はする。そもそも「過去に戻られる」なんてまだ信じきれてもいないし、身の安全も保障されていない。過去に戻って、この恋を成功させられるとも限らない。
「じゃあ行くぜ。目を閉じな」
どんな景色が待っているのだろう。どんな結末が待っているのだろう。
里中には分からなかったが。
「多分、それを作り出すのは俺自身なんだろうな」
ゆっくりと目を閉じ、深呼吸する。
大丈夫、大丈夫、大丈夫、
ダ、メ……。
四度目の「大丈夫」を思う前に、枯れ果てた声が聞こえた。
その声は、里中自身の自制心だったのだろうか。
その自制心が今まで自分の傷つけてきたのだ、と念じて深い呼吸をした。自制心に勝つ、気合いとチャレンジ。
そして、四度目を口にする。
「反比例」
https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/08a