3 でも、
好きな人が夢に出てくる。そういうことはよくあることなのだろうか、滅多にないことなのだろうか。
里中は後者だった。在学中も卒業後もクラスメイトが夢の中に登場することはよくあった。だが、何故だろう。卒業後は小南の夢を見たことがない。在学中にただ一度あるのみだった。
夢の中での里中は、現実よりコミュニケーション能力が高くなる傾向がある。それは、夢というものが、自己の作り出した空想にすぎないからだろうか。
そして、場合によっては多少チャラくなることもある。ナンパはもちろん、不純な行為に及ぶ夢だって、一度や二度じゃない。
どうして夢の中の自分はそうなってしまうのか。
里中は、チャラい人間が嫌いだった。彼女がいるのに他の女子にべたべたしたりする男を見ていると、腹立たしくもあった。彼女がいなかったとしても、やはり愉快ではない。一途の「い」の字も感じられない男は滅びればいい、と念じるほどだった。
ならば、どうして自分は夢の中で嫌いな人間になってしまうのか。
疑問には思うものの、悪い気分ではなかった。自分自身が嫌いなタイプになるのを見ても、気分を害することはなかった。
それはどうしてなのか。考えてみると、答えはすぐに見つかった。
チャラい人間のことを嫌っているのは、憎んでいるからではない。僻んでいるからだ。
自分が持ちたいと思っているものを、天然で持っているから、嫌なんだ。何も苦労せず、何も考えず、異性に近づくことができる。嫌われようと構わない。数打てば当たる。外れた分は蚊帳の外。
そのような思考が羨ましかったのだ。
つまり、夢の中の自分の姿は、自分の夢そのものだったのだ。
たった一度きりの小南の夢を見たのは、そんな結論を出した直後だった。
その夢の最初のシーンは、笑顔の里中が小南に手を振っている場面だった。挨拶だろうか。
だが、小南は無視をした。それどころか、睨まれた。現実には見たことのない、冷たい表情だった。
それでも里中はめげずにアプローチを続ける。そして、それが全てを拒絶される。
そんな夢だった。
そして、その夢を見たのは小南とアニメや課題についてたくさん話した日の夜だった。
その日は楽しかった。
もしかすると小南さんと自分は相性がいいんじゃないか、小南さんも自分のことを意識しているんじゃないか。
そんな魔が差した矢先の、嫌われる夢。
恋愛について考えると、人は自制心を失っていく。野性的になっていく。
あの夢は、そんな中での自制心の最後の足掻きのようでもあった。
自分の心を傷つけてはいけない。そんな、自制心の。
冷静な自分が、勝負に出ることを邪魔する。
その結果が、今の里中だった。
自制心が、今の彼を傷つけていた。
「つらいねえ」
電気を消し、もう寝ようとしていると、その声が聞こえた。
「勝負の足を引っぱる自制心。女々しい自制心だ。心の中でさえもかかあ天下とは、ヒモ男の代名詞、って感じだな。あ、かかあ天下してくれる相手がいるだけマシか。現実には敷かれる尻すらねえもんな。現在完了形で」
煽りやがって、と腹を立てながらも、里中は口を開けない。目も開けない。体を横向きに寝かせ、壁の方を向く。
「さてさて。一通り悲観的になったところで、人生をやり直す気にはなったか?」
里中は答えない。
この日は少し肌寒かった。
たぶん頭まで被っても暑くないだろうと思い、遮音がてら布団に潜る。
「そんなに寒いのか。俺が抱きしめてやろうか?」
多少は音が籠っていたが、まるで遮音にならなかった。それに、暑い。
ここで頭を出すと負けた気分になるので、里中はそのまま目を瞑る。
「今日は早く寝たいんだ」
「夢の中で愛しのあの子とデートってか?」
「そうなるように願っていてくれ」
「了解」
信じちゃダメだ。
また誰かの声が心の中で響いた。少し、音が遠かった。
ひょっとすると、この声も自己防衛の自制心のせいだろうか。そう思うと、少し、女々しい響きだったような気もしてくる。
「ねえ、里中くんはアルコールどれくらい摂った?」
ぼやけた意識。調子の外れた女々しい、もとい女の子の声と共に、世界にピントが合っていく。
この声は……。
隣に小南さんがいた。口元を手で隠し、もごもごと口を膨らませている。彼女の前にはたこ焼きが置かれていた。
「ウチは三と三と五と……」
小南はメニューを里中と自分の間に開いた。そして、少し前のめりになってメニューを見つめている。
里中の目はメニューよりも、前かがみのおかげで生まれた、肌と服の間に向いていた。チラリと覗く、二つの膨らみ。細身で小さな体に釣り合う浅い谷間には、幼気な可愛らしさと、生々しいセクシーさが共存していた。
「足して、二十四だね」
この会話は聞いたことがある。でも、少し違う。
なぜなら、小南と話しているのは、里中だからだ。
このとき、里中は小南と離れた席にいたはず。
だが今、里中は小南の隣にいた。ブラの模様が見える位置にいた。白い花びらが無邪気に咲いていた。
なんと夢のような夢なのか。
「里中くんは?」
「俺は、二十二」
「なんだよ、男のくせに女に負けてんのかよ」
男前な力強い台詞だった。
その言葉に心臓が熱く膨れ上がった。気持ちのいい熱だった。
「すみません!」
場が大きな笑いに包まれている。その中心に、小南と自分がいる。
心地が良かった。たくさんの人に見られているのに、二人きりのようだった。
そして、小南の歯にたこ焼きの青海苔がついているのが愛おしかった。
この空間で、きっと自分しか見えていないであろう珍景。
恋愛感情を半分忘れて、素直に楽しめる時間。
夢じゃなくて、現実に見たかった。
できることなら、この夢から覚めたくない。
「だが! 明けない夜はない! 朝はいつでもカムバック! 厳しい現実へヒア・ウィー・ゴー!」
「死ね」
こんなに不機嫌な朝は初めてだった。
「楽しい夢を見たようだな。それを実際にその目に納めたいなら、手伝ってやるぜ」
布団を蹴り飛ばそうと思ったが、すでに布団はベッドから落ちていた。肌寒いはずなのに、汗で全身びっしょりだった。
「やせ我慢するからだ」
「うるさい」
おかげさまで、とは言いたくはないが、里中の目ははっきりと覚めていた。汗まみれであることを除けば、爽やかな朝だと言える。
そして、胸で高鳴るものが体中を打っていることも、くっきりと感じられた。
会いたい……。
この気持ちを、消したい。
全てを伝えて。
でも、成功する保証はどこにもない。
失敗してもいい、と頭を振るうことはできるのに、踏み出すことができないのは、自分が臆病だからだろうか。
「なあ」
「どうした?」
「もしも、お前の言うように過去に戻ることができるのだとしたら、」
「もしも、じゃなくて本当にできるんだけどな」
「記憶は、どうなるんだ?」
そういえば言ってなかったな、と影が呟く。さっきまでのふざけた調子ではなかったが、真剣そのもの、という調子でもなかった。
「記憶を持ったまま戻ることもできるし、記憶を失くして戻ることもできる」
都合がいいな、と思うと同時に「記憶を失くす選択肢なんてどうしてあるのか」と里中は天井の角を見上げた。影で暗くなり、輪郭線が白く光っているのが見えた。
「そういえば代償の話もしてなかったよな」
「代償?」
「デメリットも話さずにメリットの話だけをして悪かったな。すっかり忘れてたぜ」
本当に忘れていたのかどうかは怪しかった。デメリットを隠すことで、やり直す選択肢を手に取りやすくさせたかった可能性もある。更に言えば、ここで一言謝った上であえてデメリットを話すことで、信頼させようという意図があるかもしれない。
要領の悪い里中の脳にそんなことが思い浮かんだのは、「信じちゃダメだ」という声のおかげだろうか。自制心のおかげだろうか。
「この力は何度でも使える。だが、使うたびにお前の死が歪になっていく」
「死が、歪に?」
「ちょっとずつまともには死ねなくなる、と表現した方がいいかもな」
彼の言うことが、里中には上手くイメージできなかった。
「どういうことだ?」
「そのまんまの意味だよ。寿命死を迎えるはずの人生が病死になったり、あるいは交通事故になったり。そんなイメージだと思ってもらえればいいさ」
まるで、「死に方は生まれたときから決まっている」とでも言いたげな言葉だったが、その考え方は別に嫌いではなかった。
「なるほど」
「もう、決心はついたか?」
「今晩まで考えさせてくれ」
言ってから、おかしな言葉だと気づいた。本当に悩んでいるなら「今晩まで」なんて言わないはずなのに。
あいつもそれを気づいていただろう。だが、「了解」としか言わなかった。感情の見えない、風のない水面のような、静かな言葉。その静けさが、部屋全体を包み込んでいく。
その水面に、一滴の水が落ちた——里中の額の汗が、目に落ちた。眼球を溶かすように染み込んでいく。痛みを掻き出すよう目を擦る。そのとき、誰かの声が聞こえた。
ダメだ!
心臓が飛び跳ね、喉が張り裂けるような痛い声だった。それが、トンネルの遥か向こうから飛んできているように、エコーを続け、輪郭を失っていく。
「歪な夢」
https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/07a