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2 自分のことも。

 三年生の中盤辺りから里中は恋に落ちていくわけだが、その頃に何があったかというと、これといった出来事はない。あえて言うならば、小南が髪を束ねてポニーテールにすることが増えたことだろうか。


「髪が長いと色々面倒くさくて。でも、切るのも面倒で」


 そんなことを言っていた。

 染めていない黒髪は長く、横から見るとほとんど顔が見えなかった上に、基本的にマスクをしていたので小南は少し暗い印象だった。しかし、髪を束ねることで印象は明るくなっていた。

 二ヶ月くらいすると髪を束ねるのをやめ、また顔の多くを髪で隠すことになるのだが、当時の里中は「束ねるのも面倒になったのかな」なんて思っていた。ちょっと残念だなあ、と。

 そんなある日、小南と姫野が話していたところに里中は出くわした。


「私も髪切ろうかなあ」


 姫野が茶色のロングヘアの毛先をくるくるといじりながら溜め息を吐いていた。

 女子な会話だし、入り込むのはよしとこうかな。と思ったが。


 ん? 私『も』……?


「あれ、小南さん髪切ったの……あっ」


 ポニーテールにしていた頃は服の裾くらいまであった毛先が、今はくびれよりも少し高い位置にあった。


「気づいてなかったの!?」


 姫野が大袈裟な声を上げる。えくぼができているので、少し面白がっているらしい。


 そして、反射的に思う。しくじった、と。このままスルーしておけば「気づいていない」という事象も存在してなかったことになり、それどころか「実は気づいていた。あえて言ったりはしなかったけど」というスタンスで立つこともできた。誰も傷つくことはなかった。

 と、一瞬にして考えを巡らせた里中だったが、彼の口は頭より正直で、「ごめん、いま気づいた」と口を滑らせていた。火に油、焼け石に水、切った髪に気づかず。ここまで来たらもはや男にできることはひとつ。謝罪の準備だ。背筋を伸ばす。


 その前に一度、小南の顔色を確認してみる。マスクをしていたせいで表情は細かく分からなかったが、小南は声を荒げた。


「なんで気づいてねえんだよ」


「すみません!」


 ほんと、男の子って鈍感なんだね。

 姫野が呆れたように溜め息した。笑いをこらえきれていない口元だった。小南の声色も「激怒のふり」といったもので、本気で怒っているわけではないようだった。里中は、自身の靴先を見ながら、静かに安堵する。

 いま思うと、このときの里中は酒の度数で負けたあの男とそっくりだった。というより、小南のロックンローラーな怒号を前にすると、弱気な男子はみんなそうなる。

 それからしばらくすると、小南はまたポニーテールをするようになった。

 ポニーテールをほどいた瞬間が髪を切ったときだ、と推測した里中は、その瞬間を待った。束ねている方が好きだから名残惜しくはあったが、


「首筋がセクシーだから、ってか?」


「うるせえ。お前は現れるな」


 里中が気持ちよく青春に浸っていると、あいつが現れた。あれ以来、毎晩こいつは現れている。


「すまんすまん。どうぞ、ぜひ妄想の続きを」


「ったく。現実に戻るこの瞬間が一番悲しいんだぞ」


 では、改めて。

 今度こそは「髪切った?」と訊くことにしよう。

 数ヶ月後、それを実行した。


「あ、髪切った?」


「うん」


 終了。


「妄想に戻らない方が悲しくなかったんじゃないか?」


「そうだな。いま思うと、お前の現れたタイミングはベストだったよ」


 そういえば、「髪切った?」って聞くだけでも結構緊張したな、と思う。つくづくチキンだな、と。


「ってことは、風呂で蒸されている今のお前は、さながら鶏肉の燻製だな」


「最初から思っていたけど、お前の喩えはイマイチ上手くないな」


「心配するな。たっぷりスパイスつけて美味しくいただいてやるよ」


「肉本来の旨味を味わえ」


「それは上手い肉だけが言っていい文言だ。お前みたいな百グラム五十円のまずい肉が言ってんじゃねえよ」


「スーパーのササミレベルか……」


 胸に手を当てると、鼓動がお湯を通して体全体に響いた。未練から来る鼓動なのか、風呂に蒸せたせいなのか。


「——ってか、風呂の中にまで現れてくるんじゃねえよ! 変態ブラック!」


「その安直なネーミングセンスどうにかならんかね」


「知るか! 出てけ! 俺はまだ大浴場以外で他人に裸見せたことないんだよ! 最初がお前みたいな男なんてまっぴらごめんだ!」


「遮音性の悪いマンションの風呂場でよく言えるな、そんな童貞宣言。そういえば、この隣に住んでるのって無垢な女の子だっけ」


「違う! 三十路のビッチそうなOLだ!」


「それも多分聞こえてるぜ」


 風呂場でも黒いままの男に湯をぶっかけたが、濡れなかった。飛沫は彼を通り抜けていく。


「言ったことあるかもしれないが、俺に実体はねえからな」


 らしい。

 よく分からないが、本当に幽霊とかそのあたりの類いなのだろう。あるいは、本当に影なのか。

 今のくだりで余計に火照ってきたので、里中は立ち上がった。


「絶対に下は見るなよ」


「前も言っただろ。『俺はお前だ』って。俺だってお前と同じように男の裸なんて見たくねえよ。俺の喩えの下手さもお前譲りだ」


「黙れ童貞。二度と現れるな」


「了解。ベッドの上で待ってるぜ。お互い、初めての夜を楽しもうじゃないか」


 そして、湯気に溶け込むように影は消えた。

 その姿と反比例するように、彼と出会った夜のことが思い出される。






「人生をやり直させてやるよ」


 顔が見えないからか、冗談めかしているのか真剣に言っているのかの判別はつかなかった。


「人生を、やり直す?」


「任意のタイミングに戻って、人生をリスタートさせてやるよ。その恋をやり直したくはないか?」


「ちょっと待て。どういうことだ」


「ったくよ。何度言ったら分かるんだ」


「何度、って一回目だろ」


「そういえばそうだったな。いいか、よく聞け」


「断る」


「音情報はな、目を閉じればシャットアウトできる視覚情報みたいに防ぐことはできねえんだよ」


 耳を塞げば、なんて反論しても不毛な言い合いが続くだけなんだろうな、と諦めにも近い思いで里中はあくびして耳を傾ける。


「どうせお前はすぐに信じないだろうが、そのうち信じることになる。だから黙って聞け。薄々気づいているだろうが、俺は普通の人間じゃない」


「そうだな。不法侵入および恐喝および猥褻わいせつの容疑がかかった犯罪者だ。普通じゃない」


「お前は全身が黒い男を見ただけで卑猥なエロスを感じるのか。とんだ変態および童貞および両者の合意のない妄想上での両者の合意のある強姦に複数回及んだ容疑がかかった犯罪者だ」


「うるせえ黙ってろ。ってか、それ全部犯罪でもなんでもないだろ。思想の自由を返せ」


「黙って話を聞けと言われたのはお前だ。俺に喋らせろ」


 影がパンパンと手を叩く素振りを見せる。音は聞こえない。

 それと同時にカーテンの隙間から漏れる陽の光が強くなった。さっきまで雲がかかっていたのだろうか。


「俺は、お前を過去に戻すことができる」


 その光が影を後ろから照らす。まるで後光が射しているかのようだった。


「タイムスリップとかタイムワープとは違うぜ。時間を戻すんだ。いや、正確には別の時間軸のお前自身に乗り移る、ってところか?」


 彼が疑問符をつけているように、里中も彼の言っている意味がよく飲み込めなかった。


「まあ、なんでもいい。そして、好きなように人生をやり直せばいい」


 男の足元から影は生えていない。そのせいか、地面との遠近感がはっきりせず、宙に浮いているようにも見えた。


「失うことさえもできなかった恋を、やり直してみないか?」

「From the Steam」

https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/05-from-the-steam

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