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1 夜は嫌いだ。

「夜は嫌いだ」


 ひとり、県道脇の歩道で夜空を見上げ、里中は呟いた。向かいから俯き気味のOLが歩いてきていたが、通り過ぎる車の騒音で、その声は掻き消されたのだろう。俯いたまま、里中とすれ違っていく。

 ふと頭に浮かんだ言葉だったが、不思議と舌触りが良く、もう一度呟いた。


「夜は、嫌いだ」


 今日一日を、人生を、振り返りたくなるから。

 おかえりなさい、のない孤独な部屋。

 全ての重荷を身ぐるみ放し、重力から逃れられる風呂。

 そして、視界情報を極限まで節約する、ベッドの中。

 寝返りを打つと、湿った枕が頬を冷やした。風呂に上がってからこの瞬間までの記憶がほとんどなかった。風呂に入っている記憶も疎らだった。

 学生時代は一人暮らしでもそれなりに満たされていた。勉強やソーシャルゲーム、SNSでの会話。やることがたくさんあって、いつも夜更かししてしまっていたくらいだ。

 なのに、社会人になった今、部屋は虚無に占拠されている。前までは好きだったテレビを見る気にもなれない。ここは睡眠、起床、食事するだけの犬小屋のようだった。

 本当に犬ならまだ良かったのに。何も考えず、主人の命令に従うだけだったら、楽だったのに。


「『楽』と『楽しい』って割と真逆だよね」


 あの人の言葉が、白い脳をセピア色に染めていく。


「楽してもイマイチ楽しくないし。そう思わない? さーとなーかくーん!」


 快楽と酩酊の喧騒を背後にした、お酒で頬を染めたあの子の調子はずれの声。音が途切れて意識が暗闇に戻ると、心臓がその存在を主張していることに気づいた。

 キュンキュン、なんてかわいらしい表現は似合わないが、他の表現も思い浮かばない。


 会いたい……。


 胸の前で手を握りしめる。






 小南さん。

 いわゆる「クラスの地味な女の子」だった。洒落っ気などはまるでなく、言葉数も多くない。長い髪も「おしゃれ」というよりは「ただ切ってない」という印象で、そのせいか表情もやや暗く思えた。

 その印象が「異性慣れしてなさそうだなあ」に発展していく。高校時代まで異性に慣れてなかったのは里中も同じではあったが。

 また「アニメとか好きそうだな」という印象もあった。

 里中も深夜アニメは毎クール二本程度見ており、オタクとは呼べなくとも十分にアニメ好きだと言うことはできた。一年生の梅雨頃、小南が友達と昨日のコメディーアニメの話をしているのに食いついたのが、初めての会話だったかもしれない。


「あのシーン面白かったよな。めっちゃ笑った」


 小南と一瞬だけ目が合った。どこか警戒心が含まれた目だった。

「私も大声出して笑っちゃって」と嬉しそうに手を叩いたのは友達——姫野の方だった。彼女は高校のときに共学の野球部のマネージャーをしていたらしく、里中や小南とは対照的に異性慣れしていた。コミュニケーション能力も高く快活で、誰とでも仲良くできる女性だった。

 もちろん里中と会話したことも多くあった。それまで女性慣れしていなかった里中だったが、彼女のおかげか、入学して数ヶ月のこの頃には、異性に話しかけることにある程度の抗体を持つことができていた。


「大声で笑っちゃって、お母さん起こしちゃったの。何時だと思ってんのよ! って。でもお母さんも所詮私のお母さんだから、その後一緒に見ながら爆笑して。なんでだか分からないけど、今朝、お父さん不機嫌だったね」


 そこで初めて小南が口を開けた。少し虚ろそうに溜め息を吐いて。


「いいなあ。お母さんがいて」


 本人から聞いたわけではないのだが、当時の彼女はホームシック中だったらしい。

 学校に通うため、新潟の実家からこちら(東京)に出てきて寮で暮らしているのだ。


「あっ」


 そんなことを当時の里中は知らなかった。小南はそれに気づいたようで、ここで二度目に目が合った。白目の面積の少ない、リスを思わせる丸い目だった。


「お母さんが死んじゃったわけじゃないよ! 寮暮らしってだけで!」


 顔が赤く見えるのは、変な誤解を与えてしまったと思ったからなのか、異性と話すのが慣れてないからなのか、はたまたニキビのせいでそう見えただけなのか。今でも真相は分からないが、里中は「仲良くなれそうだ」と感じ、微笑んだ。


「寮ではないけど、俺も一人暮らしなんだ。よろしく」


「う、うん……。よろしく……」


 三度目に目が合った、とはならなかった。


 四年間の大学生活の最初の二年半、里中にとって彼女はただのクラスメイトだった。異性の友達でもあり、同じ専攻を選択し、いくつかの授業を四年間を共に受けることになった戦友でもあった。

 何がきっかけだったかは分からない。とりあえず分かるのは、里中はこれまでの人生で一目惚れなどしたことがなく、恋をするときはいつも相手の中身に徐々に惹かれていって、LOVEともLIKEともつかない期間を経て、いつの間にか恋に落ちてしまっている、ということ。小南もそのひとりではあるが、出会ってから恋心が生まれるまで二年以上もかかったことは初めてだった。


「ねえ、アルコールどれくらい摂った?」


 大学生活最後の飲み会。

 気持ちよく酔っぱらった小南が居酒屋のメニューを開きながら隣の男子に聞いていた。里中はそれを少し遠くから見ていた。首を傾げて揺れるポニーテールに見とれていた。明るくなったなあ、と昔の彼女と今の彼女を重ね合わせて。

 一年生のときは「男子に話しかけるなどもってのほか」という印象だったが、この頃にはそんな光景も珍しくなかった。特に、お酒を飲んでいるときは。


「ウチは三と三と五と……。足して、二十四だね」


 飲んだ酒のアルコール度数を足しているらしい。アルコール摂取量を計算するにはお世辞にも合理的とは言えない手段だが、その会話に参加していない里中も数えてしまっていた。


「僕は、二十二……かな」


 里中が計算している最中、小南と話していた男子が答える。里中は彼と仲が良く、互いに気を許せる関係ではあったが、この日に限っては気に入らなかった。気を緩めると睨んでしまいそうだった。

 うん、そうだね、二十二だ。と彼は指を折りながら再度答える。検算していたらしい。酒を飲んでいても石橋を叩いて渡るような慎重さが発揮されるような真面目な男で、そういうところが彼の魅力でもあった。でも「小南と楽しそうに話している」という条件が付加されると、その慎重さが憎らしく思えてくる。その上、里中が度数の足し算を終えたのが彼の検算の直後で敗北感があったため、尚更だ。

 里中も二十二だった。

 お前と同じかよ、石橋叩きすぎて割って路頭に迷え。

 ため息して酒グラスをぐいっと傾ける。ほとんど氷しか入っておらず、薄くなったチューハイの香りが微かに広がっただけだった。


 なんだよ、と小南は少し枯れた声を上げた。


「男のくせに女に負けてんのかよ」


 予想外のたくましい言葉に、思わず里中は咳き込んでしまう。グラスに酒がたくさん入っていたら、盛大にぶちまけてしまっていたことだろう。

 小南の言葉がツボに入ったのは里中だけではなく、話が聞こえていた全員だった。大いに場を盛り上げた。隣の男は「すみません!」と笑いながら頭を下げている。それを見て、小南も上機嫌に笑っている。

 このときでも小南は「クラスの地味な女の子」だった。異性慣れしてもアニメは毎クール五本以上見るらしいし、彼氏ができたという噂も煙も立ったことがなかった。

 変に恋愛対象としてみられることが少ないことや、酒を飲むと上機嫌になること、ときどき男のような力強い台詞が飛び出すことも相まってか、彼女はクラス内で愛されていたとも言える。

 そのようなことも起因して、里中は彼女に想いを打ち明けることができなかった。

 付き合いを断られると残りの大学生活すべての時間、クラス内に微妙な空気を流してしまうかもしれない。

 そんな心配が、一年半も里中の恋心をやせ我慢させていた。

 それなら、どうして最後に打ち明けられなかったのか。

 何度も自問自答してきたが、答えが分からなかった。ただ、「何事もなく終われて、これで良かったんだ」という気持ちはあった。言い聞かせるような気持ちが。

「夜は嫌いだ」

https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/03a

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