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9 冬の吐息のような

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 俺は浮いている。フワフワと浮いている。

 でも、俺はどこにもいない。その目に夜景を映すも、その目はどこにもない。

 夜の空気に溶けるようだった。溶けていても、その空気の冷たさは感じられない。かといって暑さもない。

 視界は端に行くにつれて白く靄がかかっていく。それがフワフワとした気分の原因のひとつだろうか。

 腕を動かす感覚も、足で地を踏む感覚もない。まるで空気だった。

 少しだけ、気持ちが良かった。


 目に映っているのは、家の近くの公園だった。一度告白したあの場所だ。

 その自販機が視界の真ん中に位置している。そこへ、誰かが近寄ってきた。視界がその人物にズームしていく。

 その人物は、里中だった。

 そうか。

 どうやら俺はいま、本当の世界の自分を見ているらしい。


 彼は自販機に小銭を入れ、250mlの水のボタンを押した。ガコン、と音が鳴るともう一度押した。取り出し口に手を伸ばし、ペットボトルを二本取り出した。

 彼はそれらを一度右手に持ち、左手で鼻を掻いた。そして歩いていく。その足元はどこかおぼつかない。ずいぶんと酔っ払っているらしい。

 あのときの俺も他人から見ればこうだったのか。

 いや、違う。

 あのペットボトルの内の一本は、俺自身のためのものだ。あの俺は酔っているらしい。

 彼は体をふらつかせながらベンチへと近づいていく。そのベンチに座っているのはもちろん、彼女だった。


「大丈夫? 里中くん。ウチのこと言えないくらいに酔ってるみたいだけど」


「あはは、確かにそうかも」


 すると、小南は手を口元で覆って「はー、はー」と息を吐いた。指の隙間から白い煙が上がり、消えていく。


「寒いね」


「寒いね」


「何も考えずに冷たい水買っちゃった。ごめん」


「いいよいいよ、ちょっと喉乾いてたから。温かいのがいいなあ、なんて思ってなかったし」


 里中は彼女にペットボトルを渡す。彼女が「ありがとう」と微笑むと、彼は嬉しそうに口角を上げた。幸せそうな顔だった。


「あー、生き返るー」


 水を飲んで小南が無邪気な子供のように言う。


「あー、生き返るー」


 里中も親父臭く言う。

 そして、二人笑い合う。

 小南がバッグを開けようとすると、「お金はいいよ」と里中が制した。


「たった百円を女の子に請求するなんて、男じゃないよ」


「でも、悪いよ。こんなに寒いのに足を止めちゃって。早く帰りたいでしょ」


「気にしないで。早く帰ってもどうせひとりだし、俺自身、頭がくらくらするし。それにさ、小南さんといると、すごく楽しいから」


 俺が楽しんでる報酬だと思ってもらっていいよ、と彼ははにかむ。きっと照れ隠しだ。すると、今度は小南が照れ隠しのように視線を逸らした。嬉しそうに頰を綻ばせながら。


「じゃあ、お言葉に甘えて。でも、報酬としては少ないね」


「ごめんなさい!」


「冗談だよ! いらない要らない! 追加報酬いらないから!」


 彼が「ごめんごめん」といらずらに微笑むと、小南はうつむいた。上品に閉じた脚の隙間に、両手で包んだペットボトルをちょこんと置いた。ペットボトルを撫でるように指をモジモジと動かす。


「それに、ウチもね、里中くんといると、……楽しいから」


「え?」


 見ていて恥ずかしくなるような、ぎこちないやりとりだった。あのときの俺もこうだったのか、と思うと一層不愉快なような、愉快なような。


「あの、俺——」


 うまく呂律が回っていない。水を飲んで喉を潤していても、回らないものは回らないようだ。

 小南の丸い目が里中に向けられる。その目は何を期待しているのだろう。それとも、何も期待していないのだろうか。

 彼が乾いた息を飲むのが、見えた。

 頑張れ、俺!


「俺、小南さんのことが、好きです。もしよかったら、付き合ってくれませんか」


 え、と小南の掠れた声が力なく漏れた。

 そして、二人が見つめあったまま、じれったい沈黙がしばし流れる。

 もう告白の言葉を言った後だと言うのに、俺は「頑張れ!」と念じていた。最後まで諦めるな、と。その結末は知っていると言うのに。


「……あはは」


 小南が笑った。


「からかわないでよー、もー。おかげで酔い覚めたよ。ありがとう。そのためにびっくりするようなこと言ったんだよね」


「い、いや……」


「さ、早く帰ろう!」


 勢いよく立ち上がり、髪を揺らす小南。そのくしゃっとした笑顔は、ドラマのヒロインのように、あまりにも魅力的だった。あまりにも、かわいかった。


「う、うん……」


 そして彼らは公園を出た。小南は宣言した通り、ある程度酔いが覚めているようだった。里中もさっきよりは足取りが安定していた。二人の手には水の残ったペットボトルがあった。

 ときどき里中は隣の小南に目をやっていた。目が合わないことを確認すると、悲しそうに路地に目を向けた。すると、今度は小南が里中を見た。目が合わないことを確認すると、残念そうに道路に目を向けた。

 そうだったのか、小南さんも俺のことを見ていたのか。

 そのすれ違いが切なかった。もしここでお互いが顔を合わせていたらあんなことは起こらなかったのかもしれない。

 そうか、あれは起きるのか。

 これ以上はつらくて見ていたくなかった。でも、今の俺には閉じる瞼すらもない。流れる映像を眺める以外は何もできない。

 そしてついに、それが起きる。


「里中くん」


「——えっ、あ、はい」


「えっと、あの……。その……さっきの——」


 小南が雑誌の切れ端に足を奪われた。そして、バランスを失い、歩道の段差につまづいて後頭部から道路へ倒れていく。里中の手がそれを追いかけるも、虚しく宙を切るだけだった。

 彼女の頭がアスファルトにぶつけられると、短い悲鳴とともに彼女の目が痛々しく閉じられる。里中は彼女の名を叫んだ。耳を塞ぎたくなるような叫びだった。彼は手を伸ばして駆け寄る。

 そして、小南を光が照らした。猛スピードで走るバイクだった。甲高いブレーキ音を立てながら小南へ突進していく。


 やめろ! もうこんな景色見たくない!

 そう思ったときだった。

 里中が、小南へ飛びついたのだ。一度抱きしめる形になる。小南の目が虚ろになる。

 そして、彼は胸の中にいる大切な人を、投げた。歩道へと投げたのだ。その目には、一切の思考が感じられない。迷いが感じられない。


 ——人が死の間際にいるときに想うのって自分のことじゃないんだって。大切な人のこと、なんだって。


 そして、彼の背中がバイクに衝突する。


「里中くん!」


 小南の悲痛な叫びが上がる。

 その声と共に、徐々に意識が薄くなり、白く溶けていく。


 ああ、そうだったのか。

 本当に轢かれていたのは俺の方だったんだな。

 酒の力で、本能が自制心に勝ったんだな。

 よくやったぜ、俺。


 そして、眠気のような力の抜ける感覚と共に、白い視界が黒く染まった。






 里中は横たわっていた。真っ暗な世界にいた。何も見えない。何も聞こえない。匂いさえも感じられない。

 ただ、かすかに鼓動が聞こえる。どうやら死んではいないらしい。どのくらい時間が経ったのかは分からないが、こうして意識があるのに動けないということは、意識不明の重体、といったところだろうか。植物状態なのかもしれない。

 そうか、植物状態ってこんな感じなのか。

 そんな呑気なことを考えてしまう。

 そのときだった。


「里中くん……」


 すぐ近くで声が聞こえた。忘れるはずのない声。愛しいあの子の声だ。あの子の声が、全くの雑音を持たずに感じられる。耳からではなく、心に直接。

 でも、今まで聞いたことのない声色だった。

 涙ぐんでいるのだ。


「聞こえる? ここはね、病院だよ。なんとか一命は取り留めたみたい。だけど……」


 空気に語りかけるような口調は、聞いているだけでも痛々しかった。


「ウチがあんなにお酒飲んじゃったから、里中くんは……」


 鼻をすする音が聞こえる。どんな顔をしているのだろうか。今まで誰も見たことがないような、ひどく崩れた顔なのかもしれない。


「こんなことになるんだったら、本当の気持ち伝えておけばよかった……」


 本当の気持ち……?


「あのね、里中くん。ウチね、ずっと里中くんのこと好きだったんだよ。里中くんは、ウチの大切な人だったんだよ……」


 その告白に、彼は驚きも喜びも、悲しみもしなかった。ただ、冷静と戸惑いの狭間で言葉に耳を傾けているだけだった。


「里中くんは、ウチの男の子みたいなところも受け入れてくれた。好きだよ、って言ってくれた。それが、すごく嬉しかった」


 そうだったのか……。

 徐々に小南の気持ちが里中の心に浸透していく。


「ウチみたいなみっともない女の子を受け入れてくれて嬉しかった。こんな気持ち初めてだった……」


 みっともなくなんてないよ。小南さんは、かわいくてやさしくて、素晴らしい女の子だよ。

 そして、俺の、かけがえのない大切な人だ。


「ウチはずっと自分のことが嫌いだった。体は弱いし、心も貧弱で不安定で。でも、自分の中にある男の子っぽいところだけはちょっと好きで、憧れていて。でも、そこを表に出すと、周りから変な目で見られたり、直したほうがいいって言われたりして。ウチは好きなのに、そんな自分でありたかったのに、それを否定され続けて。そんな中で、初めてそこを好きって言ってくれたのが、里中くんだった。単純だって思われるかもしれないけど、ウチは里中くんを好きになっちゃったの。ほんと、笑っちゃうくらい単純だよね。やさしい言葉ひとつで恋に落ちちゃうなんて」


 大丈夫だよ。俺だって十分に単純だから。


「でも、ウチは自分に自信がなかった。里中くんが振り向いてくれることなんて絶対にないと思ってた。何年間もずっと、苦しかった。毎晩苦しかった。里中くんのことを想うたびに苦しかった。でも、里中くんと一緒にいる時間は、すごく楽しかった。今までずっと内気で、男の子とまともに話したこともなかったウチが、初めて知った喜びだった」


 そっか。ずっと苦しかったんだね。俺も、ずっと苦しかった。


「そんな自分のことは好きだった。告白できずにくよくよ悩む自分は嫌いだったけど、里中くんと一緒にいる時間を楽しむ自分のことは、大好きだった」


 俺も同じだよ。一人で悩む自分は嫌いだったけど、小南さんと楽しむ自分のことは好きだった。


「だからね、里中くんがウチに告白してくれたとき、すごく驚いたの。ウチなんかのことを本気で好きになってくれるわけなんてないと思ってたから。からかわれたと思ったの。ウチの気持ちを誰かから聞いていたか、ウチの単純な心に気づいていたか。わからないけど、遊ばれてるって思ったの」


 俺も、小南さんが自分のことが好きなんじゃないかって思うたびに、「自分のことを好きになってくれるわけがない」って否定してたよ。お互い、素直に受け止めておけばよかったね。


「でもね、ウチがバイクに轢かれそうになったときに助けてくれたよね。抱きしめてくれたよね。あの瞬間、里中くんの告白がそんな不純なものじゃなくて、本物だって気づいたの。伝わったの。でも、ウチにはもう、里中くんを疑ってしまったことを直接謝ることすらできない……。ごめんね。ほんとうにごめんね……。やさしい里中くんがそんな嘘をつくはずなんてないのに……ごめんなさい……」


 謝らなくていいよ。いや、謝らないでくれ。そんなに涙を流さないでくれ……。俺まで泣きそうじゃないか……。


「ずっと、ここにいるね。それが、ウチにできるせめてもの償いだから。それに……」


 里中の手が握られた。そして、全身が麻痺しているはずの里中に、それが伝わった。感覚なんて何もない。自分の体が空気やシーツに触れているという感覚もない。それなのに、手だけが存在しているように、その温もりがぼんやりと感じられた。涙で湿った小さな手の温もりが。


「ずっと、里中くんと一緒にいたい。ずっとお喋りしたい。たとえ返事が来ないのだとしても。ずっと、里中くんを感じていたい……」


 ああ……。


 里中は思う。

 俺はいま、幸せだ。


 昔の彼はきっと、全身が不自由となり、植物状態となったことだけを悲観していたんじゃないだろうか。苦しんでいたんじゃないだろうか。

 だから、人生をやり直した。

 こうして小南を感じることだって、あのときの里中にはできなかったのかもしれない。できたとしても、幸せに感じることはできなかったのだろう。

 だから、大切な人と歩むことを許されない運命だと悟り、記憶を捨て、大切な人と離れ離れになる道を選んだのだろう。

 でも、その道を歩んだ彼は知っている。想いを伝えられなかった悔しい喪失感を知っている。目の前で大切な人が血を流した悲しい喪失感も知っている。

 だから、自分のことを想ってくれている人がいる幸せを知っている。手を繋いでくれる人がいる喜びを知っている。

 その喜びは、体を動かせない苦しみに、遥かに打ち勝つのだ。

 大切な人を泣かせてしまっているのはつらい。でも、生き別れた先でも、里中は彼女を泣かせることになるのだ。どのみち泣かせることになるのなら、そばにいてやりたい。寄り添っていたい。一緒に涙を流したい。


 だから、彼は幸福を手にしている。この上なく幸せを、その手に掴んでいる。

 彼は誓う。この道を受け入れ、大切な人のそばにいることを。

 もうやり直したりなんてしない、と。


「ずっと、一緒にいるからね」


 清らかで深く澄んだ水流の中に、里中はいた。黒いもの、濁ったものだけが、体の内側から漏れ出て水に溶けていき、下流へ流れていく。遠く遠く、流れていく。でも、彼自身は流れていかない。なぜなら、かけがえのない人が、愛する人が、支えてくれているから。手を握ってくれているから。冷たい水の中で全身を温めてくれる、やわらかい手があるから。


 ずっと、一緒にいよう。


 彼は、心の中の目を瞑った。安らかに、ゆっくりと、目を瞑った。冬の吐息のような温もりに包まれながらーー。



































「あなたは、誰?」


 それは、突如として現れた言葉だった。湿っているのに、枯れたようにか細い、小南の声。

 彼女以外を感じることはできない里中には、その言葉が理解できない。誰にかけた言葉なのか、それとも、ひとり言なのか。

 里中の思考の追いつかぬうちに、小南が次の言葉を発した。


「人生を、やり直す……?」


 清純な水流が止まり、手を包む握力が弱まった。

 そして、その川は濁っていく。体を包む温もりが薄れていき、泥水の冷たさが手首を掴み、腕を這いつくばり、首を絞め、のどへと押し寄せて来る。


 まさか。


「恋をやり直す……。そんなこと、できるの?」


 その言葉に、里中は跳ねるように起き上がる、その感覚だけが空振りする。


 ……駄目だ。

 駄目だ! やり直しちゃ駄目だ! 結局やり直しても、同じことが起こるんだ!


 彼がいくら叫ぼうと、もがこうと、小南には届かない。彼女の視界には、病室で横たわる里中のことなんて、すでに入っていないのだから。

 しばらくの沈黙の後、「お願いします」と聞こえた。震えながらも、芯がある言葉だった。


「大丈夫、大丈夫、大丈夫」


 自らに言い聞かせるような重たい声だった。

 そして、四度目が唱えられる前に、繋がれた手が消えた。


 そんな……。


 ——この力は何度でも使える。だが、使うたびにお前の死がいびつになっていく。ちょっとずつまともには死ねなくなる、と表現した方がいいかもな。


 思い返せばバイク事故で里中は死んでいない。背中から衝撃を受けての植物状態だ。だが、小南はどうだろう。体が弱い上に、その衝撃を正面から受け止めたのだ。事故直後に息があったとしても、助かるはずはない。


 ——寿命死を迎えるはずの人生が病死になったり、あるいは交通事故になったり。そんなイメージだと思ってもらえればいいさ。


 つまり、人生をやり直す力を何度も使用し、歪な死を経験するのは、小南の方だったのだ。






 誰の声も聞こえない。誰の気配も感じられない。温もりさえも、冷たささえもない。

 ただの暗闇だった。

 この部屋からも——この世界からも——小南は消えてしまった。もう、声を聞くことも、存在を感じることもできない。どこかで元気にしてるかな、なんて心配することもできない。


 そんなの、嫌だった。確かに、この世界だと里中の体は二度と動かないかもしれない。でも、小南の存在は感じられた。

 恋を諦めて後悔し続けていたあのときより、ずっと温かい時間だった。


 だが、もうあの子はいない。この世界にはいない。永遠にいない。

 死んだ方がマシだ。だが、意識だけがあって体を動かせない里中では自殺さえもできない。


 いや、それどころじゃない。

 里中はあることに気づいてしまった。それは、傷つき果てた彼の心に、更に追い討ちを駆ける事実だった。


 人生をやり直す力で、この世界から小南は消えた。

 つまり、同じように里中も消えていたのだ。社会人になって暮らし始めたあの部屋からも、小南がバイクに轢かれたあの場所からも、飲み会の場のトイレからも消えたのだ。

 小南が轢かれた惨たらしい光景が蘇る。あのとき、小南の息は微かに残っていた。ひょっとすると意識があったのかもしれない。そんな小南の目の前で、里中は消えたのだ。里中は逃げたのだ。


 ——人が死の間際にいるときに想うのって自分のことじゃないんだって。大切な人のこと、なんだって。


 死の間際にいた小南は、大切な人である里中のことを想っただろう。一緒にいた里中のことを感じていただろう。

 その大切な人が、消えたのだ。

 きっと、今の里中と同じ喪失感があったはずだ。


 飲み会でもそうだ。彼女は席を立った大切な人を待っていただろう。でも、その大切な人は別の世界へ行ってしまい、もう帰って来ない。待てども待てども帰って来ない。


 そう。

 里中は、小南を傷つけ続けたのだ。なんども、何度も。


 俺は、なんてことをしてしまったんだ……。

 なんて自分勝手だったんだ……。


 何も感じられない体だというのに、潰されそうなほど胸が重かった。縦長の鉛の塊が肋骨に沿って体に埋まり、筋肉が癒着していくような息苦しさと吐き気だけがあった。吐くことを許されない、残忍な吐き気だ。

 社会人から学生に戻ったときの小南と、事故に遭ってから戻った後の小南の言動は明らかに違っていた。せめてそこで気づくべきだった。気づき、真実を知ることよりも彼女との時間を過ごすことを優先すべきだった。

 そこで里中は気づく。ずっと気になっていた違和感の正体を。事故後の世界での小南は居酒屋の外にいたときからマスクをしていなかった。「自分がタイムスリップしたことで過去が変わり、そこから芋蔓式に様々な変化がもたらされ、一見関係のないように思えることにまで影響を与えてしまう」という理論が存在するのだとしても、里中に会う前にまで影響を及ぼすはずなんてない。

 ひょっとすると、その光景も過去に見たことがあったのかもしれない。何度繰り返されているかも分からないこの輪廻のどこかで既視していたから、違和感が少なかったのかもしれない。


 もし気づいていれば。

 それでも後悔はあっただろう。自分自身が誰よりも大切な人を傷つけていたという事実は変わらないのだから。

 でも、どこまで続くか分からない暗闇を、後悔と二人きりで過ごすことはなかったはずだ。

 大切な人と一緒に人生を歩むことができたはずだ。傷を少しでも癒すことはできたはずだ。さっきまでの里中のように、幸せな気持ちに満たされることはできたはずだ。


 嫌だ。こんなの、嫌だ。

 大切な人を傷つけるだけ傷つけては逃げていたなんて、嫌だ。

 罪を償うことさえもできないなんて、嫌だ。

 このまま永遠に孤独なんて、嫌だ。

 こんな気持ちを抱えたまま永遠に暗闇なんて、嫌だ。


 いっそのこと、全て、なかったことにしたい。


「呼んだか?」


 それは、里中の声だった。


「よお。また会えたな、相棒。まあ、こうなるのはずっと前から知ってたけどな。ずっと、ずっと前からな」

「First Night」

https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/17-first-night

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