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8 その恋は






 徐々に音が蘇ってくる。耳にぶつかる風の音、上空から降り注ぐ高速道路の騒音、あちこちの建物から視線と共に群がる野次馬の雑踏。救急車を呼ぶ誰かの声。一定のリズムを刻み続けながら空回るバイクのエンジン音。

 理解が追いつかないまま、ゆっくりと、きしみそうな首を動かす。

 里中に足を向ける形で小南が倒れていた。純白のコートはえぐられたように黒く穢れている。乱れた髪で顔のほとんどは覆われ、半開きの唇が髪の隙間から見えるのみだった。

 さらにその数メートル奥へブレーキ痕は伸び、その先にはバイクと運転手の男が倒れていた。あまり遠くまで飛ばされていないところや、道路にブレーキ痕が刻まれているところを見るかぎり、衝突したときにはある程度スピードを落としていたようだった。

 少しずつ現実が明るみを帯びていく。停電の暗闇の中で夏のじりじりとした陽が昇るように、事実の形がはっきりと見えてきた。


「小南さん……、小南さん!」


 ほんの数メートルなのに、まるで山を一つ越えるような負担がかかっているかように、足が重たかった。その痛みを押しのけ、彼は一心に駆け寄る。


「小南さん!」


 彼女を抱きかかえ、里中は叫ぶ。息を切らしながらも叫ぶ。喉はすでに乾ききっていた。それでもなお里中は叫ぶ。何度も叫ぶ。時に咳き込み、声を裏返しながらも叫ぶ。


「小南さん!」


 その体は、軽かった。人生で初めて異性を抱きかかえる実感なんて微塵も感じさせない、人形のような軽さだった。

 砂や埃で汚れた髪を払い、里中は彼女の顔を見る。バイクと衝突したのは体で、頭を打ち付けたのも後頭部だったためか、顔は綺麗だった。苦痛に歪むでもなく、眠っているように安らかだった。


「小南さん……」


 彼女の耳まで届いているかも分からない、掠れた声だった。

 そのとき、かすかだが里中の唇に温かいものが当たった。吐息だ。

 どうやらまだ息はあるらしい。だが、意識が戻る気配はなかった。


「どうしてこんなことに……」


 どうしてこんなことになってしまったのか。何が原因だったのか。

 足を滑らせたことか。小南が体勢を崩した場所を見る。雑誌の切れ端はすでに風に飛ばされてしまったようだ。

 あのとき、小南は何を言おうとしたのだろう。さっき、と言っていた。きっと里中の告白のことだろう。

 告白さえしなければこんなことにはならなかったのだろうか。

 頭を振り払う。違う、重要なのはそんなことじゃない、と。

 バイクが近づいているのが見えた瞬間、里中の体は動かなくなってしまった。すぐに動けたとして、あの状態から小南を引っ張り上げることは不可能だった。だが、里中が飛び込み、身を呈して彼女を助けることは、十分にできた。

 里中はそれをしなかった。いや、できなかった。

 なぜ。

 自分を守ろうとしたからだ。大切な人よりも、自分のことが大切だったからだ。

 それが、里中の本能——自制心だった。


「こんなときにまで、お前は俺を邪魔するのか……っ」


 そんなに俺を苦しめるのが楽しいのか。想いを打ち明けられずに俺を苦しめ、チャンスを掴むことさえも阻止しようとした挙句、想いを打ち明けた後にも、お前は俺を傷つけるのか。

 それだけに飽き足らず、この子にこんな目を合わせるのか。そして、また後悔で俺を苦しめようとするのか。


「あーあ、無残なことになっちまったな」


 その声は、あいつだった。


「……何しに来た」


「うーん。こんな小さな静止物をバイクでも避けられないとは、酒気帯び運転かね。小南さんの方はかすかに息はあるようだが、今から救急車が来て緊急手術したところで助かる可能性は低いだろうな」


「うるさい」


 その声は、まるで拗ねた子供のようだった。里中の目は涙で赤くなっている。音を立てて鼻をすすり、声を震わせている。


「おいおい、倒れてる小南さんより醜い顔になっていいのかよ」


「黙れ!」


 影の姿は里中にしか見えない。その声も里中にしか聞こえない。

 彼の叫びと共に、野次馬も静まり返る。


「冷やかすなら帰れ……っ。来るな……」


「別に冷やかしに来たわけじゃねえよ。お前にもう一度チャンスを与えに来てやったのさ」


 チャンス。

 その単語に、里中の嗚咽が止まる。


「どうだ、やり直すか?」


「……できるのか」


「できるさ。何度だってな。お前の気が済むまでやり直し続ければいい」


 といっても事故のすぐ前に戻るのは無理だな。

 彼はそう続けた。


「そんなに近い過去には戻れない。せいぜい飲み会前が限界だ」


 小南の笑顔が脳裏をよぎる。姫野や里中の冗談を楽しむ顔。強い言葉を吐いて上機嫌に微笑む顔。そして、恥ずかしそうに紅潮する顔。

 それを、もう一度見ることができる。


「——それでいい」


「小南さんが死ぬのを見届けるくらいまで待てば、事故前からやり直せるかもしれないぜ?」


「前でいいと言ってるだろ」


「りょーかい。そんなに飲み会を楽しみたいんだな」


 否定はできなかった。小南の無残な姿をこれ以上見ていられないから早く戻りたい、という気持ちが本心ではあったが、「飲み会を楽しみたい」というのもあながち間違いではないようだ。


「じゃあ行くぜ。目を閉じな」


 今度こそ、幸せを掴む。

 かけがえのない人を、悲しませない。苦しませない。

 絶対に傷つけない。


 小南の白い顔に目を向ける。

 もう、絶対に苦しめないからな。





   - w × r × -





「おまたせー」


 聞き覚えのある声が耳に入る。里中は反射的に顔を上げた。

 小南がいた。汚れのない白いコートが薄暗い夜の町に、輝いていた。


「小南、さん……」


 輪からはみ出ていた彼の、吐息のような声は、誰にも届かない。

 ここは……。

 小南がいた。姫野がいた。みんながいた。

 ここは飲み会前に集合した広場だった。


「寒いね」


「ほんとそれだよね、屋内に待ち合わせればよかった」


 数時間前に聞いたばかりの会話。数時間前に見たばかりの景色。そして、数分前に見たばかりの、笑顔。

 生温かいものが込み上げてくる。さっきまで目から頰へ流れていた筋の残像を、再びなぞるような予感があった。必死に歯を食いしばる。拳を震わせる。

 流すもんか、流すもんか。俺は泣かない——涙は見世物じゃねえ。

 みんな揃ったね、と姫野が言った。メイクがバッチリと決まった綺麗な顔だった。

 感情をごまかすために「ウォータープルーフにすればよかったのに」と呟いてみる。聞こえてたら殺されるな、と思いながら。

 自然と笑顔がこぼれた。笑顔は、見世物でもいい。


「出っ発ぁーつ! 飲むぞー!」


 先頭の姫野が拳を空に掲げると、ノリのいいキャラクターの学生たちも手を掲げた。小南も「おーっ」と拳を突き上げたことに、里中は少し驚く。緊張していたせいか前回の記憶はあまりないが、彼女の控えめなキャラクターを思うと、意外だった。最後の学生生活を楽しもうとしている、ということだろうか。

 里中も、控えめに肘から先を天に向けた。


 そして集団はぞろぞろと目的地へ向かい始める。広場から道路へ入ると共に、自然と列が出来上がる。不揃いではあるが二、三人で横に並ぶ形になった。

 里中はさっきよりも幾分前の方にいた。最前列の小南のところまで行きたかったが、そのあたりは女子だらけで近づきづらかった。どうせこの後広い道に出てばらけるんだ、と今は我慢することにする。

 昔は近づくことに勇気が必要だったのに。億劫だったのに。

 自分の心境変化に顔が綻ぶ。人は変われるんだな、なんて陳腐なことを思う。大切な人を失うつらさは強いんだな、と。『つらさは強い』という語彙力の低い言葉がおかしくて、また苦笑してしまう。

 ひとりで何をにやけてるんだろう、と笑顔を我慢すると、さっきまで涙を堪えていたことを思い出した。いつの間にか忘れてしまっていたようだ。順調、と言えるのだろうか。


 後ろを見て、さっきの人生で「どうしたんだよ、暗い顔して」と話しかけて来た彼に目を向ける。他の友達と笑いあっていた。飲み会で隣に座っていたはずだが、里中は彼と何を話したか覚えていなかった。何かを話した記憶はある。小南のことなら何から何まで思い出せるのに。


 それがおかしくて、またひとりで笑みをこぼす。すると、小南が振り返った。目が合った。

 あ、やばい。そう思って笑みを堪えようとしていると、姫野も振り返った。目が合った。


「里中くんがひとりで笑ってる」


 こわーい、きっと変な妄想してるんだよあのひとー、と姫野が棒読みで煽ってきた。少しずつ前列の女子たちがばらけて来ていたので、里中は「違う違う」と手を振って近づいていく。


「うるさい」


「なに考えてたの?」


 未来のことを思い出していた、なんて話すわけにもいかず、どうしようかと思っていると、口が勝手に「思い出し笑いだ」と動いていた。


「さっきひとりでこけたこと?」


 そんなことあったな、と思う。いや、


「ひとりじゃないだろ」


 なんのこと? と小南が首をかしげる。姫野に主導権を取られると話を盛られることは明白だったので、先に「さっき駅で姫野さんに後ろから押されてさ、こけちゃって」と話した。


「あー、つまり姫野っちが話を盛ったってことね」


「話が早くて助かる」


「いつから私はペテン師キャラになったのかしら」


 日々真面目に行きているだけなのに! と姫野は顔を手で隠して嘘泣きの仕草をする。


「そういうところだよね」


 ぼそっ、と言う小南。声量の割にはずいぶんと楽しそうだ。普段はいじられる側であることの多い彼女だが、いじることの方が好きらしい。

 これからはいじられる側に回ろうか。と思うが、冷静に考えてみると今までも十分にいじられていた気がする。これまで通りでいい、ということだろう。きっと今さら何をしようと、告白が真に受け止められることはなさそうだし。

 最後の最後で気を抜かなければ大丈夫。この子をあんな目に合わせないようにさえすれば。


「ここ初めてだね〜」


「美味しいのかな」


 その聞き覚えのある会話に、目的地へ着いたことを知らされる。さっきまでのイレギュラーなやり取りは、里中が一人で歩いていたため生じたことで、ここからまた同じ現実に戻るのだろう。


「里中くんは、ここ来たことある?」


「うん」


 二回くらい行ったことがあるよ、未来で。

 とは言わない。


「どうだった? 美味しかった?」


 小南が少し首を傾げて里中を見上げる。ひょっこりと顔を見せる小ぶりな前歯が可愛らしかった。


「わりと美味しかったよ」


「それなら良かった。そんなに安くないし、外観も結構いい感じだし」


 これでまずかったらキレてやる、と小南は自嘲気味に笑う。

 それを見て、里中は一言加える。


 「でも、ちょっと水割りが薄いかな」


 その後も、彼らはくだらない話にふけていた。前の人生では小南と姫野が会話するのを里中が後ろから見守るような構図だったが、今は三人で話していた。

 その変化に里中は驚いていた。

 ひょっとするとあれか。SFでよく見る「自分がタイムスリップしたことで過去が変わり、そこから芋蔓式に様々な変化がもたらされ、一見関係のないように思えることにまで影響を与えてしまう」というものだろうか。

 そう考えて納得することにした。

 細かいことは考えなくていい。


「どうしたの里中くん。足元に何か落ちてるの?」


 その声に、ようやく自分が小南に見とれてしまっていたことに気がついた。何も考えずにいると、同じ道を辿ることになるらしい。


「ごめん、なにも落ちてないよ。ヒール履いてるの珍しいなあ、って思って」


「うん。この前買ったの。自分でも柄にもないって思うけど」


「そんなことないと思うよ。いつものラフな感じもいいけど、今日の雰囲気もかわいくていいと思う」


「そ、そう……? この服も一緒に買ったんだけど、似合ってるかな?」


 前はここで勇気を出したはず。

 今はあんまり緊張しなかった。


「うん、すごく似合ってると思う」


 すると、小南は少し恥ずかしそうにはにかみ、胸の前で手を組んで元気よく言った。


「ありがとう!」


 少女のように活発なその姿に、里中は熱くなる。


「ど、どういたしまして」


 初めて見た景色だった。

 前はどんなだったっけ。

 うまく思い出せない。


「あ、里中くんが小南をナンパしてる」


 そう茶化す姫野に、思考が現実へ連れ戻される。


 半分してるようなものだけど、と思いつつも「してない!」と反抗する。ひとりで反抗する。

 小南は「あはは」と笑っている。嬉しそうに笑っている。

「14_もう一度 -updraft-」

https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/14-updraft

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