7 好きだ。
「じゃあね」
電車のドアが開き、里中と小南は駅のホームへと降りる。
「じゃあね!」
電車に取り残された姫野の持ったハンカチはずいぶんと変色し、メイクは見るに無残なほどボロボロになっていた。
「残りの人生頑張ろう!」
姫野がそんな陳腐な台詞を泣き喚きながら大真面目に発すると、ドアが閉まって声が途絶えた。その様子がおかしくて、里中と小南は苦笑する。
走り去る電車に手を振る小南の口元は、ぎゅっと結ばれていた。涙を堪えるその横顔に、目の奥が呼応して熱くなる。
ぐっ、と堪える。里中も唇を噛んで遠のいていく姫野を見ていた。姫野の姿が小粒となって見えなくなっても、小南はしばらく手を振り続けていた。
そして、その手はいずれ止まり、力なく降ろされた。
「小南さんが泣いてるところ、見たことない気がする」
飲み会に参加していた女子のほとんどは涙ぐんでいた。卒業式に関しては小南以外ほぼ全員と差し支えないだろう。
「人には見せない、って決めてるから」
小南は微笑む。声色は酩酊気味で上ずっていたが、表情は少し硬かったように見えた。
「今くらい無理しなくてもいいと思うよ」
「ありがと。でも、ウチはまだ泣かないから」
涙は見世物じゃねえ、と。力強く放たれた言葉が冷たいコンクリートに、しん、と反響する。
「強いなあ」
素直に里中は思う。外見は小柄でおしとやかだが、内には男勝りで強いものを持っている。
彼女のそんなところに、身も心も脆い里中は強く惹かれていた。
あとは、この気持ちを伝えるだけだ。
拳を握りしめて周囲を見渡す。電車の余韻がかすかに残る深夜のホームには、彼ら二人しかいなかった。
「強い? ウチが?」
「うん。小南さんが」
「強くなんてないよ」
首を振り、腕を振る小南。少し大げさな動作に髪が舞い乱れる。
「強い自分に憧れているだけで、強くなりきれない。そんな、ただの弱い人だよ」
憧れるだけでなりきれない。
「その気持ち、よくわかるよ」
夢の中に現れる自分の影に、俺はなれない。
少しでも、あいつに近づきたい。
そのために、俺は何をすべきなのだろう——。
わかるのは、ここで立ち止まっている場合ではないということだけ。
「行こうか」
「うん」
里中の意識はほとんど酒に侵されておらず、はっきりとしていた。二回目の人生を間違えるわけにはいかないと意気込んで少し控えめに飲んでいたのだ。そのため、最終的なアルコール摂取量は小南に大差をつけられていた。
そんな小南は、やや足元がおぼつかない様子でもあった。
「里中くんは、二次会行かなくてよかったの?」
二次会行かないかー。
男子の輪からの勧誘の声が耳の奥で再生される。
「里中ー!」
会計を済ませて店を出た後も、彼らはしばらく道端で話こけていた。集合した時点で泣いていた人はもちろん、半数近くが目を赤くしていた。里中や小南は例外だったが、リーダー的ポジションにある姫野は誰よりもハンカチを湿らせていた。
「二次会行かないかー」
そんな湿った空間に、乾いた誘いが響く。
前の人生ではその誘いに首肯し、記憶にぼんやりとしか残らない時間を過ごした。最後の最後なのにあんまり覚えてないなんて不思議だな、なんて思いながら里中は首を振った。
「いや、俺は帰るよ。ごめんな」
名残惜しくなかったかと聞かれれば、きっと名残惜しかっただろう。なぜだろう、前は何も思わなかったのに。
心が満たされているから、だろうか。
ちょうどそのとき、女子の中でも二次会の話が出ていた。姫野は「これ以上みんなと一緒にいたら目が干からびちゃうから」と泣きながら断っていた。小南も「そうだね」と頷いていた。
「二次会どころか、百次会くらいまで行っちゃいそうだし」
「百次会はさすがにつらいから」
小南の台詞を引用してみると、「あはは」と笑ってくれた。肩が揺れるとともに体も揺れ、酔いがしっかりと脳まで回っていることを里中に知らせる。
「大丈夫? 酔ってるみたいだけど、ちゃんと歩ける?」
「大丈夫だよ! 全然酔ってないし!」
「声を張るあたり怪しいな……。ついでに、もう三回『大丈夫』って言ってみたら?」
一瞬、ぽかん、とした小南だったが、徐々に口角が上がっていき、ついには「そんなことあったね」と噴き出した。
「言った本人のウチがすっかり忘れてたのに、なんで里中くん覚えてるの」
君が好きだから。
なんて言えるはずはなかった。顔が熱くなる。大丈夫、大丈夫、大丈夫。大丈夫。熱は冷めない。無敵の呪文も、恋心には勝てないようだ。
駅のホームから地上へと降りる階段にさしかかったので、「ちゃんと手すり持ってよ」と注意を促して、気を紛らわせた。「はーいっ」と左手で敬礼して右手で手すりを持つも、その握力が不安に思えて仕方がなかった。
里中は小南の前に立って先に階段を降り始める。振り返り、エスコートの手を差し伸べた。
その手に「これは手をつなぐチャンスだ」という下心はなく、純粋に小南を心配する気持ちだけがあった。その自然な動作に、遅れて里中は驚く。
そして、その手を小南が掴んだ。
ひんやりとした、やわらかい手だった。こちらの気持ちが全て流れてしまうような錯覚を覚えたが、そんなことはなく、逆に向こうからこちらへ、冷たさが、手へ、腕へ、肩へ伝わっていく。それが、なぜだろう、徐々に熱を帯び、じんわりと心臓へ伝わっていく。ついには顔にまで発散し、ほんのりと火照ってしまう。
照れ隠しに「しっかり掴まってろよ」と格好つけたことを吐いて、小さな手を包むように握った。言ってることとやってることが逆だな、と気づいて余計に恥ずかしくなる。
ウチは階段で落ちるようなタマじゃねーよ、と小南が嗄れた声を上げる。
里中の指が少し強く握られる。
言ってることとやってることが逆だな、と苦笑しながら、一歩一歩、慎重に階段を降りていく。
手から伝わる温度が少し、上がった。
里中は一人暮らしで小南は寮暮らしなわけだが、偶然にもお互いの家は近かった。
一年生のとき、それもかなり序盤から「家どのあたり?」というような会話は新入生の間では「初めまして」の次の挨拶のようなものだったので、お互いの家が近いということは知っていた。最寄駅から徒歩五分の交差点までは通学路も一緒だった。だが、授業や交友関係の都合で一緒に下校したことは一度もなく、共に登校するほど親密な仲でもなかったので、実際に「近所」という感覚はあまりなかった。
ただ、一度だけ鉢合せをしたことがあった。二年生初冬の、日曜日だった。
里中は夕方からのアルバイトのため、駅方向へと向かっていた。電車などの交通機関に乗るわけではなく、徒歩だった。そのため、通勤にかかる時間の変動はほとんどなく、アルバイトを始めた頃は「この時間に出れば余裕を持って間に合う」というタイミングに出かけていたのだが、すっかり惰性を帯びたこの頃には「余裕を持って」という部分を切り落としたような時間帯に家を出ることがルーティンとなっていた。その上、この日はスマホゲームに夢中になってしまい、少しだけ遅れて家を出たので、やや早歩きで仕事場へ向かっていた。
木枯らしが「そろそろ厚めのコート羽織らないと風邪引くよ」と声を出し始め、人々が冬物のコートを出し始めた時期。里中もタンスからガウンのコートを取り出して羽織っていた。それほど気温が下がっていたわけではないので出発時はボタンを開けていたのだが、風と早歩きが合間って裾がなびき、歩きにくかったのでボタンを閉めた。閉め終わって顔を上げると、交差点の向こうに見覚えのある顔があった。
信号が青になり、お互いが歩き出して距離を縮めていく。ちょうど道路の真ん中で里中は「やあ」と手を振った。
「そういえば近所だったね」
小南が足を止めたため、里中も立ち止まった。
彼女が着ていたグレーの毛皮のコートは、色落ちして生地も傷んでいるようだった。よく言えば「年季があって味がある」、悪く言えば「いつから使ってるんだろう」というような具合だ。去年の冬にも見覚えがあった。里中もコートも去年買ったものではあるが、それよりも古くから使われていることは一目瞭然だった。
「里中くんは今からアルバイト?」
「うん。小南さんは?」
「見ての通り、買い物帰りだよ」
彼女の手には薬局の袋があった。透けてはいなかったが、袋菓子などが入っているようだった。だが、「女の子」と「薬局」の組み合わせは男子には触れてはいけない領域な気もして、「そうなんだ」と曖昧な返事しかできなかった。
どうやら里中の考えは見透かされていたらしく、「別に生理用品とか化粧とかじゃないよ」と彼女は言った。
「いま付けてるやつでマスクのストックが切れちゃうの。だから買いに行ってた。そのついでにお菓子とか買ったりして。薬局ってなんであんなにお菓子安いんだろうね」
と、そこで信号が歩行者用の信号が点滅を始めた。「あ、じゃあ」と適当な挨拶をし、手を振って横断歩道を走り去った。
渡った先で振り向いてみると、小南もこちらを見ていた。マスクをしていて表情は分からなかった。とりあえず会釈し、早足でアルバイトへ向かった。
「そういえば、マスクは?」
いつ聞こうか、と居酒屋を出てからずっと機会を伺っていたが、会話の流れでそれとなく尋ねることは叶いそうになかったので、会話が途切れたときに聞いてみた。
「あ、忘れてた」
集合したときから彼女はマスクを付けていた。食事の際に外し、店を出た後もそのままになっているようだった。
酔っちゃってるのかな、と小南は華奢な肩を揺らす。一度バッグに手を伸ばしたが、「まあいいや」と白い息を吐いた。
「そんなに寒くないし」
「お酒でちょっと体が熱くなってるんだと思う。体は寒がってるかもしれないから気をつけてね」
「うん、帰ったらすぐお風呂入るよ」
「それはそれで、ちょっと危険な気がしないでもないけど」
肩を落としてため息を吐くと、小南は破顔して顔を赤くした。「ずいぶん酔ってるな」と呟くと「酔ってない酔ってない!」とタカが外れたような大声を出した。対照的に目は少し眠たそうだ。
苦笑しつつ、内心で「周りに人があんまりいなくてよかった」と思う。その矢先、道路向かいのサラリーマンと目が合った。なんかすみません、と会釈する。
駅を出て数分。車も疎らな深夜の道路沿い。飲食店以外はほとんど閉まっている。そのわりには騒音が響くな、と頭上を見上げると、高速道路が走っていた。仕事の終わった町は眠りそうなほど静かだが、遠距離移動の通り道として町を過ぎ走る車は少なくないようだ。そんな騒音の中を、居酒屋やラーメン屋の喧騒が色付けている。
里中はほとんどアルコールが抜け、意識がはっきりとしていた。居酒屋を出たときは頭にほんのりと重みがあったが、もうほとんど感じられなかった。
対照的に小南は居酒屋を出たときよりもひどくなっていた。本人は大丈夫と言っているが、そんなわけがないことは火を見るより明らかで、ぜひともこの姿を動画に収め、酔いが覚めてから見せてやりたかった。
見せてやらないと、と里中は拳を軽く握る。動画は撮らないが話をしてやらないと、と。いじってやらないと、と。
階段を降りたときに握った小南の手の感触が、まだわずかに残っていた。その手を広げて見つめる。手相と手相が重なり合う残像が蘇った。
強く握れば砕けてしまいそうな、脆くて小さな手。ひんやりとした、なめらかさ。
視界の左隅に映る頭が揺れた。小南が何かにつまずいたようだった。大丈夫!? と反射的に手を差しのべるが、幸い彼女は倒れることなく、里中の手に捕まることもなかった。足元に目を移すと、ほんの少し盛り上がったマンホールがあった。
「マンホールにつまづいたのか……」
さすがにこれはまずいな、と思い「そこの公園でちょっと休憩しようか」と提案した。里中の家はせいぜい徒歩五分程度だが、小南の家はもう少し遠かったはずだ。彼女を家まで送り届けるつもりではいるが、その途中にいつ何度こけるのかとヒヤヒヤし続けるのは、いくらなんでもご免被りたかった。それはそれで楽しいかもしれないが。
うーん、と小南はひとつ唸った後、「そうだね、今のは我ながらびっくりしたし」と自嘲気味に笑った。
その笑顔を見て、里中も微笑む。だが、その微笑みはややぎこちない。手の中は少し汗ばんでいる。心臓が助走をつけているのだ。小南には見えないよう、小さくも大きく、息を吸い込む。
彼は、決意を固めていた。想いを伝える決意を。
「暗転のための変奏曲」
https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/12a