6 楽しむ自分は
小南の男っぽい一面を初めて見たのはいつだったか、と思うと、最初からだったんじゃないかと思えてくる。小柄な容姿ではあるが、ギャップは不思議とあまりない。「お酒好きそうだなあ」「お酒似合うなあ」という印象を抱いたのも、出会ってそう経っていない頃、はっきりとした記憶はないが、里中が初めて合法的に飲酒するよりも前だったはずだ。
彼女にロックンローラーなセリフを初めてぶつけられたことは、鮮明に覚えている。一年生の冬、試験の日だった。
その日は雪が降っていた。講義室の暖房が不調だったため、「寒い!」「帰ってこたつ入りたい」「暖房に単位と命を落とされる!」などとあちこちから飛び交っていた。里中も例外ではなく、コートを着ていても震えが止まらずにいた。
「寒すぎる……」
そんな彼の隣に座っていたのが新潟生まれの小南だった。
「男がこの程度でガタガタ震えやがって」
「……男に生まれてごめん」
その論点のずれた自虐が小南に受けたようで、「そっちかよ」と噴き出してくれた。里中が重ね着を繰り返して肩を上げるのもつらいのに対し、小南の格好は幾分軽そうだった。
さすがは雪国育ち、たくましいな。そう言いながら里中はくしゃみした。
「向こうじゃ、これくらい普通だからね。中の下だよ」
「これくらいが上の上な俺はどうすればいいでしょうか」
「酒飲んで温まりゃいいんだよ」
「ロックだなあ……」
「こういうところ直せ、って色んな人から言われてるんだけどね。姫野っちとか、親とか」
苦笑する彼女の目は、どこか遠かった。視線の先は里中のずっと後ろ、ひょっとすると故郷の方角だったかもしれない。
そんな小南に、里中は言った。
「俺は結構好きだけどな」
「え?」
「なんて言うんだろう、なんかこう、包み隠してないというか、作ってないというか。そういう純粋さが感じられて、俺は好きだよ。小南さんのそういうところ。だから、俺の前では直さなくてもいいよ」
あのときはまだ小南への恋愛感情がなかった。だからこそ、さして恥ずかしげもなく「好きだよ」なんて言えたのだろう。今となっては、なかなか言えたものではない。勇気が必要で、それこそ、気合いとチャレンジだ。
「好きだよ」
たったこれだけの一言を面と向かって伝えるのに緊張してしまうなんて、恋は病だな。そう思わずにはいられない。
「ウチも大好きなの!」
その笑顔にドキドキしてしまうのは、愛に飢えているからだろうか。それとも愛に溢れているからだろうか。
「じゃあ、頼もうか。たこ焼き」
メニューを片手に、呼び出しボタンを押しすと、すぐに店員がやってきた。この店はなかなか対応が早い。飲み会が始まって一時間が経過したが、一度も「まだ来ないなあ」と思うことはなかった。
里中はお酒とたこ焼き、串焼きなどをいくつか注文する。すると、隣の小南が「いやー。それにしても」と嗄れ気味の興奮した声を出した。
「里中くんもたこ焼きLOVEだったなんて、思いもしなかったよ」
「たこ焼きが好きだ! なんて叫ぶ機会はそうそうないからね」
小南の屈託ない純粋な笑顔を見ていると、心が洗われるような気がした。また、それと同時に罪悪感もあった。
里中はそこまでたこ焼きが好きじゃないからだ。
メニューを見ていると、ふとたこ焼きが目に入り、彼は「小南さんの歯に青海苔がついていた夢を見たなあ」と感慨にふけっていた。そこを小南が「たこ焼き好きなの?」と訊いてきたのだ。別に嫌いなわけではないし、大阪に行ったら食べてみたいなあくらいには思っていたので、「好きだよ」と答えたわけだ。
どうやら小南はかなりのたこ焼き好きらしく、「小さい頃、大阪に行って、惚れちゃって」「あの熱さとソースの辛味、たこのプリプリ感! 堪らねえよな!」と声を裏返して語るほどテンションが上がっている。里中はやや引き気味だったが、子供のようにはしゃぐ小南を抱きしめて頭を撫でたい衝動にも駆られていた。
結果的に、この飲み会において里中は緊張しつつも楽しく会話することができていた。背水の陣というべきか、僥倖を無為にする恐怖を背にし、普段よりも積極的になれていたと言える。
社会人になってからの上司の学生時代の面白いエピソードなどを「友達の経験」として話すなど、里中自身のネタのストックが増えていたことも、彼を後押しした要因のひとつとなっていた。
しばらくすると数人分のお酒が運ばれてきた。里中と小南は二人とも梅酒の水割りを手に取った。
口に含んでみると「少し薄いな」と思った。値段の割に料理は美味しいが、その差額はこういうところに出ているみたいだ。
「ん〜、薄いな」
隣から迷いのない嗄れた声が聞こえた。
「ロックにしときゃよかった」
「かっけえ……」
すると、姫野が「やばい、今の小南イケメンだ! 惚れそう!」と囃し立てた。この場に小南のロックな一面を楽しみにしてる人は少なくなく、彼女にみんなの視線が集まった。
イケメンじゃないよー、と否定しつつも、彼女は笑顔だった。その横顔に里中はうっとりとしてしまう。
幸せだなあ、と。
そこで、ピアノを弾いている自身の姿が、頭に浮かんだ。彼はピアノなど弾けないのだが、その姿は軽やかで、弾むように演奏を楽しんでいる。そして、彼の正面では小南がピアノを弾いていた。彼らは向かい合い、時に目で合図を取りながら、笑顔で演奏を楽しんでいた。時に音でキャッチボールをし、時に相手を引き立たせようとハモリを加え、時に息を合わせてユニゾンさせる。里中は右手で高音を、左手で低音を鳴らす。向かい合っているため、小南の奏でるメロディーは左手側から聞こえ、コードは右手側から聞こえる。その、スワップして混じり合う音は、とても広がりがあって、とても甘美だった。
一度転調してみせたところで、盛り上がるテーブルに追加の食べ物たちが運ばれてきた。鉄板焼きやピザ、串カツ、そしてたこ焼き。周囲の注目がそちらに分散し、小南の笑顔は里中だけのものになった。
「たこ焼きおいしそう〜!」
筏のような薄い木目の器に乗せられた六つの丸い玉。黒いソースの上で鰹節が踊っていた。
「熱そうだなあ」
そう呟く里中はやや猫舌だった。
「それがいいんだよー。いただきまーす」
はふっ、とたこ焼きをひとつ頬張る小南。どうやら里中の予想は当たっていたようで「あふっ!」と叫び、天井を仰いで息を吐いた。何度もなんども、膨れた口から蒸気機関車のように湯気が上がる。
かわいい、と歯茎まで出かかった。危ない、と思った。何が危ないのか、と次に思った。
夢の中の自分だったら、きっとそれが素直に言えただろう。開放的で少しチャラついた、理想の自分だったら。
そんな里中の心の声を代弁してか、開放的な姫野は「小南かわいい!」とはしゃぎ、スマホを取り出して小南に向けた。
「ふぁはいふはぁい!」
かわいくない! と言っているようだった。
普段から恥ずかしがり屋で顔を赤くすることの多い小南だが、たこ焼きを飲み込んだ頃には今まで見たことのないくらいに真っ赤だった。おでこから首まで赤い。汗ばんだ前髪がおでこに貼り付いている。
「ごめんね、ちょっと醜いところ見せちゃった」
「醜くなんてないよ」
かわいかった、と言おうとしたら「面白かった」と言っていた。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
里中は席を立った。尿意があったのは確かだが、たこ焼きがもう少し冷めるのを待ちたかったからという理由が大きかった。「面白かった」というイマイチなコメントに対する恥じらいから逃げる気持ちも、あった。
「あ、猫舌が逃げた」
里中の背中に姫野の声がぶつかった。笑いながら振り返り、「うるさい」と言い返した。小南が笑った。幸せだった。
トイレは男子用と女子用、兼用の三つがあった。里中は男子用に入り、便器の前に立つ。眼前の白い壁はスクリーンのようで、先ほどまで目にした様々な光景がそこに映し出された。
髪を留める赤いゴム。小柄な耳。純朴な目尻のシワ。くっきりとした鎖骨。うなじ。
ジョッキを傾ける細い腕。たこ焼きを含んで膨らんだ頰。
そして、目にしているはずのない、自分自身の笑顔。
幸せそうな、いい笑顔だった。
端正でもない、何の変哲もない顔。鏡を見るたびに目をそらしたくなる程度には好きになれない顔。自分自身の顔はそんなもののはずなのに、その想像上の笑顔は好きだった。
脳内で上方修正が行われているからだろうか。
そう思って鏡の前に立ち、手を洗う。
今ごろあの子は酒を流し込んでいるのかな、それともたこ焼きをふーふーと冷ましてるのかな。
水を止めて顔を上げると、そこには自然な笑顔があった。
想像していた通りの笑顔だった。
「よお」
ここは個室のはずだったが、後ろから声が聞こえた。でも、里中は驚かない。
「お前か」
「ああ、俺様だ」
ほんの数時間ぶりだというのに、不思議と懐かしさが込み上げてくる。
「タイムワープの感想はいかがかな?」
その姿は鏡越しにも靄がかかったように黒い。
「楽しいよ。すごく楽しい」
そんなことを言えるようになった自分が、少し意外だった。
「自分嫌いは克服できたか?」
いつかの言葉が思い出される。
——自分のことを好きになれねえ奴が、他の誰かに好きになってもらえると思ってるのか?
「わからない。でも、確実に言えることがひとつあるよ」
いま鏡に映っている自分の顔を見ると、自然と言葉が湧き出てきた。
「小南さんと一緒にいるときの俺は、嫌いじゃない」
無防備に、素直に、心の底から楽しんでいる。たぶん今に始まった話じゃなくて、昔からずっとそうだったと思う。
「大切な人との時間を楽しむ自分は、好きだ」
タイル張りの小さな空間に里中の声が響く。幾たびも反響し、言葉尻に半透明の尾ビレがついて彼自身の耳に届く。いつもの声とはずいぶん違う、密度のある声だった。
「そうか、それは良かった。たまにはかわいいところあるじゃねえか」
ありがとう、と里中は微笑んでポケットからハンカチを取り出す。手をぬぐいながら「ところでさ、」と切り出した。
「なんとなくお前の正体が分かったよ。いや、本当は最初から薄々気づいていた」
「正体も何も、最初から言ってるじゃねえか。俺はお前だって」
「そうだ。お前は俺だ。俺の夢の中に出てくる、俺だ」
現実よりコミュニケーション能力が高く、場合によっては多少チャラくなり、ナンパはもちろん、不純な行為に及ぶ夢だって一度や二度じゃない。そんな俺。
「俺が一番嫌いで、一番羨ましい理想の姿。それが、お前だろ?」
影に顔はない。表情は見えない。
でも、伝わった。
「お前がそう思うんなら、きっとそうなんだろうな」
残りわずかな時間、せいぜい楽しんでこいよ。
そう言い残して彼は消えた。
残念だけどその気はないな、と里中は鏡に向かって挑発的な笑みを浮かべる。
「わずかにはさせないさ」
席に戻ると姫野に「あ、猫舌が戻ってきた」と煽られたり、「小南が愛情込めてたこ焼きにふーふーしてたよ」「してない!」というやりとりを見て、微笑ましく思ったり。
ちょっとだけ淡い期待に緊張しつつ、たこ焼きを頬張ってみると、少し冷めていたようで、食べやすかった。だが、それは表面だけの話で、舌に乗せて歯を立てて潰すとやはり熱く、先ほどの小南の真似をすることになった。
小南や姫野、他の友達と話しているうちに、さすがにたこ焼きは冷め、ついに残り一つになった。
まだ口の中痛いな、これは火傷したかもな、と思っていると、耳に覚えのあるセリフが聞こえた。
「ねえ、アルコールどれくらい摂った?」
ああ、これは……。
前の人生で見た遠い横顔が思い出される。次に、夢で見たぼやけた風景が思い出される。
「ウチは三と三と五と……。足して、二十四だね」
小南は居酒屋のメニューを空いた手に持ち、里中との間に開いた。そして、少し前のめりになってメニューを見つめている。
いつか夢で見たままの景色だった。このとき確か……、と思い出しながら小南の胸元に目を遣ると、浮いた襟元から二つの膨らみとその頂上を隠す白い花びらが見えた。浅い谷間だったが、その間を通りたくなるような、魅惑的な吸引力があった。そこを抜けた先にはきっと、まだ見たことのない未知の世界が、感動が広がっていてるのだろう。胸を躍らせて奥へ奥へと進んでしまい、「そろそろ帰ろう」と思った頃には引き返す道がわからなくなっている。
ふと、そんな物語が脳内をめぐった。
「里中くんは?」
想像の世界から現実に呼び戻されても、彼はどこか夢うつつだった。
前回と頼んでいるものの度数はほとんど変わらないはず、と思いながらメニューに目を滑らせて数えていく。
あのときと同じく二十二だった。だが、あのときは持っているグラスがほとんど空だったのに対し、今はまだ一口しか口をつけられていなかった。
「二十二、だね」
来るぞ、と里中は身構える。
なんだよ、と小南は少し枯れた声を上げた。
「男のくせに女に負けてんのかよ」
身構えていてもその言葉の破壊力は凄まじく、「すみません!」と頭を下げるほかなかった。
姫野が腹を抱えて引き笑いしている。摂取アルコール度数低めの男子たちは野球部よろしく立ち上がって頭を下げ、女子たちは「イケメンすぎる」と嬌声を上げる。本日最高潮の歓声の中心にいる小南は顔を赤くしつつも、にこにことしていた。
頭を上げた里中が真っ先に見たのは、小南の歯についた青海苔だった。それがまたおかしくて、愛おしくて、笑みを零さずにはいられなかった。
「本当によくできた正夢だったんだな」
「ん? 何か言った?」
「なんでもないよ。気にしないで」
やっぱり俺は、この人が好きだ。
グラスを手に取り、お酒を勢いよく一口流し込む。爽快な甘みが身体中に弾け飛んだ。
盛り上がりが引いてきた頃、店員がやってきてラストオーダーの知らせを告げた。最後にもう一杯飲もうか、ともう一口お酒を流し込む。
わずかにはさせないさ。
繰り返し意気込む。
「Let's Eat Hot Things!」
https://soundcloud.com/zmwyvdipjyda/11-lets-eat-hot-things