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女子高生ときどき超能力者(2)  作者: 小田 聡
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 ふぅーーっ。

 お風呂で何気なく吐いた溜息が静かな風呂場に響いた。これは湯加減ちょうどの極楽気分から出たものではなく、思い出したくもなかったことをつい思い出してしまった時の澱んだ溜息だった。

 その溜息にはこの週末に自分の身に降りかかった様々な忌まわしい出来事が頭にこびりついて離れないことへの嘆息と、明日から中間テストが始まろうというのに何一つ準備をしていなかったことに気付いてしまった焦燥とが込められていた。

 テストのことを全く忘れていたわけではなかった。いつも頭の片隅にはあったのだけれど、明日やろう、明日やろう、とやり過ごしているうちに、とうとうその明日がテスト当日になってしまったのだった。

 この一週間、テスト勉強らしい勉強をほとんどしていなかった。出題範囲をノートで確認した程度が勉強でないとするならば、全くしていないと言った方が正しいかもしれない。

 小学校、中学校、高校と十年以上もテストを受け続けてきて、今回が最も悪い点数を取ってしまうような予感がした。そのくらい今回のテストは自信がなかった。

 この週末一緒だった紀子だってバイトや買い物で時間がないと嘆きながらも、案外しっかり勉強しているに違いない。人には勉強なんて全然してませんよ、という顔を見せておいて睡眠時間を削ってまで勉強するタイプなのだ。

 社長令嬢の素子は恐らく家庭教師が付きっきりで試験対策に余念がないだろうし、四人の中で一番真面目なミエも間違いなく今頃はテスト勉強をしているに違いなかった。

 “覆水盆に返らず”ということわざが脳裏をよぎり、突然激しい動悸に襲われた。

 無駄な抵抗だと思うが、取り敢えず試験範囲をもう一度流し読みだけでもしておこう。

 私は観念したようにやおら立ち上がり、けだるそうに浴槽を出た。身体を拭きながら、超能力者になりたい、と漠然と考えた。

 はたして私が超能力者になったらテストで百点取れるようになるのだろうか。超能力で百点を取るというのはどういうことなんだ? 千里眼を使って他人のテストを透視したり、無意識のうちに鉛筆が正解を導いてくれるとでも言うのか。それよりももっと確実で効率的な方法があるのだろうか。

 お風呂から上がった私はキッチンに向かい、冷蔵庫からよく冷えたミネラルウォーターを一本取り出した。そしてそのまま自分の部屋に戻ろうとリビングを横切ろうとしたとき、リビングのテレビが気になって一瞬足を止めた。

 リビングではお母さんがソファに腰掛けて缶ビールを片手にテレビを観ていた。それ自体はいつもの何気ない普通の光景だった。

「それではこれより今大変注目のマジシャン、藤井知洋による“サイキック・マジック”を皆さんにご覧いただきます!」

 観客のワーッという喚声と大きな拍手がマジシャンへの期待を物語っていた。

「サイキックというのは超能力、という意味ですよね?」

 若いアシスタントがわざとらしく尋ねた。

 超能力、という言葉に私は引き寄せられるようにソファへ向かい、部屋には戻らずにいつの間にかお母さんの隣に座っていた。

 大きな拍手に迎えられたそのサイキック・マジシャンはステージの中央に登場した。私は“サイキック・マジック”なんて言葉はもちろん藤井知洋という名前すらも知らなかった。

「私、この人好きなのよねぇ」

 お母さんが出し抜けに言った。

「何か凄いマジックでもするの?」

「ううん、顔がいいの」

 どうやらお母さんはマジックそのものではなくそれ以外の部分に興味があるようだ。三十代後半かと思われるそのルックスは悪くはないがやや線が細いように感じた。

 マジシャンはまず氷水の入ったグラスを取り出した。キンキンに冷えているらしく、そのグラスの周りには無数の水滴が付いていた。

 アシスタントの女性アナウンサーがデジタル温度計をグラスに挿すと、デジタル計は”4℃”を示していた。

 そばにいたお笑い芸人はマジシャンに促されて一口飲んでみせた。

「あ、確かに氷水ですわ。よぉ冷えてまっせ」

 関西弁で話すその芸人の顔に見覚えはあったがすぐには名前が思い浮かばなかった。

 マジシャンはグラスを返してもらうと、カメラによく見えるように自分の目の位置に掲げた。

「いいですか。これからがサイキック・マジックです」

 私はグラスがどうなるかよりもさっきの芸人の名前の方が気になって仕方がなかった。

「今からこの水を沸騰させてみます」

 そう言うと彼はグラスを持ったまま黙り込んだ。精神統一しているみたいだった。

 彼がグラスに全神経を集中させてから十秒ほどすると、急にスタジオがざわめいた

 カメラがグラスをアップで映すと、みるみる氷が溶けていくのがわかった。それだけではなく、次第に湯気が立ち上ってきたのだ。

 ゲストのタレント達は一様に目を見開き、大口を開けて、悲鳴とも簡単とも付かない声を上げていた。

 またカメラがグラスに切り替わった。今度はグラスの中でグツグツと気泡がいくつもでき、湯気も勢いよく立ち上っていた。

「どうせドライアイスかなんか仕込んでるんじゃないの。それともあのグラス自体に何か仕掛けがあるのね」

 くいっと缶ビールをあおるお母さんはテレビに向かって身も心も斜に構えだした。

 なるほど。でもドライアイスなら湯気のように見えるガスは下に落ちていくはず。ところがテレビに映し出されている湯気は間違いなく立ち上っていた。ということは、やっぱり湯気なのか。マジシャンは一旦グラスをテーブルの上に置いた。再び温度計を挿すと液晶表示は”95℃”になっていた。

 テレビの中の女性芸能人が悲鳴を上げた。私は言葉を失っていた。氷水が一瞬にして熱湯に変わるなんて! 目の前で起きた超常現象を理解することができなかった。

「温度計が壊れてるんじゃないの?」

 目の前のサイキック・マジシャンは間髪入れずに次のマジックに取りかかっていた。

 彼はテーブルの上にひと組のトランプを裏返しのまま一列に広げ、一番端のカードを指で起こすとそのままひっくり返し、ドミノ倒しの要領で全てのカードを表向きにした。これ自体は単なる指裁きだということは素人の目でもわかったが、それにしても綺麗にひっくり返すもんだと感心していた。

 今度のマジックはここから始まった。

「このトランプですが、マークも数字もランダムになっていますよね」

 テーブル上のトランプは確かにバラバラに配列されていた。ちょっと見た限りでは規則性は感じられなかった。

「それでは、よく見ててください」

 マジシャンがさっきカードをひっくり返したのと同じ要領でカードを裏返しにした。慣れた手つきでトランプはウェーブを描き、そのウェーブが右から左へと流れ、端まで到達するとそのままUターンした。つまり一旦裏返しになったトランプが再び表に戻った状態になった。その間わずか一秒か二秒くらいの出来事だった。

 ただトランプを裏にしてまた表にしただけのどこがサイキックなんだろう、と思ってみていたが、表になったトランプに違和感を覚えた。この違和感は何だろうと、もう一度目を凝らして画面を見て、私はハッとなった。

 テレビの観客とゲストも私が感じた異変に気付いたらしく、大きなどよめきが起きた。

「えっ、どういうこと!?」

 それまでランダムになっていたトランプは一度ウェーブを描いただけで、スペードのエースから順に二、三、四、五と続き、J、Q、K、そして次はハート、クローバー、ダイヤという順に綺麗に整列していたのだった。

 この間マジシャンは左右両端のカード以外には手を触れていなかった。それはずっと彼の手元とトランプを映し出していたカメラが雄弁に物語っていた。

 手品の知識が皆無な私にトリックが分かるはずもなかった。これだけ巧妙ならばひょっとして、超能力なのでは……私の中で小さな疑念が湧き上がった。

 頭の中が混乱し、整理しきれないうちにマジシャンはまた次のマジックに取りかかった。今度は一枚のガラス板を取り出した。五十センチ四方で厚さは二、三センチはあろうか。ゲストの芸人がコンコンと叩いて見せて間違いなくガラス製であること、そして透明であることを証明してみせた。

 そのガラス板をテーブルの上に置くと自分の手の中でトランプを伏せた状態で扇状に広げ、一人の女性ゲストを指名した。

「ここからお好きなカードを一枚、抜いてください」

 私でも顔と名前が分かるくらい有名なその女優はおそるおそる一枚のカードを引き抜いた。すぐにハンディカメラが彼女の手元を映し出した。彼女が手にしたカードはクローバーの七だった。

 マジシャンはくるりと女優に背中を見せ、振り向かずに言った。

「では、そのカードにサインをして、そのまま両手でしっかりと持っていてください」

 女優は言われるがままにカードにサインを書き、大事そうに両手で挟んだ。彼女の手の中からカードの端っこから見え隠れしている黒いマークと数字を私は必死に目で追いかけた。この時点でまだ彼はカードに一度も触れていない。

 マジシャンは手にしていた残りのカードを無造作にガラス板の上にばらまいた。

「いいですか、ここからがサイキック・マジックです」

 そう言いながらテーブルのガラス板を起こすと、次々と滑り落ちていくカードの中で一枚だけガラス板にへばりついているものがあった。

 いや、正確にはそのカードはガラスの上にくっついているのではなく、ガラス板の中に埋もれていた。それに気づいた観客やゲストから一斉に悲鳴のような奇声が上がった。さっきガラス板を調べた芸人が信じられないという表情で一生懸命ガラスの表面をベタベタと触ってみるが、ガラスの中のカードに手が届くはずがなかった。

 彼はカードの表が見えるように、ゆっくりとガラス板を反転させた。すると会場の悲鳴はさらにもう一オクターブ上がった。

 ガラス板の中に埋まったカードは、女優のサインが入ったクローバーの七だった。

 女優は自分が手に挟んでいるはずのカードを見て、目をまん丸にして驚いていた。

「あなたが引いたカードは、このクローバーの七ですね」

 女優は小さくコクリとうなずいた。

 マジシャンは女優に手の中のカードを見るよう促した。女優が両手を広げると、そのカードはクローバーの七ではなく真っ白なカードに変わっていた。アップで映る彼女の手は小さく震え、顔は恐怖に歪んでいた。

 彼がしなやかな手つきで女優からカードを取り上げた。

「さっき、あなたが持っていたのはあのガラス板の中にあったクローバーの七でしたよね?」

 女優は黙ってうなずいた。

「分かりました……では、手を」

 言われるがままに女優が右手を差し出した。マジシャンは手にしていたカードを伏せた状態で彼女の上に置いた。

「このカードを、ガラス板の上に、中のカードと重なるように伏せた状態で置いて下さい」

 女優は言われるままにガラス板の上に無地のカードを置いた。すると間髪を入れずにマジシャンが言った。

「では、めくって下さい」

 女優は「えっ、もういいの?」という顔をした。そして細く白い指がゆっくりとカードをめくると、それはクローバーの七だった。もちろん女優のサインも入っていた。女優は口を押さえて驚愕の色を露わにした。

 そして彼はもう一度ガラス板を持ち上げた。カメラがズームアップすると無地の真っ白なカードがまるで標本のようにガラス板の中に浮かび上がっていた。

 ひときわ大きな悲鳴が会場中に響き、それに続いて拍手と歓声が彼を包み込んだ。

「さすがサイキックマジックですね!」

 私はテレビの前でただただ呆然としていた。マジックと銘打っているのだからこれらのマジックには何かしらトリックがあるはずなのに、そのトリックがどういうものなのか全く想像もできなかった。これは手品なのか、それとも……。

「これが、“サイキック・マジック”です」

 テレビの中のスリムなちょいイケメンマジシャンはとても落ち着いた表情でそう言った。だけど私には彼の言う“マジック”という表現が、ちょっとだけ引っかかった。

「あれは女優もグルになっているんだわ。あらかじめ同じサイン入りのカードを隠し持っていて、それを出したり引っ込めたりしているだけよ」

 手品の経験ゼロのお母さんがマジックの種明かしを推理してみせた。

「でも、ガラスの中のカードはどういうこと?」

「そりゃあ、相手はプロだからね。素人が思いつくようなタネを仕込むわけがないじゃない」

 お母さんの言葉にはトリックを見抜けなかった悔しさが見え隠れしていた。

 はなっから手品だと信じて疑わないお母さんの言葉に、やっぱり超能力なんてないのかもしれないという疑念と、あったらいいなという期待感が半分々々に揺れ動く中で、あるのかないのかわからないのなら、あえて私は超能力の存在を肯定してみたいと思った。

 瞬間移動ができれば遅刻をせずに済むだろうし、昨日みたいにアイスクリームが落ちそうになっても念力で止めれば間一髪セーフだし、財布を落としても見つけられるに違いない。明日から始まる中間テストだって超能力があれば何とかなるような気がする。超能力で急に記憶力が良くなったり、勘が冴えたりすることだってあるかもしれない。

 テレビの中で起きた出来事があまりにも完璧すぎてマジックだとは思えなかった。むしろ超能力なんだと言ってもらった方が納得できそうだ。

「所詮手品なんだから、絶対タネがあるはずよ」

 お母さんは手にしていた缶ビールをクーッと一気に喉へ流し込むと、お代わりを取りに冷蔵庫に向かった。

 テレビに映るマジシャンは鳴り止まない大拍手に一礼した。

「今私がお見せしたのはサイキック・マジックです。超能力の一端です。超能力はある特定の限られた人だけが持つ能力なんかではありません。本来誰でも持ち合わせているものなんです。ただそれを上手に引き出せていないだけなんです。テレビの前のあなたも、明日から、いやたった今から超能力者になれるんです……あなたの覚醒に期待しています」

 サイキック・マジシャンの言葉はストレートに私の中に入ってきた。私も超能力者になれるって!? やりたい放題好き勝手に超能力を駆使して大活躍している自分の姿が突如私の頭の中で大写しになっていた。

 私はお母さんとすれ違うようにキッチンに向かい、引き出しからカレー用のスプーンを一本手に取ると一目散に自分の部屋へと駆け込んだ。

 部屋に戻ると、まずベッドの上で呼吸を整え、それからしばし黙想した。こういうのはイメージトレーニングが重要に違いない。自分がスプーンを曲げ、ぐにゃりと曲がったスプーンを見て紀子や素子達が驚愕すると同時に羨望の眼差しと賞賛の言葉が私に向かって降り注ぐ。

 そして私は涼しげにこう答えるのだ。

「こんなの、大したことじゃないわ」

 脳内が独りよがりな妄想で満たされた後、握りしめていたスプーンを曲げることに全神経を集中させた。

 曲がれ曲がれ、とありきたりな呪文を心の中で唱えながらスプーンの柄を擦り続けた。体内の“気”を人差し指と親指に集めるよう意識した。そして目の前のスプーンがアメのように曲がる様を何度もイメージした。

 こんなことをやるくらいなら出題範囲について教科書とノートにしっかりと目を通しておいた方が有益なのでは、という無粋な考えはこれっぽっちも浮かばなかった。今までも徹夜で一夜漬けをしたことがあったが、大抵テストが始まる頃には頭がボォーとして全く何も思い出せないという悲惨な結果を招くだけだった。それくらいなら、まだ可能性の残されている超能力に自らの命運を託すことは決して不条理な話ではないはずだ。

 二分、三分とスプーンを擦り続けてみたがスプーンには何の変化もなかった。ずっと握りしめていたせいで表面が多少なりとも温かくなったものの、変形してしまうほどの高温にはほど遠かった。それでも私はひたすらスプーンを擦った。そして何度も何度も心の中で『曲がれ曲がれ』と念じ続けた。

 次第に身体中がポカポカしてきた。今頃になって入浴効果が表れ始めたのか、手のひらがうっすらと汗ばみ、額から汗が一筋流れるのがわかった。私は一旦スプーンから目を離し、額の汗を拭ってから、ふぅ、と息を吐いた。そして肩を軽く上下させてから再度スプーン曲げにチャレンジした。

 それからどのくらい経っただろうか。いくらスプーンを擦り続けてもスプーンは一向に曲がる気配を見せなかった。スプーンを縦にしたり横にしたり、指の動きを早めたり遅くしたり、右手から左手に持ち替えたりとあらゆることを試してみたが、スプーンは一ミリたりとも曲がることはなかった。

 やっぱり自分には超能力はないのかもしれない。急に虚無感と失望感が全身を襲った。机の上の時計を見るとすでに十一時半を回っていた。いつの間にかいつもの就寝時間をとっくに過ぎていた。

 机の上にスプーンを置くと目覚まし時計のアラームを確認した。睡眠時間はしっかり八時間以上取らないと一日中体調不良になってしまう私は必ず十一時には寝て七時に起きなければいけない。朝食と歯磨きと着替えを三十分で済ませ、七時半には家を出ないと遅刻してしまう。

 ろくに勉強もせずに、しかも寝不足でテストに臨むなんて、どれだけ自分を追い込めば気が済むのか。私はひょっとしてM体質なのか。

 トーンダウンしてしまった私は諦めて寝支度を始めることにした。

 ベッドに潜る直前、私は両手で目覚まし時計を鷲掴みにすると「時間よ止まれぇ~」と低い声で唱え出した。今私ができるせめてもの抵抗だった。このまま時間が止まればたっぷり眠れてテストをする必要もない。なんとも至福ではないか。

「なんてね」

 目覚まし時計を机に戻し、部屋の電気を消した。ベッドの中で明日の朝は朝食を抜いてその分試験勉強をするべきか、それとも脳を活性化させるためにしっかり朝食を取るべきかの二択に悩んだ。そして頭の中で堂々巡りしているうちにいつの間にか意識が薄れ深い眠りに就いていた。

 翌朝、窓から差し込む光で目が覚めた。いつもはアラーム音のシャワーの中をやっとの思いでベッドから這い出てくるところなのに、この日はタイマーが鳴る前にシャキッと目覚めた。こんなに気分良く起きられたのは小学校の遠足以来ではないだろうか。

 ポンッと勢いをつけて、飛び跳ねるようにベッドから出ると、全身で伸びをした。時間的には寝不足のはずなのに、心なしか頭もスッキリと軽やかだ。この調子なら今日のテストは案外楽勝なんじゃないかとさえ思えた。睡眠は量よりも質と言うのは本当なんだと実感した。

 寝起きとは思えないほど軽やかな足取りでリビングへ向かった。

 リビングにはいつも早起きの美樹の姿がなく、お母さんがキッチンで洗い物をしていた。

 美樹よりも早起きをしたという、普段味わえない優越感に浸りながらテーブルに着いた。

「おはよう、お母さん。今日は美樹遅いんだね」

 私は頬杖を突きながらノンビリとテレビを眺めた。いつもは朝食と着替えと身支度をほぼ同時におこなっていてテレビなどまともに見た事がなかった。何か今日は良いことがありそうな予感に包まれていた。

「あ、私が早いのか」

 私のドヤ顔にちょっと驚いているお母さんの顔が私には愉快だった。そりゃそうだろう、万年朝寝坊の私が早起きをしてるんだから。天変地異の前触れかもなんて思っているに違いない。

 ところが、お母さんはぽつりと言った。

「今日学校休み?」

 お母さん一流のギャグのつもりだろうが、今どきの高校生はその程度のボケでは笑ったりしない。私がお母さんに突っ込んだ方が良いのか調子を合わせてボケた方が良いのか考えていると、お母さんはさらに言葉を続けた。

「あんた、そんなノンビリしてて大丈夫なの?」

 なんだ、お母さんはボケ倒そうとしているのか。ダメダメ、そういう冗談は通用しない。いや、それとも本当にボケてしまったのか。意外と普段しっかりしている人ほど急にボケやすいというのをテレビだかどこかで聞いたことがあるのを思いだしていた。

 いやだなお母さん、と言いながらテレビ画面の左上に表示されている時計を見た。その瞬間、私の顔から、いや全身から血の気が失せた。

 テレビの時刻は“7:45”と表示されていた。七時四十五分という時間は、いつもなら駅について改札を抜けている頃だ。

 どうして今が七時四十五分なのか。目覚まし時計は鳴らなかった。あの時計はアラームのボタンを押しても更に本体のスイッチをオフにしない限りいつまでも鳴り続ける二段式の目覚ましだから、自分の知らないうちにアラームを止めていたなんてことはないはずだ。起きた時に見た時計は確かに……いや、ちゃんと時刻を確かめたのだろうか、ひょっとしてアラームが鳴らなかっただけで時間を確認してなかったのかもしれない。

 もう一度テレビを見た。時刻は“7:46”になっていた。私は飛び上がるように席を立ち、自分の部屋へ猛ダッシュで駆け戻った。

 部屋に入るなり机上の時計を睨みつけた。アラームはオンのままで、液晶表示が“11:58”で止まったままになっていた。この時計は私が寝坊しないようにと高校入学の時に買ってもらったもので、一万年に一秒しか狂わない電波時計なんだとお父さんが言っていたのを思い出した。なのに、なぜ時間が狂ってしまった? 役立たずの時計は叩いても揺すっても、“11:58”から時間が進む気配がなかった。

 こんな日に電池切れなんて! いや待てよ、電池切れなら液晶も表示しなくなるはずだ。

 頭の中は無数の“!”と“?”で溢れかえっていた。私自身も時計のように固まったまま動かなくなっていた。

 待て、冷静になれ──。私の中のもう一人の私の声で、我に帰った。

 学校の始業時間は八時半、自宅から学校までバス電車を乗り継いで最短でも四十五分はかかる。乗り継ぎが悪いと一時間はかかる。と言うことは、今からではもうすでに間に合わない!? こうなったら駅からタクシーを使うか。いや、正統な理由であれば一限目のテストを私だけ別日程で受けることも可能だ。いや、寝坊が正当理由になるのか? 考えれば考えるほど私の頭の中は混乱していった。

「!※☆×▲?$@*#◇%&?!」

 私は奇声を発しながら、とにかくこの現状を打破するために最善を尽くすことに専念した。

 着替えと歯磨きを同時におこない、机の上の筆記用具をとりあえずカバンを放り込むと家を飛び出した。玄関にあった家族の履き物まで一緒に玄関の外まで蹴飛ばしたみたいだったがそんなことにかまっている余裕はなかった。

 マンションのエレベーターには乗らず、六階から階段を二段抜かしで駆け下り、そのままの勢いでエントランスを飛び出した。マンションの近くにバス停があるが、遅刻ギリギリの状態でいつ来るかわからないバスを待つようなことはしない。とにかく自分の足で走ることが最も確実だった。

 マンション前の通りで車に轢かれそうになり、思いっきりクラクションを鳴らされた。しかしこの緊急時にひるんだりはしない。駅に向かう途中で四つ角から出てきた小学生の列に激突しそうになり、散歩中の犬を二度ほど踏んづけそうになった。人通りの増えた駅前では歩行者を何人もごぼう抜きにし、駅の階段を華麗なステップワークで駆け上がると、すり抜けるように自動改札を通り、人混みを縫うようにしてホームへ向かった。そして発車のベルが鳴り響く中、閉まりかけたドアに身体をねじ込んだ。

「駆け込み乗車は危険ですのでおやめください」

 周囲の冷ややかな視線が突き刺さるのを痛いほど感じながらも第一のミッションをクリアしたことに安堵した。この電車を逃したらその時点でアウトだった。

 とは言え、家からずっと走ってきた私の心臓は薄っぺらい胸板を突き破りそうなくらいに激しく脈打ち、膝はガクガクと笑い、立っているのがやっとだった。満員電車の中で吊革にも掴まることもできず、前後左右に揺られるのを必死に堪えた。口の中がカラカラに渇いて上唇と下唇がひっついてしまい呼吸を整えることもままならなかった。

 しかしこれでまだ安心してはいけない。この後電車を降りてからバスに乗り継ぐというハードなミッションがまだ残っている。しかも電車の降り口はこことは反対側のドアなのだ。

 幸いにも電車は時間通りに駅に到着した。降り口のドアが開いたものの、この時間帯は圧倒的にサラリーマンが多く、この駅で降りる学生が少ないせいか人の動きはほとんんどなかった。

「すいません」

 小声で言ったくらいでは大人達は動こうとはしない。意固地なくらいに動かないサラリーマンやOLを無理矢理肘で押し分けかき分け、ようやく反対側まで辿り着いたもののドア付近で中年のサラリーマンが壁のように立ちふさがった。最後の難敵を渾身の力でホームに押し出しながらホームに降り立つと、そのまま改札まで一気にダッシュした。自動改札のゲートを膝で押し開け、駅前のロータリーに出ると、私の乗るべきバスが視界に入った。あれに乗れば遅刻は免れる。逆にあれに乗らなければ私のここまでの努力は全て水の泡だ。私はもつれる足に活を入れ、最後の力を振り絞った。

 バスはプシューという甲高い空気音とともにドアを閉め、のろのろと発車し始めるところだった。

「待ってぇ!」

 私は無意識のうちにバスに向かって叫んでいた。そして無我夢中でバスのドアを叩いた。

 動き出したバスが止まり、ドアが開くと運転手が怖い顔でこちらを睨んでいた。

「危険だからやめて下さいね」

 運転手は努めて穏やかな口調でそう言った後で、乗り込む私にだけに聞こえるように小さく舌打ちをした。

 このバスにも同じ学校の生徒が何人か乗っているのを見て、ギリギリ遅刻から免れたことを確信した。砂漠の中でオアシスを見つけた冒険家のごとく、一目散に座席に着いた。座った途端に全身からドバーッと汗が噴き出した。もう私にはその汗を拭う余力すら残ってはいなかった。背もたれに身体を預けながら、今までの自分の人生の中でもこんなに一生懸命走った記憶はないんじゃないかと、ぼんやり考えながらしばしの安息に浸っていた。

 やっとの思いで学校にたどり着いたばかりですでに一日分の体力を使い果たしてしまった私には三階までの階段はまるでちょっとした登山並みの苦しみだった。ふくらはぎと太ももはパンパンに張り、両足はおもりを付けたかのように重く、膝がガチガチに固まっていた。一段上がるごとに筋肉が悲鳴を上げていた。始業二分前に教室に入ってきた私はさながらフルマラソンかトライアスロンでゴールした選手のようだった。誰も見ていなかったら間違いなく床に倒れ込んでそのままダウンしていたに違いない。

 教室で紀子が自分の席から大きく手を振っているのが見えた。

「おはよー。ギリギリだったじゃん」

 紀子の言葉に答える余裕もない私は机の脇にあるフックにカバンをかけると、崩れるようにイスに身を投げた。

「朝、目覚まし時計が止まっちゃって……」

 私は机に突っ伏した。もうこのまま眠りに就きたい気分だった。

「そいつはアンラッキーだったね。いや、それでも遅刻せずに済んだんだから、むしろラッキーだったと言うべきかもよ」

 意識が遠のいていった。あと五秒あれば私は完全に眠りに落ちることができるだろう。

「ねぇ、昨日買った服、もう着てみた?」

 斜め前から聞こえる紀子の声で薄れていく意識をかろうじて取り戻した。私は顔を上げずに首を振って答えた。そういえばまだあの服を紙袋から出してもいなかった。

 朝のSHRが終わり、他の生徒達は決まり事のように教科書やらノートを広げてテストの直前対策に余念がなかった。紀子と私の机の上には筆記用具以外何もなくサッパリとしていた。よっぽど余裕なのか、それともすでに諦めモードなのか。彼女が前者で後者が私なのは自明の理だ。

「昨日の夜、テレビ見た? サイキック・マジックとかってやつ」

 何だ、紀子もあの番組を見ていたのか。まさか紀子もスプーン曲げに挑戦したのではなかろうな。

「あれ、紀子も……」

 と言いかけたところで本鈴が鳴った。同時に一限目の担当教師が教室に入って来たところで二人の会話は途切れた。

「はい、教科書とノートはしまって。筆記用具以外は机の上に出さないこと。今配っているのは答案用紙だから、まずは名前だけを記入するように。名前を書いたら鉛筆を置いて待つこと」

 教室の空気がピンと張り詰める中、列の前から順々にプリントが回されてきた。私は教師の指示通りに名前を書くとシャーペンを置き、この先どんな問題が出されても驚いたり落胆しないように心掛けた。

 頭の良い連中は解答欄を見ただけで記述式か選択式かくらいは何となくわかるのかもしれないが、予習ゼロの私には何のヒントにもなならなかった。

 先頭列の席から後ろに向かって裏返しになった問題用紙が配られてきた。前の席の生徒達は皆一様に神妙な顔で問題用紙を後ろの席に回していた。

「問題用紙は裏返しにして伏せておくように。私が良いと言うまでめくってはダメだ」

 配られた問題用紙を裏側から凝視してみる。が、もちろん問題が透けて見えるわけはなかった。無論、万が一見えたとしても正解できるかどうかは全く別の話だ。

 紀子の方を見ると、彼女は頬杖を突きながらぼんやりと黒板の方を見ていた。

 教師が腕時計に目をやった。

「それでは……始め」

 静かに現代文の試験開始が告げられた。その声に反応するように皆が一斉に問題用紙をめくった。

 みんながいそいそとペンを走らせる中、私はまず最初に問題を隅から隅まで眺めた。そして必ず一問はある選択肢問題から手を付けた。選択肢問題なら答えが分からなくても答えを埋めさえすれば当たる確率が何分の一かはあるからだ。

 選択肢問題の次に漢字の読み書きや英単語、簡単な数式問題といった点数は低いが当たる確率の高いサービス問題に取りかかり、その後穴埋め問題や長文問題といった難易度の高い問題を解いていくのが私の中のセオリーだった。

 しかし、朝食も抜いて朝から体力を使い果たした私はただでさえ回らない頭に酸素も栄養も行き届かず、考える気力すら失っていた。

 自信を持って答えられたのは選択問題の一つか二つくらいしかなく、解答欄には空白が目立った。情景と対比した主人公の心理描写を答えなければいけない問題で、『とても悲しかった。』とだけ書いて解答欄の九割くらいを余らせた。いかにも正答ではないとは思ったが、それ以上良い答えが思い浮かばなかった。取り敢えず答えを書いておけば点数がもらえる可能性はある。書かない後悔よりも書いて後悔だ。

 テストの問題は必ず一度は授業でやったはずだから覚えていて当たり前なのだが、それがいつのどんな授業だったのか、教師は何と言っていたのか、教科書にマーカーを引いたのか、ノートには何と書いたのか、問題に関するありとあらゆる記憶を掘り起こそうとしても何一つ思い出せなかった。

 シャーペンを握った手が動かないまま時間だけが刻々と過ぎていった。同じ問題を三回読んでも分からないときは諦める、という自分のルールに従い、問題を三回読み終えてからペンを置いた。テスト終了までにまだ十分以上も時間を残していた。

 紀子の方をチラッと見た。背中を丸めてペンを走らせていた彼女は不意に身体を起こすとしばらく答案用紙と問題をじっと眺め、今度は消しゴムとシャーペンを交互に持ち替えた。どうやら仕上げの見直し作業に取りかかっているようだった。

 しんと静まり返った教室にチャイムが鳴り響き、一教科目の現代文のテストが終了した。教師の号令で一番後ろの生徒が答案用紙を回収し始めると、それまでピンと張り詰めていた空気が一気に弛緩した。

「結構楽勝だったね」

 答案用紙を回収された紀子が振り向きざま、私に言った第一声だった。

「やっぱ、一学期最初のテストだから加減してくれているのかなぁ」

 彼女の言葉には、テストへの確かな手応えと出題に対し少々物足りなさを感じているのが汲み取れた。私は顔面を引きつらせながら「そうだね」と弱々しく答えるのがやっとだった。

 休み時間もいつもに比べみんな私語が少ない。それぞれノートや教科書を広げて次の物理のテストに向けた最終チェックに余念がなかった。

「今さら悪あがきしてもしようがないのにね」

 紀子は椅子をズルズルと引きずりながら私の席ににじり寄ると、私の机の上に何やら広げ始めた。

「ゆかりさぁ、ちょっとこれやってみてよ」

 そう言いながら、持っていた紙の箱から束になったカードを取り出した。

「休み時間にトランプでもやるって言うの?」

 一見トランプのようにも見えたそのカードにはトランプ独特のマークも数字もなかった。かといってUNOでもなかった。

「何よ、新種のカードゲーム?」

 私の問いに紀子はニヤリと口許を歪めながら笑った。

「これでカード当てするのよ」

「何それ?」

「あんたにエスパーの素養があるか試してあげる」

 紀子はカードの中から五枚のカードを並べた。カードにはやや太めの線で○、□、☆、+、そして波模様の五種類のマークが描かれていた。

「これはね、ESPカードという物よ。知ってる?」

 私は首を傾げた。

「このカードを見ないで当てられればあんたはエスパーかもしれないわよ」

 そう言ってカードを手際よくシャッフルを始めた。

「どう、やってみる?」

 昨夜のテレビ番組が不意に頭をよぎった。紀子もあのサイキック・マジックとやらに感化されたのか。ずいぶんとミーハーな奴だ。ま、私もあまり他人(ひと)のことは言えないが。

「どのくらい当てたら超能力者の素養があると言えるの?」

「そうね、やっぱり五割は必要よね」

「紀子はどのくらいカード当てたのよ?」

「わたし? ダメダメ、正答率二割ってとこね。あんたのテスト並みかな」

 正答率二割なら五枚に一枚。私がそれを上回ることができれば、紀子よりもエスパーの素養があることになる。中間テストよりは確率が高いような気がした。

「いいわ。やってみる」

 紀子は待ってましたと言わんばかりにシャッフルしていた手を止め、カードの山を私の前に置いた。

「じゃあ、始めるわよ。この一番上のカードのマークを当ててみて」

 カードにプリントされた幾何学模様をじっと見た。何となく第一印象は☆のように思えた。それには特に根拠はなかった。ただそう思っただけだった。

 ……いやいや、インスピレーションじゃない。私は頭の中を一旦リセットした。カードの裏に印刷された記号を見透かすのだ。もう一度カードに集中した。

 私がカードを凝視してから三十秒ほど経った頃、しびれを切らした紀子が私を急かした。

「おいおい、休み時間終わっちゃうよ」

 紀子が催促しても私はカードを睨み続けた。そして一瞬頭に浮かんだ模様をそのまま口に出した。

「波」

 そう言って私はカードをめくろうとした。そしてカードに触れた瞬間、私の手の甲にぼんやりと“+”の模様が鈍い光を放ちながら浮かび上がった。いや、正確には浮かび上がったように見えた。

「」

 私はハッとなって手を引っ込めた。

「何? どうした?」

 私の異常行動に紀子は呆気にとられた。私は手の甲をじっと見た。が、さっき見えていた紋様は消えていた。

「なんなの……?」

「早くめくりなさいよ。波だっけ」

 そう言っておもむろにめくろうとした彼女を制した。

「待って、自分でめくる」

 私はもう一度カードに触れてみた。するとやはり手の甲に“+”が浮かび上がった。

「やっぱり+にする」

「なによ、チェンジするの?」

 紀子が待ちきれずにカードをめくった。二人の目に、白地に黒い線がクロスしている模様が飛び込んできた。

「ありゃ、当たりだ。すごいじゃん。じゃあ次」

 紀子は二枚目のカードを指差した。今度はいきなりカードに触れてみると、また手の甲に真四角の綺麗な線がハッキリと浮かび上がった。

「□!」

 さっきよりも確信を持ってめくってみた。やっぱり“□”だった。

「おぉ~、やるねぇ。二連チャンだ」

 最初はお手並み拝見と言った感じだった紀子も連チャンで当ててからはちょっと身を乗り出してきた。そして三枚目、四枚目と当て出すと表情は強張り、とうとう五枚連続で当てたときは目を見開きぽかんと口を開けたまま言葉も出なかった。

 チャイムが鳴ると紀子はカードを手に無言のまま椅子ごと自分の席に戻った。

 五枚連続でカードのマークを当てたということは、ひょっとしたら私には超能力があるのかもしれない。超能力があれば、私はどんなことだってできるんじゃないだろうか。そんな幻想が頭一杯に広がった。

 尾行で紀子達を見失うことも、クレープを落とすようなことも、財布をなくすようなこともない。テストでもスポーツでもクラスで、いや学年で一番になることだって夢じゃないはずだ。

 みんなはすでにテストモードに気分を切り替えているというのに、自分はまだ休み時間の余韻を引きずったまま上の空でいた。

 テストが始まって数分が経ち、ようやく現実に引き戻された私は慌てて居住まいを正した。そして改めて問題を読み直した。

 問題を読みながらも、『どうすれば超能力で良い点取れるのか?』というテストの問題とは全く関係のないことを考えていた。

 透視や念力でどうやったらカンニングできるのか。いやいやカンニングはいけないことだ。カンニングは良心の呵責に耐えがたいので、やはり正攻法で良い点を取りたい。ならば正攻法でいくにはどうすればいいのだろうか。

 私は身体を起こして大きく深呼吸をした。教室にいる私以外の生徒全員が一心不乱に問題を読みふけり、ペンを走らせていた。

 さっきのカード当てのことを思い出して、問題に手をかざしてみた。ひょっとしてさっきのように手の甲に答えが浮かび上がったりするのでは、と思ったが、いくらやっても文字が浮かび上がるようなことはなく、いたずらに時間が過ぎていくだけだった。

 やっぱり自分には超能力なんてものはなかったのだと諦めムードの中、最後の手段とばかりに、斜め前に座る紀子に向かって手をかざしてみた。紀子の思考や思念を手で感じ取ろうと考えた。ところが、

「どうした白岡。トイレにでも行きたくなったのか」

 挙動不審な私の行動を見て、教壇にいた試験監督役の教師が声を掛けた。

「あ、いえ、何でもないです……」

「何でもないなら余計なことはするなよ。カンニングだと思われるからな」

 教師の忠告に私は身を小さくして再びプリントに目を落とした。空白の答案用紙は私に『実力で解け』と叱責しているようだった。

「あと十五分。まだの人は急いで。もう終わった人はもう一度見直しをして。特に名前の書き忘れには気をつけるように」

 教師の声に一気に緊張した空気が教室内に広まった。みんなが最後の追い込みに入る中、明らかに私一人だけが取り残されていた。

 問題文に集中できる訳もなく、問題を読むというより眺めているような気分の中で時間だけが過ぎ去り、やがてチャイムの乾いた音が校内に鳴り響いた。

 溜息をつく間もなく答案用紙が回収されていった後で、どんな問題だったのか、答案用紙に自分はどんな答えを書いたのか、それ以前にちゃんと解答用紙に自分の名前を書いたのかすらも思い出せなかった。

 その次の英語Aも和訳英訳問題は全滅、穴埋めもまともには埋められないまま、気が付いたらあっという間に終わっていた。

 三時間のテストを終え、ドッと疲労と倦怠に襲われた。紀子達のランチの誘いを断り、満身創痍の身体で独り帰路に就いた。

 家に帰ってきた私はカバンを床に放り投げ、制服のままベッドに倒れ込んだ。そこから眠りに落ちるまでスリーカウントもあれば十分だった。

 「お姉ちゃん、晩ご飯」

 廊下から聞こえてくるぶしつけな美樹の声と、無愛想なノックで起こされた。すっかり日が落ちて部屋の中は真っ暗になっていた。

 部屋着に着替えた私は、すでに夕食の華やかなムードに包まれているであろうリビングへノソノソと向かった。

 リビングに入ってすぐに、ソファーに座ってテレビを見ているお父さんの姿に気付いた。

「あれっ、お父さん」

 それまで頭の中がモヤモヤと霧に包まれていたのが、お父さんの姿を見て一気に晴れた。

 普段から多忙で毎朝誰よりも早く起きて家を出て、みんなが寝静まる頃に帰ってくるお父さんは土日も仕事で家にいないことも多いので、ともすると一週間や二週間は顔を合わさないこともあった。だから夕飯時にお父さんに会えたのはすごく久し振りのことだった。

「今日はどうしたの?」

「午後からお客さんの所で打ち合わせがあってね。会社に戻って議事録を書かなくっちゃいけないんだけど、家で書くことにしてそのまま帰って来たよ」

 お父さんと会話を交わしたのは何日振りだろうか。

「会社に戻らなくて大丈夫だったの?」

 山盛りの唐揚げを手にキッチンから出てきた美樹が心配そうに尋ねた。

「議事録なんて会社に帰らなくても書けるからね。夕飯の後にでもやるさ」

「でも、家で仕事したら残業代出ないんじゃない?」

「パパは管理職だからもともと残業代なんて出ないのよ。ほら、自分の分のカレー持って行って」

 美樹の質問にお母さんが答えた。お父さんは柔和な微笑みを讃えながらテレビを見ていた。

 テーブルの中央には大きなボウルに盛られた野菜サラダと山のような鶏の唐揚げが鎮座していた。家族全員が揃う食卓なんてお正月以来かもしれない。私は鼻歌交じりで席に着いた。

「最近はナイターやってないんだな」

 お父さんはぼやきながらリモコンでチャンネルを変えていた。

「BSでやってるかもよ」

 美樹が私には見せないようなニコニコ顔でお父さんに話しかけた。美樹も食卓にお父さんがいるのがとても嬉しいみたいだ。

 お父さんはお目当てのナイター放送がテレビに映ると満足げに缶ビールを口にした。いつもは私と美樹とで醜いチャンネル争いを繰り広げるのだが、今日はお父さんに譲ることで二人とも異論はなかった。

 私は自分の分のカレー皿にライスとカレーを盛りつけて席に着くと、我が目を疑った。自分の席に置かれていたのはコンビニの弁当に付いてくるようなプラスチック製のちゃっちいスプーンだったからだ。

「あれっ? お母さん?」

 お母さんは私の質問には答えずに、お父さんの分のカレー皿を食卓に運ぶと再びキッチンへ戻っていった。

「どうして私のスプーンこんなの?」

 キッチンから戻ってきたお母さんは顔をしかめて言った。

「スプーンが一人分足りないのよ。誰か部屋でスプーン曲げでもやってそのままなんじゃないの?」

「スプーン曲げ? なにそれ」

 美樹が半笑いで小馬鹿にしたようにこちらを見た。

「ったく、テレビ観てすぐ感化されたんでしょ。単純なんだから、ゆかりは」

 昨夜の出来事を思い出して慌てて部屋に戻った。スプーンは確かに机の上に置いてあった。が、そのスプーンを見て思わず息を呑んだ。

 スプーンは先端と柄の部分の境目付近から見事なまでにぐにゃりとL字形に曲がっていた。

 確かに昨夜スプーン曲げにチャレンジしたのは事実だが、その時スプーンは一ミリたりとも曲がりはしなかった。それが曲がっているというのは、ひょっとしてこれを曲げたのは自分じゃないのではないか。すぐに美樹の顔が思い浮かんだ。美樹が私をハメるために? いや、いくら生意気な妹でもそこまで底意地の悪い奴ではないし、動機が曖昧だ。

 私はスプーンを片手にリビングに戻った。私が手にしたスプーンを見て美樹が呟いた。

「やっぱりやってたんだ。単純」

「スプーン曲がってた」

「何が『曲がってた』よ。それじゃ使い物にならないじゃないの、一体どうするのよ。そんなことしてまで自分には超能力があるなんて思って欲しいわけ?」

「そんなつもりないわ。だって昨日試したときには全然曲がらなかったんだよ」

「何かお姉ちゃん、必死なんですけど」

 テレビ観戦中のお父さんが振り向いた。

「でも、ひょっとして本当にゆかりが超能力で曲げたのかもしれないな」

「どういうことよ? お父さん」

「もし仮にゆかりがわざとスプーンを曲げたとして、このことでゆかりが得をすることは何一つない。そんなことでアピールしたって、遅かれ早かれ超能力がないことがばれてしまうからね」

 全くその通りだった。

「じゃあ、超能力がある証拠に今みんなの前でスプーン曲げしてもらおうかしら」

「ダメよ。これ以上スプーンがなくなったら困るじゃない」

 意地悪そうに言う美樹にお母さんが待ったをかけた。

「もうこれ以上へんてこりんなマジックはやらないでちょうだい。やるなら自分でスプーン買ってきてよ」

 私はもう一つの事実を確かめるために部屋に戻った。

 止まっているはずの電波時計は何事もなかったかのように正確な時刻を刻んでいた。

 何がどうなっているのか。本当に私が超能力でスプーンを曲げたり時計を止めたりしたのか。私自身それが自分の超能力だと断言することはできなかった。が、学校でのカード当てのことを思い出して、あり得ないことではないかもしれないという思いがふと頭をよぎった。

 まさか――。

「早く食べないとカレー冷めちゃうわよ」

 遠くから聞こえるお母さんの声に促されてリビングへ戻った。食卓では誰も超能力の話題を口にすることはなかった。


 翌日、まだ前日からの何となくモヤモヤとした気持ちを引きずったまま登校すると、紀子だけがテストとは全く関係のない行動を取っていた。

 教科書やノートを広げる生徒達を尻目に、紀子はスプーンを手にしたままブツブツと何やら呟いていた。私が「おはよう」と声をかけても返事はなく、近くで耳を澄ませるとどうやら「曲がれ曲がれ曲がれ」と言っているようだった。

 私は自分の席で頬杖を突き、その異様とも思える彼女の行動を眺めながら昨日の出来事を思い出していた。

「プファー!」

 彼女はまるで水中から出てきたかのように少し大袈裟に息を吐き出すと、椅子の背にもたれてグッタリとなった。

「さっきからうずーっとやってたんだけど、ちっとも変化なしだわ」

 紀子はこちらに振り向き、手にしていたスプーンを私に差し出した。

「あんたもやってみなさいよ」

 再び昨日の我が家での出来事が脳裏をよぎった。もしも今ここでスプーンを曲げることができたら、私に超能力があるという証明になる。でも私自身曲げられるかどうか自信はなかった。

 私は数秒間逡巡してから、スプーン曲げにチャレンジする方を選択した。

「じゃあ、ちょっとやってみようかな。自信ないけど」

 できなくて当たり前、結果はゼロかプラスでマイナスがないのならチャレンジすべきと、もう一人の自分に背中を押されたからだ。それに昨日は五枚連続でカード当てたんだから可能性が全くない訳じゃない。

 私はスプーンを受け取るとゆっくりとスプーンをこすり始めた。

「あたし、昨日一晩中カード当てやってみたけど二枚連続で当てるのがやっとだったわ。もしかしたらあんたならスプーン曲げられるかもよ」

 何の変哲もないスプーンは自宅で使っているものよりもちょっとだけ重量感があって、ちょっとだけ高そうだった。

「こう言うのって、イメージすることが大事なんだってよ。例えばスプーンがどう曲がるのか、その形を頭に思い浮かべると良いみたいよ」

 紀子のアドバイスに素直に従い、スプーンが曲がったときのことをイメージしてみた。昨日私が見たようなL字形ではなく、今度はU字形に曲げてみようと思った。本当に超能力があるのならどんな形にも曲げられるはずだ。ただ曲げるだけではインチキだと思われるかもしれないから、柄の部分をねじるというのも面白いかもしれない。

 私は目の前のスプーンが原形を留めないほどに変形する様と、それを見て仰天する紀子の顔を交互に思い描きながらひたすらスプーンを擦り続けた。

 その時の私には『もし曲がらなかったらどうしよう』といういつものネガティブ思考はなかった。

 しばらくして指先がピリピリと痺れてきた。それはまるで微弱な電波を受けたときのようなチクチクとした痛みを伴っていた。そして急に血流が良くなったのだろうか、指先がほんのりと熱くなってきた。この感じはあの時をよく似ていた。気の流れが指先に集まってきているような気がした。紀子の食い入る視線も教室内の喧噪も気にならなくなった。

「ゆかり、ゆかり」

 恐らく紀子の声だろうが、返事をするのももどかしかった。とにかく今はこのスプーンを曲げることだけに集中したかった。

「ゆかりっ! 先生が来たよ!」

 紀子の声がもう一段大きくなったところで我に帰った。周りを見ると私を除くクラス全員が起立していた。

「白岡、どうした。気分でも悪いのか?」

 赤羽の声で現状を把握した私は慌てて立ち上がった。と、同時にスプーンを紀子に返した。後ろ手でスプーンを受け取った紀子は電光石火の早業でカバンにしまった。

「保健室にでも行くか?」

 赤羽がいつもの蔑ました顔で私を見ていた。私は彼から視線を外さずに「いいえ」とだけ小さく答えた。

 二日目の歴史と古典は暗記力さえあればある程度点が取れる問題が多かった。が、暗記するほど教科書もノートも見ていない私には関係なかった。英語は前半の単語と選択問題だけは点が取れそうな感触があったが、後半の長文読解に至っては目を通しただけで諦めた。

 前日に続いてヨレヨレの状態で帰宅すると、お母さんが昨日のカレーの残りで作ったカレーうどんをすすり、取り敢えず最終日のテストに向けて最後の悪あがきをしなければと机に向かう決意をした。

 今さらテスト勉強をしたところでどうなるわけでもないのは百も承知だったが、この二日間のテストがあまりにも不甲斐なかったのと、最も苦手な数学だけはちゃんと勉強をしておかないとさすがにヤバいという気持ちがそうさせていた。下手すると数学は点数が取れないかもしれない。

 みんなが疲弊している最終日に数学Ⅱと数学Bの二教科をぶつけるという偏った編成には赤羽の陰謀が見え隠れしているように思えたが、そんなことを憂いても仕方がないので取り敢えず教科書を広げてみる。毎日学校に行っていたはずなのに、見覚えのあるページと全く見覚えのないページが半々というのはどういうことなのか。人間は自分にとって嫌な記憶を無意識のうちに消去してしまうらしいので恐らくそのせいだろう。

 ノートに書かれた計算式は黒板の文字を書き写したものらしいが、教科書に書かれた計算式とノートの計算が違っているのはどうしてなのか。

 試験範囲の半分にも満たないところで、私の上半身は船を漕ぎ始めた。体内の血流が胃の方に集中して脳に行き渡らなくなったからだろう。もう目を開けることもつらかった。

 このままベッドに横たわり、惰眠を貪りたい欲求に駆られた。スマホのタイマーを十五分にセットしてからベッドに身体を投げ出した。羽毛布団に顔を埋めながら紀子や素子達も今頃は試験勉強をしているんだろうなと思った。

 紀子はテストが午前中で終わるというので明日は夕方からメイドカフェのバイトを入れたと言っていた。素子は専属の家庭教師から連日懇切丁寧な指導を受けていて、今回のテストは楽勝だよと自信満々で話していた。四人の中で最も真面目で最も優秀なミエは『自信ないよ』と控えめに言ってはいるが、間違いなく手応えを感じているに違いない。

 すると、私だけが生産性のない怠惰な時間を過ごしていると言うことか。

「あ」

 ふと自分用のスプーンを買い忘れていたことに気が付いた。私はけだるい身体を起こし、眠気覚ましを兼ねて出掛けることにした。

 美樹からもらったお下がりの財布の中にちゃんとお金が入っていることを確認した。

「お母さんと美樹には内緒だよ」

 私が財布をなくしたのを知ったお父さんが夕食の後私の部屋にやってきて、こそっとお小遣いを渡してくれた。私には金額云々なんかよりもその優しさが痛く心に染みた。

 駅前の百円ショップで自分用のスプーンを選んでいると、ポシェットの中から小気味よい振動音がした。携帯電話を取り出し差出人の名前を確認すると、紀子からのメールだった。そのメールには件名も本文もなく、ただ一枚の画像ファイルが貼り付いているだけだった。

「? 何だろう?」

 私は最初その画像が何なのかよく分からなかった。金属でできたオブジェのようだった。画像を拡大してじっと目を凝らしていると、今度は紀子から電話がかかってきた。

「はい、もしもし」

「メール見た」

 紀子は私が電話に出るやいなや早口で聞いて来た。

「うん。見たけど、あれ何? 前衛芸術なんて趣味でも始めたの?」

「あんた、分からないの?」

 紀子は呆れたように一つ溜息をついてから、今度はゆっくり喋りだした。

「あれ、あんたが朝学校でひん曲げたスプーンだよ!」

 言われてみれば二つ折りになったスプーンのようにも見えなくはなかった。しかし紀子が私から取り上げたとき、スプーンには何の変化も見られなかったのだから、本当に私が曲げたものなのかは確証がなかった。

「本当に私が曲げたものなの? 紀子が担ごうとしているだけなんじゃないの?」

「何言ってんの。家に帰ってカバンを開けてみたらあんな状態になっていたのよ」

「でもさ、あの時は曲がっていなかったよね?」

 電話をしながら、いろいろなスプーンが吊された展示棚をぶらぶらしていた。棚にあるスプーンはどれも真っ直ぐに伸びていて、まるで真面目な生徒がきちんと整列しているみたいだった。

「うーん、そこはあたしにもよく分からないんだけど……ま、時間差ってやつじゃないの」

 時間差。それならスプーンを曲げたことも時計が止まったことも合点がいった。

 私には超能力がある?

「ねぇ、紀子」

 私はそれでもまだ自分の考えだけで結論づけることがためらわれた。だから敢えて紀子にも確認したかった。

「私に超能力ってあるのかな?」

「『あるのかな』じゃないの、これは紛れもない事実よ。アンタには超能力があるんだってば!」

 アンタニハチョウノウリョクガアルンダッテバ。

 紀子の言葉が自分の耳の中で何度も何度も反復していた。ここ数日間、ことある度に自分自身に超能力があれば、と思い続けてきた私に超能力があるという事実。これを一般に「夢が叶った」と言うのであれば、今私はまさに「夢が叶った」瞬間に違いなかった。

「これであんたも金儲けだろうが人助けだろうが何でもできるスーパー人間になったってことじゃない」

 それからの私は間違いなく上気していたに違いない。気が付いたときには何の変哲もないありふれたスプーンが一本だけ入ったレジ袋を下げて家に帰り着いていた。あれから紀子とどんな話をして、どうやってスプーンを買ったのか、ちゃんとレジで会計を済ませたのか、その店からどうやって帰ってきたのか、何一つ思い出せなかった。

 部屋に入ると、確かめるように私は紀子からのメールを見返した。スプーンが原形を留めない状態で曲がっている画像をじっくりと眺めながらしばらくその場に立ち尽くしていた。

 テスト最終日は数学Ⅱと数学Bの二教科が同日におこなわれるという、数学を最も苦手としている私にとっては地獄のような一日だった。

 先におこなわれた数学Ⅱですでに体力気力のほとんどを使い果たした私には最後の科目である数学Bに立ち向かうだけの余力は残されていなかった。

 フウフウと肩で息をしながら名前を書き、チカチカする目で問題を読んだ。

 “次の式を展開せよ。”

 “nが自然数のとき……を証明せよ。”

 “その個数をnを使って表せ。”

 ただ目が字面を追いかけているだけで、問題文の意味が頭の中に入って来なかった。それに加え、担任の赤羽が作ったテストは本人の性格を表すかのように何とも意地悪な問題ばかりで、どれも超難問だった。私の手は止まったまま時間だけが無情に過ぎていった。

 私のラスト・ウエポン、伝家の宝刀である“超能力”を披露しようにも、どんな能力を使えばテストの問題が解けるのか思いつきもしなかった。透視や千里眼はイコールカンニングだし、時計を止めたところで時間そのものを止めるわけではないので無意味、というかいくら時間をかけても問題が解けないのでは意味がない。ましてやスプーン曲げなどテストには全く関係ない。どんなに優れた武器を持っていても使い方が分からなければ無用の長物に過ぎないのだとその時思い知らされた。

 仕方なく旧来からの方法で答えを求めることにした。まず過去の授業の記憶を呼び起こすことだ。が、私の記憶は授業の内容はおろか、そもそも授業で習ったのかすら思い出せなかった。そういえば赤羽の授業はいつも途中で眠くなって意識を失うことが多く、最後まで起きていたことがなかった。

 私は斜め前の席にいる紀子の背中を見た。このチンプンカンプンな問題に対し、取り憑かれたように一心不乱にシャーペンを走らせている彼女がどんな答えを書いているのか、とても気になった。あの紙の上に書かれているものを無性に見たくなった。それはもはやカンニング以前の純粋な衝動だった。

 どうしたら覗けるのかと考えたときハタと、透視すればいいじゃないかと思いついた。一度座りなおして居住まいを正しし、目を閉じ、集中力を高めている途中で、急に我に返った。

 何やってんだろう、私──。

 チャイムが鳴り響き、担当教師の号令で答案用紙が回収されていく。私はほとんど手つかずの綺麗なままの用紙を見送りながら、この答案用紙が一生戻ってこないことを願った。次にあの用紙を見るときには右上に赤々と0の数字が書き込まれた状態であることが確定しているからだ。

 椅子の背もたれに体を預けながら紀子を見た。彼女の背中にはベストを尽くした充実感と努力に見合った結果への期待感が滲み出ていた。

「あ、そうそう」

 紀子が急にこちらに顔を向けた。

「今日、学校終わったら速攻ダッシュで帰るよ、いい?」

「素子達は?」

 紀子は首を横に振った。

「一緒に行って欲しいところがあるの」

 紀子は時々こんな感じで含みのある言い方をすることがあるのであまり気にしないのだが、このときはなぜか少しだけ心に引っかかるものを感じた。

 私が黙ってうなずくと、彼女は親指を立ててウインクして見せた。

 帰りのSHRで赤羽は残酷な言葉を既定事項であるかのように淡々と告げた。

「今日のテストは明日の授業にみんなに返すが、あまりに点数がひどい生徒には追試もしくは補修をするのでそのつもりで」

 もう私の補修はすでに確定されたものと覚悟した。ざわつく生徒達を尻目に赤羽は日直に帰りの号令をかけさせた。

 私達は素子達がやってくる前に教室を出た。いつもは駅までてくてく歩くところをこの日は紀子の指示でバスに乗った。

 バスを待っている間もバスに乗ってからも紀子は黙ったままひたすらスマホでメールを打ち続け、返信メールに対しては敏感に反応していた。誰とメールしているのか気になったがあえて彼女のスマホを覗き込むようなことはしなかった。

 全く何も聞かされていないので一抹の不安はよぎったが、紀子が私を人身売買オークションに売り出したり、危険ドラッグパーティーに連れて行ったりするはずがないだろうから自分の身の危険は保障されているだろうと思われた。どうせ新しいショップかレストランでも見つけて一人で行くのが嫌だから私に付いてきて欲しいと思ったのだろうか。そう思う反面、お店に行くだけなら素子達も一緒でもいいんじゃないか、いやむしろ彼女のことだから大勢で押しかけようと思うはずだ。彼女の横顔からはその真意を読み取ることができなかった。こういうときこそ超能力の出番なのだろうか。

 いや、こんなところで超能力を使って彼女の本心を見抜いてしまって、それがもしも自分の思っていたこととは全く違っていたら、私はきっと動揺してしまうに違いない。一番良いのは人の心など覗かないことだ。

 そんなことを考えているうちにバスが駅前に到着した。バスを降りて、駅の改札を抜け、いつもとは逆方向の電車に乗った。

 真っ直ぐ目的地に向かっている紀子の動きがいつになく機敏だった。ちょっと急いでいるような気がした。

 電車に乗り込んでから紀子がようやく口を開いた。

「ゆかりに会って欲しい人がいるんだ」

 紀子の言葉は私が予想していなかったことだった。

「実はさ、私も会うのが初めてなんだよね。場所も向こうが指定してきたからよくわかんないし」

 何だ? ショッピングではなく人身売買の方か? 私はちょっとだけ心の中で身構えた。

「会えば、多分あんたも分かると思うよ」

 紀子の含みのある言葉に余計私の頭の中が混乱した。私が知っている人なのか? 目の前をビュンビュンと流れる車窓の風景を眺めながら、誰だろうと妄想を張り巡らせていると、いつの間にか電車は駅に到着した。

「降りるよ」

 紀子の声に促されて今まで降りたことのない駅のホームに立った。

 改札を出ると紀子はすぐに電話をかけた。

「……あ、蓮田です……はい……あ、そうですか。はい、わかりました。はい、はい……」

 紀子は電話で話しながら駅前のロータリーをキョロキョロと見渡していた。

「そうですね、多分わかると思います。はい、それじゃ」

 電話を切ると紀子は早足で歩き出した。私は遅れないようにその後をついて行くだけだった。

 『たんぽぽ銀座』と書かれた古ぼけたアーケードをくぐって繁華街に入った。どのお店も今の流行からはほど遠い、一昔前のレトロ感に満ちていた。昔ながらのお店が多く建ち並び、平日の昼間だからなのか元々なのかは分からないが、繁華街と言うには少々人通りが少ないように感じた。

「えっと、あ、ここか」

 前を歩いていた紀子が直角に身体の向きを変えて路地裏に入った。私も続いて角を曲がると、人が二人すれ違うのがやっとの細い通りが目に飛び込んできた。私一人だったらちょっとひるんでしまうほどひっそりとしていて怪しげな雰囲気が漂っていた。

 ずんずんと早足で歩いていた紀子の足が急に止まった。私はすぐに反応できずに彼女の背中に体当たりした。

「あ、ごめん……」

 紀子は何も答えなかった。私は彼女が見つめる先にある看板を見た。足許に置かれた看板にはひらがなで『あみん』と書かれていた。その上には小さく『純喫茶』という文字も見えた。『純喫茶』という単語がやけに古めかしく思えた。『純喫茶』があるのなら『不純喫茶』というのもあるのだろうか。でもそれって風俗店みたいだ。

 私の考え事にはお構いなしに、紀子は躊躇なくお店のドアを開けた。木製のドアが開くとき、カランカランとベルの鳴る音がした。

 店内は思った以上に薄暗かったが不純な感じがしなかったので、やはり純喫茶なんだろうな、と思った。目が慣れてくると店の奥に人がいることに気が付いた。

 その人物は私たちが来るのを待っていたかのように、こちらに向かって小さく手を挙げ、笑みを見せた。

 二十代、いや三十代であろうその男性はおもむろに立ち上がって私たちを迎え入れた。紀子がまっすぐに彼の方へ歩いていったのを見て、彼女が会って欲しいと言っていた人物というのが彼なんだとその時にようやく認識した。まさか紀子の新しい彼氏なのか。それともネットで知り合った人物か。まさかバイト先のお客さん? どちらにしても独りで会うのが怖いから私を連れてきたのだろうか。

「初めまして。藤井知洋といいます」

 その男性は穏やかな口調で自己紹介した。雰囲気からはこないだのようなデート目的のオタク野郎のようには見えなかった。ただ、ふじいともひろ、というどこか聞き覚えのある名前が引っかかった。顔も見覚えがあるような気がしたが、どこで見たのか思い出せなかった。

 紅潮した顔の紀子がこちらを見ながらいつもよりも一オクターブ甲高い声を上げた。

「初めまして。こっちが白岡ゆかりで、私が蓮田紀子と言います」

 紀子の自己紹介に合わせるように男は二人の顔を交互に見た。

 私がポカンとしているのを見た紀子が私の脇腹に肘うちをした。

「あんた、まだ分からないの? この人があの“サイキック・マジック”の藤井知洋よ!」

 サイキック・マジックというキーワードで頭の中のモヤモヤがようやっと晴れた。「あぁ!」と大声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。

 私が目を見開きながら納得の表情で大きくうなずいているのを見て、藤井はそっと手を差し出した。

「思い出していただけて光栄です」

「いえ、すぐに気づかなくてごめんなさい」

 私は反射的に彼の手を握り返した。彼の手は全くゴツゴツしたところがなく、まるで女性の手みたいだった。

「あれ、白岡さんとは以前どこかでお会いしましたっけ?」

「いや……多分ないと思いますけど……」

「失礼しました。ちょっとそんな気がしたもので。どうぞお座り下さい」

 藤井に促されて私と紀子は椅子に腰掛けた。すると間合いを計っていたかのように奥からマスターとおぼしき人物がこちらに歩み寄ってきた。

「いらっしゃい」

 おしぼりとお冷やを持ってきた五十代後半くらいのマスターは、黒いスラックスと白いシャツがよく似合っていた。ロマンスグレーの髪と口ひげはまさにテレビや映画に出てくる喫茶店のマスターが具現化したかのようだった。

「ご注文は?」

 マスターが私たちにメニューを広げながら渡した。紀子と私は顔を寄せて端から順にメニューを眺めた。

「ここは私のおごりですから、好きなものを頼んでください。ここのケーキは美味しいと評判なんですよ。特にパンプキンパイがおすすめです」

 ケーキメニューの欄に『パンプキンパイセット(シナモンティー)』と書かれてあった。

「パンプキンパイだけ、シナモンティーのセットなんですね」

 紀子がメニューを見つめたまま言った。確かに他のケーキセットはコーヒーかレモンティー、ミルクティーの組み合わせで、パンプキンパイだけがシナモンティーしか選べないようになっていた。

「ま、個人的なこだわりなんです。気にしないで下さい」

 マスターは静かに笑った。こういう男性をダンディーと言うんだろうな、とふと思った。

私たちがメニューを凝視している間もマスターは口元に微笑みを携えながら静かに立っていた。

 ようやく私たちがオーダーを告げると、立ち去るマスターの背中越しに藤井が声をかけた。

「すいません、マスター。コーヒーお代わりお願いします。今度はブルマンで」

 マスターは小さくうなずくとそのままカウンターの中に入っていった。

「ここのマスターとは、僕がマジシャンとしてデビューする前からの知り合いで、ずいぶんとお世話になっているんですよ」

 ふんふんと、興味津々といった顔で藤井の話にうなずいていた紀子がおもむろに口を開いた。

「突然、メールして申し訳ありませんでした。でも、どうしても藤井さんにゆかりのことを見て欲しいと思って、いても立ってもいられずにメールしちゃいました」

 紀子が私と藤井を会わせたい? 私をマジシャンに弟子入りでもさせようというのか?

「いいえ。私も蓮田さんの話を聞いて、ぜひとも白岡さんにお会いしたいと思っていました」

 ? 藤井が私に会いたい? いったいどういうこと?

 私の頭の中で?マークがポコポコと増殖していった。

「一番の問題は、本人にその自覚症状がないことだと思うんです」

 藤井は、なるほど、と答えて私の方を向いた。

「白岡さん」

 藤井に声をかけられ、私は思わず背筋を伸ばした。

「はい?」

「最近変わったことはありませんでしたか?」

 私は遠くを見つめながら、ここ最近の出来事を思い出していた。

 アキバでくたくたになり、紀子と買い物に行ってクレープを落とし、さらに財布をなくしたこと、テレビで藤井のマジックを見てスプーン曲げに挑戦したが何も起きず、目覚まし時計が鳴らずに遅刻しそうになったこと、教室でカード当てに五枚連続で当てたこと、気が付いたらスプーンが曲がっていたこと、テストはさんざんだったこと……。

 藤井は私が思い出しながらポツポツと話す内容について一つ一つ大げさじゃないかと思うほど大きくうなずきながら聞いていた。

「なるほど……それで、白岡さんは何か思い当たりませんか?」

 藤井の問いかけに私は首を傾げながら、さっき藤井に話したことをもう一度頭の中で再生してみた。思い当たるようなことがないわけでもなかったが、それを自ら口にするのはちょっと抵抗があった。

「ね? ゆかりって鈍感でしょ?」

 なかなか答えない私に紀子の方が焦れているみたいだった。

「いやいや、案外本人の方が自覚がないもんですよ」

 二人の会話にまた?マークが躍った。

「僕も最初はそうでした」

 そう言いながら藤井はポケットからなにやら取り出した。それは紙箱に入ったトランプだった。彼は箱からトランプを抜き出すと、何度かシャッフルをした後で私の前に置いた。

「私は一応表向きはマジシャンと言うことになっていますが」

 藤井の遠回しな言い方が気になった。いったい何が言いたい?

「実は超能力者なんです」

 だから、サイキック・マジシャンなんでしょ? そう言って突っ込みを入れたくなったが、初対面の人に向かってそれはできなかった。

「うーん、どう説明すれば良いのか。……では、とりあえず」

 藤井は目の前のトランプを指差した。私はトランプよりも彼の細くしなやかに伸びた指先と女性のように滑らかでつやのある爪の方が気になっていた。

「一番上のカードをめくってください」

 私は促されるままに一番上のカードをめくった。出てきたのは、ダイヤの3だった。

 藤井はそのカードを取り上げると私達の目の前でぐにゃっと半分に折り曲げた。そしてくの字に曲がったカードをトランプの山の真ん中に挟み込んだ。

「こうやって曲がり癖のついたカードを山の中に入ると、目立ちますよね」

 この時点で、どんなマジックになるのかまだ分からなかった。

「普通のマジシャンですと、ここからテクニックを駆使するんですよ。たとえば真ん中にあるこの曲がり癖のついたカードが一瞬で一番上に移動するとかね」

 私と紀子は藤井の解説にただうなずくだけだった。

「でも、私にはそんなテクニックはないんです。だってぶきっちょですからね。だから、超能力を使うんです」

 ぶきっちょ、という言葉に反応した方が良かったか、と思っていると藤井が私の手を指差した。

「このトランプを押さえててもらえますか」

 藤井は折れ曲がったカードのせいで浮き上がってしまったトランプの山をテーブルの上に置いた。私はその山を人差し指で押さえた。

「はい、もういいですよ。手を離してください」

 押さえたばかりの指を離すと、一番上のカードが折れ目が付いてぷくっと盛り上がっているのがわかった。

「めくってください」

 ひっくり返したカードは間違いなくダイヤの3だった。たしかに彼はカードを山の真ん中に挟んでいた。それは私も紀子もちゃんと見ていた。しかも藤井はトランプをテーブルに置いている間全く触れていなかった。でも、これによく似たマジックを以前テレビで見たことがあるような気がした。だからそれほど驚きはしなかった。

「マジックの世界では、こういった曲がり癖のついたカードはもう二度と使えないんですよ」

 そう言いながら藤井はダイヤの3のカードをビリビリと四等分すると、それを私に持たせた。

「それでは蓮田さん、カードをめくってください」

 今度は紀子がトランプの山に手を伸ばした。めくったカードはスペードのJだった。

「そのカードを手の間に挟んでおいてください」

 紀子は真剣白刃取りのように左右の手のひらでカードを挟んだまま硬直していた。

 藤井がまた私の方に向き直った。

「白岡さん、手の形を蓮田さんと同じようにしてください。カードはこぼさないように」

 グーの形にしていた手を、そっと紀子と同じようにパーにした。

「はい。もういいですよ」

 藤井の「いいですよ」というタイミングがやけに早かった。

「二人とも手を開いて」

 先に手を開いた紀子が「ひゃっ」と声を上げた。私は自分の手の中よりも彼女の方が気になってそっちを覗くと、紀子の手のひらのカードが四等分に破けていた。しかもよく見ると赤いダイヤのマークと数字の3が見えた。

 私は慌てて自分の手を開いた。

 私の手のひらの上にあるカードは、さっき紀子が手のひらに挟んだはずのスペードのJだった。

 二人とも手を離したりしなかったし、藤井にも変な動きは見られなかった。確かに超能力と言われればそうだが、マジックなんだと言われてもそれを否定することはできないと思った。

「これをテレポーテーションでカードを瞬間移動させた、と言って信じてもらえますか?」

 私も紀子も口をつぐんだまま否定も肯定もできなかった。

「ですよね。お二人にはこれはただの手品にしか見えませんよね」

 藤井の目の奥が光った、ような気がした。

「スプーンが曲がったりカードが移動したりしたのを目の当たりにしたとき、大抵の人は超能力みたいだとは思っても、本当に超能力だとは思っていないんです。びっくりしていてもきっと何か仕掛けがあるんだろうと頭の片隅で思っているはずなんです。ということは、逆に考えれば、いくら超能力を使ってもみんなただのマジックとしか見てはくれない」

「それって、藤井さんには屈辱的なものなんでしょうか?」

 紀子の質問に藤井は破顔した。

「とんでもない! むしろ好都合ですよ。私みたいな者でもちゃんとマジシャンとしてやっていけるんですから。超能力者にとってマジックは自らの特技で実益を得ることのできる場なんです」

 藤井知洋はマジシャンでありながら、マジシャンではない。なぜなら彼にはマジックに必要なテクニックを持ち合わせていないからだ。氷水を一秒で沸騰させることも一瞬にしてトランプを数字順に並べ替えることも、カードがガラス板を通り抜けることも、全て超能力を使ったということか。となると、私たちが目の当たりにしたのは超能力でありマジックではなかったということになる。『サイキック・マジック』というのは事実であり、あながち胡散臭いものではなかったと言うべきなのか。いや、これら全てがマジックでないとしたら、そもそも『サイキック・マジック』と呼ぶべきではないのか。

 それにしても紀子は私に彼のマジックを見せるためにここまで連れてきたのか? 一体何のために? いや、今までの流れだと紀子が藤井と共謀して私をここに連れてきたと言う方がが正しいようだが……。

 私が眉をひそめると、背後から声をかけられた。

「おまちどうさま」

 にこやかな表情のマスターが紀子の前にパンプキンパイとシナモンティーのセットを、私の前にホットケーキとカフェオレのセットを並べた。紀子のティーカップソーサーには木の枝のようなシナモンとバラの形をした角砂糖が二つ置かれていた。

 紀子が不思議そうな顔でその木の枝を見ていると、藤井が穏やかな口調で言った。

「このシナモンであのガラスに好きな人の名前を三回書くと、想いが叶うんですよ」

 彼は店の窓ガラスを指差した。

「えっ、本当ですか」

 紀子がカッと目を見開いて、嬉しそうにマスターを見た。

「ええ。意外とそういう方が多いようです。この間もそれで結婚したというカップルがお礼の挨拶に来ました」

 予想以上に浮かれている紀子を見ながら、彼女に思い人なんていたんだっけかと根本的なことを考えてしまった。

 鼻歌交じりにシナモンの枝をクルクルとかき回す紀子に藤井が半笑いで忠告した。

「マスターのは話半分で聞かないとダメですよ」

「えっ」

 すると今度はマスターが遠くから言い返した

「そんなインチキマジシャンの言うことを信じちゃダメですよ」

 二人の笑顔を交互に見て、どちらの言うことを信じれば良いのか悩んだ。どちらもニヤニヤしているところを見ると、お互いに悪気はないのだろう。

 ホットケーキにナイフを落とした。フワフワとした生地にバターのほどよいしょっぱさとメープルシロップの甘さが渾然一体となって口の中に広がった。味、香り、食感のどれも見事だった。材料が違うのかマスターの腕が良いのか、普段家で食べているのより何倍も美味しかった。

 二人がケーキを食べている間、藤井は紀子との馴れ初めについて語ってくれた。それによると、最初にアプローチを描けたのはどうやら紀子の方だったらしい。紀子が彼のブログにコメントを書き、それを見た彼が紀子とコンタクトを取った。しかし、一体何故? 何のために? やっぱり私の中にはいくつもの?が飛び交ったままだった。

「さて、そろそろ本題に入りましょうか」

 藤井は私たちがケーキを食べ終えるのを見計らって、胸ポケットから新たにカードケースを取り出した。私はまた新しいマジックでも始めようとしているのかと思った。

「よく見てもらえば分かりますが、これはトランプではありません」

 封を切ったばかりの紙箱から出てきたのは、以前紀子が学校で私にカード当てをさせたESPカードだった。

「これ知ってます。ESPカードですよね?」

「ほう、よくご存じですね。なら話は早い」

 藤井はESPカードをトランプ同様手の中でシャッフルすると、テーブルの上に置いた。

「それでは白岡さん、この一番上のカードを当ててみてください」

 いきなり自分に振られて、私は一瞬フリーズした。なんだ? どういうこと?

 私は紀子を見た。紀子は黙ってうんうんとうなずいているだけだった。

「私はね、教室でゆかりのカード当てを見たとき、彼女には超能力があるんだと直感したのよ。それでサイキック・マジシャンの藤井さんにメールで相談してみたの」

 紀子は藤井がただのマジシャンだとは思わなかったんだろうか、と素朴な疑問が脳裏をよぎったが、その言葉を飲み込んだ。代わりに別の言葉がポロリと漏れた。

「結果オーライというわけね」

「え? 何?」

「ううん、なんでもない。じゃあ藤井さん、カードを当てれば良いんですね」

 私は教室でやったときと同じように、カードの山に手をかざした。すると、手の甲にぼんやりとカードの図柄が浮かび上がった。私の中での推測が確証へと変わった瞬間だった。

「波、です」

 藤井がカードをめくると、白い紙にS字状にカーブした三本線が現れた。彼は黙ってそのカードを山の右側に置いた。

「じゃ、次は?」

 私はまた手をかざした。今度は○だ。

「○です」

 藤井がカードをめくる。また正解だった。

 それから十枚ほどテストしたが、どれも皆正解だった。いつも饒舌な紀子も、黙って見入っていた。

「白岡さん、疲れませんか? ちょっと休憩しましょうか」

「いえ、大丈夫です。全然疲れてません」

「では続けましょう」

 藤井は再びカードの山を指差した。

「これはどうですか?」

 藤井の言葉に呼応するように私は手をかざした。が、今回は私の手の甲に何も浮かんでこなかった。

 私は一旦手を引っ込めた。

「? どうした?」

 紀子が心配そうに私の顔を覗き込んだ。

 私はもう一度そのカードに手をかざしてみた。やはり手の甲は薄ぼんやりと光りはしているが、図柄が浮かび上がらなかった。

「……何も、書いてないみたい……」

 私がぽつりと呟いたのを藤井は聞き逃さなかった。藤井は私のファイナルアンサーを聞かずにカードをめくった。そこに現れたのは真っ白な無地のカードだった。

「その通りです。スペアのカードだったんですね。いやぁ、実に素晴らしい!」

 藤井は大袈裟に体を反らせ、パンと手を叩いた。

「白岡さん、これは偶然や当てずっぽうなんかじゃない。白岡さんは正真正銘、本物のエスパーですよ!」

 スプーンを曲げたりカードの数字を当てても自分が正真正銘のエスパーだと言う実感は湧かなかった。ただ、エスパーを自称する人物から『あなたはエスパーです』と評されて、ぼんやりとした感覚が次第に自覚へと変わっていった。

 あぁ、私ってエスパーなんだ。


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