夢見がちな令息の夢が壊れた話
彼女はいつも冷静な人だったーー語弊があった。彼女はいつも、温度のない人だった。
体温が低いという意味ではない。否、低いのかもしれないが、アベルは彼女に触れたことがないのでその正否は分からない。故に体温の話ではない。
では何を以って「温度がない」と評するのかと言えば、周囲に放つ温度と言えばいいのか。否、放つと言うと何か能動的な印象を与えるから、この言葉も間違いかもしれない。
幼い頃は誤解していた。彼女は年の割に冷静で、アベルよりふたつ下だというのに出会ったときから年上のような落ち着きを持っていた。実際誤解して、年下の可愛らしい婚約者ができると聞いて色々お兄さん振ろうと思っていたアベルーー婚約者と兄は断じて異なるものであるが、彼は末っ子だったため弟妹の存在に憧れていたーーは、最初の出会いで彼女を完全にスルーした。
屋敷中ーーと言っても彼の認識内での屋敷中ーーを探し回っても見当たらない「年下の婚約者」に、すっかり意気消沈して母のドレスの裾を握り締める。
「僕の婚約者がいないよ」
今日来るって聞いていたのに。困り顔、寧ろ若干涙目になって呟く息子に、公爵夫人はあらあらと扇を揺らした。
「何を言っているのかしらこの子は。可愛い婚約者を無視してお部屋を出て行ったのは貴方でしょう?やんちゃも時と場合を選ばないと恥ですよ」
普段末っ子であるが故に猫っ可愛がりされているアベルだが、母が公爵夫人として、公爵家としての振る舞いに厳しいことも、身に染みている。優しげな口調と態度で背中を撫でながら放たれた言葉の内容に、思わず背を伸ばした。
背筋伸ばすと視界も広がる。そこでアベルは初めてというか漸く、室内にいる同じ年頃の少女を正面から見た。
彼女は先程見た。とろんとした視線ではあるが紅茶色の垂れ目は余裕があって、隙がない。少女なのに落ち着いた濃緑のドレスが似合っており、金髪に巻き付いた灰色のリボンも大人っぽい。見える全ての情報から、アベルは彼女を年上と判断した。その頃アベルの出会う同年以下の少女にはパステルカラーのドレスが流行っていると知っていたからだ。流行に踊らされない様子に、アベルは無意識に憧れを抱いた。お姉さんかっこいい。
だがそれ故に、彼女は婚約者ではない。しかしこの場にいるということは、もしかすると婚約者の姉だろうか。では婚約者は彼女をもう少し幼くした感じであろうかーーなどと想像を膨らませたアベルの耳に届いたのは、彼女こそアベルの婚約者となるユレイシア・タスクバルト侯爵令嬢だという言葉だった。
アベルは絶望した。
可愛い年下の婚約者だと聞いていた。確かに容姿は可愛いし年齢は年下だし婚約者である。そこに嘘はない。だが言葉から受け取る印象とは程遠い、それがユレイシアだった。
お兄さん振ることを夢見ていたはずなのに、初っ端の第一印象、何の含みもなくアベルが抱いた感想はこれだ。「お姉さんかっこいい」。
年下の女の子を見て、「かっこいい」などと羨望を抱いてしまったのだ。多感な時期の少年としては、心に傷を負わないわけがない。
だが実際問題、ユレイシアは年下である。外見はともかく、中身についてはこの限りではあるまいと期待したのだが、残念ながら彼女の内外は一致していた。
婚約者として親交を深めるため、アベルは侯爵家に訪れることが多くなった。ユレイシアは大抵出窓のある温室にいて、花を眺めていた。花が好きかと聞けばそうですねと返ってくる。育てたりするのかと聞けば、そこまではと返ってくる。まぁ貴族の令嬢。自ら育てる必要もあるまいと思って深く考えなかった。
何をしようかと言えば、「アベル様のお好きなことを」と返ってくる。何の話が良いか聞けば、「アベル様のお好きに」。だから馬の話や剣の話をした。馬術や剣術はさすがに一緒にはできない。そうするとユレイシアはここから庭が見えますから、と言う。見ているから馬術や剣術を披露してくれと言われているのだと思いアベルは張り切った。これらの間、ユレイシアはずっと嫋やかに微笑んでいた。見ていたかと部屋へ戻れば頷いて、素敵でしたと返してくる。
アベルは有頂天になった。最初こそ最悪な出会いだったが、それは「年下の婚約者」としての話で、それらを抜きにすれば、ユレイシア個人の印象は悪くなかった。今でも年下と言うには落ち着きがありすぎるが、それでもそんな彼女が全てをアベル優先にしてくれーーそれは貴族に生まれた娘であれば当然とされる態度であるがーー褒めてくれ、微笑んでくれる。そして最初から、顔の造りはとても可愛い。
年下など拘る必要はない。ユレイシアは、とても可愛い婚約者だ。
そのようにアベルが考えるまでに、然程の時間は必要なかった。
そのような考えに翳りが差したのは、ユレイシアが15になった年、彼女が貴族子女の通う学園に通い出してからだ。
アベルはその2年前から学園に通っていた。可愛い婚約者が今度は可愛い後輩にーーそれは、アベルには甘美な言葉として響いた。何故ならば、ついぞ年下らしいところを見せなかった可愛い婚約者だが、学園であれば、知らないこともあるだろう。アベルはここに2年通っている。彼がユレイシアに教えるということだってあるだろう、と思ったのだ。
そんな妄想を己の中に留めておけない末っ子気質を発動させて、アベルは級友に披露して見せた。それは入学当初からそうだったので、友人たちには生温かく受け入れられた。
そしてだからこそ、友人たちの興味を惹いた。
この国の成人は16である。それまでは特に女性は公に姿を見せない。つまり、15歳のユレイシアを見たことがあるのはアベルだけだったので、彼がそんなにも語る「可愛い婚約者」に興味が出たのだ。
その内のひとりがユレイシアに接触したらしく、彼はその日しきりに首を捻っていた。それが数人になったところで、友人たちはアベルに話しかけた。あれって可愛いの?と。
非常に率直な意見であるが、アベルは鷹揚に受け止めた。否、語弊があった。嬉々として受け入れた。
アベルにしてみれば、ユレイシアの魅力が分かるのは己だけでいいのだ。ライバルがいないに越したことはない。それにしてもお前ら美的感覚おかしくないか、と思わず言ってしまった一言に、友人たちは首を振った。いや顔じゃなくて、と。
聞けば、態度の方だと言う。俺あんな風にされたら泣いちゃうな、とおどけたようにひとりが言った。ああ分かる、とひとりが同意する。どうやら、あのユレイシアの落ち着き払った態度が辛いらしい。
なんだそんなことかとアベルは笑った。と言うより、得意になった。ユレイシアは確かに落ち着いて大人びた雰囲気を持っているが、男性を立て、合わせ、側に控えるということを知っている。多くの男が妻に望む態度そのものなわけだが、どうやらアベルの友人たちには発揮されていないらしい。それはそうだ彼らは夫ではない。
つまり、ユレイシアは夫となるアベルとその他の男とで、明確に線引きをしているのだろう。
そういうことだ。さすが俺の嫁。
などと惚れ直した数日後、アベルはまさにその場面に出くわすことになった。ユレイシアと男子生徒が話しているところを見かけたのだ。
思わず足を止めたアベルは、こっそりと道の端に寄ってみた。道の真ん中に立ち止まっていては邪魔だし、何より注目を浴びてしまう。それでユレイシアがこちらに気づいてしまっては意味がない。
そう、アベルはその場に留まることにしたのだ。友人たちの言っていた夫とその他の男との一線を見てみたいと思ったのだ。悪趣味である。
だがアベルにその自覚はない。若干伸びた鼻の下にも自覚はないまま、ユレイシアと男子生徒会話を遠くから眺めた。声は聞こえないが、顔の角度や雰囲気からして、男子生徒がしきりに話しているようだった。
「……」
数分眺めたところで、アベルは首を傾げた。
おかしい。
そんなはずはない。
そう思うのだが、抱いてしまった違和感を否定する要素が見当たらない。結局、アベルが首を傾げたまま彼女たちの話は終わってしまった。
どういうことだろう、と悩んだアベルは、今度は友人を連れて行くことにした。
狙いがあったわけではないが、学園生活という性質上、彼女が男性と話す姿を見つけるのにそう時間はかからなかった。
そしてまた数分。再びアベルは首を傾げる。そして友人に聞いた。この間言っていた「泣いちゃう態度」とは、あれのことかと。
友人はあっさりと頷いた。
「あの、どうでもいいって感じ?ここからでもひしひし伝わってくるもんな。お前のときとは違うんだろう?想像つかない」
「……」
アベルは答えることができなかった。
何故なら、今回も、前回も、ということはこの友人に対したときもと考えて良いだろう。ユレイシアの態度は、アベルに対したときと寸分違わないようだったからだ。
決定的だったのは、偶然に聞いてしまった彼女とその友人の会話だ。
そのときアベルは中庭の草陰にいた。何故そんなところにいるのかと言えばユレイシアが友人と昼食を外で取ると聞いたからで、それでは偶然も何もと言われそうだが偶然である。アベルはその昼食に偶然居合わせようと近くをぶらつく演出のために早めにいただけで、盗み聞きするつもりは全くなかった。彼女たちが思ったより早く来たのだ。
少女たちの小声での会話はそもそも聞き取り辛い。いや、聞くつもりではないのだからそれでいい。とは言うものの動くに動けなくなったアベルに、その声は響いた。
「まーどうでもいい」
小さな、上品な落ち着いた声。だがそれはいつもより幾分低くて、またいつもより惚けた口調だった。それでも、婚約者の声を忘れるわけがない。アベルは初めて聞くその言葉に、思わず息を止めた。
だというのに。
「またユレイシアの『どうでもいい』、出ましたわね」
「昔から何かあれば『面倒くさい』『どうでもいい』『なんでもいい』。それだけで世の中進むと思ったら大間違いでしてよ」
「残念ながら、進んできましたわよ、今まで」
「自慢しないの。それで済まない事態になっているから、今話し合っているのでしょう。タルリーズ公爵夫人のお茶会、出ないわけにいかないでしょう」
「出ないわけに、いかないかしらね?」
「いくわけないでしょう。婚家の政敵にお呼ばれして、行かないなんて不戦敗でしてよ!」
「勝ったとか負けたとか、みんな好きよねぇ。お茶会ごときで決まる勝負にそんな入れ込んで、虚しくならないのかしら」
「貴族女性を敵に回す発言は慎みなさい」
「貴女の意見を聞いていると、真面目に考えている私たちが馬鹿みたいじゃない」
「みたいじゃなくて、そうなんじゃない?」
「ちょっと」
「だって私、意味を見出せないんだもの。お貴族様たちは誰と何を争っているつもりなのかしら」
「貴女もそのお貴族様なんですからね。全く…そんなのでよくアベル様に愛想尽かされないわね」
「アベル様? 気づくわけないじゃない。あの方は自分の好きなことをさせてあげれば満足なんだから。公爵家を継ぐわけでなし、家に害がなければこっちの中身なんて興味ないわよ。おかげで楽をさせていただいているけどね」
「害がないのかしらね、本当に」
「あら、私は何もするつもりもないんだから無害でしょ」
「ほんと、誂えたような方よね…」
「捜してこられたお父様の手腕には頭が下がるわ」
「そんなことより、お茶会よ。私たちも参加するから、ユレイシア、貴女サボらないのよ」
そこまでが、アベルの限界だった。
ずっと、ユレイシアは冷静な人なのだと思っていた。
年齢の割に落ち着いて、大人びていて。夫となるアベルを常に優先して、常に微かに微笑んでいる。その顔や態度が崩れたところを、アベルは見たことがなかった。
『面倒くさい』『どうでもいい』『なんでもいい』ーーそんなこと言っているのを、聞いたことがない。
だが、先程のあれは。
何もするつもりがないと、アベルは自分に興味がないと断言するその瞳は、見たことがあった。いつも見ている。目が合ったとき、ユレイシアはいつもあの瞳をしている。
友人の声が蘇る。
「あの、どうでもいいって感じ?ここからでもひしひし伝わってくるもんな。お前のときとは違うんだろう?想像つかない」
あれが『どうでもいい』ということなのだとしたら、それ以外の表情を、アベルも想像ができない。
会話はいつもユレイシアが譲ってくれるので、アベルが好きなことを話した。馬と剣。それとそのとき目に付いたいくつかのこと。腹が減ったな、そうですね。何が食べたい?何でもいいですよ。それ美味いか?そうですね。次は何が食べたい?アベル様のお好きなものを。
アベルが黙るとユレイシアも黙る。
アベルが会いに行かないと、ユレイシアとは会えない。彼女から来ることはない。
例え会えたとしても、ユレイシアの瞳に熱はなかった。会いに行くと思えば逸る己の鼓動と正比例しているのかと思うほど、彼女の視線は、他を見るときと同じだった。冷静で、大人びていて、そして。
「何でもいいです」「お好きなものを」ーー全てが「どうでもいい」と聞こえた。
彼女は冷静なのではなくて、温度がないのだ。
婚約破棄モノ、だったんですけどねぇ…。面倒臭がりでやる気のないローテンションお嬢様を書きたかったのですが、どうしてこうなった。
ユレイシアが悪者っぽいですが、まぁここで終わればそれも仕方ない。