五話
目を開いた私の前には、禍々しくも巨大な城がそびえ立っていました。ここはどこですの? 魔界とは、グルスの森から入れる場所にあるというのでしょうか?
周りを見渡して警戒を怠らない私に、魔王の使いは話しかけてきました。
「ここが私たちの住む世界です、ようこそアントワーヌ様。特別な魔法を使うことでのみ、入ることができます。人間界にもこちらに通じる場所はあることにはありますが、隠されていますので難しいでしょう」
「そういうからくりでしたのね。ここは人間界とはまるで違う世界、という認識でよろしいかしら?」
魔界の空はどんよりと曇り、なんとなく息苦しいような気がしますわ。恐らく瘴気とやらのせいでしょうね。
道は整備されていますが、ここが魔王の住む城の前だからという可能性は高いですわね。失礼ですけど、魔界には文明が進んでいるような印象が持てませんわ。
「はい。その通りでございます。ここは空のない地下空間、ディモルト界――人呼んで魔界。では魔王様のもとにお連れ致します」
案内されて城内に足を踏み入れると、予想よりも遥かに明るくきれいな内装でした。きっと城の外装は汚れが目立たなく、空から見ても判別し難いように黒く塗ってあるのでしょう。
「ここが魔王城……」
「正式には、ディモルト城と言います。意味は同じですがね」
それにしても広いお城ですわ。外から見ても大きいとは思いましたけれど、さっきから同じ回廊ばかりで、ちっとも進んでいる気がしません。
「まだですの? 妃にと招いておきながら、こんなにも歩かせるだなんて、はぅわえ!」
文句を言っている途中で、突然足が浮き、少々驚きました。……ちょっとですわ。そのままふよふよと魔物の後を追っていますが、これはまさか?
足下の魔法痕を辿ると、旅の間に何度も追跡した馴染み深い魔力に行き当たりました。これも魔王の魔法……素晴らしい力と技術ですわ。
「魔王様はお優しい方でございますよ」
魔物の笑みは胡散臭く感じますが、魔王が優しいというのは存外嘘でもないのかもしれませんわね。本人に会うまでは鵜呑みにできませんけれど。
浮いた状態のまま案内された場所は、拝謁に使われていそうな大きな広間でしたわ。巨大な扉は、私たちを受け入れるように、ひとりでに開きました。
魔王は遠見の魔法に長けているのですね。しかも、この私を持ってしても魔法痕が判別できないだなんて……驚くばかりです。
「よく来たな。アントワーヌ」
まあ……魔王は人とあまり変わらない姿をして居ますのね。いえ、魔族は変身する者も居るのですから、本来の姿ではないのかも。
魔王の顔立ちは舞台役者もかくや、という凛々しく精悍な男性らしい印象。額に深紅の……飾り、ではなさそうな……わかりませんけれど、石のような部分を持っているのが目を惹きます。瞳は金。異様に煌めいて見えるのは、他に金色を纏っていないからでしょうか?
頭髪は乾いた血のように赤黒い色をしていて、座っていてもそれとわかるほど長いですわ。結わないのでしょうか?
それに肌が異様に白い――私もよく白さを褒めていただくのですけれど、ちょっと負けますわね。逞しい体を見れば病人とは勘違いしませんが、線が細ければ肺の病を疑っていることでしょう。
そして服装は軍服と正装を混ぜたような、フォーマルな仕立てですわ。私に合わせたのか、魔界の正装なのか微妙な格好ですわね。
まあ見た目は何にせよ、座ったままで客人を呼び捨てにするだなんてマナーは最悪ですわね。
「ずいぶんと礼儀正しい魔王ですわね? それが魔界流の挨拶ですの?」
「これは失礼した。ようこそ、ディモルト城へ。粗末な我が城だが、歓迎致す」
魔族でも嫌味はきちんと理解できますのね。魔王は玉座から立ち上がり、一度も見たことはないものの、礼とわかるものをしました。初めからそうであれば、もっとよろしかったのに。
「この度は私めを貴城にお招きいただきまして、ありがとうございます。城主自らのご歓待、光栄に存じますわ」
もちろん私のマナーは完璧です。一国の主を前にしても、決して取り乱したりはしません。優雅に膝を折って頭を垂れます。
「面を上げよ。あまり堅苦しいのは性に合わぬ」
「それでは遠慮なく。初めましてお目にかかります。アントワーヌ・ド・サミキュリア・フォン・ムッカナン・ドルツストイアと申します。以後お見知りおきを」
立ち上がって改めて簡単に礼をすると、魔王はそれに合わせて礼を返してきました。こうして向かい合うと、体が大きなことがよくわかりますわ。私より頭二つ分は確実に大きいでしょう。
「我の名はヴァーミナス・オドレー・ソーティア・ディモルト。この国、このディモルト界を治めている王だ。妃に望む我の招きに応じて頂き、感謝申し上げる。……時にアントワーヌよ。些細な疑問なのだが、何故そなたの名前は“アントワーヌ”なのだ? 女性につける場合はアントワネットではないのか?」
「まあ、よくご存知ですのね。確かに私の名前は男性形ですが、私は気に入っておりますのよ。これはお父様が、過去に名を残された偉大なアントワーヌ様方に因んで、女性であっても男性以上に活躍して一角の人物になるように、と付けてくださった名前ですから。それを……お父様のお気持ちまで踏みにじったあの男――勇者だけは赦しません……っ! 失礼、話が逸れましたわ。では自己紹介も済んだことですし、浮遊魔法を解いていただけません?」
「良いだろう。アントワーヌはどうやら、そなたに相応しい名前のようだな」
魔王が手を軽く振ると、やっと私の足は固い床の上につきました。足が地面についていないと、どうにも体中が緊張してしまいますわ。
「お褒めいただき恐縮にございます、ヴァーミナス魔王閣下」
魔王は当然のように自分だけ玉座に座り直しました。私にも椅子を勧めるくらいの気遣いはありませんの?
「さっそくだが、なぜ我が伴侶になることに同意した? どういう意味か、理解しているとはとても思えぬのだが」
私が何も考えずに勢いだけでここまで来たかのような、失礼な言いぐさですわ。そんなに浅はかではなくてよ。
「雷!」
人差し指を魔王に突きつけて、雷魔法を唱えました。お手並み拝見……瞬間、指先から放たれた閃光は電気特有の弾ける音を伴って真っ直ぐに突き抜けます。
追って響いた轟音に思わず耳を塞ぎました。障壁に、当たったんですの……?
今打ったのはたかが詠唱省略した初級魔法ですのに、中級、下手をすると上級魔法のような威力ですわ。どういうことですの?!
「これはこれは、流石アントワーヌ。一言でこれほどの魔法を使うとは」
魔王は何も動じることなく、魔法壁を一瞬だけ作り出していなしていたようです。無詠唱だなんて、そんなのありですの?!
「嫌味な方ですわね。それに私は、大した魔力を込めていませんわ。こんな強い魔法になる訳が……」
「それについては私が説明を。魔界に充満している瘴気ですが、これは魔力と人間に有害な物質が結びついている物なのです。簡単に言うと、魔界では人間界のおよそ三倍の威力で魔法が使えます」
そういうことでしたのね。魔王の凄まじい魔力は、瘴気を源にしていた……。有益な情報ですわ。
「攻撃の理由は説明してもらえるのだろうか?」
「どの程度の実力かを知っておきたかっただけですわ。あなたもまさか、いきなり全面的に味方になるなんて思っていませんでしょう?」
「もちろんだ。我の実力には納得してもらえたかな? 妃に迎える代わりと言っては何だが、婚姻の祝いにはそなたの望む物を用意させよう」
その言葉を待っていましたわ。私は視線を魔王の瞳から逸らすことなく、望みを告げます。
「私を妃にしたいのであれば、しばらくの魔王軍の侵攻停止、幾ばくかの権力、そして勇者の命をこの手で奪うこと! これらの条件をのんでいただきたいですわ」
「しばらく、というのは具体的にいつまでだ?」
「私がこの戦争に置いて、魔界側に正義があると納得するまでですわ」
「そのような陳腐な理由で軍を動かすとでも思うのか?」
「魔王ともあろう者が、人間の私を妃にして、私が何も言わずに人間界が侵略されるのを黙って……もしくは喜んで見ている、などとは思いませんわよね? 私の故郷はもちろん、人間を悪戯に攻撃されて黙っている訳がありませんわ!」
「理由があれば、正義があれば手のひらを返すと言っているようにしか聞こえぬな」
私は魔王の言葉に、己の思考が正しいのかを今一度考えました。