第三話「背に潜む者」
「あぁ……しかし暇だな」
クリスが店を出てから早二十分。この後の用事と言えば何の気なしに受講を決めた塾の冬期講座ぐらいだが、それまではまだかなりの時間がある。暇潰しの一つも無しに過ごすには流石に長すぎるし、そう何時間も居座るのは店にも悪いだろう。
「モテる男は辛いねえ」
して、クリスは奥の壁側の席に座り、それと向かい合う形で俺はその手前に座っていたのだが、どうしてだろうか、誰もいないはずの背後から声がする。
「盗み聞きとは御大層な趣味だな。いつからそこに居た?」
先の声はもう一人の我が親友、伊賀崎蓮治の物で相違ない。こいつと俺は長らく敵対関係にあったのだが一昨年和解し色々あって今は親友という立ち位置に落ち着いている。まあ少々厄介な奴であることは否めないが俺もあまり人のことは言えないしそこはお互い様ということで問題ないだろう。
「クリスが来る少し前からだから大体十一時くらいか? 別に俺は盗み聞きなんてする気は無かったんだけども何やら込み入った話でもしてるみたいだったしな。イチャイチャしてるところに水さすのも悪いと思ってよ」
などと蓮治は抜かすが、盗み聞き云々はともかくずっと前からそこにいたというのは真っ赤な嘘である。俺はここの席に来る際注意深く周囲を確認したが人影は無かったはずだ。
「いや嘘だろ、前者も後者も。それともお前は何か? テーブルの下にでも潜ってたのか」
しかし流石に机の下までは確認していないので見逃すとすればそこに潜んでいた場合のみ。次回からは更に念入りに周囲を確認せねばならないやも知れない。
「冗談。そんなところでこそこそ珈琲啜るような趣味はねえ。そっちが気付かなかっただけだろう寂しいなあ」
ちなみにこの手のやり取りは今までに幾度となく繰り返されて来ており最早恒例。神出鬼没という言葉はこいつのためにあると言っても過言ではなかろう。
「こんな図体でかい奴を毎度毎度見逃すかよ……」
ああ、そんなことは物理的に不可能だ。ぼうっとしていても目に入る。そう易々と何度も見落とすなどありえない。
「ま、そんなことはさて置きだな、お前行かないつもりだろ、パーティ」
ガラス同士をぶつけたような、恐らくコーヒーカップを置く音だろう。その後、大きなため息が一つあり、どちらかと言えばそれは呆れの意を含んでいるようだった。
「お前には関係のない話だろ。言う通り多分行かねえとは思うけど」
行くかどうかは気分次第とクリスに言いはしたものの、毛ほどとは言わないながら端から行く気はあまり無い。俺が抱えるトラウマは宴会のすぐ後であったため、例え場所や人が違おうともパーティと意識しただけであの光景がフラッシュバックする。楽しめもしない宴にのこのこと顔を出すのは間抜けというものだ。
「おいおい、関係ないってのはちょっと酷いんじゃねえの? わざわざ口に出して言うのも何だが事実結構俺らは連んでる訳だし、お前ら二人がぎすぎすしてると俺まで居心地悪いんだわ。別に仲睦まじく見せつけてくれちゃっても一向に構わねえけど、どっち付かずだけは勘弁してくれ。俺の精神衛生上よろしくない」
「それなら安心しろよ。お前も聞いてただろうが明日にはケリを付ける」
決着が付くのは正確には明日の夜、九年前街が狂乱と炎火に包まれたあの時刻。流石に日付が変わった直後に告白をするつもりは無い故、そちらを実行するのは明後日以降になろう。ここまでくれば一日も二日も変わらない。
しかし背後の男はそんな俺の甘えすら見透かしたようにもう一度長い息を吐き出し、乾いた声で告げた。
「唐変木予備軍のお前さんにゃ分かんねえかも知んねえけどな、そろそろあいつ泣くぞ」
「…………なに?」
聞き捨てならない台詞である。何を根拠にそんなことを言うのか。これは言い分を聞いておかねばなるまい。
「当事者ってのは中々頻繁に盲目だ。気付いている気がしていても実は何も分かっちゃいねえことなんてよくある。別に恥じることは無いと思うぜ? 俺だって立場が変わればどうなるやら。んで本題だが、最近クリスの奴は泣きそうな顔をするんだよ、もちろんお前さんのいないとこで」
目撃証言、ならばそれは真実なのだろう。てっきりお得意の推測かと思ったがそうでないのなら疑う由などありはしない。何故ならこいつの言う事実は一切が事実で、嘘偽りは微塵も介在しないのだ。それはこいつの今までが明白に物語っている。伊賀崎蓮治はこんな些細な事柄に一々虚言を挟むような器では無い。
「……なるほど……オーケー気に留めとくわ。にしても本当お前は四六時中誰かのストーカーしてるのか?」
さて話を変えるが、クリスは気丈な性格である。その証拠に彼女が涙を見せたは今の今まででただ一度限り。俯くことすら少なく、いつも明るく凜としている。そんな彼女がもし弱みを見せるとすれば、それは即ち一人きりの時。別に俺にストーカー行為を働こうとも気には掛けないがクリスにも、となると少なからず話し合いをしておく必要があるだろう。
「人聞きが悪いなあ、おい。前にも言ったと思うが俺はお前らを付け回してるんじゃねえぞ。たまたま……とは言い難いが会っちまうんだ仕方なく。何せ遭遇率は通常の人間の数十倍と来てるからな……言っても分からんだろうけど」
「分からんな、意味が不明だ。遭遇率って何だよ、俺達の行きそうな場所でお前が張ってるだけじゃないのか? それともこの街にはお前がうん十人いるとでも?」
よく外出する二人であったとしても街中で偶然出くわす確率は相当低いはずである。その証拠に約束も何らかの催し物も無く蓮治以外の知人に出会ったのはここ最近の三年間で十回に満たない。対し連休中こいつに俺が行き会う頻度は三日に一度程。とても遭遇率なんて言葉で片付けられる数値ではないだろう。
「さてな、詳しくは企業秘密なんで言えねえや。お前の想像に任せる」
「ならやっぱストーカーってことにしとくよ。他に面白い可能性は思い付かない」
真っ当な意味としてはストーカーほど面白くないこともそう無い。が、しかしこの手の横文字というのは何がとも無くユーモラスだ。会話を彩るのには向いていよう。
「……お前がそれで良いなら構わないんだけどな。んじゃ珈琲も飲み終わったところで俺はそろそろ帰るわ。悪いがこれから用事がある」
「あいよ。プライバシーの侵害も程々にな」
その方が互いのためになるのは間違い無い。友人が至極不名誉な咎でパクられるのはこちらとしても御免である。
「精々尽力しようかね。まあ、しても何も変わらんだろうけど」
そう言い残して、足音の一つも立てず蓮治は気配を消す。振り向いて見れども姿は無し。奴が座っていたであろうテーブルを覗けばすっかり空になったコーヒーカップと代金の五百円が取り残されていた。
「俺もそろそろ行くか……」