第二話「正午の約束」
「いらっしゃいませー」
学校から歩いて十五分。駅前の行き付けの店のドアを開けば鈴が鳴り、これまたいつも通りの声で出迎えられる。良い意味で代わり映えのしないここは長らく俺が通い続けているカフェレストランであった。
「友人が待ってると思うんですけど」
「はい、最奥でお待ちですよ」
そうはきはきと接客をするのはこの店の看板娘で、常連であると胸を張って言えるほどここに来ている俺はしかし彼女の名を知らない。訊けばきっと教えてくれるのだろうけどその必要も無く、所詮は客と店員、余計な関わりは持つまいというのが俺の考えだ。
「じゃあ注文はいつもので」
と、メニューに目をくれること無くオーダーを告げて店舗奥の窓際の席へ俺は向かう。このレストランで昼間に他の客の姿を見ることは稀で、奥に辿り着くまでに全ての席が目に入るのだが今日も同じく見ず知らずの人間の姿は皆無。けれども夕方になれば話は異なり、満席とはいかないまでもほぼ全てのテーブルが埋まるという中々の盛況ぶりをここは見せる。ちなみに昼間客がいない理由は数ヶ月前に出来たファーストフード店の影響であった。
「待たせたか?」
腰を掛けながら常套句を口にし、読書に耽る友人の注意をこちらへ。そうして対面した親友の名は東谷紅莉子。長く伸ばした金色の頭髪とサファイアの如く深く澄んだ双眸が特徴の少女であった。
「いや、私もさっき来たばっかりよ。補習お疲れ様」
近場の書店で買ったであろう何らかの文庫本をパタンと閉じ、少し伸びをして少女は二言。俺はその姿をぼーっと眺めて言葉を返す。
「サンキュ。もうこりごりだなあれは。本当に疲れる」
まあ少なくとも全体の半分は寝てたんだけど。
「毎度毎度そんなこと言っておきながら引っ掛かるんだから大したものね。ところで眠そうだけどまた夜更かしでもしてたの? 特に用事がある訳でも無いのに」
「まあな、どうもこの頃寝付けなくって」
流石大親友、俺の私生活をよくご存じだ。昨晩俺は十二時を少し回った辺りで布団に潜ったが、眠りにつくのは彼女の言う通り結局午前三時か四時ぐらいのことになる。その原因は実に情けないもので、ただ不安だったというだけだった。
「膝枕でもしてあげよっか?」
何と魅力的な提案か。俺も年頃の男子であるし悪い気はしない。しかしこのご時世、守るべき体裁もある訳で。
「遠慮しとくよ、別に付き合ってる訳でも無いし」
「私に遠慮なんてしなくて良いのにつれない奴ね」
少し残念そうに目前の少女は言うが、悔いという意味では俺も残念である。どちらにせよ後悔するくらいならやってしまえと言うのは良く聞く言葉であり、それに従うことも考えたけれどもこの言葉が通じるのはどんな後悔が生じるか分からない時のみ、かくも分かりやすい場面に適用するべきではないだろう。
「釣られねえよ。……そういやさっき日暮先生も訳分かんないこと言ってたな、俺の眠そうな顔見てさ」
突飛な発言ということでふと先程の授業を思い出し、何気なく日暮先生を話題に上げる。ちゃんとした意味があったとは言えど唐突にあんな話をされればそれは誰でもクレイジーだという印象を受けざる負えないだろう。漢文からあの話への派生は些か異常である。
「先生に膝枕されそうになったの!?」
……一体全体何をどうすればそうなるのか。
「んなことあるはず無いし、もしあったら俺はぶっ倒れて今頃ここにいない。ちょっと酒に誘われただけだ」
「ああ、なるほどそういうこと…………で、膝枕されたい?」
納得していただけたのは幸いだが理解にまでは至らなかったらしい。
「膝枕が趣味なのかお前。それは友達同士でする事じゃないだろう」
俺がもし女ならこいつと組んず解れつしても微笑ましいものだろうし俺からその行為を求めることだってあるかも知れないが生憎俺は男である。同性の友人と異性の友人とではスキンシップの許容範囲が違うのは仕様の無いことだろう。こんなおふざけで注目をあびるのは本意じゃない。
「ならいっそ私と付き合っちゃうのはどう? そしたら後ろめたいことも無くなって三百六十五日膝枕され放題。何なら抱き枕にしてもらっても構わないのよ?」
「それはまた色々と大バーゲンだな。せっかくのありがたみが薄れちまう」
東谷紅莉子、通称クリス。この渾名は外人と勘違いされかねないその外見と彼女の実名に由来しており、具体的には紅莉子を強引にクリスと読んでいるだけのシンプルな物である。中々出来が良かったことに加え、本人が自分の名前を余り良く思っていなかったことも相まってかこの通称は凄まじい速度で伝播し、今ではクリス自身が推奨しているほどであった。
さて、容姿端麗、頭脳明晰、明朗快活なクリスは学級内でも一二を争う人気者なのだが、そんな彼女が選んだのは何故だかこの俺。その事実に気付いたのはつい数日前のことであり、彼女の慎重な性格を考慮するとそれまで気付かなかった俺は唐変木と呼ばれても致し方ないだろう。然り、特に取り柄も無くむしろ欠点だらけの赤羽恭司は先日クリスに告白され、そして悩むことも無しに彼女の申し入れを断っていた。
「お待たせしました。サンドイッチセットとステーキランチセット、オレンジジュースになります。ご注文の品は以上でよろしかったでしょうか?」
そうして話の切れ間にタイミング良く現れる、注文の品らしき物を持った店員。余談だが入店時に俺が口にしたいつもの、と言うのは単品のオレンジジュースのことのみを指し、他の何をも含んではいない。まあ要するに俺はこんな物を頼んだ覚えが無かった。
「はい、大丈夫です」
少々困惑気味の俺を他所にして、クリスは何食わぬ顔で店員の接客文句に応答する。察するに彼女がいつの間にか注文していたのだろう。そりゃ俺に頼んだ覚えが無いのも当然である。
「んで、これは俺の分で良いんだよな?」
店員はせっせと品を並べて去って行き、俺とクリスの丁度間にはオレンジジュースが注がれた巨大なグラス、その向こうにはサンドイッチセット、手前にはステーキセットがそれぞれ残された。配置的にはサンドイッチがクリスでステーキが俺、ジュースはシェアと言った風であるが、ここは頼み主であるクリスに一度聞いてみるべきである。
「そうよ、私のおごり。きっと何も食べてないんだろうと思って。殿方を落とすにはまず胃袋からって言うし」
となると俺の昼飯はステーキセット、ということで問題は無いらしい。奢ってくれる人間よりも高価な物を食すというのは少し悪い気もするが、クリスが頼んでくれたのだから気にせずとも良いだろう。割り勘などと言い出すのはどうにも格好が悪いしこのまま静かに好意を受け取るのが最良の流れである。いや、しかし一つ突っ込むべき所はあるか。
「手料理を卓に並べてから言う台詞だなそれは。んじゃいただきます」
確かに世間では男性の心を掴むならまず胃袋から、なんて文句を良く聞くし、その考え方は強ち間違いではない。自信を持って言える。だがそれ故、彼女の言い分には不適切な点がある様に思えた。というかあった。
「奢ってもらってるのに何よその言い草。私だってやろうと思えば料理くらい出来るのよ?」
四切れあるサンドイッチの一つを口に運び、そっぽを向いてクリスは言う。が、その口調には日頃の様な力強さは無く、窺えるのは焦り。
「何故今空をみた」
これは確実だ、間違い無い。自信が無い時必ずクリスは行動に出る。つけ込むには十分な隙だろう。
「いや雲が美味しそうだなー、って」
「お前はいつの時代のメルヘン少女だよ……。ま、そんなことは置いといて、お前もしかして料理出来ないのか?」
誤魔化すにしても無理がある。今時夏でもそんな面白いことを言う奴はいやしない。
「…………料理の出来ない女はだめ?」
しばしの時を置いて、早くも三つ目のサンドイッチに手を延ばすクリスの口から出たのはそんな言葉。質問に質問で返すなと言いたいところだが、質問自体が答えになっているのだろう。問い詰めるのは野暮である。
「いんや、気にしねえよ。出来るに越したことは無いが出来なくても構わんな」
と、今気付いたのだが、もしや話題が元に戻ってしまっているのではなかろうか。
「じゃあ何が不満なの? 直せるところもあるだろうし言ってくれると嬉しいんだけど……」
ああ、失策だった。話を逸らさんとしたのは良いが、話題のチョイスが良くなかった。ここまで来てしまっては最早言い拵えることもできないだろう。
「別にお前に不満があるんじゃない。むしろ至福だとも思ってる。ただこっちにちょっとした問題があってだな」
正直クリスの性格に疑問を覚えることも多々あるが、指摘するのは無意味である。俺は別に都合の良い女との付き合いを良しとする様な薄情者ではないし、第一この問いにおいてそんな回答は不適。踏み切れない理由を説くことにこそ意義があろう。
俺はそう考え、内容を伏せたまま障害の存在のみを告げた。
「それって例のアレのこと? もしそうならいくらなんでも引きずりすぎなんじゃない? そりゃまあ、気持ちは分かるけど……」
彼女の言うアレ、とはつまり九年前の明日に街一つを焼き尽した災禍のことであり、またその中でも俺の周囲の人間が一人余さず焼け死んだことを指している。俺の天涯孤独という境遇と現在も続くクリスマス嫌いを良く知るクリスのこの見解はほぼ的を射ていて、そのことを確かに俺は気に掛けているのだが、否。実の所矢はその心に立っていない。
「ちょっと違うな、そうじゃない。勘違いしている様だから一つ断っておくが、街が燃えたことはもう気にしちゃいねえよ」
ならば何を気にしているのか? 約九年たった今でも俺がクリスマスイヴを嫌い続ける由は何なのか? それは一言で答えるならば謎である。朧気ながらも確固として存在する記憶、もといその断片。知っているが覚えは無いそれらが今も夢となって俺の精神を蝕んでいた。
「違う……? 違うって何よ? あの日に他の何かがあったの?」
「ああ、話す気にゃならねえが個人的なのがもう一つな。どうせそろそろケリつけようとは思ってたし今日明日の内には片付けるよ。悪いが返事はそれまで待ってくれ」
まだ幼くて良く分からなかった頃。そんな気はしていたが踏み込むまでには至らなかった時期。知っていながらも封印してきたここ数年。どうにかずるずると今まで避けてきたけれどもまだ残っているということはつまり放置するだけでは解決しないということを意味している訳だし、もし難なくさらりと忘れてしまえる物であったとしてもそれでは極まりが悪い。故にこの辺りで一つケリをつけてしまうべきである。
「そう……困ったことがあったら頼ってよね。お望みなら膝枕だってしてあげるんだから。ところで、明日と言えばクリスマスパーティがあるんだけど覚えてる?」
たった二日で済んでしまう様な悩みは傍からすればさぞ馬鹿らしい物であろう。しかし、クリスは呆れることもせずただひたすらに気を配ってくれる訳で、そんな彼女の為にも早く、一秒でも早く過去と決別する必要が俺にはあるに他無い。ここらで一つ覚悟を決めねば男が廃るという物だ。
さて、話は変わるが言われてみればパーティがどうのこうのという話をされた覚えもないことはない。けれど、精々そんな気がする程度。詳細については微塵たりとも記憶していないし、ならば当然行く気もありはしない。
「まあ一応な。行くかどうかは気分次第だけど」
もちろんそんなことを言えばまた文句を言われるだろう。罵られるのは好みにあらず。故、それっぽい受け答えを俺はする。
「そんなこと言わずにちょっとは顔出してみてもいいんじゃない? 案外楽しいと思うかも知れないし」
なのにこの反応はどうなのか。まるで俺が行かないと宣言した様に聞こえる。
「いやまてよ、何故に俺が行かないことが前提になってるんだ……」
俺のことだ、もしや口を滑らせたのではと考え、自らの発言を覚えている限りで反芻するが漏れはなし。となるとクリスの聞き間違いか、それとも意図を読み取られたかのいずれかである。こと慎重で耳聡い彼女においては後者の可能性が圧倒的に高いだろう。確実と言い切っても良いかも知れない。
「でもそういう意味なんでしょ? 伊達に何年も片想いはしてないわ」
最後のサンドイッチを片手に冷ややかな目で俺を見てクリスは述べる。やはりといえばやはり。俺も何だかんだで大抵の場合クリスの考えていることは見当が付くし、であれば逆も然りである。一言一句、一挙一動とまでは言わないまでも今後言動には注意が必要か。
「それを言われると弱いな」
呟いて千切ったパンを口に運び咀嚼する。然れども味は普段の半分程度しか分からず、ただ喉が渇くだけ。脂の味も拭いきれないし、潤いと、出来れば爽やかな酸味を俺の身体は欲している。二本もストローが刺さっている明らかな罠に触れたくは無かったが、食事を美味しく頂くためにはやむを得ないだろう。
「…………」
さり気なくクリスの様子を窺い、彼女がサンドイッチを口に含むタイミングで不自然ではない程度の速さをもって上半身、並びに首を前に倒し俺はストローを咥えにかかる。
「ッ!?」
しかしどうしたことか、少し目線を上げればクリスの顔。距離にして数センチも無いだろう、気を抜けば額と額がぶつかる可能性すら在る。そんな危うい状態の中、ほんのりと湿った唇の間に白いストローを挟み込み、彼女は眉一つ動かさずすまし顔でオレンジ色の液体を吸い上げていた。
「…………これ美味しい」
しばらく無音の時があり、その後クリスはぽつりと言う。それは純粋な感嘆の声であっただろう。続き俺も発言。
「だろう? ここは珈琲ももちろん美味いが何と言ってもこのオレンジジュースが格別なんだよ。体裁の問題か飲んでる奴はおろか知ってる奴すら少ないけどな」
愛飲している物を褒められるのは誰であろうと嬉しいに決まっている。何故ならそれは自らの肯定に等しい行為であるのだから当然だ。多少柄にもないことを言ってしまうのもまた致し方がない。
「いやあなたがいつも飲んでるから気にはなっていたんだけど機会がなくって。意識してないといつもの流れで珈琲頼んじゃうし」
そうしてクリスは確かめるように再びストローに口をつけ、垂れてきた右サイドの髪を押し上げる。何度も見ているにも関わらず目を奪うこの仕草には魔力のような物でもあるのだろう。
「そういや夏ぐらいにこのジュース薦めたことあったよな。遠慮しとくって断られたからてっきり苦手なのかと思ってたんだが」
ふと思い出す、夏真っ只中のあの日。空には雲一つあらず、茹だるような暑さだったことを良く覚えている。確かあの時はもう一人、今ここには居ない俺の親友である伊賀崎蓮治もいたか。
「別に苦手じゃないわよ。というかむしろ好きだし。ただあの時は……」
「あの時は?」
何かを言わんとして口籠もるクリスに対し、続きを要求する。
「その……蓮治がいたじゃない? それに、か、かんせ…………」
「間接キスがどうかしたのかよ。お前の言う膝枕の方がよっぽど不味いだろう」
クリスにとっての一線がどこにあるのか分からない。当時は今ほど割り切っていなかったとは言え親密度の変動はほぼ皆無。周囲から見ても向かい合って一つのグラスから飲料を吸い上げている奴らの方が余程恥ずかしいだろう。まして膝枕ともなれば尚更だ。
「だって唾液よ!? 体液よ!? 恭司のが私の中に入ってくるのよ!? そういうのはほら……やっぱり正式に付き合い始めてからじゃないと駄目だと思うの」
「お前の思考回路はどうなっているんだ……」
理解不能である。聞き手によっては飛躍した意味にとられかねない言い方を無視してもなお意味不明だ。男女間にはやはり根本的な認識の相違があるのだろうか。
――と、ここで聞き慣れない電子音、もといメロディが耳に入る。もちろん俺の携帯からではないし、周りに客の姿もなし。なれば必然的にクリスの携帯からということになろう。
「ごめん、出てもいい?」
珍しく何やら気乗りがしない様子で鞄から携帯を引っ張りだしクリスはそう言った。俺の返事は当然「もちろん」で、果然クリスは嫌々携帯を耳に当てる。
「東谷です。何かご用件でしょうか?」
しかし稀有な事態だ。クリスとは共にしている時間も長い為、頻繁に彼女の携帯の着信音は耳にするが、そのメロディは俺専用か電話帳登録済み、または電話帳未登録の三種のみでその他は聞いたことが無い。更にこの事務的な態度も普段の通話時の彼女とは相反している。受け答えが一偏して「はい」ということは少なくとも相手は目上の人間か。恐らく教師の類ではないだろう。何分クリスは上の中程度の成績を保っており、問題を起こす質でもないのだから電話が掛かってくる理由が無い。第一教師ではこの着信音に説明が付かないしな。
「……分かりました」
最後にそう告げてクリスは携帯を鞄に戻す。見た所都合の悪い電話であったのだろう。
「バイト先からか? 聞き慣れない着信音だったけど」
可能性としてはその辺りが妥当か。以前バイトを始めたと言っていた覚えもあるし中々に有力な候補である。そうと見て十中八九間違いはない。
「ええ、そうよ。残念だけど招集掛けられちゃったから今日は帰るわ。代金はもう払ってるから、それじゃ」
寸分の迷いも無くきっぱりと言い切ったクリスは、女性らしい小さめの鞄を肩に掛け立ち上がり、出口へ向けて歩き出す。
「飯ありがとな。気をつけて行けよ」
手を止めた後ソファから身を乗り出し、そんな彼女の背に向け俺は二言。
「はいはい、恭司こそ無理は禁物なんだから――あっ、あとパーティ、忘れないでよね?」
対し彼女は歩きながらいつもの台詞を口にし、何を思ったか玄関手前で振り返って言葉を継ぎ足す。
「…………ああ、気が向いたらな」
そうしてドアチャイムが少女の退店を告げる中、消え入る様な声で俺は呟いた。