第一話「軋む矛盾」
「……おい赤羽」
誰だろうか、名前を呼ばれている気がする。
「起きろ赤羽。まだ就寝する時分ではない」
しかしもう既に終業式は終わったはずだ。やっと訪れた安息の冬休みに俺の眠りを妨げる者などいるはずが……
「おい赤羽!」
そんな台詞が聞こえた直後、俺の後頭部は硬い何かで強打される。
「は、はい!」
ああ、すっかり忘れていた。そう言えば補習なる物に呼び出されていた様な気がしないでもない……にしてもこうだだっ広い教室で生徒五人を相手に授業が行われている風景は中々に惨めなものである。別に気に掛けてはいないけれども。
「なあ赤羽? クリスマスイヴだというのにお前は何故こんなところにいる?」
と、人の寝起きに分かりきった問いを投げかける女性は俺の担任教師で、名は日暮千秋。年は二十代後半でプロポーションは恐らく結構良い方である。ぱっと見、彼女に何かしらの渾名を付けるならば教官、とでも言ったところだろう。彼女はそんな風貌であった。
「それは俺がクリスマスという日を嫌っているからじゃないでしょうか」
急な覚醒によりそこそこ頭はスッキリしていたがやはりまだ眠い。なので俺は後先考えずに適当な返事をする。しかしひねくれた解答はお呼びじゃなかったらしい。
「寝言は自宅で言えよ赤羽、ここはあくまで学舎だ」
途端、チョークを折る軽く鋭い音が鼓膜を震わせる。教師千秋は中々にご立腹な様子で、これ以上適当なことを言えば額にチョークを突き立てられそうな勢いであった。
「じゃあ美しい先生が見たかったからということで」
何……? これは適当な発言じゃないのかって……? そうとも、もちろん適当な発言である。断じて俺にそんな趣味は無い。
「まあそういうことにしておいてやろう。洒落て見せるのは構わんが程々にな。ところで赤羽よ、お前はまだ眠そうに見える。なので私は眠気覚ましに一つお前に面白い助言をしてやろうと思うのだが、今学んでいるのはいったい何という漢文だ?」
訊かれて目を擦り、睡眠時に溜まる目脂を取り除いて解答すべく俺は黒板の左上部を見る。そこに書いてあったのは漁父之利という四文字。寝ていたので当然記憶は無いが、恐らく今やっているのはこれであろう。
「漁父之利ですか?」
……言ってから気付いたが、そこに書いてある物を訊くなんてことがあるのだろうか。
「いや違うな、それはついさっき解説を終えた。現在やっているのは矛盾だ。この単語の意味を言ってみろ」
案の定俺の答えは誤りだったらしい。まあ怒鳴られたり殴られたりしないならばそんなことはどっちでもいいんだが。
「辻褄が合わないことです」
補習に呼ばれてしまうほどの馬鹿とは言え常識の範疇、流石にこれ位は知っている。意味は確かあらゆる物を貫き通す矛と何をも通さぬ盾を売る者に、打ち合わせればどちらが勝つのか尋ねたところ答えられなかった、という話に由来していたはずだ。生憎記憶力には自信が無いので詳細までは説けないけども。
「ああそうだ。その意味で間違い無い。ではこの話に登場する貫けぬ物の無い矛と絶対貫けない盾、それらを二人の人間に持たせぶつけてみればどちらが勝つと思う?」
言われて少し考えてみるが、どうにも答えは出ない。なるほど、これは担任の言う通り興味深い問いである。正直どんなことを訊いているのかは全くもって分からないが、長考する意味も無し。おまけにこちとら眠いと来ている。ここは適当に思い付いたことを言ってやり過ごすのが良いだろう。
そう考え、俺は直感的に解答した。
「盾、ですかね。貫通されてしまっては盾の意味がありませんから」
我ながら半覚醒状態で導き出したにしては悪くない答えではなかろうか。矛は盾を避けて本体を突けばそれでいいが、盾はそうもいかない。用が為せぬなら存在する意味は無く、そもそもこの世に生まれ出でることも無いのである。防御が叶わぬならそれはただの重荷、淘汰される運命。ことぶつけ合いにおいての盾の優位性は歴史が語っていると言っても過言ではない。
「ほう……それなりに筋の通った意見だ。もしやそれも一つの正解なのかも知れん。しかしな赤羽、私はこう考えるんだ。この争いにおいて勝者となるのは、その心意気を持った者ではないか、と」
言い終えた後、教師千秋は「そもそも誰にも答えられないから矛盾であるのに正解などと表現するのもおかしいかもな」と付け加え、ふっと笑ってこちらを見る。どうやら俺に何か求めているらしい。
「意気込み無くして勝利無しという訳ですか」
心意気、至極簡単な言葉に置き換えるならばやる気。確かにこれの持ち様によっては格下の者が強者を打ち負かすことだって往々にしてある。ましてや実力差の無い二人の争いならばなおさらで、ほとんどこれにより勝敗が決まると言っても過言ではないだろう。国語教師の見解であることを考慮すると少々論理に穴がある様な気もするが、
「端的に言えばそうなるな」
しかしこの手の話は概して哲学的で、それも例示を基軸としているのである。一時間や二時間を掛けても語り尽くせない物に茶々を入れるのは粋じゃない。納得できる内容であるならば、ああそうか、と素直に手を打っておけば良いだろう。もっとも、アニメや漫画じゃあるまいし、本当に手を打ったりはしないが。
「それでは次の質問をする。お前は何故ここに入学した?」
……またド直球な投げ掛けである。少しはこちらのプライバシーについても考えて欲しい物だ。まあ俺のプライバシーなどどこまで掘り下げても取るに足らない物ではあるが。
「人生気楽に過ごす為、ですかね」
さて、振られた話題も丁度良いし、ここらで一つ自己紹介でもしておこう。
まず最初に名乗るが、俺の名は赤羽恭司、現在高校二年生。生まれてこの方ずっと住み続けている冬凪市の国立高校に在学中で、その理由は先述した通り、卒業さえすれば何らかの働き口は見付けられるからである。と言っても、別にここが超名門高校だとかそういう訳ではなく、原因はこの学校が普通のそれとは幾らか違う目的で存在しているという所にあった。
見たことは無いにしろ、誰しも魔物とか魔族といった類の言葉に聞き覚えがあるだろう。これらは姿形様々で、スライムの様な奴もいれば人間と区別のつかない様な輩までいる言ってしまえば害獣だ。そしてここは魔物に対抗し得る人材育成の為に造られた数少ない専門学校。総じて約二百人の生徒達はオマケ程度の数学や英語を熟しながら魔術やら何やら日々そっち方面の如何わしい知識を頭に叩き込んでいる。まあそこを出れば確実に就職できるというのは当然のことで、命の危険はあるにしろ結構な給料とそこそこ明るく楽しい未来は約束されるのであった。
「大抵の人間はそうだろう、現に私も楽だからこの職に就いている。まあ今日はお前達のせいで教鞭を握らされるハメになっているが、それを含めても楽な仕事さ。しかし赤羽、おかしいとは思わないか? 私はともかくとして、お前は将来楽をするために今苦しい思いをしている。ここでの生活はそう楽な物でもないというのにな」
そこまで言って、担任教師は口を止めた。経験則から何となく意味を察し、それほどの間も置かず俺は発言する。
「矛盾してますね」
「ああ、そうとも。これはある意味で矛盾している。そしてお前は相反する二つの中から将来を選んだはずだ。ならば初心は貫徹して見せろよ。矛盾とは選択であり壁、超えなければ決して先は見えない。気概を持て少年。したい様にすれば良いさ」
俺の担任教師である日暮千秋は力説する。このちょっと意味不明でかなり強引な例え話は自分を信じ突き進め、ということを言っているのだろう。余計なお節介とも思えるが人間言われなければ分かっていても実行する気にはなれないし、諭す側もそう乗り気にはなれないもの。ここは真摯に受け止めておくべきである。
――キーンコーンカーンコーン
そうこうしている内に幾らか時も過ぎたらしい。不意に授業終了の合図が響き、それを聞くや否や待ってましたと言わんばかりに補習組の面々は卓上に広げている物を片付け出す。かく言う俺はそもそも鉛筆の一本すら出していなかったのだから特にすることは無かったのだが。
「おっと、そんな時間だったか。ではキリも良いし最後に一言だけ言って授業を閉じるとしよう。総員注目ッ!」
この刹那、ごそごそと鞄を弄っていた人間は皆一様に正面に向き直って静止した。無理も無かろう。何故ならあのお方は今現在とてつもなく恐ろしい形相をしていらっしゃるのだ。いやはや女性の態度の豹変ぶりは見ていて飽きない物である。
そして開口。
「二度と補習には掛かるな! 時間の無駄だ!」
一言と言いながらも二言述べるのは最早決まりごとか。大方今年も独りで聖夜を過ごすハメになったのであろう。そんな仕様も無いことで一々八つ当たりされる方の身にもなって欲しい。
「以上、補習授業を終える。学問に励めなどと無理強いするつもりは無いが、次補習に掛かる様なことがあれば成績がどうなるかはお前達も知っての通りだ。良い冬休みを過ごせよ。解散ッ」
尊い二時間を犠牲にした忌々しき補習は、教師千秋の一言を以てかくも淡泊に幕を閉じる。そうして俺以外の補習組四名は逃げる様に退場していくのだが、どうにも急く気になれなかった俺は流れに乗り遅れ、先行く者の駆ける音が途絶えてからやっと出口へ向かった。その時である。
「おい赤羽。少し私に付き合う気は無いか?」
今教室にいるのは俺と教師の二人のみ。ならばこの声は確実に彼女の物だろう。それは疑い様のない事実。
「いえ、遠慮しときますよ。何か用があるなら別ですが」
しかし、俺は彼女にあまり良い理由で呼び出されたことが無く、多分今回もそれは変わらない。酒の誘いの気もするがどっちにしろ今日は遠慮せざる負えないし、この返事で問題は無かろう。
「いや何、随分不景気そうな顔をしていたから一杯酒でも呑ませてやろうかと思っただけのことだ、用なんて大層な物は特に無い。引き留めて悪かったな。行って良いぞ」
正解は後者、俺の予感も中々の的中率である。さて、この一連の流れで俺の彼女に対する理解が証明された訳だが、放っておけばあらぬ誤解もされかねない。故、俺は教師千秋もとい俺自身の立場を守るため多少フォローを入れることにする。
我等が祖国日本では常識的に未成年に酒を勧めるなど言語道断の愚行であり、そんな不祥事を起こした者の末路は皆さんもご存じだろう。が、この近辺では別段珍しいことでも無い。というのも、冬凪市では少々特異な酒、すなわち霊酒が流通しており、魔術をもって魔を払う降魔師は見習いも含め全員に魔力回復の手段としてこれの摂取が許可されているからである。まあ良いことではないのだろうが、お咎めがないなら控える理由も特に無し、そんなこんなでここの大多数の人間が酒屋の売り上げに貢献しているのであった。
「ええ、日が日なら是非ともお付き合いしたいんですけどね、生憎今日はそういう気分じゃない。また機会があれば誘ってくださいよ。その時は朝まででも付き合います。じゃあ今日はここらで」
ああいっそ酒で何もかも忘れるのも悪くはないが、しかし決して良くもなし。教師が勧めるくらいだし俺が酒を呑もうと誰も文句は言わないだろうが、今日明日ぐらいは素面でいなければ面子が立たない。主に俺に対する面子が。
「じゃあな赤羽。遊んでも構わんが夜道には気を付けろよ。何やら最近、あまり良くないモノが彷徨いているらしい」
「ご忠告痛み入りますよ。先生もお気を付けて」
別れの挨拶には警告を添える日暮千秋。彼女は風流な人間で、今日という日であれば本来メリークリスマスと締めるに違いない。けれども彼女はそれを口にしなかった。
「はっ、誰に言っている」
然り、俺が慕う千秋という名の人物は赤羽恭司の事情を知るたった二人の人間の内の一人で、誰よりも生徒に気を遣う苦労人。日頃からこんな詳細な所にまで気を配り続けいているのである。謝辞の一言程度贈っても罰は当たらないだろう。
故、俺は足を止め振り返って一礼し、
「いつもありがとうございます」
そう告げて教室を後にした。