前日譚「鎮魂歌(レクイエム)を捧ぐ」
目が覚めた時、少年は地下にいた。そこは切れかけの蛍光灯が明滅するコンクリート製の粗末な蔵で、所々からは無骨な鉄筋が顔を出している。決して気味の良い場所では無かったが、どうやらもう使用していない場所の様で、子供達が遊ぶのに丁度良い場所であったということは見て取れた。
「…………」
軋む床の上で、少年は口を閉ざしたまま怠そうに身体を起こす。そのまま放っておけば、すぐにでも閉じてしまうであろう目を擦り、視界が段々とクリアになってきた頃手を放して刹那、少年はさながら石像の如く固まった。
固まった、と言っても別に身体に異常が生じたわけでは無い。ただ、少年は見てしまったのである。そのいかんとも形容しがたい光景を。
――そう、少年の眼前には鎖で貼り付けにされた少女の骸があったのだ。
訳が分からないのだろう。その証拠に少年は悲鳴の一つもあげはしない。ついさっきまで隣にいたはず少女の身体をじっと眺め、少年はぽかんと口を開けるのみだった。
して、その少女の首は胴の上ではなく床に据わっている。まぶたは閉じられその少し下には何か液体が乾いた跡。無論それに流れていた体液はそこら中にぶちまけられており、付近の木々は赤黒くなっていた。広がり具合からしてそこそこの時間が経ったに違いない。
意識が朦朧とする中、少年がその温かみの消えかけた液体に気付くには幾らかの時間が要された。
少年は自らの手に違和感を覚え、それを眼前に移動させる。そして映ったのは、絵の具のチューブでも握りつぶしたかの如く真っ赤に染まった誰かの手。気付けば身に纏う衣服もぐっしょりと濡れて、まるで雨にでも降られたかのようだった。更にそこから数秒が経過し、その手が自分の物だということを少年は自覚し始める。
不思議なことに、恐怖や悲嘆と言った感情は生じない。たった一つ、これは自分がやったのだ、という事実のみが少年の心を支配してゆく。前述した様な負の感情は全くなく、罪悪感の類もそこには無い。ただただ少年には分からなかった。少女にはどうして首が無いのか、あの鎖は一体何なのか。しかして、少女は生きているのか、死んでいるのか、ということさえも。
故に少年は走り出す。何も分からないから、答えを求めて走り出す。
少し沈む床を踏みしめ、地上へと繋がるコンクリートの階段を精一杯駆け上がり、少年は地上と地下とを分かつ鉄の仕切りをぐいと開けた。だが、そこで待っていたのは答えでも救いでも無く、むしろその逆の物。仄かに暖かく日頃より重いその鉄板の先には、いつも見る天井の代わりに黒く曇った空が、そして粗が目立つ壁の代わりに揺らめく炎が、そこにはあったのだ。目の前に広がる非日常は、少年の膝を地に付けるには十分すぎる衝撃であった。
「…………ッ」
鋭利な瓦礫が少年の脚部に突き立ち呻き声が漏れる。しかしけれども痛みのシグナルは早々と消失し、無心で少年は瞳に赤い輝きを映していた。
そこに一つ、人の形をした者が映る。
身に纏うは端々に白が散りばめられた紅蓮のファーコート。炎の所為で断言は出来ないが、髪は恐らく銀色で、これもやはり大半が赤く染め上げられている。
こんな急事なのだ、人がいるならば取り敢えず話し掛けるべきだということは少年も承知していた。だが身体は本能に従順で、歩み寄ることを許さない。それは人間としてではなく、動物としての根幹に直接働き掛ける純粋な恐怖。黒煙の覆う空を仰ぐ男は、何とも言い得ぬ恐ろしさを帯びていた。
自らの世界が停止した中少年は、揺らぐ炎に囲まれてなお一切の動揺を見せない銀髪の男を凝視する。近付こうとはこれっぽっちも思わなかったが、少年は彼から目を離すことが出来なかった。それはもう金縛りの法に遭ったかの様にである。しかし其の実はもっと単純な物で、言うなれば興味があったのだろう。あの男は畏怖の対処であると同時に、不思議な存在に他ならなかった。
そうして少年は思う。
――あいつはなんだか寂しそうだな、と。