こゆび
『手のひらを見て薬指の第一関節より小指が長ければ、その人には霊感がある』……そんなトリビアを教えたのは、近所に住んでいるらしい若い女だった。
手を胸の前に置き、広げて見てみる。指の長さは正常で、少し残念な気持ちになった。幽霊や、そういうものは、きらいではなかった。一度でいいから見てみたいと思っていた。
悔しがっていると、おねえさんは、いたわりの表情を浮かべて「残念だったね」と言った。うん、残念だ。正直にうなずく。おねえさんの前では、嘘がつけなかった。歳は、二〇前後といったところだろうか。その若さですでに、彼女は母性というべきものを獲得していた。仮に、嘘をついたとしても、それを赦してしまう器の広さがあった。
おねえさんは、毎日夕方ごろになると、待ち合わせているわけでもなく、現れた。たまにお地蔵さまにいたずらしていると、「こら」と叱られた。しゅんとすると、おねえさんは、あわてたように「ばちが当たっちゃうから……」と、叱った理由を言った。非科学的だなと思った。大人なのに夢見がちだ、とあざわらう。
「なまいきな子どもだ……」おねえさんは憎らしそうにつぶやいた。けれども次の瞬間には、一緒になってわらいだす。感情表現が豊かなのである。嘘をつくのがへたそうだなと思った。
おねえさんには、その他色々と教わった。あやとりは、手先が不器用なので、あまりすきではない。そう伝えると「じゃあ、勉強でもしようか」と、いじわるくわらった。勉強も、すきではなかった。それがわかっているのに、そんなことを言うのだ。
いじわるおばさん……。
にらみつけてぼやくと、おねえさんはにっこりとわらったまま、こめかみをぐりぐりしてきた。いたい、いたい、と繰りかえしてようやく手を放す。おねえさんが怒るところを初めて見た。笑顔を浮かべているのが逆に恐怖である。
なんで怒ったのかたずねると、高校生時代、すきだった人に「ふけ顔」と言われたことがあったようだった。それを、いまだに引きずっているらしい。
言った人物はおねえさんの、年齢にそぐわない大人びた雰囲気をさしてそう評したに違いなかった。けれども、それは言わなかった。おねえさんの『すきだった人』という発言が、胸につき刺さっていた。言いようのない感情が渦巻いて息苦しい。この気持ちになんと名前をつければよいのかわからなかったが、ただ、ひどくつらいものだと認識した。
日が傾いたころ、毎日のようにやってくるこの女性は、よっぽどひまなのか、それとも他の予定よりここを優先しているのか……どうも、後者のようだった。
それはどうしてかときくと、「責任があるから」と、言いよどんだ末にそう言った。よく意味がわからなかった。
「わからないなら、わからないほうがいい」と、おねえさんは微笑んだ。まるで、普通の大人みたいに。子どもを煙に巻くような、そんな笑顔を。
すぐにその表情は消えた。代わりにとても悲しそうな顔をした。自分でもその言い方がショックだったのだろう。無理にうかべた笑顔がいたいたしい。
話題転換に、ゲームをしよう、と言った。山手線ゲームである。お題は『ワンピースのキャラクター名』。最初のうち、おねえさんは変に明るかった。さっきまでの空気を払拭しようとしていたのだと思われる。途中から、そんな気負いは抜けていて、ゲームに熱中していた。白熱した内容になった山手線ゲームをおねえさんが制したのは、年季の違いによるものだと考えたが、それを言うとまた怒られる。マンガを読むなんて、ガキだね。と言うにとどめた。すると、
「子どもで、ごめんね」おねえさんは寂しそうに言った。なぜそんな反応をするのかわからず戸惑っていると、くちびるを塞がれた。押しあてられたしなやかに伸びるそれは、左手の小指であった。
その長さは、薬指の第一関節よりも、長い。
それで理解する。それはおねえさんと一緒にいて感じる、なんだかとても温かく、時折息がつまりそうに苦しくなる、不可解なつよい感情は、絶対に実ることがないということだ。その事実に胸が張り裂けそうになる。
ごめんね、ごめんなさい。ささやく女に、泣きそうな心を奮い立たせて、不恰好な笑顔を作った。
それは初めてつく嘘で。
別れにはぴったりだと、そう思った。
さようなら、おかあさん。
***
子どもがいなくなったあと、女はその場に立ちつくした。両手を胸の前に置く。
そして、指に伝わったくちびるの感触を忘れぬように。
ぎゅっと握りしめた。
道の片すみには、一尊の水子地蔵が、寂しげに立っている。