ファスナー
賢者タイムとはよく言ったものだ。
早く居なくならないかなと待ち続けている自分の浅ましさを笑うことも出来ず、情事を終えて気怠いばかりの体を弛緩させたまま彼は天井ばかりをぼんやりと見つめていた。
「トモ、私帰る」
ファスナーを上げる音が、ワンルームの部屋に響く。
淡々と身支度を整えた彼女がもう分かったと小さく、やはり淡々と告げる声も。
「何が」
「トモも私も、駄目だってこと」
最後にゆるくパーマのかかった髪をシュシュで適当にまとめたところで、彼女はベッドの端に腰を掛けた。服を身につけたところで隠せない、濃密な女の気配が香る。
吸い込みたくなくて、鼻の上まで布団をかけた。
「ずっと一緒に居たけど、好きだと思っていたけど、でも、本当はどうでもよかったでしょ」
頷きはしないが、否定もしなかった。さっきまで腕の中で快楽に身を捩じらせていた女が、ずっと冷静だったことぐらい杉山もよく知っていた。
細すぎも肉付きがよすぎもしない美しい体に、メイクを落としても殆ど変らない整った顔つき。週末に部屋で会うだけでも、文句ひとつ言わない。食事は杉山が作りはしたが。
山も無ければ谷も無い。別れることも何度か考えたが、彼女は捌け口としてとても便利だった。そんな風にしか付き合えなくなっていた。よくある話だ。
「トモとセックスするの好きだし、トモのごはん大好きなのよね」
でも駄目。
その、よくある話を彼女は終わらせることにしたらしい。
「勝手なこと言ってるって思うけど、トモが私のことを本当に好きだって分かったらよかったって思ってて」
「好きじゃないなら付き合えないけど、おれ」
布団の下でくぐもった声でも、はっきりと聞き取れたようだ。彼女はそれを鼻で笑い飛ばした。起きてて寝言言えるの、器用ね。
「でも本当には好きじゃないでしょ、分かってるでしょ」
「だから何が」
「こんなやり取りをするのだってめんどくさいでしょ? 私が本気で、トモとはもう駄目だって思ってて話してるって分かってて、でもそういうのもどうでもいいでしょ? 二年も付き合ったら分かるよそんなの」
私も、本当には好きじゃなかったのね。
まつ毛を伏せ、自嘲気味に笑う。
「トモとの距離を縮める為には、私、がんばれなかった。私の時間を埋めてくれてありがとう。でももう、そういうの止める。余計寂しいから」
「別れるってこと?」
「そう。友達にもならない。がむしゃらになって、みっともなくなったって構わないくらい誰かを好きになるの。トモじゃなくて。愛してくれたら、愛そうかなって思うような人じゃなくて」
「本当に勝手なこと言ってるな」
「あなたと同じくらいにはね」
「好きな男が出来たんだろ」
「うわの空でセックスする男に言われたくないんですけど」
体の相性いいし、トモのごはん食べられなくなるの、ほんとすっごく残念なんだけどバイバイ。
黄色くなり始めた陽射しの中、笑顔で何度も手を振って、そうして彼女は去って行った。別れの情景の割に、あまりにあっさりと。嬉しそうに。
それをベランダからぼんやり見送りながら(そうした方がいいだろうという、何とはなしの義務感からだ)、言いたいこと言いたいだけ言って去った割に、最後までお愉しみでしたよねと考えている自分のどうしようも無さだけが明るい午後に残された。
*
080から始まる知らない番号から日に一度着信があるのを、どうしたものだか根本は扱いかねていた。かかってくる電話番号を検索にかけても、ワン切りや不動産業者等では無いようでまったく情報が出て来ない。
着信拒否をしようかとも思ったのだけれど、取り損ねているからなだけで、知人かもしれない。
買ってみたはいいものの、結局せいぜい時計代わりにしか使っていないスマートフォンはいつもバッグの底で沈黙していて、着信が三回もあることに気付いたのは週明けの夜のことだった。
せめて留守電にメッセージ残してくれたら、間違いだったかとか分かるのに。
「情けをかけたところで、業者だったら泣くよね……」
自分からかけ直すのもためらわれたまま、取り敢えず二週間ほど様子を見てみようと決めた。他人から拒否されることに敏感なくせに、自分から他人を切るなんてと思ってしまった為もある。
ただでさえ、杉山にあそこまでばっさりと心を切られたのだ。これ以上傷付きたくないし、誰かを傷付けるのも嫌だ。
「あ――――――――もうまた考えた! だから嫌だって言ってるのに何でこう学習能力無いの私!? 馬鹿なの死ぬの!?」
今日も小麦粉を練りながら無駄に大きい声が出た途端、隣の部屋から壁をどんと叩かれて慌てて口を閉じる。マンションの体を成している筈のこの集合住宅の壁は、とても薄い。
幸いなことに、あれから杉山との接点はまったく無くなった。
社長が突如発案した、全国の部全体の宿泊ミーティングのせいもあるし、多分それは同業他社との合併話が出ているせいでもある。
とにかく今までに無いほどの忙しさで、部内全員(牧田でさえ)、昼休みを無事に確保することが難しいくらいだ。
このまま二か月無事に過ぎて、来年になったら辞めよう。残業時間もすごすぎるし、それを理由にしたらいけるよな。合併したらどうなるか分かんないしな。
前向きだか後ろ向きだか分からないことを考えながら、練り終えた生地をうすく延ばし、熱したフライパンの上に置いてトマトの水煮缶を煮詰めたものを素早く塗る。
蓋をして生地に火が通るのを待つ間に用意したチーズや刻んだルッコラを乗せれば宅配より安くピザの完成だ。オリーブ? 高いから買わない。わざわざ発酵させずとも、ごくごく薄く伸ばしてしまえばいいのでピザクラスト作りは案外簡単だ。
代わりに奮発したビールを缶のままピザと一緒にぐいっとやれば、忙しさからの疲れもあって杉山のことが少し遠くなる。
一日の終わりにまで、嫌なこと考えたくないもんね。
最近小麦粉料理と酒量が増えたことは自覚しているが、それでストレス発散になるならいいかと己を納得させていた時、またあの番号から着信があった。
これだけ出ないんだから、いい加減諦めなよ。間違いだと思うしさ。
そう思いながらも画面から目を離せないでいると、留守番電話に切り替わった。今までは、留守番電話になる前に切れていたのに。
応答メッセージが伝言メモに切り替える旨を伝え終え、電子音が鳴り響いたところで想像だにしなかった相手が話し始めるのに驚いて根本は盛大に噎せ返った。
「杉山です」